清水正/『オイディプス王』から『罪と罰』へ(連載1)


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回から複数回にわたってわたしの批評を紹介する。





中村文昭氏(左)と清水正(右) 2012年12月25日撮影

オイディプス王』から『罪と罰』へ
──〈踏み越え〉へと唆す〈ある神秘的でデモーニッシュな力の作用〉──

 清水正



 ドストエフスキーの作品の中でわたしが執拗に読み続けてきたのは『罪と罰』である。この作品は何回読んでも飽きない。読むたびに発見がある。今回、わたしは久しぶりに『オイディプス王』を再論しようと思い、かつて二ヶ月で書き上げた『「オイディプス王」を読む』を読み直した。書くべきことはすべて書いてあるように感じながら、しかしまだ言い尽くせぬものが潜んでいることも同時に感じた。『オイディプス王』再読は映画『アポロンの地獄』から切り込んでいったが、『地下生活者の手記』を経て『罪と罰』へと至った。わたしが最も興味を抱いている問題は必然である。オイディプスは〈アポロンの神〉の定めた運命を忠実に生きただけである。運命の真実(父親殺しと母との情交)を知って両目を潰した行為は、オイディプスの〈意志〉であるとしても、その〈意志〉すら運命の内にあったと見れば、要するにすべては必然であり、運命なのである。
 さて、わたしが改めて考えてみたいのはオイディプスの運命を定めた〈アポロンの神〉と作者ソポクレスの関係である。オイディプスに呪われた運命を告げる、そういった役割を〈アポロンの神〉に付与したのは誰なのか。それは作者ソポクレスのほかにはない。その意味では、『オイディプス王』の作者ソポクレスはアポロンの神以上の力を備えている。ソポクレスもアポロンの神も、作者の思惑の外に出ることはできない。
 『罪と罰』の場合も『オイディプス王』の場合と同じようなことが言える。ロジオンはなぜ、どのような力に促されて老婆アリョーナ殺害を決行したのか。ロジオンは「いったいおれにあれができるんだろうか? あれはまじめな話なんだろうか?」と考える。つまりロジオンは〈あれ〉(とりあえずアリョーナ殺しととておこう)を意志的に考えていたのではない。なにか他人事のような感覚で独語している。ふつうの知的な思考の訓練を受けている青年であれば、誰でも高利貸しの老婆一人ぐらいを殺したところで何の益にもならないことを知っている。ロジオンを知的次元の劣等生と見る読者はいないし、現に彼は犯罪に関する論文を定期新聞に採用されている。むしろロジオンは同僚の学生たちの知的レベルをはるかに凌駕する青年であった。もし、ロジオンが単なる理知的な青年にとどまっていたのであれば、「いったいアレにあれができるんだろうか?」とさえ考えなかっただろう。単なる理知的な青年は絶対に〈アレ〉を決行しない。また、たとえば〈アレ〉を〈皇帝殺し〉と解釈すれば、革命小説のヒーローとして活躍する舞台を与えられるだろうが、しかしこういった青年を主人公にしては『罪と罰』のような悲劇をものにすることはできない。
 まず、わたしが指摘しておきたいのは、ロジオンは作者の設定した枠組みから解放されてはいなかったということである。ロジオンは「いったいおれにアレができるんだろうか?」というような言い方しか許容されていない。つまりロジオンは「「いったいおれに老婆アリョーナ殺しができるんだろうか?」とか「いったいおれに皇帝殺しができるんだろうか?」とか「いったいおれに復活ができるんだろうか?」などという具体的な独語の仕方を予め作者によって封じられた青年なのである。読みの訓練を経ていない読者はまんまと作者の魔術にかかって、小説世界へと埋没するほかないから、ロジオンの独語をそのまま彼自身のものとして受け止め、先を読み急ぐことになる。
 作者は『罪と罰』の出だしの場面を「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮どき、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」と書いていた。つまり、この〈ひとりの青年〉は〈ためらいがち〉な青年なのである。不断に思い惑っているのが、この青年の特長で、確固たる一義的な判断に従って行動する青年ではないのだということ、この点を読者は決して忘れてはならない。
 ロジオンはペトロフスキー島の藪の中で恐ろしい幼年時代の夢(痩せ馬殺しの夢)を見る。目覚めた後、ロジオンはT橋の方へ向かう途上、神へ祈る「神さま! 私に道をお示しください。私は断念いたします。あの呪われた……私の空想を!」と。ロジオンを単なる無神論者などと思ってはならない。ロジオンはポルフィーリイ予審判事に面と向かって〈神〉を、〈ラザロの復活〉を文字通り信ずるとはっきり口にしていることを忘れてはならない。ロジオンは神に向かってお祈りすることもできるし、神を信じない者としてソーニャに対することもできるのである。要するにロジオンは分裂した魂の持ち主で、時と場合によってどちらの側にもたつことができるが、しかし常態としては両極を大きく揺れ動き続けている。信仰者の状態にとどまって見えたその直後に、今度は不信の極へと揺れ動くのである。そういった分裂した青年の歩行を俯瞰的に見れば、『罪と罰』出だしの三行の場面となるのである。
 
  橋を渡りながら、彼は静かな落ちついた気持でネワ川を眺め、赤々と輝く太陽のまばゆいばかりの夕映えに目をやった。体は衰弱しきっていたが、疲労感はほとんど感じなかった。それは、まる一月も化膿していた心臓の腫物が、ふいにつぶれたような思いだった。自由、自由! 彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である!(江川卓訳『罪と罰岩波文庫版上・129)

もしこの場面で『罪と罰』が幕を降ろしていたらどうだったろうか。ロジオンはエピローグで復活の曙光に輝いたのだから、別にそれでもいいように思える。が、決定的に異なるのは、この時、ロジオンは未だ〈踏み越え〉のドラマに突入していないということだ。〈踏み越え〉を一度も実行していない主人公のドラマに『罪(踏み越え)と罰』のタイトルは似合わない。『罪と罰』を羊頭狗肉にしないためにも、主人公ロジオンは踏み越えなければならない。作者はこの時点でロジオンを悪魔の誘惑から解放させるわけにはいかない。
 オイディプスが本当の意味での神の反逆者であるなら、アポロンの神託を受けた時点で自殺していただろう。ここでわたしが言う〈本当の意味での神の反逆者〉とは、作者ソポクレスの創作意図から解放された存在という意味である。オイディプスアポロンの神以上に作者の〈神託〉に忠実なのだ。ロジオンは〈いま〉、悪魔の誘惑から自由になり得ても、『罪と罰』を書き続ける意志を持った作者の思惑を超脱して自由になることはできないのである。