清水正・ドストエフスキーゼミ課題レポート

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清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は第七回課題「スヴィドリガイロフへの手紙」の追加レポートを掲載します。タイトルは本人が付けています。

スヴィドリガイロフへの手紙

 ここにも
 笛木 真由

スヴィドリガイロフさま
  お元気でしょうか?引き金を引いてしまわれた今、元気もなにもないとは思いますが、いかがでしょう、そちらは。
 さて、…あなたの女好きさには参りました。16歳の小娘にまで手をだすとは。さぞ可愛かったでしょう。目の中に入れましたか?痛くなかったでしょうね!と、前置きはこの辺にして。まあ、男性が生きていくうえで、女性は必要不可欠なもので、逆もまた然りですから、気持ちはわからないでもないです。
 聞き捨てならないのが、『女心を征服する絶対確実な奥の手(略)例外なくすべての女性に効験あらたかなやつ(略)お世辞というやつですよ。』です。なにを50歳かそこらの抜け殻みたいな野郎がしゃあしゃあとおっしゃいますか!女を甘く見すぎだと思います。揺らがないとは言い切れませんが、お世辞ごときで女を征服できるとお思いなのであれば、驚きです。「女心とか意味わからない複雑」というのは男の人の恋愛時における常套句ではありませんか?私だって自分の心模様に皆目見当もつかず、ときどき暗中模索状態になるのに、お世辞ごときですべての女性の心をつかめるとお思いでいらっしゃる。 …幸せそうで何よりです。きっと今までたいしたことない女性に惹かれ続けてきたんでしょうね。どいつもこいつもビッチ。もしくは、策士。この策士というのはアヴドーチヤ・ロマーノヴナさんのことです。
 アヴドーチヤさんには、完全に踊らされていたと思いますよ!彼女はきっと大女優。スヴィドリガイロフさん結構彼女に溺れていたから… 美しかったでしょうね。彼女の涙が真珠に見えたことでしょう。けれど、彼女、あなたがどんどん自分に傾いていくのを見て腹の中では嫌悪感を抱いて、罵倒して、優越感に浸っていたかもしれませんよ。こう言うのもかわいそうだと思うんですが、アヴドーチヤさんが本当にあなたのことを好きだったのなら、多少の奇怪な行動に怖がったりしなかったと思うんですね。私は。あの拳銃は、最大限表せる愛の形がもう見つからなかったから向けられたものでなく、恐怖心からくるあなたを排除しなければ、という思いで向けられたものですよ。あのシーンは冷や冷やしました。というか、スヴィドリガイロフさんが怖かったです。変態!
 そうは思っても、アヴドーチヤさんの『いつまでも愛せない』には私もすこし悲しい気持ちになりました。アヴドーチヤさんに溺れていたのは見え見えでしたから、そんな彼女にほんの少しの希望すら与えてもらえなかったんですものね。かわいそうでした。苦しい気持ちでした。
 『スヴィドリガイロフは引き金を引いた。』私まで射抜かれた気持ちになりましたが、同時に、少しだけ、美しさを感じてしまいました。行き過ぎた愛情をここにも感じました。


 寂しさは兎を殺すのか

 林 英利奈

 愛は真心、恋は下心。そうであるならば、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフのドーネチカへの想いは、愛だったのでしょうか、恋だったのでしょうか。
 あなたは、どうしてかドーネチカに心奪われた。それは、伝道する彼女に、愛の形を見たと思ったかもしれない。
 けれど、彼女はそれほどまでに強い人だったのでしょうか。あなたは本当は、彼女の何にひかれ、彼女に何を見たのでしょうか。
 無償の愛でしょうか、献身でしょうか。それが、あなた自身のなにかを埋めてくれると信じたのでしょうか。
 それが幻想だと気付いたから、あなたは死を選んだのでしょうか。
 ドーネチカはあなたを諭し、導こうとした。少なくとも最初は。けれど、あなたはそれを愛だと思った。愛によって空っぽな自分は救われるのだと思ったのでしょうか。空っぽな自分は寂しい。ただの男女のふれあいだけで得られないものを、ドーネチカの瞳に見透かしたのでしょうか。そうであると、勘違いしたのでしょうか。
 愛は人を、本当に救うのでしょうか。
 そうだとあなたは、信じたのでしょうか。
 救われなかったから、死を選んだのでしょうか。
 どんな形であってもあなたを愛していた妻や、子供を見捨てても、あなたはドーネチカと共に居たかったのでしょうか。どんなかたちであっても、引き留めたかった。あらゆる手段を用いても。暴力、金銭、身内を人質に取る……けれどそれは、けして心をつなぎとめられ得る行為ではなかった。
 私にはわからない。愛は執着であり、憎しみをも生むものであるならば、そうであるとするならば、愛は本当に、人を救うのでしょうか。
 あなたを殺したのは、愛だったのでしょうか。私にはそう思えない。あなたを殺したのは、ドーネチカを得られなかった、その寂しさであるのだと、私は考える。
 あなたのドーネチカへの想いは、どろどろとした執着でもあり、縋りつくような懇願でもあった。あなたは何もかもを捨てていいと思っているのに、それに応えてもらえなかった。自分が抱いている感情を、あちらには持ってもらえなかった。
 それは紛れもない、寂しさだった。思いあわなければ、しんでしまう生き物のように。
 心をもらえる手段を、あなたは持っていなかった。それは、高潔な彼女とわが身を比べ、あまりに低俗だとでも、思ったのでしょうか。
 愛していると、あなたは思い、愛されたいと彼女を想う。けれど、それはドーネチカには抱かれなかった。愛されるより愛したいという言葉があるけれど、愛しているから愛されたかったのが、あなたなのでしょう。
 それでも、最初から、最後まで、あなたは真に彼女の心を手に入れられる行動をとらなかった。あなたにとっては献身でも、ドーネチカにとってはそうでなかった。
 一方的な愛の発露を恋とするならば、あなたの彼女への想いは、恋でしかなかった。下心でしかなかった。悲しいくらいに。
 それがどうしようもない寂しさしか残らない、あなたの愛の結実だった。
 それでも、それがあなたの、愛だった。
 恋は下心。けれど、戀は、いとしいいとしいというこころ。あなたの恋は確かに、いとしいとしいと、叫んでいたのでしょうか。
 寂しさは、あなたを殺した。
 人を助けるということにすら意味を見いだせなくなってしまったら、おしまいだった。
 空っぽな自分に気づいてしまったのは、その時なのでしょうか。
 人は愛によって救われないということを、ただ寂しさだけが人を殺すということを、あなたという死は、語っているのでしょうか。あるいは、騙っているのでしょうか。


 スヴィドリガイロフの死後、関係をもった女の一人であるアナスタシアが彼に送った手紙

 中村 光 

 拝啓、スヴィドリガイロフ様。めっぽう暑い盛りではないけれど、梅雨の蒸し暑さが体にこたえる今日この頃。お元気ですか?と何度お手紙を出したことか。それでもあなたからの便り一つ届かず、心を痛めておりました。私は心配で夜も眠れぬ日々を過ごし、持病の心臓病が悪化しペテルブルグの名の知れた医者のところへ今でも通っております。ところが先日その医者から求婚されたのです。いえ、チューリップの球根を下さったのではありません。求婚されたのです!
 しかし私は、あの時あなたが言った言葉を信じて待ち続けました。そうです。私とあなたが最後に寝たあの夜に、あなたが言ってくれた言葉です。妻と別れて私と結婚するという、あなたの宣言を信じてずっと待っておりましたが、その約束ももうはたされることはないのですね。それもそのはず、あなたはもうこの世にはいないのですから!!
 ところで、いったい、あの小娘アヴドーチャとかいうあの小娘はいったいぜんたい誰なのですか?ドミニーカ(学生時代苦楽を共にし、一級建築士のレオニードと婚約したにもかかわらず、その婚約を破棄した私の親友ドミニーカ・リボーヴッチ・カラシニコフですよ!覚えていらっしゃいますか?)から大体の話は聞きました。どうやら、家庭教師としてあの小娘を屋敷に招き入れたのが事の発端のようですね。そもそも、あなたに子供までいたとは知りませんでした。というのも、あなたは私の前で一度も子供の話なんてしたことはなかったし、写真一枚持っていたことさえなかったではありませんか。私はあなたに子供がいると知っていたら、あなたとこんな関係になるのも少し考えなおしていたはずです。それはともかく、あのアヴドーチャとかいう小娘をなぜまねきいれたのですか。私が奥様のことを心配するのは癪だけれど、奥様はそれをお許しになったのですか?つまり、その、いいえ、この際はっきりさせましょう。(あなたはもうこの世にはいないけれど!)あなたはあの小娘と肉体関係があったのですか?どうなんですか?どうぞ、なかったとお答えください。私はその一言が聞ければそれで十分なのですから。あなたは私と結婚する約束をしたはずではありませんか。しかも奥様と別れたという、あなたからの最後の手紙を信じて私は例のペテルブルグの医者の求婚をお断りしたのに!なぜアヴドーチャでなくてはならなかったのです?そもそも好色で経験豊富なあなたがなぜ!こちらもこちらでアヴドーチャのことを調べてみたら、どうやら彼女はルージンとかいう弁護士と結婚するつもりだったそうではありませんか。それも家族のために犠牲になるつもりで!どこの馬の骨だかもわからないような小娘のどこが良かったのです?!噂ではあなたが奥様を殺したそうではありませんか!人を殺してまで好きだったアヴドーチャとはどんな女なのです?!私はまさかあなたが他の女を選ぶなんて想像もしていなかった。しかも多種多様な女を経験してきたあなたが一人の小娘に落ち着くなんて!何か弱みでも握られていたのではないのかと思っておりました。とにかく、あなたは私と結婚していればこんなことにならなくてすんだのです!怨むなら自分を怨むのですね。