「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想(3)

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「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んで
齊藤 功
 連載第一回目から第八回目までを読ませていただきました。「意識空間内分裂者」とは一体なんなのだろう、とタイトルを確認するたびに思い、そのことについて触れたのが第三回目でした。状況、場面によって顔の違う、様々な面を持つ人間が狂気に陥らないのは、その様々な面を統治する意識があるからだ、ということだと思うのですが、そういったこと自体考えたことがない(そういった発想すら持つことはありませんでした)ので、やはり、僕自身が理解に至っていません。
 他人についてはわかりません。親でさえ、僕が目にしているのは親の一面にしか過ぎず、家を一歩出たとき、どのような面を見せているのか知りません。
 しかし、僕自身について言えば、確かに様々な面を持っているのだと思わざるを得ません。意識的にしろ無意識的にしろ、こうして平面で文を綴っているときの僕と現実世界で動き回っている僕とで、すでに二つの面が出ています。普段の僕からして見ますと、文面の僕は饒舌ですよ。また、家の中と外でも違う面を持っていると思います。
 僕が考えることが出来たのはここまでです。その先の、これらを統治する意識については考えられませんでした。思いもよらないものです。
 今回、清水先生のブログを読ませていただいて、そこで初めて“分裂した様々な〈我〉を統治する意識”というものを考えました。が、詰まりました。それが一体なんなのか、わかりませんでした。僕の中にある様々な面の一つなのかもしれない、とも思いましたが、どうも、それとは違うような気がしてなりません。僕自身ですら知り得ない、唯一の面がそれなのかもしれないとも考えました。ともすると、それはなんなのか。真の僕なのか、と自分でも良くわからない考えに至り、わからなくなります。
 第一回目にも書かれていますが、改めて“謎”という言葉を思い出しました。僕にとって、“分裂した様々な〈我〉を統治する意識”こそ“謎”です。
 一年のときに清水先生と出会い、「罪と罰」に出会いました。そして、ようやく読み終えたのが去年の暮れです。カミングアウトです。清水先生の批評を聞いたのは、実はマンガ論の「ピーコ」が初めてだったのですが、あの時の驚きは忘れられません。一読したときは面白くなかったのですが、清水先生の批評を聞いて読み返しますと、本当にそのように見えてしまい、さらには、そのようにしか見えなくなりました。
 そこから一年間「罪と罰」の批評を聞き、そしてまた、この一年聞かせていただきました。先のカミングアウト通り、「罪と罰」を読み終えたのは去年の暮れです。それまで、中巻の半分くらいまで読むことはあっても、読破していませんでした。しかし、清水先生の批評は聞きたいと思いました。第五回目のブログで“何回も批評しているので、繰り返しも多いが、その繰り返しにも飽きない”と先生自身書かれていますが、僕も飽きないですね。それほど面白いし、強く影響を受けます。本当は読んでから聞くべきなのですが、わからなくても聞きたい、と言った心持でした。
 しかし、第六回目のブログを読んで、少し揺らぎました。清水先生の批評は本当に影響力があると思います。現に、「罪と罰」を読んでいきますと、描かれざる部分が浮かび上がってきます。
 女子学生が「処女だって……」と口にしたその真意はわからないのですが、その呟きで先生がハッとしたと書かれたように、僕もハッとしました。影響を受けているだけではいけないのだ、と。言葉がおかしいですが、これが今回ブログを読ませていただいた一番の収穫なのだと思います。
 最後に、一年間ありがとうございました。

「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んだ感想 
 板谷絵理
一口にドストエフスキーの作品と言っても、翻訳者によって作品はがらりとかわるということがよくわかった。何人もの批評家たちが長い人生をかけて批評してもしきれない、ドストエフスキーの作品の奥深さが改めてわかった。
ドストエフスキーの作品はキリスト教ともつながりを持っており、教徒でないものに批評するのは難しい場面もある。小林秀雄は晩年、講演で自分はキリスト教がわからないのでドストエフスキー研究を断念したと語っている、と書いてあったが、文学作品にはその著者の人生観が関わっている場合が多い。国、時代が違えば各々の価値観、倫理観も違ってくる。それを考えれば小林秀雄の言うことはもっともだと思う。環境の違う時代、国の作品を批評することの厳しさがよくわかった。
ドストエフスキーの「罪と罰」では作中にはまったく性的な場面は描かれていないが、この記事を読むだけで実際はこうであったはずだ、という事実が見えてくる。描かれていないだけであり、作中の状況からおそらくこうであったと様々な憶測ができる。
例えば、ロジオンがナタリアと婚約したのは彼が彼女の中に永遠の伴侶にふさわしい高潔な何かを見いだしていたと見ることができる。しかし未亡人プリヘーリヤから仕送りされてくる金で、ドイツの青年紳士気取りで外套や靴や帽子を購入するような、気取りやのロジオンは金のかかるプロの娼婦代わりにてっとりばやく、しかもただで満足を得ることのできる下宿の娘、だれも相手にしないような不具の女に手を出したのである。後者の見方の方が自然に感じた。
罪と罰』の人物たちは描かれた領域と描かれざる性的な領域の二つを重ね合わして見ていかないと、とんでもないきれいごとになってしまうことになる、とあるが初めてこの作品を読んだ時にはなにも思わなかったのがまさにそれであった。
罪と罰は実質約一週間の物語であるがその内容は深く、作者によって語られることの無かった不透明な部分を解析し続けるには時間がいくらあっても足りない。何人もの人が何十年と時間をかけているのにも関わらず未だに新しい発見があるというのには感心するしか無い。
作家は人生をかけて小説を書き、批評家もまた、それに人生をかけているのである。
芸術一般に言えることであるが、作品そのもので芸術品であるわけではない。作品を鑑賞する人が芸術品をつくるのである。ドストエフスキーの小説にしてもそれを読むものや批評家が作品を名作にしているのである。
今回「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」を読んで、ドストエフスキーの作品の深さを再認識した。数多の名作を生んだドストエフスキー、批評家たちを賛美するしかない。