荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載36)

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荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載36)
山口貴由
 「ビジュアル系ハードコア漫画道を覚悟して読め!」(その⑨)

●「南條範夫」原作「駿河城御前試合」と山口漫画「シグルイ

シグルイ」の原作、「南條範夫」の「駿河城御前試合」、その第一話に当たる「無明逆流れ」は、文庫本にして30ページ強の短編作品である。山口漫画「シグルイ」が3300ページに及ぶ大作と言う訳だから、これは、相当原作に肉付けしているだろう事がお分かり頂けるだろう。

確かに、原作に登場しないオリジナルキャラクターが続々と登場する。内弟子の少年剣士「近藤涼之介」、涼之介に思いを寄せる「山崎九郎右衛門」、強力な握力を誇る「宗像進八郎」、牛股に次ぐ怪力の巨人「丸子彦兵衛」、最後には虎眼流を裏切る事になる「興津三十郎」などの内弟子、虎眼の剣により両眼を失った清玄といくを救う剣士「月岡雪之介」、清玄を囲う当道座最高位者「賎機検校」、「友六」、「蝉丸」、「夕雲」など賎機家の用人、刺客たち、清玄を敬愛して止まないお調子者の按摩「蔦の市」、医師伊良子清玄の弟子であり、師を殺害し、師の名を名乗る清玄を抹殺しようとする骨子術の使い手「峻安」、掛川藩の重鎮「孕石備前守」、その三男にして武芸者「雪千代」、他、続々と登場する個性的な剣客、刺客の数々が登場する。当然だが、そのストーリーも脚色に脚色を重ねる。

この残酷小説のストーリーそのものに奥行きを齎すのは、清玄の母親の存在か。夜鷹であった清玄の母は、職業病と言っては何だが、脳梅にかかり狂人となっている。長屋の一部屋で暮らし、勿論、清玄が面倒を見ている。金、出世に貪欲に拘り、最後までそれはぶれない清玄であるが、この母に対する感情だけは特別である。女性を性の捌け口、また出世の道具としか捉えられなかった清玄が、いくについてはそれ以上の感情を持ったのも、いくに、どこかで母の肖像を重ねていたからである。

牛股には、許嫁があった。国に残した幼馴染、「ふく」である。牛股は、一人前の剣士となった後、迎えに来る事を約束し、虎眼流道場に入門するのだ。
そして、虎眼を敬い、虎眼流道場で修練を繰り返す牛股は、 次第に剣の道の魔力に嵌っていく。剣の道を極める為に、女子の存在が妨害になると悟らされた牛股は、国に戻り、何とふくを斬ってしまうのだ。壮絶にも、そのまま素手で自分の睾丸を毟り取り、自ら去勢までしてしまう。
原作では、牛股は既に既婚者で、その為に三重の相手からは除外されている。この牛股の剣に掛ける情熱、存在感は、原作を遥かに凌ぐと評価して良いだろう。

源之助は、感情らしい感情を持たない、まるで機械のような冷徹な少年として描かれている。感受性が欠落した、ある意味片輪なのではないかと噂される場面さえある。
確かに、源之助は何事にも耐え、口数も少ない、無表情で笑顔も一度しかない冷血漢のように描かれてはいる。ただし、内面で燃え上がる感情は誰よりも熱い。
原作の源之助はと言うと、剣術には長けているものの、まずは百凡の若者である。虎眼を破り、牛股まで亡き者にした清玄への仇討ちを、「私には適わぬ」と避ける場面もある。それを、一緒に暮らし始める三重から何度となく責められ、仕方がなく腰を上げるに至るのだ。

虎眼は、原作では50歳前、即ちまだ40代の若さで、勿論まだ呆けてもいない。「シグルイ」では、独裁的で圧倒的な力を誇張して描かれているが、原作では、物分りの良い親父と言う印象だ。
愛妾はいく、この設定はそのままである。虎眼といくの距離感も随分と近く、虎眼流道場の跡目、即ち三重の婿選びの相談をする、妾と言うよりは妻に近い役割を担っているのだ。
物分りの良い虎眼は、力量はほぼ互角で、源之助の剣の方がまともだが、三重が清玄に夢中のようだから清玄に決めようか、といくに相談する。いくは、三重の婿に清玄を選ぶ事を反対する。清玄には、正体不明な妖しいところがある、と言う理由である。
じつは、この妾は、既に清玄と密通しているのだ。清玄を愛して止まないいくは、清玄が三重のものになる事が許せない。清玄と密会するいくは、清玄に、虎眼を斬るか、自分と一緒に逃げる事を強請る場面もある。

三重。原作でも、漫画でも、このストーリーを司る一番の中心人物と言っていい。漫画では、恥らう乙女と言う印象だが、原作では、流石は武家の娘、気の強いやや強引な性格の持ち主のようだ。双方共、清玄の色香に惑わされている。原作では、本当にストレートに、漫画ではやや匂ややかに表現されている誤差は生じるが、本質的には何も変わらない。
ただし、漫画では、共に暮らす源之助に、次第に心を開く過程が描かれているが、このエンディングを見ると、やはり清玄の幻影を捨て切れなかった三重の姿があった、と言う事だろう。

そして、30ページ強の原作に、たっぷりと肉付けをして3300ページで描かれた「シグルイ」であるが、駿河城御前試合で、見事に清玄に仇を討つ源之助、同時にその決着を見て自決をするいく、そして恨みを晴らした達成感を持ってやはり自決する三重、そこだけは、無理やり原作と帳尻を合わせているのである。


●「シグルイ」を総括する


源之助と三重は、精神的には結ばれていたはずである。三重が、源之助の気持ちを受け入れる場面もある。共に暮らしてはいたが、三重は清潔である。そして、最後に、清玄を討った後に、その夜重なり合うと言う神聖な約束を交わしているのだ。
ストーリーを膨らませ過ぎた為、ここで三重は少しぶれるが、それにつけても怖いのは女心である。前述したが、第一景で、「憎い憎い憎い伊良子」と言う場面、三重の眼は源之助を見てはいない。真っ直ぐに捉えるのは、清玄である。自分と言う正妻がありながら、父の妾に過ぎないいくと密通する清玄に対する憎しみである。これは、悋気を超えた、乙女の純愛を踏み躙られた怒りであり、その清玄を今でも愛して止まない自分自身に対する怒りでもあるのだ。

哀れなのは源之助である。実は、源之助は、三重を大切に思いながら、何処かで清玄に性を感じている。清玄の色香は、源之助までも惑わすのだ。この事は、清玄が初めて虎眼流道場の門を叩いたあの日、源之助との試合の中でも如実に表現されている。源之助の視点は常に清玄の妖しく滑る真紅の唇であるのだ。そして、源之助の剣を持つ指に絡まる清玄の白い指に、骨子術以前に、身体に電流が走る源之助の姿がある。
そして、御前試合でも、その事は繰り返される。清玄の美しくも真紅の唇、絡み付く指先と指先、清玄を斬る源之助が一瞬垣間見るのは、清玄に抱かれる自分の姿である。そして、清玄を斬った源之助は思うのだ、「あの夏の日出会って以来、清玄を思わぬ日があっただろうか」と。これは、恋愛にも似た感情、否、恋愛感情そのものだ。

源之助の勝利を目の前にし、三重は、「深部に潜みし『魔』は、跡形もなく消滅していた」と涙を流す。「魔」とは、清玄に対する思い、恨み、憎しみ、そして愛である。この後、呆然となった源之助が、徳川忠長の指示により清玄の首を取る場面がある。その、武士道から外れた行為を見た三重が、源之助に対する絶望感から自害したとも取れるエンディングであるが、やはり、ここは「魔」が消滅した為、と捉えたい。それは、今は亡き「南條範夫」の原作を尊重する為にもだ。

源之助は全てを失う。虎眼流道場から始まり、虎眼、牛股、内弟子たち。漸く結ばれたかに思えた三重。一時も忘れる事のなかった清玄。更に、培った武士道まで、源之助は捨て去ったのだ。今の源之助は最早廃人である。

そして、前回、この残酷物語「シグルイ」で、最も残酷な場面、と評したが、桜の花びらの散る道中、源之助の、失ったはずの左手が指に触れる場面で、この壮絶なストーリーは締め括られるのだ。


山口貴由論、最後に


「偏愛的漫画家論」は、「偏愛」なのだから私の個人的趣味に沿えば良い、と言う発想もあるが、出来る限りメジャー漫画家は遠ざけたいと考えていた。尤も、出版社側、編集者側の意志主張が横行するメジャー漫画誌に、まだ荒削りな迸る個性を持つ、私好みのものは中々見当たらないのも事実ではあり、結果的にメジャー漫画家を遠ざけざるを得ない理由もあるが、それと同時に、評論され尽くした、例えば「永井豪」の「デビルマン」について書いたところで「今更」だろうと言う懸念もある。

その意味に於いて、山口貴由について書く事は、ほんの少しだけ躊躇した。

実は、「覚悟のススメ」、「悟空道」について、「D文学通信」に連載中だった5年前に書こう思った時期があった。それぐらい、山口貴由はお気に入りの漫画家だったのだが、やはりメジャー過ぎた事を嫌って敢えて書かなかった経緯もある。アニメ化、CDドラマ化、ゲーム化もされた「覚悟のススメ」、あの「川尻善昭」も絵コンテで参加し、アニメ化された「シグルイ」など、今となっては、本当にメジャー漫画家となってしまった訳だが、今回、それでも書こうと思い立ったのは、丁度「シグルイ」が完結したタイミングだった事に他ならない。書くなら今のタイミングだと判断した理由だ。

山口漫画も魅力は、この「山口貴由論」の冒頭にも記したが、やはり徹底したグロテスク、匂い立つエロティシズムであろう。この事は、「シグルイ」で、最早追従不可能な領域に達したと言っていい。

これも、冒頭に記したが、兎に角山口貴由は大変な力量の画力を持つ漫画家である。星の数ほど居る漫画家の中で、ほんの一握り、トップクラスの画力と言っていい。勿論、絵が上手い、だけで飯が食えるほど漫画は甘くないが、画力がある程度の水準に達していなければ、ここまでのリアリズムは描き切れない。山口漫画のグロテスクは、やはりリアリズム、質感、重量感に裏付けされるのだ。そして、山口漫画のグロテスクを、美しいと錯覚させるのはその創造性である。
源之助の仇討ちで、左腕を失った源之助に助太刀をする牛股は、自らが斬った死体の山を木剣「かじき」で潰しては放り投げる場面がある。千切れる皮膚、それに纏わる臓器、砕ける骨、このリアリズムは半端では済まない。リアリズムと表現したが、別に写実的な訳ではない、写実的と錯覚させる画力、創造性なのだ。それが、山口漫画のグロテスクが、単なるグロテスクで終わらず、耽美的でさえある理由なのだ。

そして、エロティシズム。
山口漫画のエロティシズムには、実は、私は一つの持論がある。それは、少しだけ「悟空道」の作品論に書いたが、山口貴由は、女性のエロティシズムを表現する事が苦手なのである、否、それはそれでしっかり描き切れていると評価出来るが、山口貴由の描く男性のそれには到底及ばないのだ。
女性のエロティシズムは、「シグルイ」で漸く表現されたものの、「蛮勇引力」までの山口漫画に登場する女性のエロティシズムは、グラビアアイドルのそれ、即ち人形に過ぎないのだ。
それに比べ、「覚悟のススメ」の覚悟と散、覚悟とライ、「悟空道」の艶天大聖死鳥、言うまでもなく「シグルイ」の源之助と清玄、そこに表現されるエロティシズムは文学的とさえ言える。これは「三島由紀夫」である。
凛々しい山口貴由ご本人の姿を見ると、性癖まで「三島由紀夫」と被るのは私だけではあるまい。逆に、そうでなければここまで表現出来ていないだろう。

アイロニーたっぷりの凶暴なキャラクターたちも、山口漫画の魅力として外せない。不平不満だけが増複した偏執狂たちは、いずれも反社会的であり、決して管理社会に屈しない。これらのキャラクターも、実は山口貴由の分身なのだ。ある意味、キャラクターの違いこそあれ、毒魔愚郎と由比正雪は同じベクトル上に存在しているのだ。実は、山口貴由は、反管理社会の旗手でもあるのだ。

そして、これも追従を許さない独特なネーム。ネームの数々をご紹介した「覚悟をススメ」で完成を向かえたものの、「悟空道」であっさりそれを超えている。自己ベストの更新を可能にしたと言う印象だろうか。
「悟空道」で、山口貴由が行ったネームの特異性は、ずばり「ルビ」である。「仏契」で「ぶっちぎり」、「釈迦力」で「しゃかりき」と読ませる事は「悟空道」の作品論でも記したが、「好都合」を「チャンス」、「不可視」を「みえない」、「停止」を「プツン」、「逆流」を「ムカムカ」、「真心謝罪」を「すいませんでした」など、その「ルビ」の特異性を列挙すれば限りがない。
山口貴由は、「読み手の心に長く残るような名ゼリフを生み出したい」とも書いており、山口貴由の、ネームに対する思い入れ、拘りは充分感じられるだろう。

最後に、山口貴由は、「男」を描く事が得意なのだ。勘違いしないで欲しいが、それは前述したエロティシズムとは何の関係もない。それを武士道と一言で片付けるのは容易いが、武士道をもっと昇華させた、言わば「男」の美学、哲学と言っていいか。
私は、今まで、この「男」を描くのが上手いと、常々思っていた漫画家が居る。現在は戦後日本漫画を代表する漫画家だが、「ワイルド7」を描いた「望月三起也」である。
望月漫画に登場する「男」たち、これも武士道と言えば武士道であるが、そればかりでは括れない。口を噤む、耐える、忍ぶ、智恵と勇気、行動力と決断力を持って、そして仲間の為に目の前の危機を克服する「男」たち。「男」を描かせたら「望月三起也」を超える漫画家は現れないだろうと考えていた。山口貴由は、超えるところまでは到達していないが、肩を並べてしまったとは評価出来るのだ。

原稿用紙で100枚、9回に渡って連載された「山口貴由論」であるが、山口漫画の魅力は伝達されたであろうか。中でも、「覚悟のススメ」、「悟空道」、「シルグイ」は手に取って読破して頂きたい漫画作品である。是非お薦めする。
山口貴由は、現在、「シグルイ」の連載を終了した「チャンピオンRED」に、「覚悟のススメ」の新章に当たる「エクゾスカル零」を連載中である。これも期待したい。


我孫子エスパの「スタバ」で「シグルイ」を手にする荒岡保志  撮影・清水正