「文芸特殊研究Ⅱ」は宮沢賢治の童話が題材(連載4)

雪渡り」を演じて

飯塚栞


 冷たい滑らかな青い石の板でできているらしい空の下で、真っ白でどこまでも続いていそうな凍った雪の上を四郎とかん子という幼い兄妹が歩いていきます。普通に読んでいる分にはただの可愛らしくて少し奇妙な物語。ですが読み込んだ裏の世界は恐ろしく不気味な物語。私はそんな「雪渡り」で妹のかん子の役を演じました。かん子はとても無邪気で明るい女の子です。仲の良い兄四郎の真似をしながら、楽しそうに凍った雪の上を森の方へと歩いていくその姿はとても可愛らしく、兄妹二人で仲良く歩いているという光景は平和的で微笑ましいものだと初めは思いました。ですがその光景も二人の状況によってこうも恐ろしいものへと変わってしまうのだと、知った瞬間ぞっとしました。おしゃべりな狐、童話の世界ではあまりにも自然に語られているために違和感を感じませんが、そこに違和感を感じるところからがスタートなのだと、当たり前を当たり前としないことが、宮沢賢治の巧妙な罠に引っかからずにその真理を読み解くための初めの一歩だと、この一年を通して学びました。
 四郎の四は死、かん子のかんは棺桶のかん、つまりこの二人は死んでいるのだ、と。初めそう聞いた時は何を無茶なとも思いました。ですがそうして疑って読んでいるうちに、私の中で平和的で微笑ましいと思っていた物語が、不気味でどこか切ない物語へと変貌していくのがわかりました。そこで疑問となったのが、この二人の無邪気さでした。何故この二人は死んでいるにも関わらず、こんなに無邪気でいられるのか。死んでいることを悟らせない程、あまりにも生き生きとしているのが不思議で仕方がありませんでした。そして何故四郎とかん子だけが幻燈会へ参加できるのか。十一歳以下しか参加することができないという謎の条件も、どうやら童話だから、という理由では済ませられないように思えてきました。ここで私は、この二人のお兄さん達が生きている、と捉えることにしました。おそらく、十一歳以下にしか入場券を与えられないというのは四郎とかん子を納得させる為の嘘なのでしょう。幼い子どもというものは、自分たちが得をする場合に限りその特別性というものに惹かれ、自慢げにそれを利用したがるように思います。「あなた方だけいらっしゃい。特別席をとって置きますから」と、子狐の紺三郎は二人を甘い罠で誘惑したのです。そして“死んだ者しか参加することができない幻燈会”に、四郎とかん子の二人は誘われたのではないでしょうか。そしてこの二人の無邪気さ。「お前たちは狐のところへ遊びに行くのかい。僕も行きたいな。」という兄に対し、自慢げに「大兄さん。だって、狐の幻燈会は十一歳までですよ、入場券に書いてあるんだもの。」と話し楽し気に出かけて行く姿を見る限り、この二人はきっと自分たちが死んでいることには気付いていないのではとも思いました。そして生きている大兄さん達は二人が死んでしまったことを悲しみ、僕らも一緒に、と。そうは読み取れないでしょうか。自分たちが死んでいることに気付いているか否か、それははっきりとはわかりませんでしたが、私には四郎とかん子の二人が最後まで子供らしい姿で無邪気にお別れを言ったように見えたのです。
 そこまで読み込んだ時に、ではかん子を演じるにおいて何を意識するのか考えました。死んでいる兄妹の妹かん子を演じるのか、はたまたただの無邪気な女の子かん子を演じるのか。私は、敢えて後者を選びました。それでは読み取った意味がないのでは、とも思いましたが、無邪気なかん子であるからこそ、この物語の深みがよく出ると思ったからです。本人達が死んだという自覚があるかどうかはわかりませんし、もしかしたら自覚があるからこそ、大兄さん達を連れていかなかったのかもしれない。けれどもしそうだったとしても、あくまでこの物語の中に存在しているかん子は、無邪気で明るい女の子であるからです。そして“死んでいる”という事実は、胸のうち、その奥深くへと閉まっておくことを選びました。幼くて可愛らしい兄妹が子狐紺三郎と楽し気に遊んでいるその姿こそが、不気味で恐ろしい世界への入口であると思うのです。入口がなければ先へ進むことはできません。美しく彩られた入口があるからこそ、その内側に潜む奇妙さが際立つのではないでしょうか。なので私は、かん子を演じる際はとても無邪気な幼い女の子を意識するよう努めました。その不思議な均衡があるからこそ、この不気味な世界観がさも当たり前のように存在できるのではないかと思います。そしてそれが、宮沢賢治が創りだす世界の魅力であり、罠なのでしょう。おそらくこの物語で一番の軸を担っているのは子狐紺三郎であると思いますが、かん子として、その奇妙な世界を創りだすお手伝いができていたら良かったなぁと思います。そしてこの奇妙だからこそ美しく醜い世界に、一人でも多くの人が気付いてくれることを願うと同時に、私自身もより深くまで読み込んでいきたいと思いました。