プーチンと『罪と罰』(連載3) 清水正

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

プーチンと『罪と罰』(連載3)

清水正

 

 信仰の問題はその実践においては簡単なことだが、信仰についての思索を展開すればきりがない。ドストエフスキーは神の問題に関して一生涯苦しんだ作家である。彼は最晩年の作品『カラマーゾフの兄弟』まで絶え間なく神を追究し続けた。しかしそれにも拘わらず、彼を正真正銘の〈キリスト者〉と断言することができない。

    わたしは二十歳の昔から、ドストエフスキーディオニュソス的小説家であって、その精神世界は信と不信の間を絶え間なく揺れ動いており、一義的絶対的な信仰に至り着くことはなかったと見なしている。彼は〈キリスト〉を信じ、〈キリスト〉と共に生きることを願い続けていたディオニュソス的作家であるからこそ、〈悪魔〉や〈反キリスト〉をも描き得たのである。ただ、わたしはこの偉大なるディオニュソス的作家もまた、現実生活を生きる一人の人間としては敬虔なキリスト者として振る舞っていたとは思っている。深く分裂した精神そのままに生きる者は〈狂人〉であり、社会生活を送ることはできない。ドストエフスキーは自らの分裂した精神を統括する《我》を保持しており、小説を書く時の〈我〉と現実を生きる時の〈我〉を明確に区別している。もし、この〈我〉と〈我〉が統括する《我》から乖離するような事態になれば、社会的に正常な生活は送れないということになる。

 小説を書いている時にはディオニュソス的精神を存分に発揮するが、現実世界を一人の人間として生きる時には分別を働かして生きる、そんな生き方自体が自己欺瞞ではないかと思うひともいるかもしれない。が、どう思われようと、ディオニュソス的作家といえども、明晰な意識を保持する者は現実社会をディオニュソス的に生きることはできない。たとえば現実を生きるドストエフスキーは神の存在を認めないイワンと、神の存在を認めるアリョーシャの実存を同時に生きることはできない。このドストエフスキーに「あなたはイワンなのか、それともアリョーシャなのか」と詰め寄っても無駄である。ドストエフスキーはイワンでもなく、アリョーシャでもなく、彼らを同等の価値を持った人物として描き出すことのできる小説家なのである。ドストエフスキーは自分の永遠に決着のつかない精神の分裂状態をリアルに表現することはできるが、彼が創造した一人物にぴったり適合して生きることはできないのである。  

 わたしは今まで何度かドストエフスキー論のなかで、デカブリストの妻フォンヴィージナ宛の彼の手紙を引用して、彼の精神分裂の救い難き深刻さを指摘してきた。この手紙はドストエフスキー論者で引用しない者がいないほど有名なものだが、しかしこの手紙の内容に深く食い込んでいった者はいない。ドストエフスキーはキリストほど理性的で男性的な存在はいないと書いているが、キリストの〈理性的〉や〈男性的〉を一言も説明していない。彼は、たとえキリストが真理の外にあっても、真理よりはキリストを選ぶと書いているが、ふつうに考えればキリストこそが真理を体現しているからこそ彼を信じるのであって、真理からはずれたキリストなどおよそキリストにふさわしくないということになる。

   またドストエフスキーは、キリストを最大限に賛美すると同時に、自らを不信と懐疑の時代の子とも書いている。しかしここが肝心なことだが、ドストエフスキーはこの手紙のなかで、キリストに対する〈不信〉も〈懐疑〉も一言も発していないのである。従って、この手紙からは、ドストエフスキーが最大限に賛美するキリストに対して、彼がどのような疑問を抱いていたのかを知ることはできない。否、彼の全作品を射程に入れても、キリストに対する不信、懐疑、反発を見いだすことはできない。ドストエフスキートルストイのようには、キリストの教えを律儀に一途に我が身に引きつけて考えるようなことはなかった。キリスト者として生きることが、自らの作家活動を否定することに繋がるような視点をドストエフスキーに見ることはできない。

 

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ雑誌には https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

お勧め動画池田大作氏の「人間革命」をとりあげ、ドストエフスキーの文学、ニーチェ永劫回帰アポロンディオニュソスベルグソンの時間論などを踏まえながら

人間のあるべき姿を検証する。人道主義ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

プーチンと『罪と罰』(連載2)

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

プーチンと『罪と罰』(連載2)

清水正

 キリストの教えを忠実に守れば確実に死ぬことになる。キリストは十字架に掛けられて殺されたが、キリストの教えを貫こうとすれば、自分の属する組織(国家)から追放、逮捕、処刑を免れることはできない。わたしは二十代後半に福音書をよく読み、キリストの言葉に深く打たれたが、しかしキリスト者になろうとは思わなかった。言い方を変えれば、キリスト者にはなれないと思った。キリスト者として生きようとすれば間違いなく三十歳迄に殺されるだろうと思った。現実の世界を生きるとは「歯には歯を」の掟を受け入れることであって、汝の敵を愛せよでは生きられないのである。キリストの教えはいかなる組織とも乖離すると思ったので、教会や聖職者にはいかがわしさしか感じなかった。ロシアによるウクライナ侵攻に際してロシア正教会のトップがプーチンの考えに同調するのも別に不思議ではない。宗教組織は時の国家の方針に逆らえば弾圧されるのは当然であって、従って現在生き延びている宗教組織は、多かれ少なかれ国家との妥協のもとに自らの存在を可能ならしめているのである。

 わたしは先にトルストイの宗教論が退屈であったと書いたが、それはあまりにも当たり前の、分かり切ったことをくだくだ執拗に書いてあるからである。わたしは三十代の半ば頃、初めてトルストイの長編小説を読んだ。『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』、そして最後に『復活』を読んだ。この三大長編小説のうち、最後に読むのは『復活』と予め決めていた。はたして、トルストイは本当に神を信じているのか、それをわたしは『復活』で確認しようと思っていたのである。

    結論を先に言えば、トルストイは神を信じていないと思った。トルストイは作中において死への恐怖を隠していない。もしトルストイが本当に神を信じていたなら、死を恐れることはなかっただろう。この確信は今も変わらない。トルストイがキリストの教えを全うするような男だったら八十二歳まで生き延びることはなかったと素朴に思う。もしトルストイキリスト者として生きる覚悟があれば、正教会の教義を執拗に検証したりすることもなかったのではないかと思う。十九世紀の農民や庶民の大半は福音書を読むことも手にすることもなかった。

 『罪と罰』でリザヴェータがロシア語訳の新訳聖書を持っていて、それをソーニャに与えていたなどということは、あくまでも小説的設定の枠内で考えるべきである。当時の純朴な信仰者の信仰は、聖職者や知識人たちのそれとは予め性質を異にしているのである。ただし、わたしたちは十九世のロシアの農民たちの〈信仰〉の実態を正確に知ることはできない。彼らは福音書はもとより、本を読まない。彼らの大半は文字の読み書きができなかった。彼らは教会での儀礼に従い、聖職者の説教を聞きながら、素朴に神を信仰したのであって、自らの頭を使って、神とは何かとか、信仰のあるべき姿を考えたのではない。要するにトルストイのように正教会の教義を徹底的に検証するとか、福音書を熟読して独自のキリスト観を論文にするような農民はただの一人も存在しなかったことだけは間違いない。信仰に理屈は合わない。トルストイの宗教に関する論文を読んでいると、執拗に展開される正当な理論というよりは、性懲りもなく展開される理屈を感じてしまうのである。

  ヤースナヤ・パリャーナという広大な土地の所有者で世界的な文豪の名を馳せていた地主貴族のトルストイがキリストの教えを実行することは容易ではない。キリストの本当の意味での弟子になるためには、金のある者は金を、地位名誉のある者は地位名誉を、そればかりではない愛する家族も、恋人も捨ててキリストの後に従わなければならない。しかもキリストの道を歩む者は必ず死刑になるので、自らの十字架をも背負ってキリストに従わなければならないのである。

 トルストイはキリストについて、ロシア正教の神学について、信仰について、いかに生きるべきかについて真剣に考えた人間であることに間違いはない。だが、正直に言って、トルストイは信仰者と言うよりは、信仰について思索し執筆する側の人間であったと思う。トルストイの宗教に関する論文は、謂わばアポロン的整合性に則っており、論を破綻に導くディオニュソス的不信と懐疑の荒波に襲われることはない。しかしこのことはトルストイの内部にディオニュソス的破壊要素が潜んでいなかったことを意味しない。むしろトルストイは不断に、自らの獲得した信仰を根底から揺さぶり破壊する恐るべき津波に襲われていたからこそ、必死になってアポロン的論理にしがみつこうとしたと言ったほうが適切であろう。

 わたしはトルストイの執拗に展開される宗教論文を読みながら、もし彼が自らの内部に潜んでいるディオニュソス性に焦点を据えて具体的に語ったならば、おそらく退屈など感じることはなかっただろう。前にも書いたが、わたしはトルストイの小説『クロイツェル・ソナタ』にはわが魂を揺さぶられたが、彼自身の書いた『クロイツェル・ソナタ』論にはその凡庸さに驚いたばかりである。トルストイは宗教論文において『アンナ・カレーニナ』で描き出したアンナの恐るべき〈罪〉の実態に肉薄することができない。『戦争と平和』で〈戦争〉と〈平和〉の必然を描き尽くしたトルストイは、宗教論文において自らの〈信仰〉と〈罪〉の実態に迫ることができない。トルストイの〈信仰〉は自らの文学作品の深淵に降りていくことも飛び越えることもできないままに、見せかけの文学追放を自らに擬している。

 

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ雑誌には https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

お勧め動画池田大作氏の「人間革命」をとりあげ、ドストエフスキーの文学、ニーチェ永劫回帰アポロンディオニュソスベルグソンの時間論などを踏まえながら

人間のあるべき姿を検証する。人道主義ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

プーチンと『罪と罰』(連載1)

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

近況報告

相変わらずの神経痛生活を送っているが、ロシアのウクライナ侵攻問題は長引きそうな様相を呈してきた。わたしは極力、時局的なことに関しては発言を控えてきたが、今回はずっと書き続けている『罪と罰』論の一部として本ブログに何回かにわたって連載したいと思う。タイトルは「プーチンと『罪と罰』」としておく。

 

プーチンと『罪と罰』(連載1)

清水正

 

 四ヶ月の空白をおいて執筆を再開する。二月二十四日よりロシアによるウクライナ侵攻が始まり、依然として決着がついていない。この四ヶ月の間、ウクライナ関係の動画を観ながらいろいろと考えさせられた。プーチンはまるで独裁者のように振る舞っている。彼は戦場において殺人を余儀なくされる人々の心のうちをどのように考えているのだろうか。話し合いによる決着がつかない場合は、武力をもって解決をはかるという、人類史上例外なく行われてきた手段をプーチンは決断し実行に移した。ウクライナの大統領ゼレンスキーもまた断固として戦う意志を表明し、西欧諸国の応援を仰いでいる。戦争は容易に終結する見込みがたっていない。

 わたしはトルストイの宗教論文をまとめて読んだ。「神の王国は汝らのうちにあり」「教義神学の批判」「懺悔」「わが信仰はいずれにありや」などである。正直言って退屈であった。一ページで書けることを百ページも二百ページも費やして書いているように思えた。キリストの教え、その一つだけでもいい、たとえば「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとするする者には、上着もやりなさい。」(マタイ福音書第5章38~40節)を忠実に守ることがキリスト者であるなら、キリスト者に求められているのはその実行あるのみである。今、ウクライナ戦争を眼前にして、このキリストの言葉を実行しているキリスト者が世界に何人いるだろうか。テレビの報道番組のコメンテーターに政治・経済・軍事の専門家が招かれても、キリスト者は招かれない。「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とか「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書第5章44節)などと口にすることは、祖国を守るために戦っているウクライナ国民に対する最大の侮辱とさえ受け取られかねない。テレビは今でも〈民主主義〉という幻想を後生大事に守っており、それを基盤に政治・経済・軍事に関するコメントを許しており、未だ宗教や文学の次元でのコメントを無自覚のままに封印している。

 先日、動画を観ているとロシア正教会のキリル総主教が出ていた。彼はプーチンウクライナ侵攻を支持する総主教で、画面ではプーチンと仲良く並んで歩いていた。トルストイは執拗に厳しく正教会批判を展開していたが、戦争を支持するキリルが現在のロシア正教会のトップに君臨していることだけを見ても、トルストイの批判は的を射ていると言えよう。莫大な金をかけた荘厳豪華な正教会堂、キリル総主教が身にまとったキンピカピカの僧衣、いかにも威厳ありそうな杖など、トルストイの言葉を待つまでもなく、いかに〈正教会〉がキリストの教えと深く断絶しているかが明白である。福音書を読むことのできる現代の正教徒たちは、キリストの教えをどのように受け止めているのだろうか。

 別の動画で、ロシアから亡命している作家アクーニンが登場、彼は厳しくプーチンを批判、本当のロシアはプーチンが支配するロシアではなく、ドストエフスキートルストイチェーホフのロシアこそ本当のロシアなのだと語っていた。いったい今のロシア人たちは、これら十九世紀の偉大な文豪たちの作品をどのように読んでいるのだろうか。トルストイは暴力否定と正教会批判で、キリストの愛と赦しを引き継いだ。ドストエフスキーは、人間の心は神と悪魔の永遠に決着のつかない広大無辺の戦場だと言った。ドストエフスキーの大いなるディオニュソス的精神世界にあっては、絶対正義・真実としての一義的主張をなすことはできないが、しかし彼こそはサストラダーニィエ(сострадание=同情・憐憫)を誰よりも深く描いた作家であることに間違いはない。

 

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ雑誌には https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

お勧め動画池田大作氏の「人間革命」をとりあげ、ドストエフスキーの文学、ニーチェ永劫回帰アポロンディオニュソスベルグソンの時間論などを踏まえながら

人間のあるべき姿を検証する。人道主義ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

江古田文学賞設立の頃 ──江古田文学の理念と受賞パーティをめぐって── 清水正

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

江古田文学賞設立の頃

──江古田文学の理念と受賞パーティをめぐって──

清水正

 

 第一次「江古田文学」が創刊されたのは昭和二十五年(一九五〇)十二月である。編集人は矢作勝美(当時文芸学科学生と推測される)、発行人は山下秩光(当時文芸学科主任教授、ドイツ文学者)、発行所は「日本大學藝術學部内江古田文學会」である。最終号は「39-40号合併号」として昭和三十六年(一九六一)十一月に刊行されている。奥付には編集人の名前はなく、発行人は神保光太郎(当時文芸学科主任教授、詩人)とある。当時助手であった藤田勢津子は編集後記で「次号からは、編集長に進藤純孝氏が就任され、執筆陣を拡張し、一層活溌な活躍をつづけて行きます」と書いている。

清水正(左)               進藤純孝氏(右)

 

 第二次「江古田文学」が創刊されたのは昭和五十六年(一九八一)十一月である。つまり「江古田文学」は実に二十年の間を置いて復刊されることになった。編集人は平岩昭三(当時文芸学科助教授)、発行人は進藤純孝(当時文芸学科主任教授、文芸評論家)、当時助手だったわたしは編集員として参加した。

 なぜ二十年間にわたって「江古田文学」は休刊し続けなければならなかったのか。その間にどのような学内誌が刊行されたのか。詳しい事情は此経啓助「六〇年代の文芸学科(回想)――第一次『江古田文学』休刊から大学紛争まで――」(「江古田文学」第100号)をお読みいただきたい。 わたしは「江古田文学」の編集長としては第8号から28号まで担当した。「江古田文学」は文芸学科の学生および卒業生の作品発表の場として創刊された。文芸学科は文芸創作、文芸批評・研究、文芸ジャーナリズムの三本柱によってカリキュラムが成立している。わたしは優秀な卒業制作・論文の再録、芸術学部の卒業生、教職員などにも積極的に原稿を依頼することにした。同時に卒業生で創作活動を続けていた山形敬介(詩人、デザイン会社経営)、村上玄一(小説家、編集者)、中村文昭(詩人、文芸批評家)などに協力を呼びかけ、執筆陣の充実を図った。

 「江古田文学」を単なる学内誌ではなく、社会に通用する総合文芸誌に成長させようとする考えは復刊当時からあったが、特に協力とアドバイスを惜しまなかったのが、日大法学部出身の酒井幸夫研究所教授であった。酒井教授は編集長になったわたしに、江古田文学賞の創設を何度か提案した。当時、わたしはこの提案を時期尚早と考え、「江古田文学」の内容充実に力を入れることを先決とした。

酒井幸雄氏と清水正

卒業式で挨拶される酒井幸雄氏

 未だ社会的に認知されていない文学雑誌をいかに多くの人に知ってもらうか。世間の時局的な事象に迎合する気はまったくなかったので、要は編集に関わる者が情熱をもって自分に関わる問題を追究しつづけるほかはないと考えていた。

 わたしは最初から〈特集〉を柱に組むことにした。〈山本陽子〉〈中国における日本文学の現在〉〈追悼 土方巽〉〈高知詩人〉〈ドストエフスキーの現在〉〈大川宣純〉〈俳人・清水義介〉〈土方巽・舞踏〉〈宮沢賢治の現在〉〈連句の現在〉〈ドストエフスキー〉〈宮沢賢治〉〈つげ義春 “現在”に読み継がれるつげ漫画〉〈宮沢賢治 第三弾〉〈三島由紀夫&舞踏〉〈寺山修司〉〈『海辺の光景&宮沢賢治〉〈つげ義春山本陽子〉〈日本大学芸術学部文芸学科卒業制作〉――各々の特集に企画者の深い思いが込められている。

 

 わたしは28号の編集後記(一九九五年九月)に「このように振り返ってみると、ドストエフスキー宮沢賢治といったすでに評価の定まった文学者ばかりではなく、山本陽子、清水義介といった日藝出身者、大川宣純といった無名の詩人の掘り起こしに力をいれてきたことがはっきりする。わたしは編集をしながら、時折『江古田文学』は彷徨える文学の魂の憑巫になっているのではないかとおもったこともある」と書いた。この思いは二十七年後の今も変わらない。

 29号からはわたしが文芸学科主任に任命されたので、編集長の任を当時助手であった上田薫に託し、わたしは発行人および執筆者として「江古田文学」に関わることになった。判型はB5判からA5判に変わったが、特集主義は受け継がれた。代表的な特集は〈落語〉〈聖地〉〈大野一雄VS日芸生〉〈宮沢賢治、最後の生誕一〇〇周年〉〈アンドレイ・タルコフスキー〉〈総力特集 金子みすゞ 没後七十年〉〈紙へのフェティシズム・空間へのアプローチ〉〈川端康成生誕百年〉〈金子みすゞと女性たち〉〈吉田一穂〉〈宮沢賢治――二十世紀最後の宮沢賢治〉〈辻まこと――没後四半世紀〉〈疾走感〉〈夏目漱石 新しい漱石像を目指して〉〈森鴎外〉などである。

 上田編集長時代は、常連の執筆陣に加え、第二世代の旺盛な活躍で誌面を賑わせた。金子みすゞ、吉田一穂特集などは新聞や書評誌などにも取り上げられ、「江古田文学」の社会的認知度を高めることになった。第二次「江古田文学」は二十年の歳月をかけてようやく江古田の地に根をおろしたと言えようか。が、油断はならない。いつ大嵐が襲ってこないとも限らない。

 平成十四年(二〇〇二)四月より、上田編集長が一年間のフランス留学で日本を離れることになったので、新編集長に小説家の佐藤洋次郎(当時文芸学科助教授)に担当してもらうことになった。この時にはすでに第二次「江古田文学」も49号に達しており、数多の文芸誌、学内誌のなかにあっても独自のものを築き上げてきたという自負もあった。酒井教授より提案のあった江古田文学賞設立の機がいよいよ熟したのである。

 江古田文学賞設立に関しては50号に掲載の「新たなる『江古田文学』へ――江古田文学座談会――」に詳しい。此経啓助、村上玄一、中村文昭、佐藤洋次郎、清水正によるこの座談会を読めば、各氏の「江古田文学」および江古田文学賞に対する熱い思いが伝わってくるであろう。ほんの少しアトランダムに引用しておく。

 「学生の持っているセンスや、閃きは素晴らしいと思います。そういったものをどう伸ばすか、というのが問題ですね。江古田文学で具体的にどのようなことができるのか。僕はジャーナリズムを担当しているので、世間の目を代表しているようなものですよね。学生の作品をゼミ雑誌なんかで読んでいると、ほとんどが小説作品なんですが、それらを何らかの形で江古田文学に反映していきたいですね」(此経)、「僕は文学というものは果実を育てるようなものだと思っています。(略)木がひとりでは育たないように、ひとりでは物書きにはなれないんです。編集者や先輩の作家たち、同人誌の先輩、そういった人々の助けがあってこそなれるもの」(佐藤)、「極端なことを言えば、作家なんて百年に一人出てくればいいんですよ。一五〇人もの学生が毎年入学してきて、全員が全員、作家や批評家になれるわけがない。文学というのは誰にも教えてもらえない厳しい世界ですよ」(清水)、「ことばは人を救うこともあれば、トラウマになるほどの傷を生むこともある。ことばは表現以前の問題をくみあげることができる。江古田文学賞が、今のひどい文学状況において、ことばというものを根本的に考え直すためのいいきっかけになればいいと思いますね」(中村)、「賞をもらえるかもらえないかは別として、たとえ落選しても「自分は精一杯やったんだ」という充実感というか、努力した人にはそういうものが生まれるはずです。(略)実際に書いて、応募することが大切で、意味もあると思います」(村上)。

当時、助手であった山下聖美(現在、文芸学科主任教授、江古田文学発行人)が司会を務めているのも感慨深い。「江古田文学」はそれに関わる者たちの様々な思いと熱情を刻みながら休むことなく成長してきたというわけである。

 第一回江古田文学賞は岡本陽介(文芸学科一年)の「塔」が受賞し、第一回優秀賞に松田祥子(文芸学科二年)の「ピンクレディー」が受賞した。選考委員は此経啓助、佐藤洋次郎、清水正、村上玄一の四人。51号(二〇〇二年十一月)に受賞作と選評が掲載されている。選評を読めば明白なように小説の評価は選者によって異なる。文学・芸術作品をはかる絶対基準はなく、畢竟、選考者各位の文学観に基づくほかはない。

 江古田文学賞設立記念パーティは平成十四年(二〇〇二)十一月二十九日(金)午後七時より、池袋ホテルメトロポリタン「富士の間」において盛大に開催された。参加者は三浦朱門(元日芸文芸学科教授、元文化庁長官、小説家)、小沢信夫(昭和二十九年度文芸学科卒業、作家)など招待者七名、日芸教職員など大学関係者二十名、一般及び卒業生四十二名、一般会員三十九名、文芸学科学生二十名、受付・撮影などを担当した学生係員八名の計百三十六名。

挨拶する清水正会長

第一回江古田文学賞授与式

第一回江古田文学賞受賞者・岡本陽介(文芸学科一年)氏

 

第一回優秀賞受賞者・松田祥子(文芸学科二年)氏

 

 パーティは清水正(会長、昭和四十六年度文芸学科卒、当時文芸学科主任教授)の挨拶の後、授賞式が行われた。その後、此経啓助(常任理事、昭和四十年度文芸学科卒、当時文芸学科講師)の乾杯の音頭があり、受賞者、編集長、来賓者の挨拶と続いた。午後八時からはビデオ作品「小説家になりたい――江古田文学賞を目指す若者たち」(学生サークル「日藝NIMEワールドソルジャーチーム」と「ラスクTV」の共同製作。江古田文学賞に応募する文芸学科生を追うドキュメンタリー)を上映。八時半より舞踏家・わりさわ憂羅によるフラメンコ(ギター・山中英樹、カンタ・大橋範子)が会場を大いに盛り上げた。九時、村上玄一(常任理事、昭和四十六年度文芸学科卒、当時文芸学科講師)による閉会の辞。二時間にわたるパーティは盛況のうちに幕を下ろした。

舞踏家・わりさわ憂羅によるフラメンコ

清水正と浅沼璞氏

談笑する平岩昭三氏と三浦朱門氏(右)

受賞者と歓談する多岐祐介氏(中央)と中村文昭氏(右)

受賞者を見送る山下聖美氏

 このパーティの模様は此経啓助「日芸講師列伝(第四回)小説家・三浦朱門」(「江古田文学」54号)に詳しい。三浦朱門はわたしが文芸学科に入学した昭和四十三年(一九六八)当時、文芸学科教授でクラス担任を兼ねた演習授業を担当していた。入学してすぐに大学紛争が勃発、校舎は全共闘の学生たちによって封鎖された。授業は一、二回ほどしか実施されなかった。翌四十四年の三月、三浦朱門赤塚行雄(当時文芸学科助教授、文芸学科卒)と共に日芸を辞し、八月には共著『さらば日本大学――バッタ派教師の見た日大紛争――』(文藝春秋)を刊行している。小沢信男は文芸学科の大先輩だが、わたしが編集長時代、俳人・清水義介(文芸学科卒)特集を組むときにたいへんお世話になった。

 文芸学科及び第一次「江古田文学」と進藤純孝、三浦朱門赤塚行雄小沢信男の関係などに関しては此経啓助「日芸講師列伝(第三回)文芸評論家・進藤純孝」(「江古田文学」53号)、此経啓助「六〇年代の文芸学科(回想)」(前掲)と、清水正「情念で綴る「江古田文学」クロニクル――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様――」(「江古田文学」100号)に詳しいので、是非お読みいただきたい。文芸学科に歴史あり、「江古田文学」に歴史あり、である。

 文芸学科の学生は単独者が多いこともあり、横と縦のつながりは希薄である。第一回江古田文学賞設立パーティで卒業生と現役の学生の交流がもてたことは幸いであった。文学的営為と派手なパーティは相応しからぬという思いもあったが、参加者の溌剌とした笑顔に接しているとその思いは払拭した。文学作品は作者の孤独の現場から紡ぎ出されてくるが、たまにはみんなで集まって賑やかに時を過ごすこともありかなと思った。特に受賞者にとっては記念すべき日となったであろう。

 わたしの批評生活五十年の間、主に批評の対象とした作家はドストエフスキー宮沢賢治である。彼らに〈文学賞〉は無縁であった。本来、文学的営為と文学賞とは無関係で、賞を目指して作品を書くなどということは本末転倒である。文学賞に応募する者は、賞に対する逆説、イロニーぐらいは内深くに抱えていなければならないだろう。いずれにせよ、書きつづける内在的なマグマが枯渇しないかぎり、孤独な荒野を歩むほかはない。歴史に名を残した作家は、人間と世界の神秘に直面し、孤独に徹して表現の現場に踏みとどまった者のみである。

 最後に、第二次「江古田文学」復刊の立役者であった進藤純孝が江古田文学会会報第2号(昭和60年7月10日)に寄せた文章「奏でよ生の疼み」の一節を引いて幕を下ろすことにする。「時世に妥協したり、時節に迎合しながら憂い顔を晒す無恥は願い下げ。ただとぼとぼと千里の道を憩うことなく歩みたいもの。同志、奏でよ、生の疼みを!」――お後がよろしいようで。(二〇二二年一月十三日)

 

 

 

 

 

近況報告

相変わらずの神経痛生活を送っているが、ロシアのウクライナ侵攻問題は長引きそうな様相を呈してきた。わたしは極力、時局的なことに関しては発言を控えてきたが、今回はずっと書き続けている『罪と罰』論の一部として本ブログに何回かにわたって連載したいと思う。タイトルは「プーチンと『罪と罰』」としておく。

 

プーチンと『罪と罰』(連載1)

清水正

 

 四ヶ月の空白をおいて執筆を再開する。二月二十四日よりロシアによるウクライナ侵攻が始まり、依然として決着がついていない。この四ヶ月の間、ウクライナ関係の動画を観ながらいろいろと考えさせられた。プーチンはまるで独裁者のように振る舞っている。彼は戦場において殺人を余儀なくされる人々の心のうちをどのように考えているのだろうか。話し合いによる決着がつかない場合は、武力をもって解決をはかるという、人類史上例外なく行われてきた手段をプーチンは決断し実行に移した。ウクライナの大統領ゼレンスキーもまた断固として戦う意志を表明し、西欧諸国の応援を仰いでいる。戦争は容易に終結する見込みがたっていない。

 わたしはトルストイの宗教論文をまとめて読んだ。「神の王国は汝らのうちにあり」「教義神学の批判」「懺悔」「わが信仰はいずれにありや」などである。正直言って退屈であった。一ページで書けることを百ページも二百ページも費やして書いているように思えた。キリストの教え、その一つだけでもいい、たとえば「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとするする者には、上着もやりなさい。」(マタイ福音書第5章38~40節)を忠実に守ることがキリスト者であるなら、キリスト者に求められているのはその実行あるのみである。今、ウクライナ戦争を眼前にして、このキリストの言葉を実行しているキリスト者が世界に何人いるだろうか。テレビの報道番組のコメンテーターに政治・経済・軍事の専門家が招かれても、キリスト者は招かれない。「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とか「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書第5章44節)などと口にすることは、祖国を守るために戦っているウクライナ国民に対する最大の侮辱とさえ受け取られかねない。テレビは今でも〈民主主義〉という幻想を後生大事に守っており、それを基盤に政治・経済・軍事に関するコメントを許しており、未だ宗教や文学の次元でのコメントを無自覚のままに封印している。

 先日、動画を観ているとロシア正教会のキリル総主教が出ていた。彼はプーチンウクライナ侵攻を支持する総主教で、画面ではプーチンと仲良く並んで歩いていた。トルストイは執拗に厳しく正教会批判を展開していたが、戦争を支持するキリルが現在のロシア正教会のトップに君臨していることだけを見ても、トルストイの批判は的を射ていると言えよう。莫大な金をかけた荘厳豪華な正教会堂、キリル総主教が身にまとったキンピカピカの僧衣、いかにも威厳ありそうな杖など、トルストイの言葉を待つまでもなく、いかに〈正教会〉がキリストの教えと深く断絶しているかが明白である。福音書を読むことのできる現代の正教徒たちは、キリストの教えをどのように受け止めているのだろうか。

 別の動画で、ロシアから亡命している作家アクーニンが登場、彼は厳しくプーチンを批判、本当のロシアはプーチンが支配するロシアではなく、ドストエフスキートルストイチェーホフのロシアこそ本当のロシアなのだと語っていた。いったい今のロシア人たちは、これら十九世紀の偉大な文豪たちの作品をどのように読んでいるのだろうか。トルストイは暴力否定と正教会批判で、キリストの愛と赦しを引き継いだ。ドストエフスキーは、人間の心は神と悪魔の永遠に決着のつかない広大無辺の戦場だと言った。ドストエフスキーの大いなるディオニュソス的精神世界にあっては、絶対正義・真実としての一義的主張をなすことはできないが、しかし彼こそはサストラダーニィエ(сострадание=同情・憐憫)を誰よりも深く描いた作家であることに間違いはない。

 

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ雑誌には https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

お勧め動画池田大作氏の「人間革命」をとりあげ、ドストエフスキーの文学、ニーチェ永劫回帰アポロンディオニュソスベルグソンの時間論などを踏まえながら

人間のあるべき姿を検証する。人道主義ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

遠藤周作の未発表戯曲「善人たち」を読んだ。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

近況報告

トルストイの「神の王国は汝らのうちにあり」と「教義神学の批判」を読み終え、「新潮」三月号に掲載された遠藤周作の未発表戯曲「善人たち」を読んだ。キリスト者の生き方、国家、戦争、人種問題を絡めながら、愛、裏切り、卑怯などを問い詰めている。「新潮」三月号の発売日は二月初め、まだロシアのウクライナ侵攻はなかったが、まるで〈現在〉に取材したかのような作品である。人間が生きてある限り、問題は何一つ解決しない。非戦論を唱えたトルストイ、同情・憐憫を誰よりも深く描いたドストエフスキーを、プーチンはいったいどのように読んだのだろうか。今こそロシア人は自らの大地が生み出した大作家たちの作品を熟読すべきだろう。

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

f:id:shimizumasashi:20210901150720j:plain

清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

f:id:shimizumasashi:20210901150149j:plain

清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

 

 

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。

sites.google.com

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

f:id:shimizumasashi:20210907111050j:plain

韓国語訳『ウラ読みドストエフスキー』はイーウンジュの翻訳である。イーウンジュはわたしの教え子で拙著『宮崎駿を読む』の翻訳者でもある。現在、ソウルで著作活動に励んでいる。

 

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

sites.google.com

今回、ネット版「Д文学通信」43号に掲載する坂下将人氏の論考は「藝文攷」(2022年1月)に発表された「Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」の増補改訂版である。ぜひお読みください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

今回、ネット版「Д文学通信」43号に掲載する坂下将人氏の論考は「藝文攷」(2022年1月)に発表された「Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」の増補改訂版である。ぜひお読みください。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ネット版「Д文学通信」43号(通算1473号)           2022年03月24日

───────────────────────────────────────────────────────

「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

───────────────────────────────────────────────────────

Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』―「鳩」に関する一考察

坂下 将人

 

 

序論

     1

 博士論文では『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」されている一連の描写を指摘する方法によって、『悪霊』の作中人物達が作品内において「鳥人」、「有翼人」として描かれ、『悪霊』の作品世界が「「鳥」の世界」(=небо)として創造されている特徴を「例証」し、ドストエフスキーが『悪霊』の原題選定時に「天」、「天国」、「空」を意味するнебо”を念頭に置き、небонебог”небесаであると解釈した結果、『悪霊』の原題に選定したбесを、「神」を意味するбогに「対置」・「対比」される「悪魔」として理解していた事実を「論証」すると同時に、卒業論文において構築した上記『悪霊』の原題選定理由に関する仮説の正当性を「立証」した。

 ドストエフスキーは、「鳥」を「「二律背反」の象徴」として理解している。従って『悪霊』の作中人物達は、「擬鳥化」された結果、作品世界において「「神」と「悪魔」の両義性を兼ね備えた存在」として描かれている。本稿では引き続き博士論文の研究主題である「鳥」に着目し、『悪霊』の作中人物達が「聖鳥」である「鳩」に「擬鳥化」されて描かれている描写に関する調査・考察を行った。なお、紙数の制約上、必要最低限の記述に留め、文学的考察は別稿に譲る[1]

 

本論

     1

 ロシア語で「鳩」に相当する語はголубьである。голубьには「鳩」の他に、「(男性に対する呼びかけとして)愛する人よ、いとしい人」、「鳩座」、「(複数形で)ハト派」、「輪舞の遊び」の意味が存在する。голубьの指小・愛称・表愛はголубокである。голубокは後述するголубчикと「同義」である。なお、голубокには「セイヨウオダマキ」の意味も存在する。

 голубьголубокを調査した結果、голубьголубокは『悪霊』において用いられていなかった。しかし、голубьголубокのかわりに、「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」、「(皮肉)(非難)この人」を意味するголубчикが用いられていた。голубчикголубьに由来する語であり、голубьの指小・愛称・表愛であるголубокと同義であるから、голубь=голубок=голубчикの等式が成立する。

 加えて、『悪霊』では「雌鳩」、「(ふつう女性に対する呼びかけとして)かわいい人、いとしい人」を意味するголубкаの愛称・表愛であるголубушкаが用いられていた。голубкаголубушкаは同義である。ともに「呼びかけ」として用いられるголубчикголубушка(голубка)は概ね「同義」であるから、голубчикを考察するにあたってголубушкаも含める必要がある。голубокголубчикголубкаголубушкаголубьに由来する。従って、作中人物達が「擬鳥化」された特徴を持つ『悪霊』において、голубчикголубушкаをあてがわれた作中人物達は「鳩」であり、「鳩」として「擬鳥化」されていると判断できる。

 голубьに由来するголубчикголубушкаは、「「鳥」の世界」として創造され、作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を持った本作品において「鳩」を表現している。本稿ではголубчикголубушкаに着目し、「鳩」(голубчикголубушка)に「擬鳥化」された作中人物達に対する考察を行う。下記図表1~下記図表4を参照されたい。

 

図1 голубчик(単数形)並びにголубчики(複数形)の格変化

f:id:shimizumasashi:20220324043711p:plain


図2 『悪霊』におけるголубчик(単数形)の使用数

f:id:shimizumasashi:20220324043809p:plain


図3 голубушка(単数形)並びにголубушкии(複数形)の格変化

f:id:shimizumasashi:20220324043852p:plain


図4 『悪霊』におけるголубушка(単数形)の使用数

f:id:shimizumasashi:20220324043930p:plain


 『悪霊』全体でголубчикは八語、голубушкаは一語用いられている。従って、『悪霊』の作中人物達が「鳩」として「擬鳥化」されている描写は『悪霊』において合計九箇所存在する。上記図表2と上記図表4から明らかなように、голубчикголубушкаは作品内において全て「単数形」かつ「主格」として用いられている。換言すれば、『悪霊』においてголубчикголубушкаの複数形は存在せず、また「主格」以外の形(格)も存在しない。

 голубчикголубушкаは本編において用いられているが、「告白」において用いられていない。従って、「告白」にはголубчикголубушкаと呼びかけられ、「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」される作中人物は存在しない。「告白」には本編で既に「鳩」(голубчик)に「擬鳥化」された「ニコライ」が登場する。しかし、「告白」においてголубчикголубушкаは用いられていないが故に、「告白」には新規に「鳩」として「擬鳥化」された作中人物は存在しない。

 

      2

 「でも、ステパン先生、」[2](Но, голубчик Степан Трофимович,)

 

 本稿では邦訳テキストに江川訳を用いている。上記引用は「ステパン」に対するリザヴェータのセリフである。原文では「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」、「(皮肉)(非難)この人」を意味するголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ステパン」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「でも、親愛なるステパン・トロフィーモヴィチ、」である[3]голубчикに対する訳出は邦訳テキストにおいて常になされているとは限らないが故に、голубчикは邦訳テキストにおいて埋没し、読者に対して可視化されてはいない。従って、原文テキストを参照しなければ、読者は『悪霊』の作中人物達がголубчикとして「鳩」に「擬鳥化」されている特徴を発見・認識できない。

 『悪霊』の作品世界が「椋鳥の巣箱」として、すなわち、「「鳥」の世界」として創造され、『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を踏まえると、голубьに由来するголубчикголубушкаは「鳩」を表現するために用いられ、作品内において「鳩」を表現しているが故に、訳者は原文に忠実にголубчикголубушкаに対する訳出を行う必要がある。

 голубьに由来し、作品内において「鳩」を表現するために用いられたголубчикголубушкаに対する訳出の省略・軽視は、『悪霊』の作品世界が「「鳥」の世界」として創造され、『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を訳者が認識できていなかった証であり、作品に対する訳者の無理解に基づく。「「鳥」の世界」として設定された作品世界、並びに作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を持つ『悪霊』においてголубчикголубушкаは「鳩」を表現する。

 

     3

 「あら、ごめんなさい、お従姉さま、」[4](- Ах простите, голубчик, chére cousine,)

 

 上記引用は「ユリヤ」に対するリザヴェータのセリフである。上記2と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ユリヤ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「あらごめんなさい、愛する人、シンアイナルオネエサマ、」である[5]голубчикとchéreが並列された結果、ユリヤに対してリザヴェータの抱く「親愛」が「強調」されている。訳者は本作品の訳出にあたって、『悪霊』の原文テキストにおいて用いられている「フランス語」を「カタカナ」として表記する方法によって、訳出におけるロシア語とフランス語の差別化を図っている。しかし、上記引用からも明らかなように、訳者は『悪霊』の原文テキストにおいて用いられている全てのフランス語を「カタカナ」として訳出してはおらず、江川訳にはフランス語の訳出に対する「不統一性」が認められる。また訳者は、原文テキストには存在しない「読点」を訳出に反映させ、「創作」を行っている。

 

     4

 「ニコライさま、うかがいますが、」[6](- Николай Всеволодович, голубчик,)

 

 上記引用は「ニコライ」に対するレビャートキンのセリフである。上記2、3と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ニコライ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「ニコライ・フセヴォロドヴィチ、親しい人、」である[7]。訳者は上記原文テキストを「ニコライさま、うかがいますが、」[8]と訳出している。しかし、「うかがいますが」[9]に相当する語は原文テキストには存在しない。голубчикには「うかがう」の意味は存在しない。また、голубчикの品詞は「名詞」であり、голубчикに動詞の用法は存在しない。従って、上記原文テキストに対する訳者の訳出は、訳者の「創作」であるが故に、「不適切」である。

 上記引用場面においてレビャートキンはголубчикを用い、ニコライに「親近感」を抱かせ、すなわち、対人関係におけるニコライとレビャートキン自身との距離を「他人」から「家族」(「義兄弟」)へと「短縮」させ、ニコライの「良心」に訴える方法で、ニコライによってもたらされた「レビャートキン自身の身に危険が迫っている」とする情報の真偽を判断しようと試みている。

 

     5

 「おまえさんも芝居が下手くそだねえ、」[10](Нет, голубчик, плохой ты актер,)

 

 上記引用は「ニコライ」に対するマリヤ・レビャートキナのセリフである。上記2、3、4と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ニコライ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「いいえ、愛する人、あんたは未熟な役者だね、」である[11]。訳者はголубчикだけでなく、「助詞」のНетに対する訳出も行っていない。

 上記引用場面においてなされた、ニコライとマリヤ・レビャートキナとの対話には「鳥」が頻出する。ニコライは上記引用場面において、マリヤ・レビャートキナによって「鷹」[12](原文сокол)、「梟」[13](原文филином、原文сова)、「みみずく」[14](原文сыч)に見立てられ、「擬鳥化」されている。ニコライがマリヤ・レビャートキナによって「鷹」[15](原文сокол)、「梟」[16](原文филином、原文сова)、「みみずく」[17](原文сыч)に見立てられ、「擬鳥化」されている描写を踏まえれば、голубчикが「鳩」を暗示し、作品内において「鳩」を表現するために用いられており、「ニコライ」がголубчикをあてがわれる方法で、「鳩」に「擬鳥化」されていると判断できる。

 ニコライは上記引用場面において、マリヤ・レビャートキナによって「鷹」[18](原文сокол)、「梟」[19](原文филином、原文сова)、「みみずく」[20](原文сыч)、「鳩」(голубчик)に見立てられ、「擬鳥化」されている。前述したように、голубчикには「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」だけでなく、「(皮肉)(非難)この人」の意味も存在する。従って、マリヤ・レビャートキナはголубчикを用い、ニコライを「鳩」に「擬鳥化」する方法で、「公爵」(「鷹」)から「小商人」(「梟」、「みみずく」)、「僭称者」(「グリーシカ・オトレーピエフ」=「偽ドミトリー世」)へと変容したニコライを「非難」し、「皮肉」を述べている。ニコライに対してマリヤ・レビャートキナが用いた、上記原文テキストにおけるголубчикには明らかに「皮肉」・「非難」が落とし込められている。

 

     6

 「シャートゥシカに (ああ、かわいらしい、なつかしい人!)」[21](Шатушка (милый он, родимый, голубчик мой!))

 

 上記引用はマリヤ・レビャートキナがニコライに対して「シャートフ」について述べたセリフである。上記2、3、4、5と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「シャートフ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「シャートゥシカ(彼はかわいい、親愛な、私の愛する人!)」である[22]милый[23]родимый[24]голубчикが並列された結果、「シャートフ」に対してマリヤ・レビャートキナの抱く「親愛」が「強調」されている。милыйродимыйголубчикの三語には共通して「呼びかけ」の用法が存在する。訳者は原文テキストには存在しない「感嘆詞」(「感動詞」)である「ああ」[25]と「読点」を訳出に反映させ、「創作」を行っている。一方で訳者は、голубчикだけでなく、「人称代名詞」であるонと「所有代名詞」であるмойを訳出していない。

 上記5と上記引用におけるニコライに対するマリヤ・レビャートキナのセリフには「ニコライ」と「シャートフ」が登場する。「ニコライ」が「鷹」、「梟」、「みみずく」、「鳩」に「擬鳥化」されていれば、「ニコライ」と「対比」されている「シャートフ」もまた「擬鳥化」されていると考えなければならない。マリヤ・レビャートキナは「ニコライ」と「シャートフ」を「鳩」に「擬鳥化」する方法で、「類比」している。

 マリヤ・レビャートキナによって、「ニコライ」と「シャートフ」はともに「鳩」に「擬鳥化」され、かつ「鳩」として「比較」されている。マリヤ・レビャートキナは「シャートフ」に対してголубчикを「愛する人」の意味で用いている。しかし一方で、マリヤ・レビャートキナは「ニコライ」に対してголубчикを「皮肉」・「非難」の意味で用いている。マリヤ・レビャートキナによって「ニコライ」に対して用いられたголубчикには「皮肉」・「非難」の意味が落とし込められている。従って、マリヤ・レビャートキナはголубчикを通してニコライに「皮肉」・「非難」を浴びせている。

 繰り返すが、「シャートフ」と「ニコライ」はともに、マリヤ・レビャートキナによってголубчикがあてがわれている。しかし、マリヤ・レビャートキナが「シャートフ」に対して用いたголубчикの意味と「ニコライ」に対して用いたголубчикの意味は異なる。マリヤ・レビャートキナによって「シャートフ」に対して用いられたголубчикと「ニコライ」に対して用いられたголубчикは「同形」であるが、「意味」は異なる。

 マリヤ・レビャートキナにおいて、「鳩」は「ニコライ」と「シャートフ」に共通する「鳥」である。「鳩」はマリヤ・レビャートキナにとって、「「ニコライ」と「シャートフ」に共通する要素を備えた「鳥」」である。従って、「ニコライ」と「シャートフ」は「鳩」の持つ性質・特徴を備えた作中人物である。

 

     7

 「マリイ、ねえ、」[26](- Marie, голубчик,)

 

 上記引用は「マリヤ・シャートワ」に対するシャートフのセリフである。上記2、3、4、5、6と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「マリヤ・シャートワ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「マリイ、愛する人、」である[27]。前述したように、голубчикには「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」の意味が存在するため、голубчикは「男性または女性に対する呼びかけ」として用いられる。しかし、голубчикに「ねえ」[28]の意味は存在しない。作中人物達が「擬鳥化」された特徴を持つ『悪霊』において、голубчикは作中人物達を「鳩」として「擬鳥化」するために用いられている。ドストエフスキーголубчикを用いる方法で、『悪霊』の作中人物達を「鳩」として表現している。従って、作品内において作中人物達を「鳩」に「擬鳥化」し、作中人物達を「鳩」として表現するために用いられているголубчикを訳出に反映させ、『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」された特徴を形容するためにも、訳者はголубчикを単なる呼びかけとしてではなく、「愛する人」として訳出すべきである。

 マリヤ・シャートワはシャートフの「妻」であり、シャートフはマリヤ・シャートワの「夫」である。また、マリヤ・シャートワが出産した嬰児イワンは、「ニコライとマリヤ・シャートワの子供」である。従って、「マリヤ・シャートワ」が「擬鳥化」された結果、「シャートフ」、「ニコライ」、「嬰児イワン」が「擬鳥化」される。

 

     8

 「それからね、おまえさん、」[29](А ты, голубушка,)

 

 上記引用はワルワーラのセリフである。上記引用においてワルワーラがголубушкаと名指した人物が作品内において明確に描写されていないため、ワルワーラによってголубушкаと名指しされた人物の特定は難しい。しかし、голубушкаは「「女性」に対して用いられる呼びかけ」であるから、ワルワーラによってголубушкаと名指しされた人物は「女性」に限定される。ワルワーラを除いて、上記引用場面に登場する女性作中人物は「ソフィヤ」、「ダーリヤ」、「百姓家の主婦」である。ワルワーラはソフィヤに対して百姓家から即刻退去するように命じているため、上記ワルワーラのセリフはソフィヤに対してなされてはいない。また、ダーリヤはワルワーラに帯同し、ワルワーラとともにウスチエヴォにある大きな百姓家に駆けつけているため、上記ワルワーラのセリフはダーリヤに対してもなされていない。従って、ワルワーラによってголубушкаと名指しされている人物は、「消去法」で、「百姓家の主婦」であると考えられる。

 上記引用は「百姓家の主婦」に対するワルワーラのセリフである。「百姓家の主婦」がголубушкаとして描かれていれば、「夫」である「百姓家の主人」も「鳥」(「鳩」)として想定されていると推察できる。「百姓家の主婦」が「擬鳥化」された結果、相方である「百姓家の主人」もまた間接的に「擬鳥化」されていると考えられるが故に、百姓家の主人と百姓家の主婦は「鴛鴦夫婦」として描かれている事実が判明する。

 「ウスチエヴォにおける大きな百姓家」は、「鳥籠」、「鳥小屋」、「鳥の巣」としても想定されている。『悪霊』の作中人物達は「擬鳥化」されて描かれているが故に、『悪霊』の作品世界は「「鳥」の世界」として創造されている。従って、作品世界が「「鳥」の世界」として想定され、作中人物達が「擬鳥化」されて描かれた特徴を持つ『悪霊』において、作品内に登場する夫婦は皆、「鴛鴦夫婦」として解釈可能である。

 上記2、3、4、5、6、7と同じく、原文では「雌鳩」、「(ふつう女性に対する呼びかけとして)かわいい人、いとしい人」を意味するголубкаの愛称・表愛であるголубушкаが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубушкаが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубушкаもまたголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубушкаを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「それからあんた、かわいい人、」である[30]。邦訳テキストではголубушкаが訳出されていないが故に、上記引用における「ワルワーラ」のセリフが誰に対してなされているのかがわかりにくい。

 

 権柄ずくな彼女のきびしい声がひびき渡った。さすがの主人夫婦もふるえあがった。ステパン氏はもうとっくにスパーソフに行っていると思いこんでいたから、夫人がここに車を止めたのは、いろいろと話を聞くためだけの目的であった。彼がここにいて、病気だと聞くと、夫人は興奮の面持で家にはいった。

 「さあ、あの人はどこにいるの? ああ、おまえさんだね!」ちょうどこの瞬間、奥の間の敷居ぎわに姿を見せたソフィヤを見かけると、夫人はこう叫んだ。「その厚かましい顔つきを見ただけで、おまえさんだということがわかりましたよ。出てお行き、性悪女! たったいまからこの家の中にこの女の匂いがしても承知しないから! 追い出しておしまい、ぼやぼやしてると、いいかい、一生おまえさんを牢屋にぶちこんでやるからね。さしあたり、この女をほかの家に押しこめておきなさい。この女はもう町で一度牢屋にはいっているけど、また入れてやるのさ。それからね、ご主人、わたしがここにいる間は、だれも家に入れるんじゃないよ。わたしはスタヴローギナ将軍夫人だけど、いまからこの家を全部借りきるんだから。それからね、おまえさん、何もかもすっかりわたしに白状してしまうんだよ」[31]

 

 原文テキストにおいてголубушкаが用いられているにもかかわらず、голубушкаが邦訳テキストにおいて訳出されていないが故に、「それからね、ご主人、わたしがここにいる間は、だれも家に入れるんじゃないよ。わたしはスタヴローギナ将軍夫人だけど、いまからこの家を全部借りきるんだから。それからね、おまえさん、何もかもすっかりわたしに白状してしまうんだよ」[32]におけるワルワーラのセリフが全て百姓家の主人に対して立て続けになされているように読者は錯覚・誤解してしまう。原文テキストにおいて用いられているголубушкаが邦訳テキストにおいて訳出されていなければ、読者は上記ワルワーラのセリフにおける「おまえさん」[33]を「百姓家の主人」として誤認してしまう。

 しかし、原文テキストにおいて「「女性」に対する呼びかけ」であるголубушкаが用いられていると確認できれば、「それからね、ご主人、わたしがここにいる間は、だれも家に入れるんじゃないよ。わたしはスタヴローギナ将軍夫人だけど、いまからこの家を全部借りきるんだから」[34]が「百姓家の主人」に対してなされているセリフであり、「それからね、おまえさん、何もかもすっかりわたしに白状してしまうんだよ」[35]が「百姓家の主婦」に対してなされているセリフであるとわかる。

 голубушкаは、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」としても機能している。原文テキストにおいてголубушкаを認識した読者は、голубушкаが用いられる前のセリフが「百姓家の主人」に対してなされており、голубушкаが用いられたセリフが「百姓家の主婦」に対してなされていると理解する。従って、голубушкаが用いられる前の文章とголубушкаが用いられた文章との間には「切れ目」が存在する。

 「接続詞」のАとともに、голубушкаは「上記ワルワーラのセリフにおける「切れ目」」を表し、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」を明示するための役割をも果たしている。голубушкаが用いられているが故に、読者はголубушкаが用いられる前の文章が「百姓家の主人」に対してなされたセリフであり、голубушкаが用いられた文章が「百姓家の主婦」に対してなされたセリフであると理解できる。従ってголубушкаは、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」でもあり、「百姓家の主婦」を表現するだけでなく、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」をも表現している。

 ドストエフスキーголубушкаを用いる方法で、「百姓家の主婦」を表現している。голубушкаに着目して作品テキストを読めば、「ウスチエヴォにおける大きな百姓家」において、ワルワーラとダーリヤの目の前には「ソフィヤ」、「百姓家の主人」、「百姓家の主婦」の三人が存在し、ワルワーラは「ソフィヤ」、「百姓家の主人」、「百姓家の主婦」の順番で命令を下し、一人一人に対して采配を振っている情景が把握できる。ワルワーラはソフィヤに対して百姓家から即刻退去するように命じている。ワルワーラは百姓家の主人に対して百姓家を借り切るため、百姓家への他者の立ち入りを全面的に禁止するように命じている。ワルワーラは百姓家の主婦に対して百姓家の主婦が知っている全ての事情について遺漏なくワルワーラに報告するように命じている。

 作品内においてワルワーラは「鷹」として、百姓家の主婦は「鳩」として「擬鳥化」されている。百姓家の主婦を「鳩」(голубушка)として認識・呼称するワルワーラにとって、百姓家の主婦は「愛玩鳥」である「鳩」程度の力の持ち主にすぎず、百姓家の主婦が「取るに足らない存在」(「小鳥」)である事実が明らかになる。ワルワーラと百姓家の主婦の力関係が「擬鳥化」される手法で描かれている。ワルワーラと百姓家の主婦が「擬鳥化」された結果、百姓家の主婦に対するワルワーラの圧倒的かつ絶対的な優位性が明示されている。

 

     9

 「待ってちょうだいね、ステパン・トロフィーモヴィチ、待ってちょうだいよ、いい子だから」[36](- Подожди, Степан Трофимович, подожди, голубчик!)

 

 上記引用は「ステパン」に対するワルワーラのセリフである。原文において用いられているголубчикが訳出に表現されている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ステパン」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「待って、ステパン・トロフィーモヴィチ、待って、愛する人!」である[37]。訳者は原文テキストの文末に置かれた「感嘆符」を訳出に反映していない。上記引用直後の文章には「彼女は赤ん坊をあやすように言った」[38]と記述されているから、上記原文テキストにおけるголубчикに対する訳出は「可愛い人」、「いい子」等も適切である。命令形で用いられているПодожди(подожди)の語形から、上記引用場面においてワルワーラはステパンに対してтыで呼びかけている事実が判明する。

 

     10

 「さあ、落ちついてちょうだい、落ちつくんですよ、いい子だから、」[39](- Ну успокойся, успокойся, ну голубчик мой,)

 

 上記引用は「ステパン」に対するワルワーラのセリフである。上記9と同じく、原文において用いられているголубчикが訳出に表現されている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ステパン」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「さあ落ち着いて、落ち着いて、ねえ私の愛する人、」である[40]。訳者は原文テキストには存在しない「読点」を訳出に反映させ、「創作」を行っている。一方で、訳者はну[41]と「所有代名詞」であるмойに対する訳出を行っていない。上記引用は上記9を踏まえて描かれている。上記9と同様に、命令形で用いられているуспокойсяの語形から、上記引用場面においてワルワーラはステパンに対してтыで呼びかけている事実が判明する。

 

結論

     1

 голубьголубокを調査した結果、『悪霊』ではголубьголубокが用いられておらず、голубьголубокのかわりにголубчикголубушкаが用いられている事実が判明した。従ってドストエフスキーは、голубчикголубушкаを用いて、『悪霊』の作中人物達を「鳩」に「擬鳥化」している。

 『悪霊』全体でголубчикголубушкаは合計九語用いられている。以下、голубчикголубушкаを用いた人物達とголубчикголубушкаをあてがわれた人物達の両方を列挙する。

 

①「リザヴェータ」→「ステパン」

②「リザヴェータ」→「ユリヤ」

③「レビャートキン」→「ニコライ」

④「マリヤ・レビャートキナ」→「ニコライ」

⑤「マリヤ・レビャートキナ」→「シャートフ」

⑥「シャートフ」→「マリヤ・シャートワ」

⑦「ワルワーラ」→「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」(голубушка)

⑧「ワルワーラ」→「ステパン」

⑨「ワルワーラ」→「ステパン」

 

 『悪霊』において「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」されている作中人物は、「ステパン」、「ユリヤ」、「ニコライ」、「シャートフ」、「マリヤ・シャートワ」、「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」である。特に「ユリヤ」が「擬鳥化」されている描写の発見は、博士論文において指摘できていなかったため、本考察の賜物に他ならない。また、本考察によって「シャートフ」、「マリヤ・シャートワ」が「擬鳥化」されている描写も獲得できた。加えて、голубчикではなく、голубушкаになるが、本考察によって「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」が「鳩」として「擬鳥化」されている描写も発見できた。マリヤ・レビャートキナによって、「ニコライ」と「シャートフ」がともに「鳩」に「擬鳥化」された形で「比較」されていた事実も見逃せない。

 「ニコライ」は「レビャートキン兄妹」からголубчик(「鳩」)として「擬鳥化」されている。「ステパン」は「リザヴェータ」と「ワルワーラ」からголубчик(「鳩」)として「擬鳥化」されている。マリヤ・レビャートキナによって「鳩」として「擬鳥化」された「シャートフ」は、「マリヤ・シャートワ」を「鳩」として「擬鳥化」している。他者から「鳩」として「擬鳥化」されると同時に、他者を「鳩」として「擬鳥化」する作中人物は「シャートフ」だけである。

 голубушкаを含めると、голубчикを最も多用している作中人物は、「ワルワーラ」である。レビャートキンとマリヤ・レビャートキナを「レビャートキン兄妹」として「合算」すれば、「レビャートキン兄妹」もまた「ワルワーラ」と並んでголубчикを最も多用する作中人物であると判断できる。голубчикだけに限定すると、голубчикを最も多用する作中人物は「リザヴェータ」、「マリヤ・レビャートキナ」、「ワルワーラ」となる。一方、голубчик(「鳩」)として最も多く「擬鳥化」されている作中人物は「ステパン」である。ステパンは「女性作中人物達」からголубчик(「鳩」)として「擬鳥化」されている。голубчикを複数回あてがわれている作中人物は、「ステパン」と「ニコライ」だけであり、いずれも「男性」である。голубчикが複数回あてがわれた結果、「ステパン」と「ニコライ」の二人が「鳩」の性質を持ち、「鳩」として想定されている事実が「強調」されている。

 голубушка一語とголубчик八語を合算した九語のうち、二語が「男性作中人物」によって用いられており、残り七語が「女性作中人物」によって用いられている。意外ではあったが、голубчик(голубушка)を用いる作中人物は「女性」が多い事実が判明した。加えて、голубчик八語のうち、二語が「女性作中人物」にあてがわれており、残り六語が「男性作中人物」にあてがわれている。同じく意外ではあったが、голубчикがあてがわれている作中人物は「男性」が多い事実が判明した。従って、голубчикは「女性」によって用いられ、「男性」に対してあてがわれており、男性作中人物は女性作中人物よりも作品内において「鳩」として「擬鳥化」されている回数が多い。    голубчик(「鳩」)として「擬鳥化」された男性作中人物は「ステパン」、「ニコライ」、「シャートフ」の三人である。一方、голубчик(「鳩」)として「擬鳥化」された女性作中人物は「ユリヤ」、「マリヤ・シャートワ」の二人である。作品内において「鳩」として「擬鳥化」されている人数も「男性」の方が多い。

 голубчик(голубушка)を用いた人物とголубчик(голубушка)をあてがわれた人物における性別の組み合わせについては、「女性」→「男性」、「女性」→「女性」、「男性」→「男性」、「男性」→「女性」の四通り全てが確認できた。  голубчик(голубушка)は、異性関係だけでなく、「「同性関係」においても用いられる語」である事実が改めて裏付けられた。「男性」によって「鳩」(голубчик)として「擬鳥化」されている男性作中人物は「ニコライ」であり、「女性」によって「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」されている女性作中人物は「ユリヤ」(голубчик)、「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」(голубушка)であるから、голубчик(голубушка)は「同性」に対しても用いられている。「男性」によって「鳩」(голубчик)として「擬鳥化」されている女性作中人物は「マリヤ・シャートワ」であり、「女性」によって「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」されている男性作中人物は「ステパン」、「ニコライ」、「シャートフ」である。

 本稿において行った、『悪霊』の作中人物達が「聖鳥」である「鳩」に「擬鳥化」されて描かれている描写に関する調査・考察は以上となる。本研究成果を踏まえ、引き続き『悪霊』における「鳥」についての考察を行う所存である。

 

参考文献

坂下将人『Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』―「鳥」に関する一考察』 日本大学 2020。

清水正『『悪霊』論 ドストエフスキーの作品世界』 鳥影社 1990。

清水正ドストエフスキー『悪霊』の世界』 鳥影社 1990。

清水正『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』 鳥影社 1993。

清水正『ウラ読みドストエフスキー』 清流出版 2006。

清水正清水正ドストエフスキー論全集6 『悪霊』の世界』 D文学研究会 2012。

東郷正延、染谷茂、磯谷孝、石山正三(編者)『研究社露和辞典』 研究社 1994。

Достоевский, Ф.М. Бесы (「オンライン版」)

http://www.magister.msk.ru/library/dostoevs/dostoevs.htm

ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) 新潮社 初版1971 改版2004。

ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) 新潮社 初版1971 改版2004。

ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) 岩波書店 1989。

ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) 岩波書店 1989。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 1』 光文社 2010。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 光文社 2011。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 光文社 2011。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 別巻 「スタヴローギンの告白」異稿』 光文

社 2012。

ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』

                                     中央公論社 1969。

ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』

                                     中央公論社 1969。

ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 筑摩書房

1967。

和久利誓一、飯田規和、新田実(編者)『岩波ロシア語辞典』 岩波書店 1992。

 

 

[1] 『悪霊』では「かわいがる、やさしくする、やさしくしてやる」を意味するприголубить(原文Приголубьте)が1語用いられている。приголубитьは、「可愛がる、いつくしむ、いとおしむ、愛撫する、あやす」を意味するголубитьに由来する。語形から明らかなように、голубитьにはголубьが内在するが故に、голубитьголубьを暗示する。従って、приголубитьголубьを暗示する。しかし、本稿ではприголубить(原文Приголубьте)が用いられた描写に関する考察は行わない。

[2] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) 新潮社 2004 p.201。

[3] 以下、「現代仮名遣い」並びに「新字体」で翻訳された『悪霊』の先行訳に限定し、同描写における各訳出を列挙する。『悪霊』は、池田健太郎江川卓亀山郁夫、小沼文彦、米川正夫によって「現代仮名遣い」並びに「新字体」で翻訳されている。従って、2021年の時点において、「現代仮名遣い」並びに「新字体」で翻訳された『悪霊』には池田訳、江川訳、亀山訳、小沼訳、米川訳が存在する。各先行訳に対する考察については、本稿における考察を踏まえ、読者自身で行って頂きたい。

池田訳「でも、わたくしの大切なスチェパン・トロフィーモヴィチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 中央公論社 1969 p.138)

江川訳「でも、ステパン先生、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.201)

亀山訳「でも、わたしの大好きな先生、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 1』 光文社 2010 p.254)

小沼訳「それはそうと、スチェパン・トロフィーモヴィッチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 筑摩書房 1967 p.105)

米川訳「ときにスチェパンさま、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) 岩波書店 1989 p.182)

[4] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.299。

[5] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「あっ、ごめんなさいね、従姉、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.200)

江川訳「あら、ごめんなさい、お従姉さま、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.299)

亀山訳「あら、ごめんなさい、chère cousine (ねえ、おねえさま)、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 1』 p.378)

小沼訳「あら、ご免なさい、あなた、chère cousine (大好きないとこ)。」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.153)

米川訳「あら、失礼しましたわね、あなた、chère cousine(親愛な従姉)」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.271)

[6] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516。

[7] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.342)

江川訳「ニコライさま、うかがいますが、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516)

亀山訳「スタヴローギンさま、で、どうなんです、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 光文社 2011 p.164)

小沼訳「ニコライ・フセーヴォロドヴィッチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.262)

米川訳「ニコライさま、若旦那、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.474)

[8] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516。

[9] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516。

[10] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.531-p.532。

[11] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「だめだよ、あんた、あんたはお芝居が下手くそだね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.353)

江川訳「おまえさんも芝居が下手くそだねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.531-p.532)

亀山訳「だめだね、おまえさん、あんたも下手な役者だよ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 p.183)

小沼訳「駄目ですよ、お前さん、お前さんは大した役者じゃないね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.269)

米川訳「だめだよ、お前さん、お前さんは芝居が下手で、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.488)

[12] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[13] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[14] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[15] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[16] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[17] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[18] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[19] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[20] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[21] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[22] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「あのシャートゥシカに (あれはいい人だよ、親身な、あたしの大好きな人なのさ)」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.353-p.354)

江川訳「シャートゥシカに (ああ、かわいらしい、なつかしい人!)」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532)

亀山訳「あのシャーさんに (ほんとうにかわいい人さ、優しくて、わたしゃ大好き)」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 p.184)

小沼訳「あのシャートゥシカに (あの人はわたしのなつかしい、可愛い人だよ、わたしはあの人が大好きなのさ!)」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.270)

米川訳「シャートゥシカに(あの人は可愛い人だ、わたしの好きな懐かしい人だ)、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.489)

[23] милыйは「(人が)感じのよい、感じがいい、かわいい、美しい、人好きのする、魅力的な」、「(事物が)感じのよい、かわいい、楽しい、快い、うれしい」、「親切だ、親切な、よく気のつく」、「いとしい、なつかしい(しばしば親しい呼びかけとしても)、親しい、親愛な、愛する」、「(呼びかけ)あなた(親しみをこめて;しばしばмоймояを伴う)、きみ、いとしい人」、「いとしいこと(もの、場所)」「恋人、愛人、愛する人」を意味する。

[24] родимыйは「血のつながった、肉親の、生みの、親愛な、自分が生れた」、「おまえさん(親しい呼掛け)」、「(ふつう呼びかけで)お父さん、お母さん」、「(親しい人への呼びかけで)あなた、お前さん」、「両親、係累、親類」を意味する。

[25] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[26] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) 新潮社 2004 p.453。

[27] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「ねえ、マリイ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 中央公論社 1969 p.352)

江川訳「マリイ、ねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.453)

亀山訳「マリー、ねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 光文社 2011 p.294)

小沼訳「マリイ、あのねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.598)

米川訳「マリイ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) 岩波書店 1989 p.481)

[28] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.453。

[29] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[30] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「おまえさんはね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 p.452)

江川訳「それからね、おまえさん、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601)

亀山訳「で、あんたはね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 p.481)

小沼訳「だからお前さんは、いいかい、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.671)

米川訳「ところでね、お前さんは」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) p.621)

[31] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.600-p.601。

[32] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[33] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[34] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[35] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[36] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.603。

[37] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「待ってちょうだいね、スチェパン・トロフィーモヴィチ、もう少し待ってちょうだいね、いい子だから」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 p.453)

江川訳「待ってちょうだいね、ステパン・トロフィーモヴィチ、待ってちょうだいよ、いい子だから」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.603)

亀山訳「待ってちょうだい、ステパンさん、待ってね、いい子だから!」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 p.483)

小沼訳「待ってくださいね、スチェパン・トロフィーモヴィッチ、もうすこし待ってくださいね、いいですわね!」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.672)

米川訳「待ってちょうだい、スチェパン・トロフィーモヴィッチ、待ってちょうだいね、いいでしょう!」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) p.623)

[38] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.603。

[39] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.604。

[40] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「さあ、落ち着いてちょうだい、落ち着いて、ね、いい子だから!」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 p.454)

江川訳「さあ、落ちついてちょうだい、落ちつくんですよ、いい子だから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.604)

亀山訳「さあ、落ちついて、落ちついてくださいな、さあ、いい子だから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 p.484)

小沼訳「さあ、落ち着いて、落ち着くんですよ。さあ、いい子ですから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.672)

米川訳「さあ、お落ちつきなさい、お落ちつきなさい。ね、いい子だから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) p.624)

なお、米川訳における「お落ちつきなさい」は、「原文の儘」、米川訳から引用している。

[41] нуには「間投詞」のнуと「助詞」のнуが存在する。上記引用の後に登場するуспоко́йтесьが原文テキストにおいてус-по-кой-тесьと「強調」された形で表記されている事実を踏まえると、上記引用におけるнуは二語とも「助詞」のнуとしても解釈・訳出できると考えられる。

───────────────────────────────────────────────────────

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

f:id:shimizumasashi:20210901150720j:plain

清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

f:id:shimizumasashi:20210901150149j:plain

清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

 

 

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。

sites.google.com

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

f:id:shimizumasashi:20210907111050j:plain

韓国語訳『ウラ読みドストエフスキー』はイーウンジュの翻訳である。イーウンジュはわたしの教え子で拙著『宮崎駿を読む』の翻訳者でもある。現在、ソウルで著作活動に励んでいる。

 

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

sites.google.com

断想・幸徳秋水とドストエフスキー(連載2)

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

断想・幸徳秋水ドストエフスキー(連載2)

幸徳秋水訳「悪魔」の謎を解く

清水正

 

 幸徳秋水に興味を持った一つの理由は『基督抹殺論』を読んだからである。これは岩波文庫で二〇二二年一月二十一日に読み終えた。基督抹殺論とは題名からして大胆で物騒だが、一読して納得するところ多かった。この際、代表的な著作だけでも読んでおこうと、スマホで検索すると、ヤフオク幸徳秋水全集が出品されていたので、早速入札して落札した。目次を見ていると第六巻に「悪魔 ドストエフスキー (翻訳)……年月不詳……510」とある。ドストエフスキーに「悪魔」などというタイトルの作品はない、これはいったいどういうことか、いぶかりながらその頁を開くことにした。確かにタイトルに「悪魔」とあり、「ドストエフスキー 幸徳秋水訳」とある。これだけを見れば、「悪魔」はドストエフスキーの作品であり、幸徳秋水がそれを訳したことになる。この巻の解説を書いている森長英三郎は【もう一つの翻訳であるドストエフスキー「悪魔」は、「文芸戦線」第六巻第二号(昭和四年)にはじめて発表されたものであるが、ゴルキー「同志よ」と同時代の訳であると推定してこの巻に収めた】とだけしか書いていない。

 まずは〈訳者〉による〈但し書き〉を見てみよう。

 

   本篇は面白い由緒を有つて居る、夫れは露都で有名な彼得保羅監獄中の教誨所の壁上に、此全文が鉛筆で記るされてあつたことである、同監獄の寺院、即ち教誨所は、多数の狭くるしい陰気な監房に仕切られて、其れが孰れも祭壇の方に向つた一方口で、前に金網が張てある、囚人は僅に此金網を透して、教誨所を仰ぎ視、且つ其説教を聴き得るのみで、左右の房の囚人同志とは相見ることが出来ぬやうになつて居る、そして獄吏が房内に這入ることは極めて稀れなので、此の奇なる手記のあることも数十年間知られずに過ぎたのである。然るに或時の修繕に際して偶然発見され、其筆蹟と末尾の日付けとに依つて、愈々ドストエフスキー氏が一千八百四十九年の入獄中に書き残したものなることが明白となり、上官は命じて其上に硝子を掩はせ、保存させることゝなつたさうである、而も近頃まで獄吏の外は此を見たものは無つたのであるが、遂にエフ・ナロドニー(F Narodny)なる一政治犯人の手に依つて、世界に弘布せらるゝに至った、此人も亦多年同じ監獄に禁錮せらるゝ中、本篇を一読して、長く之を埋没するに忍びず、種々苦心の末、窃かに全文を自分のシヤツの袖に写し取り、放免の後ち世に公けにしたものである、斯くて半世紀以上も監房の暗黒裡に埋められて居た文豪の片身は、今や世界文壇の珍品の一と数へらるゝを得たのである、芸術としての価値如何は、門外漢たる僕には分らぬが、此由緒だけでも訳出の理由があらうと思ふ。

                         訳者

 

 全集に掲載されたものだけを読むと、作品「悪魔」成立に関する端書きを誰が書いたのか分からない。うっかり読んでいると〈訳者〉幸徳秋水が書いたのではないかと思えてしまう。が、幸徳秋水がアレクセーエフ半月堡に拘留されていたドストエフスキーについて詳しい事情を知っていたとは思えない。直感的に思うのは、この〈端書き〉は幸徳秋水とは別の人が記したということ、つまり「悪魔」はドストエフスキーの作ではなく、この作をドストエフスキーの作であるかのように偽装した本当の作者がいたということである。

 もし、「悪魔」が実際にドストエフスキーが書いたものであるなら、それが発見された時点で世界中のドストエフスキー研究者や愛好者に衝撃を与えたはずである。日本はドストエフスキー文学の翻訳紹介においては世界で最も盛んであり、研究者も多い。日本の代表的なドストエフスキー翻訳者の米川正夫、小沼文彦、江川卓の著作にも獄中で書かれた「悪魔」に関する記事はない。ドストエフスキーがペトラシェフスキー事件に連座した廉で逮捕、監禁、取り調べを受けた事柄に関しては原卓也・小泉猛編訳『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』(一九七一年十一月 集英社)とN・F・ベリチコフ編・中村健之介編訳『ドストエフスキー裁判』(一九九三年 北海道大学図書刊行会)が刊行されているが、その中にも「悪魔」に関する記事はない。従って、作品「悪魔」と〈端書き〉は幸徳秋水以外の誰かが書いたものを、幸徳秋水が翻訳して「文芸戦線」(第六巻第二号)に発表したものと推測できる【全集の解説には初出誌が「文芸戦録」となっているがこれは誤植である】。

 

 ネットで「幸徳秋水ドストエフスキー」を検索すると、山泉進(明治大学名誉教授)の「幸徳秋水ドストエフスキー」(高知県立文学館ニュース「藤並の森」vol.95  二〇二一年十一月)が出てきた。山泉氏は幸徳秋水の「悪魔」をとりあげ、端書きと内容を簡潔に紹介した後【不思議なことに、現在、小説「悪魔」は研究者たちによってドストエフスキーの作品であるとは認められていない。ということは、秋水による「贋作」ということになるが、この謎を解ける人がどこかにいないだろうか】と結んでいる。

 わたしは今回、はじめて幸徳秋水に「悪魔」の翻訳があることを知り、興味を持ったのでいろいろ文献を漁ることにしたが、その中に黒川創の『暗殺者たち』(二〇一三年 新潮社)があった。これは小説の形を採っているが、最初の見出しにゴチック体で【演題は「ドストエフスキー大逆事件」だが、この作家は、夏目漱石、そして安重根について話し出す】とある。わたしはまさか小説『暗殺者たち』がドストエフスキー大逆事件について触れているとは思わなかったので、さっそく読み始めた。

 するとまったく予期しなかったが、ドストエフスキーの「悪魔」に関して実に詳細に考察している箇所にでくわした。不勉強と言われればそれまでの話だが、今まで〈幸徳秋水ドストエフスキー〉という視点がなかったので、発見が遅れてしまったということである。

 

 黒川創がまず第一に取り上げるの幸徳秋水訳「悪魔」ではなく、大石誠之助訳「僧侶と悪魔」である。大石は大逆事件で逮捕、処刑された人物であるが、一九一〇年二月から「サンセット」という八頁だての月刊雑誌を刊行し、その三月号にドストエフスキーの作と言われる「僧侶と悪魔」を訳している。因みに、この翻訳は大石誠之助全集2(一九八二年八月 弘隆社)に収録されている。

 黒川創は「僧侶と悪魔」を次のように要領よくまとめている。

 

  題名通り、正教教会の僧侶と悪魔、両者のあいだの対話によって成るものです。

  教会の豪華な祭壇の上に立ち、きらびやかな法衣をまとった僧侶が、貧しげな労働者や農民を前に語ります。

  ――もっと献物を教会に納めよ。強権に服従せよ。地上の権門に反抗するなかれ。神の言葉にそむくことが、どれほど罪であるを知っているか? そう、悪魔が汝らを迷わせて、霊魂を試そうとしているのだ……。

  こんな説教を僧侶が教会の壇上でしているとき、悪魔が、近くの路上を通りかかる。そして、自分の名前を僧侶が語るのを聞きとがめ、教会の窓から、その様子を覗くのです。やがて、僧侶がそこから出てくるのを悪魔は引っ捕らえ、つるし上げます。

 

 《こりゃ、小さい肥った教父! 汝は何故恐ろしい地獄の苦しみなどを描き出して、こんな憐れな迷うた人々を誑すのか? 汝は彼等がこの世の生活で既に地獄の呵責を受けている事を知らないか? 現に汝だの国家の強権というものは、地上に於けるこの己れの――即ち悪魔の――代表者だという事を知らないか? 汝が彼等を脅す道具にする地獄の苦痛は、実際汝が作ったものではないか? 何? わからない? それじゃあ己れが知らしてやるから、己れについて来い!」》

 

  そう言って、悪魔は僧侶の襟首をつかんで、労働者が炎熱のなかで働く鋳鉄所へ、農民が飢えと鞭に追い使われる畑へ、寒さと悪臭にみちている彼らの住かへと、連れまわしていくのです。

 

 《「そうさ、これが真実の地獄だ。……」》

 

  そうやって終わるのですが、この小説は、末尾に、んな但し書きを加えます。

 

 《この話は、自分が教誨師の説教を聞いている間に、ふと心に浮んで来たので、今これを監房の壁に書きつける。

   一八四九年十二月十三日

                            一囚徒 》

 

 幸徳秋水訳には先に引用したように、小説の前に〈端書き〉を書いている。大石誠之助訳ではどうなっているのか。まずは全集で確認してみることにする。そこには次のような〈端書き〉が小説の前に書かれている。

 

  此スケ〔ツ〕チは「貧しき民」と「罪と罰」の二著によつて文名を揚げたドストエウスキーが、政事犯のために要塞の禁獄に投れられた時、監房の壁に書きつけたものである。(249)

 

 明らかに幸徳秋水訳のそれとは異なっている。いったい〈端書き〉は誰が書いたのか。

 

 黒川創は先に引用した箇所の前に次のように書いている。

 

  一九一〇年に入ると、その二月から、紀州・新宮の大石誠之助は「サンセット」という月刊の文芸雑誌を地元の親しい牧師と二人で出しはじめます。タブロイド版で、八ページだて、つまり、新聞のような形式です。大石が特に力を注いだのは、ロシア語、ドイツ語、また、ユダヤ人作家によってイディッシュ語で書かれたとされる海外短編文学の翻訳です。いずれも、英語版からの重訳ということでしょう。

  四月発行の「サンセット」第三号で、彼は、ドストエフスキー「僧侶と悪魔」という作品を訳しています。(101)

 

  大石誠之介訳の「僧侶と悪魔」が、彼の出していた「サンセット」第三号に掲載されていたことは分かった。問題は原文である。黒川創は次のように書いている。

 

  米国のアナキズム活動家エマ・ゴールドマンらが出していた「マザー・アース」という雑誌があります。この「マザー・アース」一九一〇年一月号に、ドストエフスキー作“The Priest and the Devil”が載っています。つまり、大石誠之助は、これを英語から日本語に翻訳し、「僧侶と悪魔」という表題で「サンセット」第三号に掲載したんでしょう。大石は、この雑誌を船便で米国から取り寄せ、定期購読していました。(104~105)

 

 これで「僧侶と悪魔」の原文と掲載誌が判明したことになる。次に問題となるのは“The Priest and the Devil”を誰が書いたかのかということである。黒川創は次のように書いている。

 

  手がかりは、どうやら「マザー・アース」編集の中心人物、エマ・ゴールドマンその人の著作のなかにありました。彼女は、この翌年、一九一一年初めに Anarchism and Other Essays という著書を刊行しています。そして、この自著のなかに、先の“The Priest and the Devil”のあらましを収めて、こんなふうに述べています。――この物語は、半世紀前の暗黒ロシアで、もっとも恐れられた牢獄の壁に書かれた。とはいえ、現在も、とりわけ米国の刑務所においては、事は変わっていないのだ――。  ふと、気づきました。ひょつとしたら、まさに彼女こそが、ここでのドストエフスキーなのではないか、ということに。つまり、彼女がドストエフスキーの名をかたって“The Priest and the Devil”を創作したのではないかということです。エマ・ゴールドマン自身も、暗殺未遂事件の共犯者として捕らえられ、獄中生活を送ったことがありました。(中略)だとすれば、ドストエフスキー作とされる“The Priest and the Devil”は、この英語のヴァージョンこそがオリジナルなのであって、ロシア語の原文などはどこにも存在していない、ということになるでしょう。つまり、これは、言うならば、彼女によるドストエフスキーの代作なのだ、ということです。そして、これを実行に移す資格、というより権利、いや、むしろ、やりとげる務めが自分にはあると、堅く彼女は自負してきたようなふしがあるのでした。(105~106)

 

 『暗殺者たち』は創作の形を採っているが、読む限りかなり実証的事実をおさえており、説得力がある。大石誠之介も幸徳秋水も“The Priest and the Devil”をドストエフスキーの作品として疑わずに訳していたが、本当の作者は掲載誌「マザー・アース」の有力編集者エマ・ゴールドマンその人だという指摘は説得性が高い。

 「僧侶と悪魔」を収録した『大石誠之助全集2』にも、「悪魔」を収録した『幸徳秋水全集』第六巻にも、原文や作者に関する解説はまったくない。「悪魔」を載せた「文藝戦線」(一九二九年二月)には編集部から「本稿は、堺利彦氏の所蔵されてゐたものを本誌へ発表のはこびになつたものである。/本誌がこれを掲載するに致つたのは、単なる懐古的な……骨唐を愛するやうな興味からではなく、これを読むに際して、種々教へられるところの多いことを思つてである」云々と書かれているが、原文や作者に関する言及はない。ということで、大石誠之助訳「僧侶と悪魔」、幸徳秋水訳「悪魔」の原文と作者に関する説得力ある指摘は黒川創の小説『暗殺者たち』が最初ということになる。

 

 黒川創が“The Priest and the Devil”を掲載した「マザー・アース」(一九一〇年一月号)をどこでどのように入手したかは分からないが、今は便利な世の中になったものでネットで検索するとすぐに「マザー・アース→volume4,number11→THE PRIEST AND THE DEVIL by FEDOR DOSTOEVSKY.」が出てくる。これを見るとタイトルは「THE PRIEST AND THE DEVIL By FEDOR DOSTOYEVSKY.」で、大石誠之助が文頭に置いた〈端書き〉は、作品「僧侶と悪魔」の文中にあることが分かる。大石は「**** Fedor Dostoyevsky achieved fame as the author of two of the most powerful psychical studies ever penned: "Poor Folk" and "Crime and Punishment," both of which have been translated into most European languages. During his incarceration, for political reasons, in the terrible fortress of SS. Peter and Paul—an imprisonment which ruined his constitution and caused his early death—he wrote the following sketch upon the wall of his cell.」をかなり簡略化して訳している。また幸徳秋水が作品「悪魔」の前に置いた〈端書き〉は原文を元に彼自身の注釈を加えていることが分かる。

 以上で、大石誠之介訳「僧侶と悪魔」、幸徳秋水訳「悪魔」に関する実証的な側面は解明されたということになる。黒川創の『暗殺者たち』は小説ということで、ドストエフスキー研究家の注目をひかなかったのかも知れないが、幸徳秋水研究において重要な発見と考察があったことは特記しておく必要があろう。

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

 

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

f:id:shimizumasashi:20210901150720j:plain

清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

f:id:shimizumasashi:20210901150149j:plain

清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

 

 

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。

sites.google.com

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

f:id:shimizumasashi:20210907111050j:plain

韓国語訳『ウラ読みドストエフスキー』はイーウンジュの翻訳である。イーウンジュはわたしの教え子で拙著『宮崎駿を読む』の翻訳者でもある。現在、ソウルで著作活動に励んでいる。

 

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

sites.google.com