「文芸特殊研究Ⅱ」は宮沢賢治の童話が題材(連載5)

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日芸女子腕相撲大会(2)

雪渡り〜演技をしてみて〜

津野詠理 


演技といったら、まずみんなが上手い!そこにびっくりしましたが、やはり演技がちゃんとしていると内容から感じ取れるものも変わってくるのだなと思います。
 きつね先輩が演じた白狐が雪渡りの世界に合っているなと感じました。白狐は実は恐ろしい狐と先生から聞いて、私は白狐が昔話のやまんば的怖さを含んでいると想像していました。外面はいい狐。幼いながら物ごしが柔らかであり紳士的な一面を持ち、笑いのセンスも持ち合わせている。その証拠に出会ってまもなく四郎とかん子の警戒心をあっさりと解いてしまった。そんな仮面をかぶりながら実は何かを企んでいる狐。それがきつね先輩からも感じ取れました。
そこで、私は仮面をかぶっているのがこの白狐だけで、四郎とかん子が単純な子たちで騙されているだけなのかどうかという疑問が浮かんできました。それというのも、先生から四郎とかん子はすでに死んでいると聞いて、死んでいる人と現世で生きている人を同じに考えるのは少し違うのではないかと思ったからです。この雪渡りの世界が死で作られているのなら、それなりの理由があって当然。普通に四郎とかん子は仲のいい兄妹で、そこには裏も表もないという設定だったら、ここが死の世界である意味がない。それなら、現実では滅多にありえないこと、驚くようなことが隠されていてもおかしくないと考えた結果、四郎とかん子には裏の顔があるのではないかという疑問が出てきたのです。
しかし、授業が進み雪渡りを演じることになってからそれは違うかもしれないと思い始めました。四郎は白狐と出会ったシーンでかん子をうしろにかばったりしているところから、お兄ちゃんであることをかなり感じているように思います。それにくらべて妹であるかん子は自分は妹だということより、「お兄ちゃんがいる」ことの方が先にきている。はじめてのおつかいに出てくる兄妹みたいな子です。そんな子たちがあの年齢で白狐のように裏に何かを隠しているとしたらよっぽどの名役者です。裏があるとしてもお兄ちゃんである四郎だけであると思います。その場合、かん子は四郎のやっていることの意味まではわからず、普段のお兄ちゃん認識でこの雪渡りに登場していると思うので、四郎の裏の顔が相手に悟られにくくなる効果があります。そうしたら、かん子の知らぬところで作戦成功とニヤつく四郎は白狐よりも恐ろしい、最恐キャラです。
 では、石江くんとオッペル先輩が演じた四郎とかん子はどっちだったのか。石江くんの演じる四郎は白狐への警戒心が解けたかのように思えて、実は解けてないのではないかと思いました。それがただ単に最初の頃で慣れていなく、まだ四郎を幼く演じきれなかっただけなのか、それはわかりませんが、記憶に残っている石江くんの四郎はそういう感想でした。そして、オッペル先輩のかん子ははじめてのおつかいに出てくるまだ幼い妹そのものだと思いました。それか、四郎は企んでいるけれどもそれを知らずにありのままの感情を外に出している妹さん。そんな印象をオッペル先輩の演技から受けました。二人共何回かやっていくうちどんどん役にはまっていって、あれ、文芸だよね……?と思ってしまいました。
 一方、私が四郎を演じたときにはどういう気持ちでやっていたかというと、必死。演じることも必死なのはもちろんのこと、ころころ変わる展開の1つ1つに必死に食いつくイメージだったと思います。一生懸命とも言えるかもしれません。妹であるかん子を守る。白狐が言った人をだましてなんかいないという言葉に驚く。白狐やかん子と一緒に歌って踊る。そういったことに食らいついていく姿勢というのは何にでも興味があり、また妙な責任感を持つ姿は典型的なこのぐらいの歳の男の子だと思います。やっているときはそんなことも考えられず、やらなければ!という思いしかありませんでしたが、振り返るとこんな感想を持ちました。
なぜ自分はそんな四郎を演じたのか。自分が演じる前にすでに四郎とかん子は裏の顔なんか持っていないんだと感じていたのも影響しているかもしれませんが、やはり、やらなければ!という心情があんな四郎を生んだのだと思います。演じている人の心情がありのまま役に映し出される。そんな気がしました。
全体を通していうとするならば、ただ読むだけでは伝わらないことを学べた授業でした。最初は演じるの!?と思っていましたが、変わった授業があってなんぼですし、読んでは文章の意味を解読するだけの授業よりは絶対にその世界に入り込めると思いました。なにより楽しかったです。なら、また演じてみるかと言われたら曖昧な返事をすると思いますが。
さいごに、「甚兵衛さんならじゃうるりぢゃないや。」をなぜか「甚兵衛さんならありうるじゃないか」と読んでしまったことを猛烈に後悔するとともに、相当恥ずかしかったです。あれが記録に残るかと思うと、いますぐ毛布に包まりたい気分です。