宮沢賢治「雪渡り」の感想

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「文芸特殊研究Ⅱ」受講生の「雪渡り」の感想文を紹介します。まず「雪渡り」を読んでレポートを書いてもらったのが先週の月曜日。学生たちは何の先入観もなく、テキストを読み、感想を書いた。課題はブログに載せた私の「雪渡り」論を読んで再びレポートを書くこと。今回は三本のレポートを載せます。写真は受講生のうち三人。

三人の兄――雪渡りを読んで――
文芸学科二年 岡田 美津穂

 まず、最初に「雪渡り」を読んで浮かんだ大きな疑問は、紺三郎は何故、恩を感じたのか、ということだった。これについては、私は『紺三郎含め小狐達の大人狐が人間を騙すのを見て、真似した遊びだったのではないか』『恩を感じたという表記では、それが成功したことに、嬉しくて、まるで恩を感じているように語り手が語ったのではないか』ということで締めた。清水正ブログに掲載してあった「雪渡りを読む」では、この紺三郎や他の小狐については、四郎とかん子を死の世界に呼び寄せるためのものだと語られていた。白は死となり、その世界で遊ぶ子ども二人……。私の解釈よりも深く、面白いと思った。しかし、率直な意見を言うなら「死んだという解釈はやりすぎではないのか?」と思う。
 また、狐達が二人を死の世界に引きずりこむ必要性というのは本文、ブログ掲載文からも読み取ることはできず、つまり、わざわざ「死」と位置づけるには多少の飛躍を感じた。だが、私の「遊んでいた」という解釈を、確定的なものとできる文章は見つからない。ただ、掲載文を読んでいて『白い世界=死の世界』という考えが私には新しい発見で想像しながら雪渡りを再び読み返すと宮沢賢治の世界がより面白く感じられた。
 この再び読んだ時に、四郎、かん子、紺三郎、小狐達、そして三人の兄といったキャラクター達の存在が浮き彫りになったり、逆にへこんだりして、それぞれの色彩を帯びていた。しかし、よくよく読んでも一番不自然極まりないキャラクター達がいるのだ。いや、読めば読むほど「お前達は一体全体なんなんだ?」と言いたくなる。
それは三人の兄達だ。
 宮沢賢治は、わざわざ「三人の兄」を登場させている。ここが親でないというのは掲載文で「大人が登場しただけで話をスムースに展開することができなくなる。」とある。では、何故「兄」で「三人」である必要があったのか。むしろ、ここで四郎とかん子を家に帰す場面は必要なかったのではないだろうか。もちろん、主人公が、四郎、という名前なのだから上に三人の兄がいるだろう。だが、三人を出したのは何故か? それに、三人の兄達が出てきて語り手が確かに喋ったと言っているのは二郎だけなのだ。一郎と三郎が喋ったという表記はどこにもない。本当に三人いるのか? ということすら疑わしくなってくる。もっと謎を突き詰めていくと、こんなことも見えてくる。四郎は最初に狐が出てきて、かん子を守ろうとしたり、「狐は偽つき」と言ったりしているところから「狐というのは恐ろしいもの。偽つくもの」という意識が四郎、かん子に備わっているというのはわかるだろう。それに狐である、紺三郎自身も本文で「私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられてゐたのです。」と言っている。この二つのことから、この世界では、狐は偽つくもの。と思われていると思って間違いはないと思う。
 だが、兄達はどうだろう。小狐と言えど、狐の会に行くという弟妹を何故止めない? 二郎は、あまつさえ自分が行こうとすらする。そして、行けないと分かるとすんなり諦め狐に「鏡餅を持っていけ」とも言っている。もしかしたら、二郎だけは狐に悪いイメージを持っていないのかもしれない……という解釈をしても、上と下の兄達は注意もしない。一つだけ「大人の狐にあったら急いで目をつぶるんだよ」と言うだけだ。
 この兄達が、この二人の足行きを後押ししているように思う。この兄達こそ、この「雪渡り」において最も謎で、最も重要な人物ではないのだろうか。では、どんな役割をこの三人は担っているのか。それは、この世界(四郎とかん子)が「死に向かっている」というのをまず否定していかなければならない。
 これは、キャラクターが極端に少ないということだったり、真っ白い世界だったりすることや、小狐達が妙に用意周到に物事をこなしているという「死へ向かっている」という考えに至るまでの要素をそのまま理由として挙げて、この世界は「生へ向かっている」と私は言いたい。生まれる前の世界というわけではなく、例えるなら「ひかりの素足」での兄弟二人の地獄での体験に似ている。三人の兄は、もう死んでいて、せめて下二人を蘇らせるための案内人になっていたのではないだろうか。二郎だけが、自分も生き返りたいと、思わず口に出してしまったが、「そんなことしてはいけない」とすぐに思い返し、すんなりと諦めたのだ。大人の狐に会ったら目をつむる、というのは、狐は神(の使い)であるから、生き返らせる儀式の試練上にでてきたのではないだろうか。もしくは、見つかったら生き返ることができないだとか考えられるが、本文中でこれ以上大人の狐については触れられていないので言及はできない。
 話を戻して、この世界が「生へ向かっている」とすると、黍団子や幻燈会もすんなり納得いくのではないだろうか。黍団子は、魂で、それを食べることで命を復活させる。幻燈会も、生まれ変わる為の前座……と言ったら語弊があるかもしれないが、そういうものではないか。前座自体にはあまり、意味はないが、ないと「儀式」が完成しない。小狐達が最後に風のように去っていくのも、儀式の終了を表現しているように思えてくる。
 最初に挙げた、「何故、紺三郎は恩を感じた?」にも、これで説明ができると思う。紺三郎は「儀式を終わらせることができた」こと、が嬉しくてたまらなかったのだ。そして、嬉しそうな様子に「恩を感じた」と、語り手が語ったに違いない。
そして、最後の「三人の兄達が迎えにきました。」だが、これを読んで、ハッとなったと思う。私の解釈で言えば、四郎とかん子が三人の兄に会ったということは、『生き返ることができなかった』ということのだ。
 ここに、宮沢賢治の心地よい残酷さを私は感じ、この最後の文により「雪渡り」がハッピーエンドではない、面白さを携えているのだと思う。
 

雪渡り」を読んで                   
文芸学科 一年 大西 由益
 初めて授業で「雪渡り」を読んだときの感想は、「微笑ましい話だな」。この時点で、確かに私は騙されていたのだ。けれど同時に、この短い童話の底に、何か不穏なものが蠢いているのも少なからず感じ取っていた。私はそれを搔き集めて疑問点を書きだしていく。それをどうにか繋げて読み取ったのが「人攫い」の話だった。
 授業で書いた一度目の感想を要約するとこうだ。紺三郎は人攫い(或いは人買い)を例えたもので、四朗とかん子は攫われた。「幻燈会」は、「ピノキオ」でいうところの「遊んで暮らせるこどもの国」で、二人はそこへ騙されて連れて行かれたと考える。団子を執拗に食わせようとするのは儀式のようなもので、異界のものを口にする、という段階が必要だったのだ。ピノキオは連れて行かれた「子供の国」でそこの食べ物を食べてロバに変えられた。そして迎えに来た三人の兄たちは、一郎二朗三郎ではない、攫って売りつけた先の使いの者なのだ、と。これで結構辻褄が合うし、私は物語をなんとなく読み解けた気分で満足していたのだ。
 けれど、解決されないままの疑問もまたあった。「鏡餅」だ。辞書で調べる限りでは、「祝いの品」、「呪術に用いるもの」。私は初め(まだ「人攫い・人買い」の説も思い浮かばない内に)、「呪術に使うのだから、狐の幻を打ち破るために兄たちが持たせたのか」と思った。けれどそれではやはり辻褄が合わない。明らかにこじつけであるし、そんな品を持たせるくらいなら、兄たちは二人を家から出さなければいいのだ。それをいとも簡単に、むしろ快く見送ってさえいる。ということは、兄たちはそもそも二人を狐たちの元へやるのに肯定的なのだ、と考えを改める。ここでようやく「紺三郎は人攫いか人買いなのでは」と思い至る。(この場合、人買いの方が考えとしては強い。)ならばやはり、「鏡餅」は祝いの品かお礼の品なのだろう、と思ったのだが、やはり少し腑に落ちない。私は当時、こう考えていたわけだ。四朗やかん子の家は貧しかった、金をつくるために二人を売ったのだ、と。であれば「鏡餅」は祝いの品だろうと思いはしたのだが、果たして子供を売る家が本当にそれを心から喜ばしいと思ってしているだろうか。答えは否だ。食うに困って止む無く売る、けれどそれは別れを惜しんで悲しむべきことではあっても、金が出来ることに浮かれ喜ぶことではないのだ。ではやはり、ここでは「鏡餅」は祝いの品では有り得ないのだ。では何だろう。
 ここで、読ませて頂いた清水先生の雪渡り論で展開された「結婚式」・「供犠」の説を挙げよう。(物語は読者の手に渡った時点で各読者の理解に託されているのであり、どの意見、考えが一番正しいという順番付けは本当は無いのだと私は思っている。ここでは清水先生の考えることを可能性の一つとして取り上げさせて頂きます。)さて、「幻燈会」がかん子と紺三郎の「結婚式」だという考え。これに沿って考えると、「鏡餅」はやはり祝いの品で辻褄が合うし、二人の子供を狐神である紺三郎へ供えるという「供犠」では、それは子供と共に神前に供えられる供物でもあるのだ。これでようやく私は、なるほどと納得がいった。
 けれど、また新たに疑問は降って湧く。「供犠」について。それは何のための「供犠」なのか。「供犠」とは、「神に生贄を捧げる儀式」なわけだが、すると四朗とかん子はどうして生贄にならなければならなかったのか。再び辞書で「生贄」を引いてみる。「生贄」が人である場合、特に「人身御供」・「人身供犠」と言ったりするらしい。「人身御供」には、定期的なものと臨時的なものがある。私は恐らく、四朗たちの場合は臨時的なものではないのかと思う。もし定期的なものだとすれば、一遍に二人も贄にしたりはしないのではないだろうか。供えられる人間にも限りはある。もっと小分けにして、徐々に減らしていった方が、「供犠」も長く続くというものだ。一遍に何人も供えたのではいずれ供えるべき人間の方が数が尽きてしまう。これを四朗たち兄弟に置き換えるなら、まず初めにかん子、次に四朗、三郎、二朗、一郎と減っていくのが理想的だと言える。(その逆もまた然り。)そうでないのだから、この「供犠」は明らかに臨時的に行われたものだと言える。臨時的な人身御供はというと、疫病の流行や天災を神の怒りと恐れ、それを慰めるために行われたそうだ。つまり、狐神の紺三郎は何かに怒っている、或いは四朗たち兄弟の住む村で何か人間の生命を脅かすような事態が起こったのだ。なるほど、読み返してみれば、紺三郎は冒頭で「嫁はいらない」と断言している。清水先生の論によればこれは、「その代わりに、お前たちの命を差し出せ」と言っていることになる。紺三郎は確かに、人間の命を要求しているのだ。けれど、それは何故なのか……。こればかりが私には読み解けなかった。(雪国育ちではないからだろうか。雪による災害と考えてみても、何か思い当たるものが無いのだ。)或いはそれは、敢えて読み解かないでおく領域なのだろうか。

清水正の「雪渡り論」を読んで
文芸学科一年 今 大雪

 雪渡り』出てくる狐が今回も、宮沢賢治の童話に出てくる〈狐〉は総じて人を(あるいは神を)騙す狡猾な人格(狐格)を持つ存在であるという特性を持っていた。前回読んだ『土神ときつね』やいままでに学習してきた賢治童話の奥深さを教訓に予想を立て、それが見事に当たっていて少しばかり喜喜とすることとなった。こうも懐疑的に物語を読み進めて行くのは、好まなかったことなのだが、いまとなってはそれがとても自分にあっているのではないかと思える。それでもまだ賢治童話の深奥を覗くルーペの倍率は低いままなのだが。話の幹の部分に当たる狐が四郎とかん子と読者を見抜けたのはいいが、その枝葉や根を捉えることはできなかった。幹だけであるならば、それは木材や流木のきれのようなものであり、死んでいるものである。まったくもって、生命の神秘のような感動を得ることができない。自分の力量の低さを痛切に感じさせられることとなった。
 さて、ここからは雪渡り論を読んで私のなかで広がった『雪渡り』の世界について書こうと思う。『雪渡り』には〈白〉とつくものが数多く登場し、またその世界は白に覆われていた。雪渡り論ではそれらの〈白〉が〈死〉を暗示するものだと論じられていた。確かに、と私も思った。だがしかし、それは〈死の暗示〉だけなのであって〈死〉そのものではないと考える。この雪渡りの世界の〈白〉は全てふたりの死を際だたせ、世界のその後を暗示する重要なバックグラウンドなのではないだろうか。
 本文に出てくる幻燈会は礼儀正しいが、乱れるとき乱れるといった緩急の差がどうも狂気的に思われる。〈幻燈会〉というよりも〈幻燈祭〉と銘打つ方がしっくりくる。儀礼的でどこか狂気的、そして死が関わってくる、というと、これはもう生贄を捧げるお祭りではないだろうか。雪渡り論の中でも、紺三郎はその振る舞いから宗教家なのではないかと論ぜられているからあながち私の考えも外れていないはずだ。もちろん生贄は、物語の最初から最後まで死の世界に囚われている四朗とかん子である。生贄を捧げるお祭りと言えば、カーニバルである。いまでは仮装して練り歩くことが主になっているが、元々のカーニバルは自分たちの犯した罪を藁人形にかぶせ、燃やし、神に捧げるというものであった。藁人形とあるが、一説には、本物の人間を神に捧げたというものもある。そして私は大元はやはり、本物の人間を捧げていたのではないかと考える。なぜならこの手の話は、徐々に程度を和らげられるのが世の常であるからだ。かのグリム童話のように。
 もし、〈幻燈会〉が大元であるカーニバルとしたら、この物語は狐が人間を白い闇へと誘うそれではなく、人間が同じ人間を騙し、神に捧げ、その恩恵を得るといったさらに残酷な物語となるだろう。賢治は東北出身である。その昔、東北地方はその土地柄のため、作物が酷く収穫できないことがあった。作物がとれなければ、当然それを食べられない人が出てくる。そして働かなければ、作物はとれない。そこで人々は、食べるだけで、働かない(働くことのできない)子供を殺した。間引きである。しかし、ただ間引くだけでは改善が見られない。小康状態が続くだけである。そこで私はこう考える。人々はただ子供を間引いたのではなく、祈りを込めて間引いたのでないかと。子供を捧げて、自分たちに恩恵を求めたのではないかと。つまりは生贄と同じである。そういったもしかしたらあるかもしれない事柄と実際に賢治のまわりを取り囲む環境(自分が裕福で回りが貧乏)に対する何かしらの想いがこの物語の原動力になっているのかもしれない。
 生贄を捧げるのであれば、そこには生贄を捧げる祭壇が必要になってくる。これはやはり森の中の幻燈会会場が適切だろう。そしてそれは円錐の形をしているであろう白い世界で一番高い所に位置しているはずだ。神に最も近い場所であり、恩恵を世界中に行き渡らせることのできる唯一の場所であるからだ。なぜ白い世界が円錐であり、恩恵を世界中に行き渡らせることのできる唯一の場所なのかというのは後述する。
死が〈白い〉ものであるのならば、〈空白〉や〈白紙〉という言葉からわかる通り、そこには何かが生まれるはずもなく、恩恵なんてものは降ってはこない。ではどうすれば、恩恵が降ってくるだろうか。それは生贄を残酷に殺す(捧げる)他ない。文字通り血祭りにあげるのだ。そうしてふたりから噴き出した、活気があり、生命の脈動さえ感じさせる血こそ、この世界の恩恵なのである。相対することによってお互いを際立たせる赤と白のコントラストもどこか神聖さを感じさせる。 四朗とかん子から噴き出した血は白い円錐の形をした世界で一番高い場所である祭壇を離れ、雨が降るが如くその白い世界を等しく真っ赤に染め上げてゆく。しかし、その恩恵は一時のものである。すぐに白い世界よりも酷い世界がやってくる。まるで酸素に触れた血が黒く変色するように。 先に述べた通り『雪渡り』の世界の〈白〉は全てふたりの死を際だたせ、世界のその後を暗示する重要なバックグラウンドなのである。
 少々荒削りだが2000字程度ではこのくらいが限界である。雪渡り論は私の想像力の翼をより強固なものにしてくれた。また機会があれば、さらに掘り下げてゆきたいと思う。