デヴィ小山 雄也/『オイディプス王』と『罪と罰』


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回は小山 雄也さんの批評を紹介する。





 
オイディプス王』と『罪と罰

 小山 雄也


日本大学芸術学部清水正教授は文芸批評論の講義にて、夏目漱石の門下生であった芥川龍之介は、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を僅か三日間で読破したことを語った。驚くことに芥川は日本語に翻訳されたものではなく、原文(ロシア語)を英訳したものを三日間で読破したのである。芥川と同じ門下生であった森田草平は『カラマーゾフの兄弟』を短期間で読み解くのではなく、じっくりと腰を据えて「一ヵ月かけて読め」と芥川に伝えたらしい。読み解く時間をかけることによって、ドフトエフスキーが生んだ『カラマーゾフの兄弟』の世界への真髄に辿り着ける、と森田は考えていた。たしかに読み解く時間をかければテキストを解体し、想像力を最大限に広げて真髄へと近付ける可能性は格段に上がるだろう。しかし、私は森田が提唱した「一ヵ月」さえも短く感じるのである。私は約二ヵ月かけてドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(岩波文庫版)を読み終えた。主人公ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、金貸しの老婆アリョーナ・イワーノヴナとその妹のリザヴェータ・イワーノヴナを殺害するまでの場面に辿り着くまで、私は何度も『罪と罰』を放り投げようとした。『罪と罰』は今までの読書では体験したことがない、白く透き通っているものではなく、黒く汚れていて出口が見えないトンネルの中を彷徨い続ける小説だった。一つひとつの文章には深い意味を持っていて、難解な文章が登場する度に立ち止りを余儀なくされ、私は文章の意味を考察する。後で気付いたのだが、私は『罪と罰』を約二ヵ月かけて読み終えたと書いたが、それは最初から最後までを「ただ読んだ」だけであり、『罪と罰』を読み解いてはいなかった。清水教授は文芸批評論の講義にて、ドストエフスキーの作品は「一ヵ月ではなく一生かけて読め」と学生たちに語った。真髄に辿り着くためには、半年ではなく、一年でもない、生まれてから死ぬまでの一生をかけて作品を読み解き続けなければならないのである。短期間で『カラマーゾフの兄弟』を読み解いたという芥川と森田は『カラマーゾフの兄弟』の世界を各々が勝手に完結させて満足してしまったに違いない。もしも、講義で清水教授の「一生かけて読め」という言葉を聞いていなかったら、私は『カラマーゾフの兄弟』を読んだ芥川と森田と同様に、『罪と罰』の世界を勝手に完結させて真髄へと辿り着いたことにして、作品を「読破した」と恥ずかしがることもなく周りに言いふらしていたに違いない。一通り読み通すだけではなく文章を細かく刻み、深く掘り下げて読み解き続けることによって、ドフトエフスキーが生んだ『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』それぞれの世界への真髄に近付くことが出来る。そして、世界への真髄に辿り着くまでは「読破」という言葉を易々と用いては決してならないのである。

 ロシアの作家ドストエフスキーが書いた長編小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと、古代ギリシャの悲劇作家ソポクレスが書いた戯曲『オイディプス王』の主人公オイディプスは殺人を犯した犯罪者たちである。ラスコーリニコフは二人の女性の頭上に斧を振り降ろして殺害した。恐ろしいことに彼はこの犯行は「罪」にはならないという独自の見解を持っていた。彼は誰が見ても犯罪者ではあるが罪人ではない。彼は人類を「凡人」と「非凡人」の二つに分類し、前者は保守と服従を守り、後者は今までの秩序を破壊して自分自身の第一歩を踏み出す権利を持っていると主張した。彼自身は非凡人であり高利貸しのアリョーナは彼を苦しめる癌であり凡人である。彼は一つの犯罪は百の善行によって償えると考え、凡人であるアリョーナを殺害した。後にアリョーナが溜めこんでいると思われる三千ルーブルを盗み出し、事業を起こして成功した暁に社会へ奉仕することで償えばいいと考えたのである。もちろん、こういった単純な犯罪理論に則って彼が殺人を犯した訳ではない。凡人・非凡人という極端な主張を掲げて殺人を犯すに至るまでには、彼をそうさせてしまった複雑な「殺人衝動」が彼の心の中に隠されている。ラスコーリニコフは殺人を犯す前までは非凡人に属している人間だと見なしていたが、犯行後では正常さを保つことが出来なくなり、酷く病的なほど臆病になってしまった。ここで彼が臆することなく道化師になりきって事件を乗りきれていたら全く違った結末を迎えることが出来たであろう。彼は道化師になるほどの覚悟と心に余裕はなく、自分は凡人に属する人間だと認めざるを得なかった。しかし、彼は自分の犯罪を売春婦のソーニャに直接的ではなく暗示的に告白し、警察に自首し、裁判を受け、シベリアの監獄に送り込まれても、自分の犯罪に「罪」を見出すことが出来なかった。なぜ二人の女性を斧で頭を割る残酷な殺害をしておきながら、自分は非凡人ではなく凡人と認めているラスコーリニコフは「罪」の意識を感じないのか。凡人であるならば真っ先に考えてもおかしくないはずなのに、彼はシベリアへ流刑となっても「罪」意識を感じようとしない。この問題について『「オイディプス王」を読む』には次のように書かれている。

彼はこの世の中(地上世界)が不条理に満ちていることに疑問を持っている。この疑問を突き詰めていくと結局は、この世の中を創造した《神》に至りつくことになる。彼の犯罪(踏み越え)は《神》に対する抗議と反逆を隠し持っている。ドストエフスキーは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンにおいて善悪観念を磨滅してしまった虚無の権化を形象化した。ニコライは大胆不敵にも自らを不条理の神に擬して少女マトリョーシャを凌辱し縊死に至らしめる。『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンは《神》の存在を認めながらも、《神》が創造したこの世界の入場を拒否する。
ラスコーリニコフを想起したついでにニコライとイヴァンについても少しばかり触れたが、この三人に共通しているのは《神》への反逆である。この反逆は無関心とは違って、いわば〈負の信仰〉である。彼らは苦しんでいる。なぜなら彼らは、《神》に絶対正義を求めているにもかからず、この地上世界は相も変わらず不条理に満ちているからである。(P.68)

世の中は不条理であり、全て自分の都合良く出来てはいない。全てを思い通りにすることが出来る者がいるとしたら、それは《神》に違いない。ラスコーリニコフがアリョーナとリザヴェータを殺害したのは、不条理なこの世の中を創造した《神》に対する抗議と反逆だった。彼は無関心による反逆ではなく、殺人という行動を示して反逆をしたのだ。
それではラスコーリニコフと同じく殺人を犯したオイディプスの場合はどうだろうか。彼は王である父ライオスが己の欲情に負け、アポロンの神託を無視して母イオカステとの間に生まれた王子であった。アポロンの神託によるとライオスとイオカステの結婚には、生まれてきた男児オイディプス)がいずれ父であるライオスを殺害し、母であるイオカステと結ばれるという呪いがかけられていた。ライオスは呪われた神託を恐れて彼を山奥に捨てさせたが、彼は捨てられず子の無いコリントス王家の手に渡り、コリントスの王子として育てられ見事に成人するのであった。自らの出生を知らぬまま成長した彼は、自分がコリントス王の実子にあらずとの噂に悩み、アポロンの神託に答えを求めデルポイに赴く。しかし、そこで得た神託は求める答えではなく、「もし故郷に帰れば、汝は父王を殺し、母と褥を共にすることになるであろう」という予言であった。コリントスこそが故郷だと、まだ固く信じる彼は、父ライオスと同じく神託を恐れ、コリントスには戻らずにそのまま旅を続けた。旅の途中、狭い三叉路で、二頭立て馬車に乗る老人と従者の一行と出会い、押しのけ合いから争いとなり、これらを殺してしまう。やがて、テバイの都にまで辿りついたとき、都は大混乱の最中だった。ただ一人逃げ帰った従者の話では、王の一行が山賊に出会い、皆殺しにされたと言う。彼はまだ知らないが、彼が殺した老人こそ、彼の実父ライオスであった。その後、彼はスフィンクス退治で謎を解き明かし、王位についてイオカステを妻とした。こうしてアポロンの予言は全て成就した。しかし、さらなる不幸が彼に襲いかかる。彼はイオカステとの間に二男二女を設けるが、テバイには凶作が続くようになり、さらに追い打ちをかけるかのように悪疫が流行し、国が混乱し始める。原因を求めて彼はアポロンの神託を得るのであった。ラスコーリニコフは不条理な世の中を創造した《神》に反逆した。一方のオイディプスはテバイを襲った災厄について《神》に助けを求めた。つまりオイディプスラスコーリニコフのように、どんな不条理な世の中であったとしても《神》に反逆をしない。ここがラスコーリニコフオイディプスが持つ《神》に対する思想の相違なのである。オイディプスが《神》に原因を尋ねて得た神託はこうであった。「この国には、一つの穢れが巣くっている。されば、これを国土より追いはらい、決してこのままその穢れを培って不治の病根としてしまってはならぬ。〜〜その穢れの因、国内にいるライオス殺しの犯人を突き止め、これを追放せよ。もしくは殺して罰せよ」彼は、熱心に探索を始めるが、やがて、自らがその恐ろしくも忌まわしい穢れの元であることを知る。真相を知った妻であり実母イオカステは、自ら首を吊って自殺。オイディプスは、激しい心の苦しみの果てに両目を突きつぶして、放浪の旅に出る。こうして『オイディプス王』は幕を閉じるのであった。
 果たしてラスコーリニコフと同じ殺人を犯したオイディプスには父ライオスを殺した「罪」の意識があったのだろうか。ラスコーリニコフは自分の無罪意識を保証するために凡人・非凡人の論理が用意されていた。では、オイディプスはどうであろうか。『「オイディプス王」を読む』にはこのように書かれている。

オイディプスの場合はどうであろうか。ライオスを実の父と知って殺害したわけではない。であるからラスコーリニコフの殺人とは性格を異にすることは言うまでもない。が、オイディプスは〈ライオス〉と知っていなかったにしろ、旅の途中で〈ひと〉を殺したことがあるのだから、クレオン(※イオカステの弟)の報告を聞いたときに、もしかしたらあのときの〈ひと〉が……ぐらいの想像はめぐらすべきだったのではなかろうか。
否、オイディプス王がそのことを思いめぐらさなかったなどといったいどこの誰が言っただろうか。私たち読者(観客)がオイディプスの内心のドラマを直接彼の口から聞いていないだけのことではないか。無罪意識に支配されたラスコーリニコフが自分の犯した〈犯罪〉(踏み越え)を良く知っていたように、オイディプスもまた自分の〈人殺し〉を実は誰よりもよく知っていたのかも知れないのである。(P.70)

私は『罪と罰』をまだ読み解いていない。最初から最後までを読み解くためには、おそらく今から一生をかけても終わることは出来ないだろう。それでも読む。読まなければいけない。心の奥で何かが私をそう急き立てる。ドフトエフスキーが生んだ『罪と罰』の世界への真髄に辿り着くことが困難でもそこへ近付くためには、『罪と罰』を読み続けなければならないのだ。