清水正著『清水正・ドストエフスキー論全集7 『オイディプス王』と『罪と罰』』を読んで

清水正著『清水正ドストエフスキー論全集7 『オイディプス王』と『罪と罰』』を読んで

伊藤景

 運命とは何なのだろうか。誰が決めたのか。そして、人間はそれに従って生きなければならないのだろうか。運命に反逆し、自分の選択、意思によって生きることは可能なのだろうか。

 私は、自分の歩んでいる人生が自分のものであるのか、誰かによって選択させられているのではないかと悩んだことがある。今では、自分の人生の存在そのものについて考えるよりも、自分の明日といった近い未来にばかり思考がいってしまう。そのために人生そのものを追求することを放棄していた。しかし、この清水先生の書かれた『清水正ドストエフスキー論全集7 『オイディプス王』と『罪と罰』』の第二部「映画『アポロンの地獄』と原作『オイディプス王』を読む__ドストエフスキーの諸作品と関連づけながら__」を読んだことにより、私は長年の疑問と決着をつけることができた。運命とは、全て〈必然〉として私を包み込んでいるのだ。なにごとにも、自由意思は存在しない。自分で決めたと思い込んでいても、事実はすでに決定されていた必然の〈今〉を私は過ごしているだけなのである。しかし、その〈必然〉こそが、私たち人間に与えられた〈自由〉でもある。〈偶然〉目の間に現れた現象は、〈必然〉によって運命付けられていた現象でしかないと理解したとき、清水先生の言葉を借りるならば[目の前が無限の空白]になることを私も体験することができた。私は、自分の足で人生を歩んでいるのだと信じたかったが、〈大いなる必然〉に支配されていたにすぎないと分かったときの衝撃は今も忘れることができない。では、この〈運命〉を決定づけているのは誰なのだろうか。
 『オイディプス王』の主人公であるオイディプスもまた、運命を決定づけられた存在である。彼は〈アポロンの神お告げ〉のままに、呪われた運命を歩むこととなる。このお告げを聞いたのは、オイディプス本人ではない。オイディプスは、自分を殺すこと命令されながらも遂行することのなかった命の恩人ともいえる従僕によって呪われた運命を暴露される。従僕はオイディプスに、[赤児を山へ運んでいかなかったか]と子殺し依頼の真実を問いただされた際に、[ああ、おれはあの日に死んでしまえばよかったんだ]と絶対の沈黙を選択すれば良かったと告げるがこれは嘘だろう。少しオイディプスが脅して追求すれば、ペラペラと秘め隠していた真実を語り出す。まるで、肩の荷が下りたとでもいうかのように洗いざらい喋り尽くすのだ。この従僕が〈今〉生きたままで、彼に出生の秘密を明かすことさえもアポロン神により計画されていたのだろう。神アポロンとは、何者なのだろうか。そんなにも力のある神なのだろうか。
 私ははじめに『オイディプス王』を知ったとき、〈アポロン神〉が絶対的な存在であると信じて疑わなかった。『オイディプス王』の世界を支配する唯一の神であり、かの存在こそが運命を決定しているのだと思い込んでしまった。しかし、この私の思い込みは清水先生の本を読んで覆されることになった。
 [神アポロンは巫女の口を通して、オイディプスにその呪われた運命を告知するが、だからと言って、アポロンがその〈運命〉を定めたとはどこにも書かれていない。オイディプスの〈運命〉に神アポロンがどこまで関与しているのか。それともアポロンといえども定められた〈運命〉を変更することができないのか。](清水正著『『オイディプス王』と『罪と罰』』326頁)
 『オイディプス王』の舞台である古代ギリシャ世界は多神教信仰の世界である。知っていたはずなのに、この作品での神アポロンがあまりにも神聖な存在として扱われているために、絶対的な存在であるはずだと信じ込んでしまっていた。これも、作者ソポクレスが意図した罠だったのだろうか。私は、あっさりとその罠にかかってしまった。
ギリシャ神話において、最も力のある神はゼウスである。神ゼウスは全知全能の存在であり、神アポロンも属するオリュンポス十二神を含む神々の王であるとされる。神アポロンは神ゼウスによりも下位の存在なのである。もしも、神アポロンが公平性の欠いたお告げを行なっていれば、神ゼウスがそのお告げを握りつぶすことが可能であった力関係である。
このことから、オイディプスの呪われた運命は神々の王も妥当であると認めていることになる。彼は、この世に生まれ落ちる前から実の両親に愛されることはない運命を背負っていたのだ。神アポロンは神託を授ける予言の神としての側面を持つことより、ライオス王に神アポロンによって呪われたお告げが行なわれる。では、このお告げはどの神によって決定づけられたのだろうか。神であるアポロンでさえ、何者かの意図により動かされているにすぎないのだ。描かれていることだけが、作品の真実ではないのだと清水先生は『オイディプス王』をただむさぼる読者に警告しているのだろう。〈解体と再構築〉は清水先生の批評の鉄則であるが、私はこの本を読んで清水先生の頭の中で展開される〈解体と再構築〉の過程を覗き見することができたかのような感覚に陥った。神アポロンという存在を解体することによって、新たな予言の神の背後にいる存在に気付くことができた。

 この神アポロンという存在は、先生の本を読む前の私にとっては、人の運命を決めることさえできる至上の神という存在であった。また、お告げを寄越してくるだけであり、物語の主軸となる存在ではないと考えていた。これは、人間たちの運命に対する葛藤の物語であり、神は参加者として数えてはいなかった。しかし、この神アポロンという高みの見物者でさえも、物語の参加者として下界に引きずり落とされる。
 この神も、運命に抗うことのできない登場人物の一人なのである。私は先生の本を読んでみてから、『オイディプス王』に登場する神アポロンがどうしようもなく気になる存在となった。この神の名を冠した、全く別の人物と類似しているように感じられたからだ。その人物とは石ノ森章太郎による萬画作品『サイボーグ009』の「ミュートス・サイボーグ編」に登場する〈アポロン〉という人物である。
 『サイボーグ009』において「ミュートス・サイボーグ編」とは、ミュートスというギリシャ語で「神話」を表すように、ギリシャ神話の神々をモチーフに改造されたサイボーグたちと主人公である009たちとの戦いが描かれている一連のストーリーのことを指す。ミュートス側にアポロンという名で、神アポロンをイメージしたサイボーグとして登場している。ミュートス側のサイボーグたちは、ウラノス博士によってサイボーグ009たちを殺すために作られた存在であり、009たちが悪であり敵であると刷り込まれている。
 この萬画作品において、アポロンはリーダー的な立ち位置を与えられており、ミュートス・サイボーグたちを導いていく存在である。しかし、そんな彼も博士という大いなる存在に支配される一個人にすぎない。彼もまた、『オイディプス王』に登場する神アポロン同様に、大いなる存在によって表舞台に登場させられる役を与えられていたにすぎない。アポロンたちの支配者は、神ゼウスであり、ウラノス博士である。
 アポロンと名のつく彼らは、ゼウスにもウラノスにも反逆することは許されない。『オイディプス王』においては、人間というか弱い存在でありながらも、登場人物それぞれが神アポロンに対して反逆を試みていることが、清水先生によって、この本で明かされている。しかし、神アポロンによる反逆は行なわれない。この神は、神ゼウスを絶対的な存在とし、反逆する意思を抱くことすら許されないのだろう。この反逆を決して許されないという点においても、アポロンと神アポロンは類似している。
 『サイボーグ009』に登場するウラノス博士もギリシャ神話の神ウラノスをイメージして創作された存在だろう。この神もまた、神ゼウスと同様に原初ギリシャの神々を統べる神の王という支配者としての性格を有している。なぜ、アポロンは逆らうことができないのか。それは、アポロンたちにとって彼らは父親的存在だからである。
 『オイディプス王』を読み解く上で、父親は重要な役割であることは先生の本からも理解することができる。オイディプスは、実の父親であるライオス王は神アポロンのお告げ通りに殺してしまった。しかし、彼が父親だと信じている義父ポリュボス王を呪われた運命によって殺してしまうことを恐れてオイディプスは神に〈逃避〉という行動で反逆を続ける。また、父親殺しの運命を呪われた運命であると感じていることからも、父親という存在を尊んでいることが推測される。
 息子は父を越えること望みながら、なぜ父を踏み越えることを躊躇するのか。父を越えることは、父親の愛した女である母を手に入れることによって遂行される。父親としての男の存在を母から消滅させることによって、己に流れる父の血を超越することができるのではないだろうか。だからこそ、母と結ばれることは今現在においても禁忌として残され続けているのではないか。
 アポロンたちは、父的存在である神ゼウスとウラノス博士に反逆することはない。神アポロンは背後の存在が望むままにライオス王とオイディプスにお告げを授ける。そして、オイディプスが預言を遂行するようにと父殺しの場面を監視していたのではないだろうか。アポロンも、ウラノス博士が命じるがままに戦い、命を落とした。反逆など、考えたこともないのだろう。彼らは人間のように、与えられた運命を変えることができると傲慢に考えることがないのだ。運命は決定されているものだと、誰よりも強く理解しているのだろう。だからこそ、父的存在にも反逆することはない。また、運命から逃げ出そうとすることもない。いつの時代でも、運命に逆らえると信じ、抗おうとするのは人間なのだ。そして、そんな人間の行動すらも神は運命として組み込んでいる。私たちには〈自由〉なんて欠片ほども存在しないのだ。自由が存在していると何者かによって思い込まさせられているだけなのだと、私は清水先生の本から気が付くことができた。神によって人生を弄ばれることが人間の存在価値であるのかもしれない。