清水正の『浮雲』放浪記(連載48)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載48)


平成△年8月2日
 林芙美子は向井清吉の話など記すに値しないといった扱いで、向井が小舎に入り込んで来た後の彼を完全に無視している。叙述は次のように続く。

  すると、あの時のおせいの涙は、やっぱり、自分の思い過しだったのかともゆき子は考えたが、その時の気持ちで、非常に冷酷になれる富岡のことだから、あれは本当に、富岡の言ったとおり、おせいにも亭主にも自分の住所をあかさなかったのかも知れないとも思えた。もしも、おせいに行きあっていないとすれば、富岡の冷酷さがますます底気味のの悪いものに考えられて来る。富岡とおせいの間が普通ではないことを、ゆき子は女の敏感さで見抜いてもいたし、第一、共同温泉で、新しいパンツを持って来てやっているおせいの女心が、ゆき子に判らない筈はないのであった。おせいの女心を、そのままはぐらかして、逢っていないとなると、あれは旅の行きずりの、富岡の我ままな一種の甘ったれだけであったのだろうか……。おせいとのかかわりの続きを、そのまま旅先だけのことにして、打切ってしまう冷酷さだったのかも知れないと思った。一時間ばかりもいて、おせいの亭主は悄然と戻って行った。
  ゆき子は、富岡の本心を見たような気がした。かえって、もてあそばれたようなかたちになって、家出をした若いおせいに対して、ゆき子は何となく同情もしてみる。(296〜297〈三十四〉)

さて、こういったゆき子の主観を通して語られる〈おせいの涙〉や〈新しいパンツ〉や〈富岡の冷酷〉についての思いをどのようにとらえるかである。ゆき子の女の直観は彼女が酔いつぶれたあのボルネオの二階で富岡とおせいが深い関係になったことを看破している。ゆき子は富岡とおせいの関係の真実を知ることはできないが、読者はゆき子をさしおいてその真実を報告されている。読者にも報告されていないのは、富岡が自分の居所をおせいに密かに教えていたかどうかについてである。作者がそのことを明確に記していないのであるから、読者もまたゆき子と同じ立場にたたされることになる。
作者はどのような設定を考えていたのだろうか。描かれた限りで見れば、富岡はおせいに住所を教えていなかったようにも思えるが、もし作者がおせいに重要な役割を担わせようと思っていたなら、とうぜん富岡はおせいに連絡場所を教えていたであろう。戦後まもないどさくさの東京で二人がぐうぜん出会ったなどという設定はあまりほめられた設定ではない。作者は富岡とおせいの今後の関係をどのように発展させるかに関して迷いがあったことは確かであろう。
おせいは富岡の〈再生〉のドラマを担うには役不足である。なにしろ富岡の〈再生〉のドラマは、ロジオンのそれとは次元を異にしている。林芙美子は富岡とおせいの関係よりも、重点をゆき子と加野の関係に移して行く。おせいはゆき子を置き去りにして、どうしようもない中年男富岡兼吾の伴侶にふさわしい女として成長する機会を奪われ、ここではゆき子に同情される女に成り下がっている。

 その日、ゆき子は加野から、病気で寝ているので、むさくるしくはしているが、何といっても、なつかしいので、あのハガキのご心意が本当ならば、尋ねてお出で下さい、という返事を貰った。そして、その文面の末尾には、富岡君にも逢いたいので、よかったら、お二人でお出掛けくださいと、小さく追い書きがしてあった。ゆき子はかなり苦労人らしくなった加野の人なつっこさが、たまらなくなつかしかった。富岡や自分に対して、現在では何のわだかまりも、持っていそうもない文面でもあると、ほっとした。(297〈三十四〉)

 読者はゆき子が加野に宛てて書いたハガキの内容をそのままの形で報告されることはない。が、それが手紙ではなくハガキであったことで、ゆき子の加野に対する距離を置いた思いが端的に伝わってくる。ゆき子の女心は、富岡兼吾一人だけに向いているのではないことを改めて確認しておく必要がある。
ゆき子は富岡を忘れられないのにジョオと肉体関係を結ぶし、伊庭との関係を断絶することもしない。加野に対しても、べつに好きでもないのに、富岡との関係を深めるために平気で利用したりする。加野は女心を知らない。自分の思いを最優先して、相手の気持ちを冷静に客観的に見ることができない。表面的な設定だけで見れば、加野は『白痴』のロゴージンのような一途な熱血漢のようにも描かれているが、ゆき子がナスターシャ・フィリポヴナの役を演ずることができない以上、加野の〈熱情〉は空回りするほかはない。
ここで、ゆき子は加野を尋ねていくことになるが、〈過去の男〉を尋ねるゆき子もまた作者林芙美子を反映していよう。多くの女は〈過去の男〉を訪問するなどという愚を犯すことはない。魅力のある女とは〈今〉を熱狂的にわがままいっぱい生きる美女であって、〈過去〉にとらわれているような女や、実現できもしない〈未来〉ばかりを見つめているような女はうざったいのである。
 ゆき子は典型的なうざったい女である。富岡兼吾のような嘘つきで虚栄心の強い、さらに事業に失敗した卑劣漢を追いかけ回しているゆき子は、女としては少しも魅力はない。富岡がゆき子に惹かれたのは、若い弾力性のある軀であって、彼女の精神性は何ら問題になっていない。男と女の関係は性愛的次元のほかは取るに足らずといった感じで、富岡とゆき子の間で文学作品について意見を取り交わす場面などひとつもない。