『清水正・ドストエフスキー論全集』第七巻


清水正ドストエフスキー論全集』第七巻。2014年7月31日刊行。D文学研究会発行・星雲社発売。A五判上製585頁。定価7000円+税
清水正ドストエフスキー論全集』第七巻刊行に寄せて
 初めて『オイディプス王』論を書こうと思った動機は、ドストエフスキー宮沢賢治の作品を批評し続けて、いや、この二人の作家に限らず、つげ義春日野日出志のマンガを批評しても、カフカの『変身』を批評しても、とどのつまり〈オイディプス的野望とその挫折〉というのっぴきならない問題に行き着いてしまう。それならいっそのこと本家本元の『オイディプス王』を批評してしまえ、ということで書いたのが『「オイディプス王」を読む』という本であった。この本は一九九五年に二ヶ月もかけずに書き終えたのだが、刊行したのは二年後の一九九七年であった。わたしは執筆するのはいいのだが、校正は昔も今もどうしても好きになれない。一つの理由は、今現在書きたいものがあるのに、その時間を犠牲にしなければならないという思いがある。
 今回『オイディプス王』論を再び書きたいと思った直接的な理由は、藤子・F・不二雄の『ドラえもん』を批評したことにある。わたしが担当する「マンガ論」の受講生の一人が『ドラえもん』について講義してほしいという要望があったので、そう言えば息子がよく『ドラえもん』を読んでいたことを思い出して、子供部屋を探し回して、日焼けして表紙もすり切れた、手擦した小学館版全集の何冊かを見つけだした。残念ながら第一巻はなかった。早速、本屋へでかけて第一巻を購入した。第一話「未来の国からはるばると」を読み、すぐに批評し始めた。わたしははじめ、この『ドラえもん』論の中にドストエフスキーの『分身』やソポクレスの『オイディプス王』をも取り込んでしまうつもりでいた。しかし、それはあまりにも膨大な量を必要とする。そこで『ドラえもん』論だけを独立させて『世界文学の中のドラえもん』(2012年 D文学研究会)を刊行した。最大のテーマは〈死と復活〉である。
 『オイディプス王』を再び批評するにあたって自著『「オイディプス王」を読む』を読み返した。まず自分で驚いたのが、七百枚の原稿を二ヶ月弱で書き終えていたことであった。確かにあの頃、わたしは毎日のように原稿を書きまくり、年に十冊くらいの本は書けるくらいのエネルギーに満ちていた。しかし、今回の批評は思いのほか時間がかかっている。近頃、一気に書き下ろすというようなことはまったくなくなった。わたしは基本的に自己の内部要請によって原稿を書いているが、近年、抱えているのは林芙美子の『浮雲』論があり、ロープシンの『蒼ざめた馬』論があり、そしてすでに十数年も中断したままの『カラマーゾフの兄弟』論がある。これらはいつ終えるとも知れないものなので焦る気持ちはまったくない。
 『オイディプス王』論に関しては自著を読み返して、書くべきことはすべて書いてあるな、と思った。これは正直な思いである。それならなにも再び批評する理由はないということになるのだが、そうは単純におさまらないのがわたしの内的衝動で、今回は若い頃、一度見て震撼したパゾリーニの映画『アポロンの地獄』を入り口にして、『オイディプス王』の世界にさらに深く参入することにした。
 パゾリーニの映画は、オイディプスを主人公にしているというよりは、その后イオカステに重点を置いている。オイディプススフィンクスの謎を解いた英知の人ではなく、粗暴で腕白で傲慢な若造といった感じで描かれている。パゾリーニが演出するイオカステはまさに妖艶な女で、すべての秘密を知り尽くして生きている女である。イオカステはオイディプスが、従僕に「殺せ」と命じたわが子であること、夫ライオスを殺した張本人であること、これら、つまりオイディプスが突き止めようとした〈真理〉など、すでに承知の上で臥所を共にし、四人の子供をもうけた女である。イオカステがアポロンの神託など信じていなかったことは明白で、生後三日目のわが子を殺せと命じたことは、彼女の冷酷な側面ばかりではなく、神に対する反逆の意志を露わにしている。
 神に対する〈反逆〉という点では、ライオスもイオカステと同様であるが、この王は劇『オイディプス王』において、単に殺されるために登場しているかのような存在であり、その内部世界にリアルな照明を与えられることはまったくなかった。
ソポクレスは『オイディプス王』においてライオスとイオカステの関係の細部に踏み込まず、二度にわたって嘘の報告をした従僕(羊飼い)の内部に立ち入らず、オイディプスの心の闇(無意識)の領域に参入しない。オイディプスのような粗暴で単純な若者にスフィクスの謎を解く英知を与えたことがふしぎに思える。
 今回、『オイディプス王』を読み返して、改めて面白かったのがイオカステであった。イオカステはオイディプスが必死になって探求した〈真理〉など、とおの昔から知っている。イオカステは〈真理〉を発見することは、人間の幸福に繋がらないことをよく知っている。イオカステは生後三日目のわが子を殺せと命じたが、直接手を下すことは回避した。イオカステの殺しの命令は、アポロンの神託に逆らうように見えて、実は神の御心に委ねたとも見える。具体的に生々しく言えば、イオカステはわが子オイディプスが父ライオスを殺し、わが子オイディプスが母親、すなわち彼女自身と臥所を共にすることを、神の予告通りに受け入れていたということである。

 おそらくイオカステに罪の意識はない。神の定めた運命に則って生きるイオカステに罪の意識は生起しようがない。その意味では二人の女を殺害しておきながら、ついに罪の意識に襲われることのなかったロジオン・ラスコーリニコフは、オイディプスよりもはるかにイオカステに近い存在と言える。
 『オイディプス王』を読んでいて、最も説得力のないのが、オイディプスの罪意識である。オイディプスは父を殺し母と臥所を共にしたことを〈およそこの世に起りうるかぎりの醜い所業〉〈忌わしい所業〉と見なし、自分のことを〈神を蔑する罪びと〉〈不浄な罪びと〉〈罪に汚れきった人間〉と断定している。オイディプスは彼を唆し、受難の運命を定めたアポロンの神に面と向かって反逆の刃を振り上げることはなかった。ヨブのように〈わが魂の震え〉をもって神に抗議することはなかった。(『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻収録の「なぜ『オイディプス王』論を書き続けたのか」より一部転載)