プーチンと『罪と罰』(連載2)

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

プーチンと『罪と罰』(連載2)

清水正

 キリストの教えを忠実に守れば確実に死ぬことになる。キリストは十字架に掛けられて殺されたが、キリストの教えを貫こうとすれば、自分の属する組織(国家)から追放、逮捕、処刑を免れることはできない。わたしは二十代後半に福音書をよく読み、キリストの言葉に深く打たれたが、しかしキリスト者になろうとは思わなかった。言い方を変えれば、キリスト者にはなれないと思った。キリスト者として生きようとすれば間違いなく三十歳迄に殺されるだろうと思った。現実の世界を生きるとは「歯には歯を」の掟を受け入れることであって、汝の敵を愛せよでは生きられないのである。キリストの教えはいかなる組織とも乖離すると思ったので、教会や聖職者にはいかがわしさしか感じなかった。ロシアによるウクライナ侵攻に際してロシア正教会のトップがプーチンの考えに同調するのも別に不思議ではない。宗教組織は時の国家の方針に逆らえば弾圧されるのは当然であって、従って現在生き延びている宗教組織は、多かれ少なかれ国家との妥協のもとに自らの存在を可能ならしめているのである。

 わたしは先にトルストイの宗教論が退屈であったと書いたが、それはあまりにも当たり前の、分かり切ったことをくだくだ執拗に書いてあるからである。わたしは三十代の半ば頃、初めてトルストイの長編小説を読んだ。『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』、そして最後に『復活』を読んだ。この三大長編小説のうち、最後に読むのは『復活』と予め決めていた。はたして、トルストイは本当に神を信じているのか、それをわたしは『復活』で確認しようと思っていたのである。

    結論を先に言えば、トルストイは神を信じていないと思った。トルストイは作中において死への恐怖を隠していない。もしトルストイが本当に神を信じていたなら、死を恐れることはなかっただろう。この確信は今も変わらない。トルストイがキリストの教えを全うするような男だったら八十二歳まで生き延びることはなかったと素朴に思う。もしトルストイキリスト者として生きる覚悟があれば、正教会の教義を執拗に検証したりすることもなかったのではないかと思う。十九世紀の農民や庶民の大半は福音書を読むことも手にすることもなかった。

 『罪と罰』でリザヴェータがロシア語訳の新訳聖書を持っていて、それをソーニャに与えていたなどということは、あくまでも小説的設定の枠内で考えるべきである。当時の純朴な信仰者の信仰は、聖職者や知識人たちのそれとは予め性質を異にしているのである。ただし、わたしたちは十九世のロシアの農民たちの〈信仰〉の実態を正確に知ることはできない。彼らは福音書はもとより、本を読まない。彼らの大半は文字の読み書きができなかった。彼らは教会での儀礼に従い、聖職者の説教を聞きながら、素朴に神を信仰したのであって、自らの頭を使って、神とは何かとか、信仰のあるべき姿を考えたのではない。要するにトルストイのように正教会の教義を徹底的に検証するとか、福音書を熟読して独自のキリスト観を論文にするような農民はただの一人も存在しなかったことだけは間違いない。信仰に理屈は合わない。トルストイの宗教に関する論文を読んでいると、執拗に展開される正当な理論というよりは、性懲りもなく展開される理屈を感じてしまうのである。

  ヤースナヤ・パリャーナという広大な土地の所有者で世界的な文豪の名を馳せていた地主貴族のトルストイがキリストの教えを実行することは容易ではない。キリストの本当の意味での弟子になるためには、金のある者は金を、地位名誉のある者は地位名誉を、そればかりではない愛する家族も、恋人も捨ててキリストの後に従わなければならない。しかもキリストの道を歩む者は必ず死刑になるので、自らの十字架をも背負ってキリストに従わなければならないのである。

 トルストイはキリストについて、ロシア正教の神学について、信仰について、いかに生きるべきかについて真剣に考えた人間であることに間違いはない。だが、正直に言って、トルストイは信仰者と言うよりは、信仰について思索し執筆する側の人間であったと思う。トルストイの宗教に関する論文は、謂わばアポロン的整合性に則っており、論を破綻に導くディオニュソス的不信と懐疑の荒波に襲われることはない。しかしこのことはトルストイの内部にディオニュソス的破壊要素が潜んでいなかったことを意味しない。むしろトルストイは不断に、自らの獲得した信仰を根底から揺さぶり破壊する恐るべき津波に襲われていたからこそ、必死になってアポロン的論理にしがみつこうとしたと言ったほうが適切であろう。

 わたしはトルストイの執拗に展開される宗教論文を読みながら、もし彼が自らの内部に潜んでいるディオニュソス性に焦点を据えて具体的に語ったならば、おそらく退屈など感じることはなかっただろう。前にも書いたが、わたしはトルストイの小説『クロイツェル・ソナタ』にはわが魂を揺さぶられたが、彼自身の書いた『クロイツェル・ソナタ』論にはその凡庸さに驚いたばかりである。トルストイは宗教論文において『アンナ・カレーニナ』で描き出したアンナの恐るべき〈罪〉の実態に肉薄することができない。『戦争と平和』で〈戦争〉と〈平和〉の必然を描き尽くしたトルストイは、宗教論文において自らの〈信仰〉と〈罪〉の実態に迫ることができない。トルストイの〈信仰〉は自らの文学作品の深淵に降りていくことも飛び越えることもできないままに、見せかけの文学追放を自らに擬している。

 

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ雑誌には https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

お勧め動画池田大作氏の「人間革命」をとりあげ、ドストエフスキーの文学、ニーチェ永劫回帰アポロンディオニュソスベルグソンの時間論などを踏まえながら

人間のあるべき姿を検証する。人道主義ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。