清水正・ドストエフスキーゼミ

清水正ドストエフスキー論全集』既刊五巻の紹介。第六巻『「悪霊」の世界』は九月に刊行の予定。六百ページを越えるため校正に手間取っている。



清水正への原稿・講演依頼は qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の第一話「未来の国からはるばると」の最初の見開き二ページに関して八十分の講義と、つげ義春の『チーコ』に関する講義がアップされています。下をクリックするとつながります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch
清水正ドストエフスキーゼミのレポート
清水正ドストエフスキーゼミの学生は十二人。毎週、課題を出してメールで送ってもらっています。そのうちの何本かを紹介します。今回は私の『罪と罰』論(『『清水正ドストエフスキー論全集』第三巻「罪と罰」の世界)を読んだうえで、改めてマルメラードフの告白について書きなさい、というもので三名からのメールが届いているのでそれを紹介します。

第九回課題

マルメラードフの告白と聴衆                         

吉井菜子 

 私は清水先生の著書を読むまで先生が主な登場人物以外についても書いていらっしゃるということを聞いて、正直なところそんなに意味があることだとは思っていなかった。もちろん、主人公たち以外の背景の描写は物語の伏線であったり重要なポイントのひとつであるというのはわかっているのだが、今回『ドストエフスキー罪と罰』の世界』の第一部第七章を読んで衝撃を受けた。“ばかげた歌”を歌う男。彼が歌った歌の歌詞がわざわざ書いてあったので何かあるのかとは思っていたが、歌詞の内容まで理解しそれがどういうことを示しているのかはわからなかったし、読み流していた。そしてあの店にいた男たちがそれぞれにどん底にいて、それが故にマルメラードフの話に嘲りヤジを飛ばしているのであるということは無意識のうちに了解していたのであるのだが、「“並み”の人生悲喜劇」という言葉を読んで、初めて彼らの哀愁を感じることができた。それからもう一度マルメラードフの告白のシーンを読んでみると全然違う。たった3ページ半を読んだだけで、いやらしく笑う彼らもその中で話し続けるマルメラードフも、ぐっと深みが増した。
 マルメラードフはどんなに同情をしてもクズ人間である。人間だれしもダメなときはダメであるが、マルメラードフは自らダメな方へ身を落としている。しかし、なぜだろう。私は彼の身の上話に同情せざるを得ない。かといって彼のことを「豚でない」と断言できる気はしない。彼にそう言ってやれるのは娘のソーニャだけであろう。
マルメラードフの考えでは神は獣の相を面に印した者たちも『彼らの中のひとりとして、みずからそれに価すると思うものがないからじゃ……』と言って許してくださる。先生は「マルメラードフのこの宗教観には「獣の相をその面に印しておる者」ではなく「知者や賢者たち」こそ逆に神によって拒否される、ということが隠されている」と書かれており、その考えは大変おもしろいと思った。しかし、私はマルメラードフに対して矛盾を感じている。マルメラードフの考え通りでいくと彼は自分が許されると信じているのだ。許されると「わかっている、信じている」のと、許されるのに「価すると思っている」のとはもちろん違うが、マルメラードフのように理解しているのでは、結局は「価すると思っている」のと変わりないように思う。はたして神はマルメラードフを「それに価すると思っていない」自らを深く罪ある者としてみなし許すのであろうか。
私もラスコーリニコフマルメラードフの話を聞いている間ずっと黙っていたのを少し不気味に感じていた。ラスコーリニコフマルメラードフにならって「今このぼくを見ながら、ぼくが豚でないと断言できるだけの勇気がありますか!」と言えなかったのか。『罪と罰』の世界第一部第七章を読んで、私が一番おもしろかったのはこの部分である。「獣の相をその面に印しておる者」である二人の違い、「自力」を信ずる者と信じない者。似ているようで相反する二人、ここでラスコーリニコフマルメラードフの示唆したことを理解していれば、と考えると運命を感じざるを得ない。
私は自分がマルメラードフに同情してしまう理由がわからないと書いたが、ここでようやくわかった。「社会の地獄と生活の辛酸をなめつくしてきたマルメラードフは、もはやそこを生き抜くための「自力」など微塵も信じてはいなかった」からである。家族に辛い思いをさせ社会の底辺を生きてはいるが、驕った考えを全くしていないということが、私の同情心をくすぐっていたのだ。いや、人間は周りに対する感謝を忘れてはいけない。

マルメラードフについて 
小河原杏里

 再びマルメラードフについて書くに当たり、ラスコーリニコフマルメラードフと出会い、話を聞く場面をもう一度読み返してみた。すると、内容がすんなり頭に入ってきて、さらに彼らがおいている状況、周りの空気まで、読み取ることが出来た。あまり客が残っていない安酒場。そんなところに何故ラスコーリニコフは、しかも老婆アリョーナのもとへ行った帰りに立ち寄ったのだろう。
 ひとつとしては、本文にもある通り「何かの新しい変化が彼の内に生じ、無性に人恋しさが募ってきた」ためであり、「どこか別の世界の空気を呼吸したかった」からである。そして彼は安酒場に入り、ビールを飲むと気が楽になり頭がはっきりしてきた、とある。「くよくよすることは無かったんだ!体の調子がおかしかっただけさ!ビール一杯に乾パンひとつで、見ろ、この通り、たちまち頭はしっかりする、考えははっきりする、意志も強固になる!」
 つまり彼は老婆アリョーナのもとから帰る途中、「頭がぼんやりして意志が揺らいでいた」ということになるのだが、それは自分がこれから行うあれ(・・)について、自分が行うことであるのにどこか他人が施行しようとしているのを見ているような感覚で考えていたのではないだろうかと、私は思う。
 そして、ラスコーリニコフはそのはっきりした頭、決意を固めた心で、マルメラードフに出会い、彼の告白に耳を傾ける。話しかけられた当初は嫌悪感を抱くものの、それ以降、彼に対するラスコーリニコフの感情、リアクションはほとんど描かれていない。途中から入ってきた騒がしい男たちや、ボーイがマルメラードフを嘲笑う声や罵声しか描かれていない。男たちが入ってくる前は、静かで、マルメラードフの告白はみなが聞ける状況だったであろうが、誰もが呆れ、「駄目だなあいつは」と思っていたに違いないのに、黙って聴き入り、そして酒場から出るころには「何か力になってやらねば」と考えるようになったラスコーリニコフに対してどのような思いでマルメラードフは語らったのか。彼 はただ嘆きを人に打ち明け同情あるいは嘲笑を受けたいだけではないだろう。
 彼は言った。「『意地の悪い肺病やみの継母のために、年端もいかぬ他人の子らのために、己を売った娘はどこかな?地上のおのれの父親を、ならずものの酔っ払いの父親を、そのけだもののような所業も恐れず、憐れんでやった娘はどこかな?来るがよい!私はすでに一度お前を許した……(中略)お前が多くを愛したことにめでて、お前の多くの罪も許されよう……』そして、うちのソーニャを許して下さる(中略)善人も悪人も、賢い者も従順な者も……」それはつまり、「ならず者の酔っ払いで、娘に体を売らせた上にその金で酒を飲んでいる己も神は許すだろう」ということなのではないだろうか。それを言いたいということに、誰も気づきはしない。その安酒場にいる人は誰も。みな、ただマ ルメラードフの下劣さを嘲笑うのみで、そこに深い意味などないと、思っていたのだろう。教養のある方、ラスコーリニコフ以外は。
 きっとラスコーリニコフマルメラードフが何を言いたいのか、わかっていたのだろうと思う。だからこそ嘲笑うこともなく、黙々と、マルメラードフの告白に耳を傾けた。マルメラードフはラスコーリニコフに近い存在であると思います。彼は近い将来のラスコーリニコフの形。なぜなら、ラスコーリニコフは、中身は違えど己が許されぬべき人となりそして神に許されるものになる決意を固めた直後であるからだと、私は思います。


改・マルメラードフについて
鈴木日向子

 最初にこのマルメラードフの身の上話を読んだときは無駄に長い、という印象をもちました。しかし、先生のドストエフスキー論を読んでから改めてこの部分を読んでみると、様々な新しい事実に気づかされました。

 マルメラードフの告白はただ単純な身の上話なのではなく、この告白は「罪と罰」の中でも重要なキーポイントになる、ということをよく理解しなければなりません。この部分で私が気になったのは、いたるところに聖書の言葉が引用されていることです。作中の言葉を用いれば、娼婦となり黄色い監察を持たされるようになったソーニャの話をしたすぐ後の、「見よ、この人を」などの部分です。ドストエフスキーの作品には宗教を中心とした言葉が多々登場します。彼の宗教感を理解することも、この作品を読み解いていくために重要になると思われます。

 さらに、私はマルメラードフを作中のロシア社会の弱者であり、貧困で苦しむ市民の代弁者のような役割だと思っていました。しかし、改めて読んでみると印象が変わりました。人恋しかったラスコーリニコフは安酒場に入り、「人目見るなり、関心をそそられてしまう人間」であるマルメラードフと出会います。マルメラードフもとにかく誰かに話を聞いて欲しかったので、二人は対等な立場で話をしていたということになります。まったく共通点が無いように思えて、実はこの二人には似ているところがあるのかもしれません。

 この長い会話の中で、マルメラードフがラスコーリニコフに向かって「あなたは、私のことを豚でないと断言できる勇気があるか」と訊くシーンがありますが、ラスコーリニコフは何の返事も返しません。先生の本にも書かれてありましたが、私もこのマルメラードフのセリフはきわめて重要であると考えています。実の娘を淫湯漢として知れ渡っていたイヴァン閣下に身売りさせ、娼婦となった娘のところに酒代をせびりに行くようなマルメラードフは、誰が見てもどうしようもない卑劣な男であるのにもかかわらず、このような問いを敢えてラスコーリニコフに発します。ラスコーリニコフマルメラードフを肯定できるような男ではありません。マルメラードフ自身も会ったばかりの青年に自分を理解して貰おうなどとは考えていないと思います。それではこの言葉は誰に発せられたものでしょうか、それはやはりソーニャなのだと考えるのが正しいと思われます。酒代をせびりに来たマルメラードフにただ黙ってなけなしの金を差し出すソーニャが父親の苦しみをすべて理解していたと考えると、人間ではない、まるで聖女のような存在に思えてしまいます。娼婦が聖女というのもなんだかおかしな話ではありますが 。

 自負心と底なしの劣等感に苦しみ打ちひしがれ、最後は馬車に轢かれて死んでしまうマルメラードフですが、そんなマルメラードフの告白は、名場面であるソーニャの「ラザロの復活」を朗読するシーンの伏線となるのですから、すごいことです。もしかしたら、ラスコーリニコフがソーニャに告白したのも、マルメラードフの告白が影響しているのかもしれません。これは深読みをしすぎなのかもしれませんが、ただ、マルメラードフという人物は主人公であるラスコーリニコフに、それなりに何かを伝えていったキャラクターなのだということが改めて分かりました。