水正・ドストエフスキーゼミのレポート

清水正ドストエフスキー論全集』既刊五巻の紹介。第六巻『「悪霊」の世界』は九月に刊行の予定。六百ページを越えるため校正に手間取っている。

清水正への原稿・講演依頼は qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の第一話「未来の国からはるばると」の最初の見開き二ページに関して八十分の講義と、つげ義春の『チーコ』に関する講義がアップされています。下をクリックするとつながります。
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清水正ドストエフスキーゼミのレポート
清水正ドストエフスキーゼミの学生は十二人。毎週、課題を出してメールで送ってもらっています。そのうちの何本かを紹介します。今回は私の『罪と罰』論(『『清水正ドストエフスキー論全集』第三巻「罪と罰」の世界)を読んだうえで、改めてラズミーヒンについて書きなさい、というもので四名からのメールが届いているのでそれを紹介します。


第十回課題
ぶりっこラズミーヒン 
吉井菜子

 清水先生のラズミーヒン論のサブタイトル、――ぶりっこ仮面の“好青年”――は実にしっくりときた。読んだ瞬間に思わず吹き出してしまった。私は以前ラズミーヒンについて書いたときに、「なんとなく好きになれない」と書いた。その「なんとなく」の理由が清水先生のラズミーヒン論を読めばわかるのではないかという予感がした。
 確かに先生の仰る通り、ラズミーヒンに焦点をあてるのは難しい。普通に読めばただの善良な青年であり何か問題を起こしたりもしない。私も善良すぎてなんだかいけ好かないなあとだけ思っていた。しかし考えてみれば、ポルフィーリィがラスコーリニコフを疑うようになったきっかけはラズミーヒンではないか。ラズミーヒンがポルフィーリィにラスコーリニコフに関しての情報を惜しげもなくぺらぺらとしゃべったからポルフィーリィはラスコーリニコフが犯人であると気が付いた。それなのにラズミーヒンがただのいち登場人物なだけのはずがない。それがあまりにも酷いので、一度はラズミーヒンも本当は気づいていて、ポルフィーリィと手を組んでいるのかもしくはわかっていて作為的にわからないふりをしているのか、と考えたこともある。しかし、どうやらそうではないらしい。もしそうだとしたらどうして彼はドゥーニャと結婚できよう。そしては果てにはラスコーリニコフのためにシベリアに移住しようなどと計画できよう。ラズミーヒンはぶりっこなのだ。私は先生のラズミーヒン論をまるまる支持したい。完璧に納得させられてしまったので今は新たに論じることができそうにもない。
 ラスコーリニコフの告白も、それに対してのラズミーヒンの解釈も納得できる。最初から最後まで彼はぶりっこであった。その上で、彼の「よしきみがいま、自分で秘密を全部打ち明けたって、ぼくは聞こうともしないで、つばを吐きかけて出てしまうかもしれないよ」という台詞は感動さえしてしまった。この時点で彼は一瞬は疑ったラスコーリニコフが殺人犯ではないと確信しているのではあるが、この台詞は「きみがどんな秘密を持っていたって俺はきみの友達だ」と言っているようにしか思えない。だいたい、ルージンを追い払ったあの日こそ彼は真実を了解したはずなのだ。その日にさえ彼はラスコーリニコフの望みを受け入れたのだ。ふつうだったらあんなに素直に聞き入れられるわけがない。ぶりっこにしては度が過ぎるのではないだろうか。
 結局、彼は結局ラスコーリニコフが真犯人であったということを後から知った。牢獄にいるラスコーリニコフとの面会はどんな気持ちだっただろうか。はたして面会での彼の第一声は何だったのだろう。「ばかやろう」だろうか、それとも「大丈夫かい」だろうか。まあ、その第一声が何であれ彼はラスコーリニコフを既に許しているし、間もなくラスコーリニコフをはげまし、自分たちのシベリヤへ行く計画について話したことだろう。
 彼は自分の悲しみや苦しみを他人に見せることはなかった。常に前を向き問題の打開策を探した。しかしそれはあくまで現実世界に踏みとどまっている。ラスコーリニコフたちのように“踏み越え”はしなかった。はたしてどちらが幸せなのであろうか。“踏み越え”ることで現実世界のわくを超えてしまうのと“踏み越え”ずに現実世界だけで生きることはどちらが幸せなのであろうか。『罪と罰』を読む限りでは、私は“踏み越え”ないほうが幸せに生きられるような気がした。“踏み越え”てしまった人たちは自殺や殺人を犯したり、常に何かに苦しんでいた。その苦しみは打開し得るものではなく、“踏み越え”てしまったがゆえに、知ってしまったがゆえに一生つきまとうものである。それならば、ラズミーヒンのように現実世界のみで、たまにはぶりっこをして生きる方がよっぽど楽なようだ。しかし、それは自分自身から逃げて生きるということである。確かに先生も書いていらっしゃる通り、「自分自身を知るということは、人間とって“恐怖”」である。それを打開することは並大抵のことではない。だからといって、一生自分自身を知らないまま生きることのほうが恐怖ではないだろうか。
 私もラズミーヒンはぶりっこだと思う。彼のぶりっこが良いか悪いかについては何も言えない。前述したように、ラズミーヒンは自分自身を知ることを拒否している。それは人間にとって普通のことであり、拒否していることすら皆気づいていないものである。それでもラズミーヒンは今後もラスコーリニコフたちと幸せに暮らすであろう。それはラズミーヒンにとってたしかに幸せではあるが、自分自身を知らないままの幸せが本当に幸せかどうかは定かではない。まあどちらにせよ彼がぶりっこであったことが『罪と罰』が『罪と罰』たらしめたことには違いないであろう。



ラズミーヒン論」を読んで
鈴木 日向子

 ラズミーヒンを「罪と罰」の他の登場人物と比べると、私は彼のことを割と気に入っています。それは先生の「ラズミーヒン論」を読んでも変わりません。多くの登場人物が悪い人間というと語弊があるかもしれませんが、なんだか付き合いづらく思えるのに対し、なぜラズミーヒンは“好青年”の像が崩れないままなのでしょうか。

 先生の考察にもあるように、「罪と罰」の中でルージンが悪い役割を果たしているとすると、反対にラズミーヒンは善良な役割を果たしていると考えられます。単純に文面を読んでいるとラスコーリニコフの友人としてのラズミーヒンはとても良い人間です。ラスコーリニコフが床に臥していたときも看病を手伝い、老婆アリョーナの件でラスコーリニコフが疑われたときも無実を訴えており、そのような部分から彼が友達思いであることがうかがえます。生活面でも貧しい母と娘を頼り(あて)にしていたラスコーリニコフとは異なり、誰の力もかりずに独力で勉強を続けようと努力しています。このあたりだけでラズミーヒンを評価すると、なかなか立派な青年に思えます。

 ただ、「ラズミーヒン論」を読むと、彼のこの善良さがアダになっていたというか、なんとも言えない気持ちになりました。ポルフィーリイにラズミーヒンがスパイとしてうまく扱われていたのだとすると、それはとても残酷なことだと思います。考えなしにザミョートフやゾシーモフにべらべらと話してしまうラズミーヒンもラズミーヒンですが、そこに悪意が無いと仮定すると、やはり残酷に思えてなりません。

 文中に「ラズミーヒンという男を、心底からの肯定的善良な人物と見るか、それとも自分の心の闇に無自覚なだけのぶりっこ的人物と見るか」という問いかけがありましたが、私はラズミーヒンを肯定的善良な人物と見ます。というよりも、見たいという表現の方が正しいかもしれません。彼の欠点である女性関係にルーズ、という点を除けば私の中でラズミーヒンは数少ないどちらかといえば好きな部類に属するキャラクターです。(基本的に「罪と罰」に登場する人物は大体があまり好きではないタイプなので、“どちらかといえば”という表現を使いました。)ラスコーリニコフの下宿先の大家であるパーヴロヴナをたらしこんだところはさすがに愕然としましたが、さらに驚いたのはその後です。ド ゥーニャに一目惚れしたラズミーヒンはそのとき交際関係にあったパーヴロヴナの存在が鬱陶しくなり、なんと友人であるゾシーモフに彼女を押し付けようとします。自分はパーヴロヴナのすべてを分かっているかのように偉そうにゾシーモフに彼女の取扱い方を語る部分はさすがに最低な男だと感じましたが、それが悪いことかと問われると「悪」ではないように思われます。

 ラズミーヒンを善人か悪人かで判断すると、それは善人になると思います。ラズミーヒンは規制のわくを越えた精神的な面が強調される他の登場人物とは違い、いつの間にか難なく幸せになっていた人物です。たとえそれが周りから見れば“善良なでくの坊”だったとしても、最終的に幸せを掴み取ったのだから、それで良いように思えます。そして、それこそがラズミーヒンの良さなのかもしれないと私は考えました。

ラズミーヒンについて
佐々木裕比

私は当初、ラズミーヒンは、女たらしでおせっかい、でも憎めないクラスの中心人物のような人であり、ラスコーリニコフと正反対の存在で、お互いを浮き彫りにするために存在している、といったような感想を持った。先生の本を読んだ後でもその感想はあまり変わらない。
しかしやはり本の読みが浅かったと実感した。ラズミーヒンはもっともっと深くまで読み取れる人物だった。
ラズミーヒンは、心の奥底ではラスコーリニコフが殺人を犯したことを疑っているのに、それを隠す、無意識に、という記述をよみ、本文をじっくり読み返しみて、本当にそうだなあと実感した。
ラスコーリニコフはラズミーヒンのお世界な部分にイライラしているものだと思っていたが、そうではなく、ところどころに顔を見せる、彼の無自覚で無意識のラスコーリニコフへの嫌疑にイライラしていたのだ。こいつは無意識に俺を疑っている、ということにラスコーリニコフは気が付いていて、それなのに自分を一生懸命に擁護する親友に腹を立てていたのだ。
先生は、ラズミーヒンは「あれ」をする前もラスコーリニコフにとって救いとなりえる存在であったが、結局そうはなれなかった、と書いてらっしゃった。結局ラズミーヒンが工面してくれるはした金では何にもできないという結論に、ラスコーリニコフが至ったからである。
確かに罪を犯すことは止められなかったかもしれない。しかし私はやはり、ラズミーヒンに何らかの期待をせざるを得ない。
極端に言ってしまえば、彼ならラスコーリニコフを殺せるのではないか、ということだ。
彼であったら、絶対的に世界に君臨しているラスコーリニコフを精神的に殺せるはずだ。否、彼はラスコーリニコフを殺すことに成功している。
ラズミーヒンは初めこそラスコーリニコフを擁護していたが、結局発狂している説の方に回ってしまう。彼は疲れてしまったのだ。そこで、ラスコーリニコフの唯一の親友は敵になってしまった。それにラズミーヒンはいとしのドゥーニャや、その母親のプリヘーリャの信頼も得た。息子が可愛くて仕方がない母親、兄が人生のすべてだと言い切った妹、それをラスコーリニコフから任せられるほどになった彼。彼はある意味で彼らの息子に、兄になったとの曖昧な記述からもうっすら読み取ることができる。ラズミーヒンは母親と妹からラスコーリニコフを(少しの間だけでも)取り上げることに成功したのだ。盲目的なラスコーリニコフ中心の作品中においてこれは一種の快挙と言えるだろう。脇役で、あまり描かれていないキャラクターが主人公の大切なものの心を奪ったのだから。
ラズミーヒンは、ラスコーリニコフの親友であり、正反対の好敵手であり、義弟である。ラスコーリニコフにないものを多く持ち合わせている。彼はラスコーリニコフが罪を犯さなければ到達できた地に到達し、それでもなお高みを目指している。愛する人と、毎日希望を持って生きている。その心の持ち方がラズミーヒンの魅力であり、欠点である。行動力があることは時に、(特に愛が絡むときは)多くの困難を生む。数年後遠くの地へ行くことを決心している若き夫婦がその後どうなったのかは描かれていないが、勝ち取ったラズミーヒンは、もはやただの女たらしのおせっかいではないのだといえることは確かだ。

ラズミーヒンについて               
小河原杏里

先生の著作を読んでいるうちに「ラズミーヒンはアポロン的な善良誠実な熱血漢であり、」というフレーズから、ラズミーヒンが太陽、ラスコーリニコフが月のイメージでイラストが一枚描けそうだと思いつきましたがそれはさておき。
 
 先生は著作の中で、「ラズミーヒンは当初、救世主的役割を持っていた。」と述べていますが、私はどちらかというと、(近い意味かもしれませんが)救世主というよりも「唯一頼れる可能性を持った人間」に近いのだと思います。現に、物語終盤では母プリヘーリヤと妹ドーネチカを託していますし、思いとどまったけれど犯行の前日には四ヶ月も会っていなかったラズミーヒンの元へ向かっていた。そのときは「今は頼るべきではない」と考え直しただけのことであり、「唯一の友人ラズミーヒンといえども、もはやラスコーリニコフの第一歩(殺人)を回避させる力とはならない」というよりもむしろ殺人を犯した後の自分にこそ必要だと思わせるような男だったのがラズミーヒンという人間だった のではないでしょうか。
 しかしラズミーヒンは、ラスコーリニコフが老婆アリョーナ殺しの真犯人であると確信した後も、今までと変わらずラスコーリニコフと付き合うことができたのでしょうか。
 先生のおっしゃる通り、ラズミーヒンは「ラスコーリニコフこそ老婆アリョーナ殺害の張本人かも知れぬ、という思いがひっそりと彼自身にも気づかれないように隠れ住んでいた」のだと思います。それは「罪と罰」本編を読めば誰でも思うことだと思います。疑いの時点で、ラズミーヒンはラスコーリニコフの無罪を望みポルフィーリイやザメートフに異常なほどに食って掛かり、その疑いを自ら弁解の形を取って晴らそうとしているわけですが、先生の言葉をお借りして言うと、ラスコーリニコフからの”告白”を受けた後、ラズミーヒンがどのように思ったのか、かかれてはいません。
 主人公の唯一の友人というかなり重要なポジションにいながら、彼は読者の心に長くとどまることはないような気がする彼は、老婆アリョーナ殺しという一件に関しては、読者に近い存在なのではないか、と私は思うのですが、どうなのでしょう……。