清水正の『浮雲』放浪記(連載55)

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 清水正の『浮雲』放浪記(連載55)
平成△年8月12日

 「富岡君は元気?」
 「ええお元気らしいわ」 
 「あいつは運のいい奴ですね。人の落ちぶれには理解を持って、そうした人間の運命をなっとく出来る顔でいながら、自分は住み心地のいい椅子にかけて、なかなか動き出ようとしない男ですからね。いや、それは悪口じゃありませんよ。だから、彼の運のいいところも、その辺にあるンじゃないかと思って、早く見習っておくべきだと、今ごろになって、僕はそう思いだしましたよ」
 「でも、いまは、あまり、運のいいほうでもなさそうですよ」
 「そうですかね……。あなたが、ひいきめに見てるンでしょう? 家も焼けなかったし、仕事のほうも、いい共同者をみつけて、うまいことやってるという話じゃありませんか?」
  ゆき子は、伊香保へ富岡と心中をしに行って果せなかったことを思い出していた。加野は何も知らないから、あんな事を言っているのだと、
 「とてもいま、困ってはいらっしゃる様子ですわ。家もお売りになって、ご家族を郷里のほうへおかえしになって、自分は当分身軽になって働くって、言ってらしったわ」
 「働くたって、僕のように、浜の人夫になって、日給二百円の風太郎になる気は、あいつにはできませんよ。何十貫という荷物かつぎをやって、こんな軀になるのも、あいつには喜劇に見えるだろうな……」
 「冗談ばっかり、加野さんは、わざと、求めてそんなことおっしゃるのね。どうした心境で、人夫になンてなる気持ちにおなりになったの?」
 「そりゃア、食うためですよ。気の利いた仕事はありませんでしたからね。てっとり早いのがいいと思って、泥棒になるよりはましだと思って始めたんです。ーーペンより重いものを持ったことのない役人生活をしていたものには、とてもこたえましたね……」
 「そうでしょうね……」 (300〜301〈三十五〉)

 加野とゆき子の富岡に対する思いが一致しない一つの理由として、富岡に対する情報量の違いがある。ゆき子は引き揚げて来てすぐに富岡と会って関係を続けているが、加野に入る情報は噂の次元を出ない。が、この情報量の違いが、逆に加野に的確な、距離を置いた富岡評をさせているとも考えられる。ダラットでは傷害事件を起こし、引き揚げてからは過酷な肉体労働で不治の病にかかり、母親と弟の邪魔にならないようにと気をつかって生きている加野から見れば、富岡は〈運のいい奴〉ということになる。
 加野は、富岡は「人の落ちぶれには理解を持って」はいるが、自分は〈住み心地のいい椅子〉に腰掛けて動かない男と断定している。この加野の言葉を理解するためには、傷害事件を起こしてサイゴンに送られた加野に対して当時の富岡がどのような対応を示したのかを正確に知る必要があるが、作者はそういった情報を詳細に伝えることはなかった。
 読者はここでの加野の言葉を手がかりにして想像の限りを尽くすほかはない。富岡は、加野が嫉妬に駆られて富岡を殺そうとしたその気持ちや、落ちぶれていく人間の運命を〈なっとく出来る〉男であるが、親身になって同情を寄せることのできる男ではない。加野に言わせれば、富岡は同情のそぶりは見せても、実は拱手傍観の立場を崩すことのない狡い男となるが、そもそも富岡もまた、男と女の慾情の絡んだ三角関係の修羅場を生きた当事者であり、自分を殺そうとしてゆき子を傷つけた加野に心から同情せよと言っても無理がある。
 少なくとも、ゆき子を巡る富岡と加野の闘いにおいては、加野は単に敗北した者に過ぎない。ゆき子は本気で加野を好きになったことはない。ゆき子は、女知らずの一途な加野を巧妙に利用しただけのことである。加野は、富岡とゆき子の性愛遊戯のダシに使われただけのことで、もし加野がダシであることに屈辱を感じるのであれば、富岡とゆき子の関係の磁場から素直に引き下がるほかはなかったのである。
 加野はゆき子という女の魔性と戯れるほどの器ではなかった。もし、加野が富岡と張り合えるだけの虚無を抱え込んでいれば、虚無の権化と言われたニコライ・スタヴローギンの猿を演じきったピョートル・ヴェルホヴェーンスキーの位置を獲得することも出来たてあろう。加野はあまりにもうぶであり、自らの卑劣を凝視することなく、富岡の卑劣をのみ告発する立場に安住している。この立場もまた〈住み心地のいい椅子〉に腰掛けていることと同じであるのだという、そういう認識が加野にはない。
 ゆき子の魔性の裏側に回って、その背中を指でそっとつつくぐらいの愛嬌がないと、男は女にとって魅力がない。真面目で誠実なだけの男を本気で好きになった女を見たことがない。病床に伏した加野にゆき子が示す同情は、あくまでも同情であって、男と女の関係に発展する感情ではない。

 余命いくばくもない男の前に惚れた女が土産を下げて訪ねて来る。この女は男に同情するが、そんな同情は悪魔の同情であって、男にとっては何の慰めにもなりはしない。〈過去〉をいさぎよく切り捨てて、新規巻き直しで未来に向かって現在を生きる、そういった生き方が加野とゆき子にはできない。ゆき子が、加野との関係を精算仕切れずにいたのだとすれば、徹底的にやってもらうほかはない。加野の言葉を借りて言うなら、この際、お互いに〈住み心地のいい椅子〉をけ飛ばした上でやってもらおうということである。へたな同情などはいらない。

  土産に林檎を五ツ六ツ買って来たのを、ゆき子は開いて、庖丁を探してむいた。くるくるとむきながら、ゆき子は鼻の奥の熱くなるような気がした。もういくらも生きてはいないだろう加野のために、できるだけの親切をしてやりたい気持ちだった。むいたのを小さく切って加野の口へ入れてやると、加野は歯の音をさせて、林檎をむさぼるように食った。(301〈三十五〉)

 ゆき子は〈出来るだけの親切〉をしてやりたいと思って林檎の皮を剥いて加野にたべさせる。林檎と言えば創世記に出てくる禁断の木の実を想起する。サタンが勧めるのは赤い、誘惑的な林檎である。ゆき子が加野の口に運ぶのは、その赤い皮を剥いた林檎だ。加野はむさぼるように歯の音をたててそれを食う。
 この場面はゆき子=サタン=エヴァによる唆しの場面の隠喩とも見れる。加野は病床にあっても、ゆき子の誘惑を拒むことはできない。ゆき子のハガキに応えてしまったは加野は、すでにその時点で舞台をダラットから日本に移した第二場における唆しのドラマに参加してしまっている。ハガキを出し、加野の家を訪れ、林檎の皮を剥いて食べさせるゆき子は、〈罪滅ぼしの謝罪〉〈出来るだけの親切〉というご立派な立場を崩さずにまんまと加野を唆し、さらなる罪に誘うが、ゆき子自身がこの自らの〈唆し〉を無自覚のうちにはたしている。
 林檎を食した加野が果たさなければならない役割とは、ゆき子に代わって富岡の卑劣の本質を突くことにほかならない。それを果たすことが、余命いくばくもない加野に課せられた最後の仕事である。ゆき子は富岡に面と向かって「みえぼうで、うつり気で、その癖、気が小さくて、酒の力で大胆になって……気取り屋で」「人間のずるさを一ぱい持ってて隠してるひとなのよ」と言っている。加野は果たしてこのゆき子の富岡評を越えて富岡の本質に迫ることができるのか。

 「いろんなことが私たちにはあったけど、やっぱり、生きていれば、こうした時代も見ることができたし、私たちもお目にかかれたじゃありませんの? だから、うんと栄養をとって、元気になって下さらなくちゃいけないわ」
 「栄養か……。そうですね。金さえあれば、二三年は寿命がありますでしょう」
 「でも、お母さまも、弟さんも大変ね……」
 「まったくお気の毒のかぎりと言いたいところだ。このごろはおふくろも、弟も、僕には飽々してる模様ですよ」
 「そりゃア、あなたのひがみだわ」
 「ひがみですかね……」

 元気を出すためには栄養をつけなければならない、栄養をつけるためには金がいる、しかし加野は働くことが出来ず、老いた母親と弟に頼らなければならない。ゆき子の〈親切〉はおそらくたった一度のことで、二度と再び加野を訪ねてくることはない。〈罪滅ぼし〉とは自分の荷を軽くする、降ろすということで、結局は自分のためなのである。富岡が家族の者を親戚に預けて身軽になったように、ゆき子の加野訪問も〈罪〉の荷を降ろして身軽になるためだったのである。
 〈罪滅ぼし〉のために訪れたゆき子に、さらなる〈罪〉の荷を負わせることができれば、加野の復讐心もそれなりに満たされることだろう。が、加野は富岡とゆき子が生きている〈腐れ縁〉の泥沼のリングに参入することはできない。加野の生の現実は老いた母親と弟の労働によって支えられている。〈父親不在〉の加野家の嫡子は、加野家を支える柱にも杖にもなれず、今や金のかかるだけの厄介者に落ちている。片やゆき子は七年前に神田のタイピスト学校に通うために東京へ上京して以来、一度も田舎へ帰らず、富岡からのわずかの援助があったとはいえ、一人、東京砂漠を生き抜いている。
 死に直面して、母や弟に気をつかいながら、天井からぶら下がっている裸電球をながめて生きている加野と、魂のない事業にも失敗した富岡との腐れ縁を生きているゆき子、この二人の孤独の度数を計っても詮方ないが、この場において主導権を握っているのはやはりゆき子で、加野はゆき子の孤独を包み込む何かが欠けている。加野は男と女の性愛を超えた大いなる愛の風呂敷をついに手にすることはできなかった。林芙美子は、そもそも性愛を超えた愛などというものを信じていただろうか。いっさいのきれいごとを書かないこと、それが林芙美子の小説家としての覚悟である。

  加野は実際、富岡のような、紙一重のあぶないところを、一生涯、自分の直接性をもってすり抜けてゆける幸運には、あやかることもできないと思っていた。富岡のことを考えていると自然に腹が立って来る。いつも、するりと身を交わして、なかなか溺れる方へは頭をつっこまない。加野は昔のことを思い出してむっつりした。ゆき子は林檎の皮を新聞紙にくるんでいる。そして、何か言いかけようとしてやめた。加野は、ゆき子が、少しも昔の情熱的なところを見せないで、悠々と落ちついていることに、謎だなと、この女の大胆さが不思議でもあった。話に聞けば、いまだに一度も郷里へ戻ったこともなく、引揚げて戻ったまま、独りで放浪しているのだと、枕もとで引揚げ以来のことを話されてみると、女は魚の肌ののように、底意地の冷いものだと思えた。(301〜302〈三十五〉)