清水・ドストエフスキーゼミ 第四回課題「プリヘーリヤの手紙」を読んで

清水・ドストエフスキーゼミ 第四回課題「プリヘーリヤの手紙」を読んで


冬室 祐人
 ラスコーリニコフの母のプリヘーリヤの手紙はまずその長さには驚き、そしてまだまだ物語の序盤であるであることを忘れさせ、読者を挫折させる気がした。手紙なのになぜ約20ページにもわたる長編なのだろう。もし私の母からこんなにも長い手紙がきたら、たぶん途中で読むのをやめて電話する(もちろん、なんでこんなに長い手紙をよこしたのだと文句を言うため)と思う。いくら息子が心配でもこの手紙の量は尋常じゃないと思う。しかもプリヘーリヤの手紙はずっしりと重たく、サイズが大判の便箋2枚の25グラムであると書いてあるからどんな手紙なのだろうかと思う。さらに「大判2枚の便箋にはこまごまとした字で埋められている」と書かれているのを見てもう唖然とした。このプリヘーリヤという母親はそこまでして息子のラスコーニコフに伝えたいことがあったのだろうこの手紙について思うことを述べていく。
 最初にこの手紙からは息子に対する母親の想いがとても深く伝わってくるものだった。例えば、はじめの一文「なつかしい私のロージャ」。この一文からでも息子に対する異常なまでの愛情が伝わってくる。「私のロージャ」といって、もうラスコーリニコフをまるで自分の所有物かのようにほのめかしている。これは母親だから仕方ないのかと思ったが、しかしほかにも「私がおまえを愛しているのかはご存知のとおりです」や手紙の最後の「固くおまえを抱きしめ、数えきれぬくらいの接吻をします」などの台詞がある。これらの文からはプリヘーリヤが、本当にラスコーニコフを異常なまでに愛しているのがひしひしと伝わってきた。
 けれど、どうしてもいけすかなかったのは「私たちの希望と望みの星」と書いてあるところだ。この台詞からはラスコーリニコフの現状や彼の家庭環境から察して、彼を立派で優秀な人間に育て上げようとしているのかもしれない。それはまるで無理やり自分の子供を塾に押し込んで、勉強させる教育ママみたいな感じであった。
 次に先にも述べた教育に関して感じたことがあった。それは、教育費についてだ。この母親は夫がなくなってからは必死に息子の教育のために身を粉にして、懸命に働いてきたのであろう。しかしそのわりには息子にその教育費のことについて述べてしまうのはなぜだろう。普通の家庭なら子供にお金に関することは言わないであろう。しかも人から借金したことを子供に言うのはとても恥ずかしいことだと思う。なぜプリヘーリヤはそんなことを息子への手紙で述べてしまったのであろうか。
 それはおそろく息子と娘への罪悪感があるからだと思う。手紙には娘のドゥーネチカに対して「あの子は天使です」と書いてある。ドゥーネチカがプロポーズしてきた7等官のルージンと結婚すれば生活は今よりはるかに楽になり、息子の教育費も出せるようになるだろう。しかしそれと同時にラスコーニコフが思っていたドゥーネチカには自分の想い人と添い遂げてほしいという願いが泡と消えてしまう。たぶんプリヘーリヤはそのことを知っていたはずだ。それを奪ってしまったと感じたのかもしれない。結局はこれでラスコーニコフは大変苦しむのだが。
 またプリヘーリヤは感情をあまりうまくコントロールできず、すぐに思ったことを口に出すし表に出してしまう人間なのだろう。これは手紙全体から感じ取れた。そのため手紙で息子に金策について書いてしまったのかもしれない。それに手紙には自分の考えや思ったことを、自分の身の回りの出来事に対して述べていた。急に話題を変えるところなど見ると彼女の感情があっちこっちむいてることがわかる。この手紙からはプリヘーリヤの感情の上がり下がりが激しいのが伝わってくる。
 そしてプリヘーリヤが熱心なクリスチャンなのがよくわかる。手紙にはたびたび「教会」や「神」、「信仰」などといったキリスト教の言葉が出てくる。またドゥーネチカのことも「天使」などというくらいなのだから(しかも天使とは精霊を意味するから)相当熱心な信者のはずだ。ラスコーリニコフにも「最近流行の不信心に取りつかれているのではないか」などを手紙で述べて心配していた。
 最後にプリヘーリヤは心のそこからラスコーリニコフドゥーネチカを愛し、子供たちの幸せを、娘の結婚を祝いそして息子の幸せを祈っている。これだけならばとてもすばらしい母親と思えてしまうが、やはり手紙の内容を思い出すとあまりよく思えなくなってくる。それに夫と早くに死別してしまったからなのか、とても強い信仰心が読み取れた。もともと日本と違いそういう国だからなのかもしれないが少し怖いと感じるところもあった。私は6年間、教派は違えどキリスト教学校で学んだが歴史としておもしろいと思うことはあったけれど入信したいと思ったことはなかった。もし自分の母親がこんな母親だったらと思うとぞっとする


愛の軽重
加藤芙奈

 ラスコーリニコフの母、プリヘーリヤは作中、息子宛てに手紙を書いた。四百字詰原稿用紙にして三十枚ほどの量になる長い長い手紙である。
 その文中、彼女はこう記した。
『お前はうちの一人息子、私とドゥーニャにとってのすべて、私たちの希望の星なのですから』
 と。これは手紙の冒頭部の言葉である。
とんでもない開幕パンチだ。私はそう思わずにはいられなかった。
これは時代や国を跨いだが故の感覚なのだろう。しかし、私は現在の感覚を有した人間だ。なので、この現在の感覚からプリヘーリヤの愛の重さについて語ろうと思う。
まず、手紙の量の多さから私は彼女の重すぎる愛を感じた。いや、重いという表現ではそれが良くないもののようだがそういうわけではない。ただ、溢れんばかり――むしろ溢れかえった――その愛情という感情が現実の姿を得たならとてつもない重量だろうと思う。そのことの良し悪しを決めるのは私のような第三者ではなく、ラスコーリニコフのようなその受け取り手だ。
狭く、埃っぽく、息の詰まるような、天井の低い屋根裏部屋。そんな場所でこの手紙を読んだ彼は何を思ったのだろう。
裏のない愛情に追い詰められ、血縁という目に見えない繋がりに囚われ、無垢な思いやりに呼吸を塞がれ、彼は“母の愛”という屋根裏部屋のような、またはそれよりも窮屈な庵にとらわれたのではないだろうか。
次に、プリヘーリヤの愛情についてである。
無償の愛情。人間はこれが恐ろしいと感じるはずだ。何故なら、因果関係が成立しないからだ。何故、愛情が向けられるのか。それを受け取るのか。その理由がぼんやりとあやふやどころか、そんなもの必要ないとばかりに向けられる愛情は恐ろしい。人間は疑り深く、利己的な生き物なのでどうしてもその裏を読もうとしてしまうからだ。
家族間に至ってもそれは同じことである。「家族だから」の一言で済ませてしまえれば大いに気が楽になるのだが、先にも述べたとおり、人間は疑り深く、利己的だ。
「あの優しさの裏にはこんな思惑があるに違いない」
「あの愛情は本当に私のためだろうか。私など関係のない別の理由があるのではないだろうか」
 と考えてしまう。親子であっても、その愛情は世間体的な責任であったり、自分の賞賛のためなどではないかと邪推するのだ。
 まあ、これは私個人の捻くれた持論なのだが。
 だが、その持論が通用しないほどプリヘーリヤの愛情は無垢なように私には見えた。何故だろうか。彼女は厚かましく、押しつけがましいほどに息子に熱心だったからだろうか。
“あの”ラスコーリニコフに対し、あんなにも必死だったからだろうか。
 しかし、それがどんなに無垢な、無償の愛情だったとしても。むしろ、そうであればあるほどそれは息子を苦しめる重石となっただろう。
 彼女は全てを捧げた。娘ですらも。
娘の結婚は彼女の意思だというがおよそそうとは思えない。これはラスコーリニコフが思う通り、妹の自己犠牲だ。
ともかく、その全身全霊、渾身の愛情はやはり重い。もし、私がその息子なら精神的な窒息死を起こすだろう。自分の現状、自分を取り巻く環境がその愛情を受けるに値しないと思えてしまう。しかし、拒絶も出来ず、ただ受け取るしかないそれは彼を押しつぶすだろう。やはり、その愛情は重い。
私は今まで散々、プリヘーリヤの愛情を重い重いと評価してきたが、それを批判しているわけではない。むしろ、現実ではありえない。小説の中でこそ見られるある一種の理想の母親像であるプリヘーリヤに憧憬に似た何かを感じている。
どこか偏った、偏見的なものの見方かも知れないが、私は今日この頃の――親愛を含む――愛情というものが軽く思えてしまう。
打算を含んだ「愛情」。突けば簡単に破れる薄っぺらいもの。
口先ばかりの「親友」。内容の伴わない薄っぺらい関係。
 これは私個人の経験則に則った価値観だが、そう思う私にとってプリヘーリヤの手紙は芳醇な愛情の香りに満ちた眩しいものだった。
 今、会うことができない分。語り合うことができない分を文章に起こして伝える。その内容が多ければ多いほど遠くにいるその人物が掛け替えのない大切な人なのだと分かる。
 それは通信手段に恵まれすぎた現代の私たちには難しい愛情表現だ。故に、現代を生きる私は重いと感じたのだろう。


藤野 絵里香
ラスコーリニコフの母からの手紙を読んで、私がまず最初に感じたことは母親や妹のラスコーリニコフに対する愛情の深さだ。自分の息子が遠い場所で自分の知らないことをしていると知ったら、私だったら心配でならないだろう。手紙にするよりもまず、自分の息子のもとへ駆け出してしまうと思う。そこをラスコーリニコフの母は長々と手紙にしているところにまた普通の家族とは違った愛情の深さを感じた。そして何と言っても、「いとしいロージャ」と繰り返しているところに一番大きな愛を感じた。途中で何度か表現は変わっているものの、ラスコーリニコフのことをいかに愛しているかが文面に露骨に表れていた。
そしてここでもう一つ触れておきたいのは、妹ドゥーニャのことについてである。母の手紙にはラスコーリニコフが故郷を離れている間にドゥーニャの身の回りで起こった出来事について書かれている。ここからドゥーニャの心の広さと温かさ、そして大きな優しさを私は感じ取った。スヴィドリガイロフがドゥーニャにしつこく言い寄ったり、酷い仕打ちをたくさんしたのにも関わらず、最後の最後まで丁寧に対処していてなんだか胸がとても痛くなった。スヴィドリガイロフの奥さんであるマルファ・ペトローヴナは実に単純な考えを持った女で、自分の夫とドゥーニャが密会している場面を見ただけで勝手にドゥーニャのせいにしたりなんでもかんでも周りの人間に言いふらしている様は実に滑稽だ。後に町中の人間に謝ってドゥーニャの無実を証明出来たからいいものの、私だったら町中のみんなに白い目で見られて忌み嫌われていた期間のことを考えると、簡単にマルファ・ペトローヴナのことは許せないだろう。夫も多くの点で「哀れな男」だった。もう彼らのことには言及する気にもならないが、マルファ・ペトローヴナ夫妻が実に軽率で哀れな夫婦で、それとは対照的にドゥーニャが優しく心の広い持ち主だということは大いに伺えた。
母からの手紙と聞いて自分の立場で思い付くことは、母の母、つまり祖母から自分の母親に宛てた手紙を読んだときのことである。祖母と母は現在離れ離れに暮らしているのだが、たまに母と一緒に祖母の家を訪れると、祖母の口数は知らずのうちに増えているように感じる。やはり実の娘であり、離れ離れに暮らしていることもあって、話すことがたくさんあるのだろう。そしてそんな祖母と話すときの母の顔は、必ずいい顔をしている。それは実に微笑ましい光景だった。そんな祖母が母が結婚して相手側の家に嫁ぐことになったときに母宛てに書いた手紙があった。それを見つけたのは、ちょうど反抗期真っ盛りの中学生のときだった。普段あんなに饒舌である祖母が手紙の中だとやけに小さく見えた。そこには不器用な人間が必死になって言葉を覚え、その覚えたての言葉で手紙を書いている様があった。でもそこには喋る時と変わらない母独特の温かさがあって、愛があった。それを見た当時の私は下手くそな文章に苦笑したが確かな愛に感動していた。そして今までの態度を一新するために自分の中に隠れていた(無意識のうちに隠していた)母への愛を表現するようになった。それと同時に母の自分に対する愛が、離れていた時より感じれるようになったことが本当に嬉しかった。今でも祖母はたまに母宛てに手紙を寄こしてくる。それは大げさに言えば、私より何倍も未熟な文章だった。でもそこに確かに存在する愛が感じたくて、知りたくて、たまに宛先人である母親より先に読んでいることもあるくらい価値のあるものだと私は感じている。そんなエピソードを思い出すほどラスコーリニコフの母の手紙は息子や娘に対する愛情が露骨に表れていて、読んでいてとても気持ちのいい文章だった。中でも私が一番気に入った表現は、「ロージャ、おまえは私たちにとってすべてです。私たちの希望と望みの星です。おまえさえ幸福になってくれれば、私たちも幸福なのです。」である。ここに最も、母と妹ドゥーニャのラスコーリニコフに対する愛が表れていると思う。そしてここにどれだけラスコーリニコフの行動が彼女たちに期待されているかが分かる。これを見てラスコーリニコフが喜びに一変して、苦しみを覚えていることを考えると、母と妹ドゥーニャの愛の深さがラスコーリニコフにとってかなりの重圧であることが考えられる。そのためこの手紙の部分はお話の展開的にも重要ではあるが、ラスコーリニコフ自身にとっても重要な手紙なのではないかと私は考えている。



中西 強
この手紙は、母プリヘーリヤが息子ラスコーリニコフへ宛てたものです。手紙には、主に自分と娘のアヴドーチャの近況を記しています。この手紙には、母と息子と娘が強い絆で結ばれ、互いを支えようとするプリヘーリヤの意志が現れていると思います。ラスコーリニコフは、大学へ通う際、家を離れ、今の土地に住んでいると思われます。そして、娘のアヴドーチャが結婚し、再び家族一緒に暮らせるようになるかもしれないと嬉々して語りだします。それまでには、長い道のりがあり、それを説明しながら結婚する予定の男ルージンの話が出てきます。
ラスコーリニコフはこの結婚に反対しますが、これで家族の意見は割れてしまいます。
プリへーリヤとアヴドーチャは藁にも縋る思いでルージンとの結婚にたどり着きましたが、ラスコーリニコフはルージンの財産目当てで無理に結婚しようとしていると考えています。だからこそ、結婚を阻止しようと必死ですが、私には彼の家族への愛が伝わってきます。
そして、プリへーリヤの手紙ではルージンは「最新世代」の思想について理解のある人だと言っています。丁度、千九百八十年代なので、この「最新世代」とは簡単にペレストロイカの事だと判断できます。ペレストロイカは当時旧ソ連以外では高く評価された政策でした。なので、私はこのルージンという人は国際的に活躍をし、ソ連人的な考えをしない人間なのではと考えました。この人はペレストロイカによってソ連が崩壊しても、十分にやっていける人だと考えました。
そして、個人的に面白そうだと思うのは、アヴドーチャがルージンと結婚するかもしれないという事は、現在ラスコーリニコフは彼と家族に近いポジションに居るわけです。それによって、小説内でルージンは否が応にも登場せざるを得ません。この小説の冒頭で、ラスコーリニコフはプラスコーヴィヤを殺害するという計画を立てていました。これが、この小説の一つ目の課題だとするならば、ルージンとアヴドーチャの結婚を阻止するのは二つ目の課題でしょう。ですので、これから如何にラスコーリニコフがルージンの結婚を阻止するのかが楽しみであります。何故なら、彼曰く、アヴドーチャは他人のためなら簡単に自分の身を売る人間だそうです。ラスコーリニコフも妹と同じタイプの人間だとしたら、彼は妹のためにどのような手を使うのでしょうか。再び殺人を実行するのか、それとも頭脳的な方法で切り抜けるのか。私はそれが気になって仕方ありません。
 


小林一歩
送る相手が誰であれ、約二十ページにも及ぶ長い手紙を書く、というのはそう容易にできることではない。私はプリヘーリアから何か揺るぎない信念のようなものを感じた。もしかするとそれは私がメールも電話もない時代を経験したことがないからこそ思うことなのかもしれないが、しかし、例え量の問題を差し引いて考えてみたとしても、プリヘーリヤの子供たちに対する気持ちの重さは充分に伝わってくる。ラスコーリニコフは「希望と望みの星」であり、ドゥーネチカは「天使」。そう簡単に出てくる言葉だとは思えない。次々と飛び出てくる愛の言葉を目にしているうちに、私はだんだんプリヘーリヤに対して違和感を覚えはじめた。私が元々持っていた母親像と、プリヘーリヤの母親としての在り方との間には大きな齟齬がある。母親というのはもっと子をぞんざいに扱うものなのではないだろうか、と疑問に思ったのだ。試しに実の親が私に向かって「天使」と言っているのを想像してみたところ、つい背筋が凍った。はっきりいって不気味だ。例え褒めるにしてもそこまで持ち上
げることはそうそうない。盲目的ともいえる愛を振りまくプリヘーリヤや、振りまかれているラスコーリニコフ達を羨ましく思う気持ちがないわけでもないが、その一言だけでは済まない妙な居心地の悪さがある。
この一家に対する謎はまだある。それはドゥーネチカの扱いだ。手紙を読んでいると、どうもプリヘーリヤの愛情がドゥーネチカよりもラスコーリニコフの方に傾いている気がするのだ。もしプリヘーリヤがラスコーリニコフドゥーネチカを同じだけ愛しているのだとしたら、あんな政略結婚のような真似はさせないのではないかと思った。兄のため金のために好きでもない相手と結婚することをすっかり受け入れてしまっている様子のドゥーネチカに対してもハテナマークが飛ぶ。
ドゥーネチカは兄に嫉妬しないのだろうか。母が自分のことを犠牲にしてまで兄の生活をどうにかしようと考えているのだと知ったとき、私だったらきっとやきもちを妬いてしてしまうな、と思った。ルージンと結婚をしたいか否かという問題ではない。重要なのは母親の気持ちだ。親に優劣をつけられたくないと感じるのは子供として当然のことだと思う。しかし前途の通り、どうもドゥーネチカからはそういった嫉妬の気が見られない。どう見ても自分よりラスコーリニコフのことを優先している。そのことを改めて考えてみたとき、私は妙に納得した気になった。確かにドゥーネチカは「天使」だ。兄のためにそこまでいい子になれる妹は希少な存在だと思う。そしてだからこそ違和感がある。
プリヘーリヤからお手紙を読んでわかったことは、ラスコーリニコフが如何に家族から愛されているかということだ。しかし本当にそれだけのことなのだろうか。疑問は尽きない。

加藤佳子

初めて彼女の手紙を読んだ時は、なんとも言えぬ奇妙な嘔吐感と、底知れぬ昂揚感に襲われた。恐怖、不安、憤り、好奇心、興味、あらゆる感情が混ざり合いまるで渦のようにぐるぐると胸の内をかき乱す。この感情の名前を私はまだ知らない。
プリヘーリヤ、つまりは母親から手紙が来た時、私は母親からの手紙と言うことで微笑ましい気持ちで一杯だった。家族離れしていない私は、家族と離れて暮らすラスコーリニコフが母親から手紙が来たのなら嬉しいはずだと思い、いったいどんなことが書かれているのかわくわくしながら文字に目を走らせた。しかし次の瞬間目に入ってきたのは、手紙を喜ぶラスコーリニコフの姿ではなく、顔を青ざめさせ、寧ろ手紙が来たことを歓迎していない彼の姿で、どうしてなんだろうと頭の中は疑問で一杯になった。
初めの数行だけ読んでみると、プリヘーリヤの手紙の内容は子を案じる母親の心情が書いてあり、ラスコーリニコフは母親に大切に育てられてきたのだなとだけ思った。しかしその考えは儚くも数分後には消失していった。
どこから違和感があったのかは分からない。ただ漠然と思ったのは、プリヘーリヤは自身の考えをラスコーリニコフに押し付けているのではないかということ。愛する息子の幸せを願っている。その息子の幸せはこうである。だから自分は息子の幸せの為にこうするのだ、ということが書き綴られているなとしか見えなかった。
手紙の内容の大半はドゥーネチカの身に起きた出来事がつらつらと綴られている。その中で私が気になったのは「順序立てて書くことにしましょう」という文。つまり全てが事後報告という形でラスコーリニコフに事柄を伝えたことだ。ドゥーネチカがスヴィドリガイロフの家から酷い仕打ちを受けていたこと、その経過に起こった出来事も、ルージンから結婚を申し込まれたことも、全てがもう結果のもので。確かに携帯が普及している今の時代と比べそう幾度も手紙を出せる状況ではないだろ。手紙を出す時にかかるお金も、現代で生きている私達にとって切手代にケチ付ける人はあまりいないだろう。しかしラスコーリニコフ達が生きている時代ではお金の価値観が違う。だからそうそう手紙を出せない のは仕方がないのかもしれない。しかし流石にこれは酷いのでは、と思ってしまう。プリヘーリヤは1から10までの出来事を全て一通の手紙に収めてしまっている。もし私がラスコーリニコフの立場であったら、まずこの手紙を読んだら大いに混乱するだろう。大切な妹(ドゥーネチカ)が辱めを受けていることだけでも衝撃的なのに、更にはドゥーネチカを卑下する発言をした当本人のルージンからの求婚を受けるのだという。まず開いた口が塞がらない。「相談もせずに運んでしまいましたが……」とあるが、普通そこはもっと前もって知らせるだろうとプリヘーリヤに言いたい。あれだけ天使のように、など絶賛し大切にしている娘の結婚なのに。しかもルージンの発言を知っているというのに。ドゥーネチ カがどういう決意を持って結婚に臨もうとしているのか、プリヘーリヤ、貴女は真剣に考えたのだろうか?そもそも相手を卑下する言葉をはいた人をどうして「たいそう立派な方にちがいありません」などと言えるのか。私はプリヘーリヤという人はかなり浅はかな性格をしているのではないかと思う。
更に問題なのは、これらの出来事をプリヘーリヤの手紙でラスコーリニコフが知った時には、既にそれは過去のものとなってしまっていることだ。ラスコーリニコフがこの手紙を読んでドゥーネチカとルージンの結婚を賛成するか反対するか、そのどちらの考えを持ったとしても現状は既に手紙に書かれていることよりも進んでいる。現にルージンは結婚の準備を進め、プリヘーリヤとドゥーネチカラスコーリニコフに再開するための準備を着々と行っていた。これはあまりにも卑怯なのではないかと思った。これではまるでラスコーリニコフが起こせる行動を制限しているようにしか私には思えてならない。もし、途中経過の時点でラスコーリニコフが知れたら、物語はまた違った展開になっていたかもし れない。プリヘーリヤがラスコーリニコフの幸せを願っていることは分かっている。だがしかし、ラスコーリニコフの心情を聞いても良かったではないか。ドゥーネチカが結婚を申し込まれた時、おまえはどう考える?とそこでラスコーリニコフに手紙を出しても良かったではないか。そもそもドゥーネチカの犠牲のもとで成り立つ幸せを、ラスコーリニコフが喜んで受け取るわけがないだろう。悶々とプリヘーリヤに対する意見が頭の中を駆け巡っている。
結局のところ、このプリヘーリヤの手紙はラスコーリニコフにとっては悩みの種を増やすだけのものとなってしまった。しかしこの手紙を書いている時点でのプリヘーリヤはおそらくそのようなことは想像していなかっただろう。これがラスコーリニコフドゥーネチカ、そして自分の、家族の幸せになると信じ込んでいる。だからこそ、ラスコーリニコフに手紙を出せたのだ。なんという擦れ違いなのだろうか。下手したら家族崩壊に繋がる恐れだってある。しかし、これほどまでに家族に対して深い愛情を注ぐプリヘーリヤを嫌いになれない自分がいるのもまた事実なのだ。

川上真紀
プリヘーリヤの手紙には、主にドゥーニャの近況について書かれているが、その中でも絶えずロジオンを案じる母の限りない愛情も読み取れる。それは文字数の多さにも表れている。携帯電話のメール機能が普及している今、手紙を書くことなどほとんどないが、私が手紙を書く時は、便箋1、2枚で済ませていた。しかし、プリヘーリヤの手紙は、それを遥かに超えている。そこに潜む愛情が私には少し重く感じられた。人間は、褒められればうれしいと感じるし、期待されれば誇らしく思い、もっと頑張ろうと思う人が多いと私は考えている。しかし、あまりにもそれが多いと却って重荷になるのではないだろうか。そして、ロジオンは、感受性が強いように描かれているので余計に期待が重く感じられたのではないかと私は考えている。
プリヘーリヤは、手紙の中でドゥーニャに降り掛かった苦難と、それを乗り越えた経緯について述べている。マルファ・ペトローヴナがドゥーニャにかけた 疑いは、簡単に言うとスヴィドリガイロフのせいであり、ドゥーニャに責任は全くなかった。しかし、誤解により、マルファ・ペトローヴナがドゥーニャをぶったということに私は少し衝撃を受けた。現在でも、このような修羅場は多くあるだろうが、誤解なのに殴られたときのドゥーニャの心情を考えると、やりきれないような思いを感じた。
また、プリヘーリヤは手紙の中でルージンについても述べている。手紙では、概ね好意的な見方をしているが、「誠実な、けれど持参金のない娘を、それも、ぜひとも貧しい生活を経験したことのある娘をもらいたいと思っていた。」というルージンの言葉に私は違和感を覚えた。何故、貧しい女性でなければならないのか。
私は、この言葉にルージンの本心が出ていると感じた。ルージンは、夫が妻に負い目を感ずるようなことがあってはならないし、それよりは、妻が夫を自分の恩人と見ているほうがずっとよいというようにプリヘーリヤに述べた。これは、自分の奴隷のような女が欲しいとも解釈できる。ここまで読むと、ルージンへの印象はとても悪く、嫌な人としか思えなくなった。ドゥーニャはルージンの言葉を気にしてないように手紙では書かれていた。もし、何も気にしていないとしても、私はドゥーニャが本当にルージンと結婚したいと思っているようにはみえない。私は、この手紙とドゥーニャの人柄から判断してお金のために仕方なく結婚しようとしているのではないかと考えている。ドゥーニャは賢く、家族を想って行動する優しい娘だ。ルージンと結婚すれば、お金の心配をする必要がなくなり、家族も安心するとドゥーニャが考えても不思議でない。そうすると、ルージンが親切らしいというドゥーニャの言葉が理解できるような気がする。これは、本心ではルージンのことを想っているわけではないということの表れではないのか。そして、ロジオンもそのような妹の結婚話に対して憤りを感じるであろうことは想像に難くない。手紙の中で繰り返し語られる家の苦境に苛まれていた心がこの結婚話で打ちのめされたのではないだろうか。
ロジオンは家の経済状態が良くなるからといって、妹が望まぬ結婚をすることを素直に喜べるような人間ではない。そして、それは娘を愛しているプリヘーリヤにも言えることではないのだろうか。プリヘーリヤは、ルージンとドゥーニャの結婚をただ単に祝福しているのか、それとも不安に思い、ロジオンへ自分の複雑な気持ちを伝えているのか、私には良くわからない。ただ、一つだけ確かなことは、プリヘーリヤがロジオンにもドゥーニャにも深い愛情を持っているということである。



山本真衣  
主人公ロージャが受け取った母からの手紙は妹の結婚を知らせるものであった。文面から察するに母親は長男であるロジャーのことをまず第一に考えており、そのため、恐らくシスター・コンプレックスに類する感情を抱いているであろうロジャーをなんとかうまく丸め込んでしまえないかという意図が見え隠れしている。
 ただ、妹が結婚する相手のことをなんとか良く書き連ねて、婉曲にロジャーを納得させようとしているのだろうが、その割には相手の情報を推察出来る程度には詳しく述べてあったことが私の気掛かりであった。文章の端々で「この年金を抵当に」「おまえに送る60ルーブリを」「頼りになる裕福な方で」「まず第一に、当然それは時が経てばそうなるのですし」……というふうに財政についてほのめかし、ロジャーにそれとなくプレッシャーをかけまるで「お前ならわかってくれるでしょう」とでも言わんばかりのプリヘーリヤの言葉は、都合の悪いことを「幸運」という単語で隠してしまおうとしているかのようだった。
 言うまでもなくプリヘーリヤいうところの「幸運」というのは妹ドゥーネチカが「頼りになる裕福なお方で、二カ所にお勤めで、もうご自分の財産をお持ち」の男性にプロポーズを受けたことを指している。男は「なかなか感じの良いお顔つきで、まだ女性にも好かれるでしょうし、そえにたいそう押し出しのきく、礼儀もわきまえた方」なのだとプリヘーリヤは言うが、それがどうも彼女の主観を更にきれいに抽出して見せた言い分であるらしいということが時折零れる不安や、手紙を読んだ後のラスコーリニコフの言動からは推測出来る。「たとえば、あの方は、最初私にはいくらか無遠慮に思えましたが」「夫が妻に負い目を感ずるようなことがあってはならないし、それよりは、妻が夫を自分の恩人と見ているほうがずっとよい……それにあの方もけっして下心があって言われたわけではなく、話に夢中になって、つい口を滑らせたという感じで……」そんなつい書かずにはいられなかったプリヘーリヤの愚痴のようなものは総合すると彼女が男を褒めそやした文章と同じかそれ以上に綴られており、そういうこともあって読後ラスコーリニコフは「青白く、痙攣にゆがみ、いらだたしげな気重い冷笑が唇のあたりをはっていた」ような顔をするはめになっている。
 こうしてみるとやはりプリヘーリヤが寄越したこの手紙は矛盾に満ちており、また同時に息子ロジャーに対するいっそ偏執的とも思える愛に満ちていると捉えられる。彼女はきっと一人息子と一人娘を共に愛しているのだろうが、どちらかと言えば、娘よりも息子を立たせたい、また立たせるべきだと考えている節がある。「なに、問題はロージャなのさ。大事な総領息子のロージャ! こういう息子のためなら、あんな立派な娘を犠牲にしたって、悪かろうはずないってわけさ!」ラスコーリニコフ自身が自嘲気味にこうはやしたてた通りに、「息子のために娘を犠牲にするのを承知したんで、ひそかな良心の呵責に責められ」ながらもそういう決断をしたのだ。
 この手紙が矛盾している理由はそこにあるのではないか。プリヘーリヤは息子のために娘の何もかもを捧げることを決めたが一方で密かにその良心を苛ませいためている。それゆえ、書かなければよかったドゥーネチカの結婚相手のネガ部分も記してしまう。こんなことを書いたら聡明なロジャーは激怒するだろうという不安と、激怒して、止めてくれたらという僅かな期待がもしかしたらないまぜになってしまっているのではなかろうか? だからこそラスコーリニコフの二通りのリアクションそのどちらもを期して、こんな中途半端な手紙を送ってきたのではないのだろうか。


後藤舜
 曖昧にしか覚えていないのだが、以前ある歴史小説家のエッセイを読んでいたとき、子離れできない母親を指して、「子宮を引き摺って歩いている」と書かれていたのを見たことがある。もしかしたら語句の細部を間違っているかもしれないが、それでもこの「子宮を引き摺る」の文句のインパクトだけは頭のなかによく残っていて、ちょうどその言葉を今回の感想を書くにあたって思い出した。私にとってプリへ―リヤはまさしく子宮を引き摺っている女である。
まずあの鬱陶しい調子がよろしくない。中巻以降たびたび目に付く彼女の息子への接し方は目に余るほど卑屈だ。とにかく常に顔色を伺って、下手に下手に振舞おうとする。そのくせ息子の世話は焼きたがるものだから、いつまでもクドクドと説教とも泣き言ともつかない話を繰り返しては哀れっぽく泣いたりする。当のラスコーリニコフ本人にだってそれなりの孝行心もあろうに、目の前であんなふうにされては堪ったものではないだろう。しかも彼には特別の事情があって、それで家族を遠ざけようとしているわけだから、そんな彼をあれやこれやと構いつけようとするプリヘーリヤの姿は読んでいるこっちとして何かどうしようもないもどかしさを感じさせられる。しかも彼女の行動の動機は主にラスコーリニコフへの親心からきているので思い切って邪険にもできない。
見ているほうからしてそうなのだから、実際に目の前で相手をしているラスコーリニコフは余計深刻に感じるだろう。こういった類の、突っぱねたいのにそうできない、やりたいけれどどうしてもやれない、といった状況は非常にフラストレーションが溜まる。まして激しやすい性格のラスコーリニコフとこんな風に鬱陶しいプリへーリヤとでは、まさに水と油の親子関係である。
しかし、こういった各々の性格に反してこの親子には目立った軋轢や溝はないように見える。プリへーリヤの過剰な息子への信頼はさておいても、ラスコーリニコフも基本的には彼女を思いやっている様子だ。無論いくら鬱陶しくても実の親子であるわけだから、私もラスコーリニコフが本気で母を憎んでいるとは考えていないが、それでももう少し捻くれた関係であったほうがむしろ自然なくらいの性格の相違ではないだろうか。
私には、あのラスコーリニコフとプリへーリヤの関係がどうにも不安定なものに見える。というのも、噛み合わないはずのものが表面上うまくいっている、というのは大抵どちらかが我慢をしている時であると思うからだ。そして、この場合問題があるのはプリへーリヤなのだから、それを我慢しているのはラスコーリニコフということになる。やたらと卑屈で自分へ常に過剰な評価を与える母との生活が彼にどんな影響を与えたか、それは決して良いものではなかっただろう。
下巻の終盤、度重なる心労のためか彼女は現実を正しく認識できなくなる。そういったなか、以前ラスコーリニコフが火事場で家の中に取り残された子供を助けた話をラズミーヒンから聞かされた彼女はそれを異常に喜び、誰彼の区別なく赤の他人に教えてまわるようになる。恐らくは、彼女の中にある理想の息子像とはこういったものであったのだろう。しかし、現実にラスコーリニコフは全くの善人とは到底言えない男だ。それなのに、彼女は息子にそうあることを求め続け、また無意識のなかでそうであると思い込んでしまっていた。それ故の、息子に対するあの卑屈さであり過剰評価ではなかっただろうか。
上巻で、母からの手紙を受けとったラスコーリニコフはその中身を読み感動の涙を流した。しかしそれと同時に冷笑もこぼした。私はこのシーンがなによりこの親子の関係を表していると思う。ラスコーリニコフの中には明らかに母への嘲りが存在していた。しかし確かに母への愛情もあった。この二つの感情が奇妙に同居しているのがプリへーリヤからの手紙というシーンではないだろうか。


河内智美
 私はこの課題を書くにあたって、もう一度ゆっくり『プリヘーリヤの手紙』を読み返してみた。そこで思った事は、前回の課題である『マルメラードフの告白』と似ているようで正反対のことを語っているものだということだ。前回のマルメラードフの告白は、堕落の原因はマルメラードフであり、カチェリーナやソーニャなどマルメラードフの家族が貧乏のどん底に落ちていくのはほぼ全てマルメラードフのせいだった。しかし今回のプリヘーリヤの手紙では、プリヘーリヤやドゥーネチカが堕落しそうになっている原因は自分達が落ちてまでラスコーリニコフに期待をかけているからなのである。つまり、カチェリーナ達の場合は一人の男のせいで嫌でも堕落してしまっているのに対し、プリヘーリヤ達の場合
は一人の男のために自ら進んで堕落しようとしているのだ。この手紙が届いたのがマルメラードフの告白を聞かされた後というのもこれらが対比されていると感じる理由だ。ラスコーリニコフはこの手紙を読んだことで、自分の中で空想でしかなかった殺人計画を実行しようと思った。直前にマルメラードフの生々しい告白を聞き、その生活を垣間見たことで母や妹をみじめな目にあわせるわけにはいかないという気持ちが以前から考えていた計画を実行するための動機を強くし、結果的にプリヘーリヤ達のラスコーリニコフを想う気持ちが彼に殺人を犯させる後押しとなったのだと思う。私はまだ途中までしか読み終わっていないが、この小説内でのラスコーリニコフの言動は家族を全く想っていないように見える
ことが多い気がする。しかし、この部分を読むとラスコーリニコフは狂ったような考えに取りつかれていてもちゃんと家族を想っているのだとわかる。
 私はプリヘーリヤの手紙を読んで、この手紙はなぜこんなにも長いのだろうと思った。そしてもう一度読んだときに、それが何となくわかったような気がした。この手紙はラスコーリニコフへの近況報告の意味だけでなく、プリヘーリヤが自分自身を納得させるために書いているのではないだろうか。もちろん、プリヘーリヤ自身はそんなことは思っていないと思うが、自分でも気づかないうちに自分が疑問に思っていることを心の中に封じ込めて、もはや話が進んでしまって疑問を口に出せないことへの不安と息子の成功や家族の再会の機会を逃したくないという気持ちが、自分を説得して不安を拭い去りたいという気持ちに変わり、それを無意識のうちに息子にあてた手紙の中でやっているように思う。手紙は
書いていないがドゥーネチカも、ルージンとの結婚を決心する前の晩に部屋を意味もなく行きつ戻りつしていた時に、心の中で同じことをしていたのではないだろうか。プリヘーリヤの手紙の中で、ルージンとドゥーネチカが結婚することについての不安要素はいくつもあげられていた。しかし、それぞれにイマイチちゃんとしていない漠然とした考えがつけられていただけで、はっきりこうすれば問題ないというような解決策は述べられていなかった。つまりルージンには多くの不安要素があったにもかかわらず、それほど二人が息子の成功や家族の再会を切実に願っていたということではないか。しかもプリヘーリヤとドゥーネチカはスヴィドリガイロフやマルファ・ペトローヴナとの大変なもめごとがなんとか
解決したばかりであり、その出来事の間中ラスコーリニコフも大学に行けなくなってしまったり職を失ってしまったりと大変な生活に陥っていたにもかかわらず自分たちのことで精一杯だったため何もしてあげられなかったことに対する負い目のようなものも感じていたのではないだろうか。これらのことを手紙から感じ取ったからこそ、ラスコーリニコフは何としてでもどうにかしてやらなければという気持ちになり、「あれ」を実行しようと思ったように感じた。
 この小説では、ラスコーリニコフが殺人を犯したのはある考えに取りつかれたようになったからである。しかしそれだけでは殺人を犯す動機としては弱く、リアリティーにかけるように思う。でもその前に『マルメラードフの告白』や『プリヘーリヤの手紙』を入れることによって、殺人の動機が強化されている。前に、高校時代の友達が「ドストエフスキーの小説って今日の出来事をいうためにおとといくらいから話し始めるよね。」と言っていた。その友達がどのような意味でそれを言ったのかはわからないが、私はその時は無駄に前置きが長くて眠くなる程度にしか感じていなかった。だが、今回この課題をやるためにプリヘーリヤの手紙を読み直して先週の授業で先生が言っていた「ドストエフスキーの小
説に書いてある物はすべてにちゃんと意味がある」ということの意味が少し分かったような気がした。

 藤賀怜子 
この手紙に目を通して第一に不快感を覚えた。
まずその量。手紙部分だけで岩波文庫(一ページ三十九×十六文字)の二十ページ分近くあるのだ。ラスコーリニコフがその量について不快に思っていることがうかがえる記述はなかったが、本文には『手紙はずっしりと重たく、二ロート(約二十五グラム)ほどもあった。大判の便箋二枚が、こまごまとした字でいちめんに埋められている。』とある。ここで挙げられている大判の便箋用紙がどの程度のサイズでどの程度のサイズなのかを知る術はないのであくまで想像の域を超えない。参考までに、普段私たちが手紙を書く際に八十円切手で送ることができる重さの最大が二十五グラムである。今まで幾度となく手紙を書いてきて時には十数枚に及んだこともあったが、便箋だけで二十五グラムを超えたことはない。それ故にプリヘーリヤの手紙の量は異常だと言える。たとえ二ヵ月ものあいだ息子に隠していたことを告白する内容だったとしても、だ。
そして次にその言い様。冒頭から五文目、『おまえはうちのひとり息子、私とドゥーニャにとってのすべて、私たちの希望の星なのですから。』という一節に関して言えば、もはや吐き気さえ感じる。(子に全く愛情を注がず、無関心、育児放棄、子をただの道具として見る、そんな親よりはプリヘーリヤは幾分かましなのかもしれないが)行き過ぎた愛情というのもまた厄介なもので、親の過剰な期待は時に子を追い詰める要因になり得るのだ。(実際その文章はラスコーリニコフの神経を逆なでした。)プリヘーリヤにはそれが分かっていたのだろうか。いや、分かっていたらこのようなプレッシャーをかけるような真似はしないはずだ。彼女は何気なく書いてしまっただけだとこの時点では仮定しておこう。
 今度は内容について考えを巡らしてみる。しかし手紙本文を読んでみても、正直に言って何を伝えたいのか全く理解できなかった。この手紙の真意はいったい何なのだろう。
手紙には大きく分けて二つの話題について書かれている。
一つ目はドゥーニャがスヴィドリガイロフの家でひどい仕打ちを受けたその後についてだ。ラスコーリニコフは二ヶ月も前にその事実を知り、プリヘーリヤに詳細を説明するよう求めている。しかしプリヘーリヤはすぐに返事をよこさなかった。いや、よこすことができなかったと手紙の中で述べている。しかし果たして本当にそうだったのか。確かに『もし私が事の真相をすっかり手紙したら、おまえはおそらく、何もかも放擲して、歩いてでも帰ってくれたことでしょう。なぜといって、おまえの気性はそうなのだし、妹が辱められるのを黙っているわけがないからです。』とあるようにプリヘーリヤはラスコーリニコフに余計な心配を掛けさせまいと思ったのかもしれない。しかしプリヘーリヤは『たしかにスヴィドリガイロフさんは、最初のうち、あの子にひどく粗暴にされて、食事の席でもあの子に無作法なまねをされたり、からかったりされました……』と書いているのだ。その問題が解決した今ラスコーリニコフに余計な気を遣わせたくないならわざわざ過ぎたことを蒸し返す必要はないはず。つまり他に何か理由があるのだ。
ここで二つ目の話題に触れてみよう。ドゥーニャの婚約についてだ。先ほど挙げた問題から上手い具合に話が進んでいる。しかしこれは本当に上手い話なのだろうか。ドゥーニャと結婚するルージン氏は「実務家で、ご親切な方らしい」のだ。ラスコーリニコフも気付いたように、荷物と大型トランクの運賃を引き受けてくれるのは確かに親切だが、プリヘーリヤと妻になるはずのドゥーニャの旅費を持とうとはしなかった。荷物と人、どちらが高くつくかは目に見えている。しかしながら両方を引き受けなかったどころか安い方のみ持って満足している。七等官の裕福な人間が結婚前のこの時期に(普通なら見栄を張ってでも全額引き受けるであろうところを)半額ももっていないのだ。そんな人間が結婚後ドゥーニャを幸せにすることができるだろうか。
ここでやっとプリヘーリヤの真意が見えてきたように思える。息子のラスコーリニコフを『希望の星』などと呼ぶ、その真意が。彼女はその言葉を書いてしまったのではない。故意に書いたのだ。自分たちとは遠く離れた地で、学校を辞め安定した職にも就かず、ただ毎日を無為に過ごす息子を今一度奮い立たせるために。そうするとドゥーニャの結婚話から漂う違和感も説明がつく。
つまりこの手紙はプリヘーリヤが娘を犠牲にしてまでラスコーリニコフにお金を送っているのだということを気付かせるための一種のサインだったのだと私は推察する。


プリへーリヤの独り言
齊藤瑛研
 さて、そろそろ手紙を書かなくちゃ。
 でも何から書けば良いかしら。書きたい事が多すぎてどうすればいいかわからないわ。あら、そろそろインクがきれそうね。明日にでも買いに行かないと。そういえばランプの灯油もそろそろきれそうだったわね。一緒に買ってしまいましょう。さて、そろそろ手紙を書かなくちゃ。
 あら、何かしら。こんな時間なのに隣の部屋から物音がするわ。一体、誰の仕業かしら。いいえ、そんなはずはありませんわ。隣に住んでいたポーランド人の一家はついこの間、引っ越していったばかりじゃありませんか! だったらこの物音は一体誰が鳴らしているのかしら。もしかしたら泥棒とも考えられるわ。なんて事なの! 話し声が聞こえてきたわ! 盗みの最中に話すなんて、きっととんでもなく場数を踏んでいる泥棒に違いないわ。そうしたらきっと、一つの部屋で盗みを働いて満足するわけがないわ! ああ神様、私は毎日あなたにお祈りを捧げているのにどうしてこんな目に合わなければならないのでしょう。私だけではなく娘も、そして息子もあなたにお祈りを捧げているのですよ? いいえ、神様。もしかすると、もしかするとですよ? 私の息子はあなたに毎日お祈りを捧げてはいないかもしれません。ですが、それで私たちを見放すなんてあまりにも冷酷ではありませんか? それに、私の息子もあなたへの信仰心が薄れたからお祈りをしなかったのではありません。あの子はとても頭の良い子ですから、毎日たくさんの本を読んだりする事に忙しく、きっとお祈りをする時間が無かっただけなのです。その代わり、私があの子の分までお祈りをします。ですから神様、どうか私たちを見捨てないでください。ほら、隣から聞こえる声もだんだんと大きくなってきました! あら、この声、どこかで聞いた事があるわ。ああ! 思い出した! これは家主さんの声じゃないの! それともう一人の声はきっと、向かいの通りにある家具屋の店主ね! きっと二人であの家族が残していった家具をいくらで取引するか話していたのね。これで安心して手紙が書けるわ。さて、そろそろ手紙を書かなくちゃ。
 もう日が明けてしまったわ。こんなにも書く事があると考えをまとめるのが大変ね。話したり、独り言を言ったりするのは得意なのに、いざそれは書くとなると口調やら言葉の細かいところまで変えなくてはいけないから苦手なのよ。そうだわ! それならこのまま口調を変えないで手紙に書いてしまいましょう。そうすれば今すぐにでも書き始める事ができるわ。簡単な事じゃないの。さて、そろそろ手紙を書かなくちゃ。