「清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。

清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。

【1】

進学や進路選択の折にたびたび直面してきた、「どんな人生を送るか」という難題。これという一つの対象を思い浮かんだことも、何か一つに捧げる人生も、想像したことはなかった。

そんな私には清水正氏の一声が、『何かに人生を捧げる喜び』=人生への問いに対する答えへと結びついたように感じた。

「なぜこんなにもドストエフスキーに執着するのか。それは彼の文学が十九世紀ロシア文学という時代と民族を超えて、今日に生きるすべての人間の諸問題に肉薄しているからである(ウラ読みドストエフスキーより)」

批評の奇跡の展示では、清水氏の著書のひとつひとつが彼の子どものようで、まるで親の帰りを並んで待っている時間が流れているかのような重厚な展示だった。

人間の神秘を解きあかすために全生涯をかけて小説を書き続けたドストエフスキーと文学を通して対話すること。それは世の無常感と、それでも生き続ける人間とはいったいなんなのかという人生をかけた清水正氏の人生をかけた「人間」を諦めないための答えなのだろう。何が善か。何が悪か。戦後に生まれ平和を掲げる世界に育ち、それでも地球のあちこちでは人々が憎しみあい殺し合う。そんな矛盾の中で自己を保つもっとも大きな存在が、ドストエフスキーだったのだと捉えられた。

ではわたしはなにを礎に、この不条理な世界を捉えるのか。

手段こそ違えど、表現することを止めたくはないと強く思う。

神はどうやらいないということが分かっていて、〈愛〉とか〈赦し〉が虚しい言葉になったとしても、人々は祈り願いすがることをやめない。それは、芸術が、時代が変われど存在し続け求められ続ける、という確証をおびているのではないだろうか。

【2】

清水正先生の批評の展覧会を見た。当時の執筆時に使われた媒体や先生の数多くの著物を見て感じたのは先生の批評対象に対する、言い方が分からないがあえて言うなら狂気的に迫るような愛情を強く感じた。これを最初に感じたのは先生が言っていた「一度読んだだけじゃ本を理解することなんて出来ない」という言葉を聞いた時に、先生が批評対象のことが好きなんだなということが理解出来た。なぜなら単純で嫌いなものを何回も読んで、それを誰よりも理解しようなんて考えは人間には浮かんでこないと考えたからだ。それに付箋だらけの本を見て、自分は恐怖に似た感覚を感じた。あそこまで付箋を張り、内容を理解しようとするのは言葉を選ばずに言うなら狂気的だと自分は感じてしまった。しかしこれは先生を批判するわけではなく、かえって自分のように集中力がない人間からすると素晴らしいと思った。このような、いわば狂気的な愛情こそが、表現する情熱の源なのではないかと感じた。

21日のズームによる特別講義

四時限目

https://youtu.be/m9e43m4Brmw

五時限目

https://youtu.be/itrCThvIhHQ

 

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

sites.google.com

ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載23)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(8)

清水正 

    さて、この辺でラスコーリニコフの独語に戻ろう。ラスコーリニコフは〈あれ〉が本当にできるだろうかと考えた。この時点で、〈あれ〉はなんら現実味を帯びていない。〈あれ〉は「まったく真面目な話でなく」〔Совсем не серьзно〕、単なる〈空想〉(фантазия)であり、〈玩具〉(игрушка)の域にとどまっている。作者は〈あれ〉(это)をわざわざイタリック体にして読者に注意を促していた。つまりこの〈あれ〉には〈アリョーナ婆さん殺し〉〈リザヴェータ殺し〉〈皇帝殺し〉そして〈復活〉まで含まれていた。今まで〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉と受け取られてきたが、その表層的次元での解釈でさえ、〈あれ〉はラスコーリニコフにとっては〈空想〉〈玩具〉としてとらえられていた。そして、わたしにとっても〈あれ=空想、玩具〉は極めてリアリテイがあった。

 なぜラスコーリニコフは〈あれ〉を実行してしまったのか。そんなことをいくら考えてもむだである、現にラスコーリニコフは二人の女の頭蓋を斧で叩き割ってしまったではないか。考えずに見ることだ。小林秀雄はこのようなことを書いていた。確かに、小説の中で起きてしまった事に異議を唱えても詮無いことだ。が、それを承知でわたしは異議を唱え続けてきた。わたしはラスコーリニコフの〈殺人〉から〈復活〉に至る物語を屋根裏部屋における〈真夏の夢〉とさえ書いた。この考えは未だに変わっていない。

 要するにわたしは作者が書いたことをそのまま全面的に認めるようなことはない。テキストを絶対視する評家は、そのことで作者を神の如く見なすのであろうか。わたしはテキストに対する作者の位置を相対化して見ているので、テキストを絶対不動のものと見なすことはない。

 作者ドストエフスキーは〈あれ〉を実行してしまったラスコーリニコフを描いたが、わたしは相変わらず〈空想〉〈玩具〉の次元で〈あれ〉を弄んでいるラスコーリニコフに現実味を覚える。その根拠を問われれば、まず第一にわたし自身が〈あれ〉を実行しない部類に属しているということである。これは作者にとっても同じ事である。ドストエフスキーは殺人を犯す主人公を描く側の人間であって、彼自身がラスコーリニコフのように二人の女の頭上に斧を振り下ろしたわけではない。

 犯罪に関する論文を書いて新聞に投稿し採用されるほどの分析力、文章力を持っていたラスコーリニコフに相応しいのは〈斧〉ではなく〈ペン〉であり、もし彼がその方面での努力を怠らなければ、やがていっぱしの文筆家として独り立ちできた可能性は高かった。学費未納入で大学を除籍処分された、貧乏な屋根裏部屋の思索家の未来が完璧に閉ざされていたわけではない。〈あれ〉を実行するよりは、〈あれ〉を素材にして論文や小説を書く側の人間になる方がどれだけ現実的であるかということである。

 この現実的なことを打ち捨てて、ラスコーリニコフに〈あれ〉を実行させたのは、決して〈あれ〉を実行しない作者である。ドストエフスキーは、一級の創作家であるからか、絶対に〈あれ〉を実行しない青年に〈あれ〉を実行させることができる。つまりそのように描くことができる。読者は作者が描いた事実に黙って従え、わたしはそんな声を聴いたことが一度もない。わたしは一人の読者として自由であり、テキスト解読に関してなんびとの指図も受けることはない。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載23)  〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(8)」江古田文学107号より再録

21日のズームによる特別講義

四時限目

https://youtu.be/m9e43m4Brmw

五時限目

https://youtu.be/itrCThvIhHQ

近況報告

清水正・批評の軌跡」展示会は24日に無事に終了。コロナ禍で会場に足を運ぶことのできる人は少なかったと思いますが、動画や写真の発信で少しは補えたかと思っています。展示会を企画・準備・開催してくださった文芸学科のスタッフの方々、山下ゼミの学生さんたちに感謝申し上げます。21日のズームによる特別講義は、途中、パソコンの不具合により受講の方々にご迷惑をおかけしました。編集した動画がいずれ「清水正・批評の軌跡」Web版に載る予定ですので、ぜひそちらの方もご覧になってください。

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載23)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(8)

清水正 

    さて、この辺でラスコーリニコフの独語に戻ろう。ラスコーリニコフは〈あれ〉が本当にできるだろうかと考えた。この時点で、〈あれ〉はなんら現実味を帯びていない。〈あれ〉は「まったく真面目な話でなく」〔Совсем не серьзно〕、単なる〈空想〉(фантазия)であり、〈玩具〉(игрушка)の域にとどまっている。作者は〈あれ〉(это)をわざわざイタリック体にして読者に注意を促していた。つまりこの〈あれ〉には〈アリョーナ婆さん殺し〉〈リザヴェータ殺し〉〈皇帝殺し〉そして〈復活〉まで含まれていた。今まで〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉と受け取られてきたが、その表層的次元での解釈でさえ、〈あれ〉はラスコーリニコフにとっては〈空想〉〈玩具〉としてとらえられていた。そして、わたしにとっても〈あれ=空想、玩具〉は極めてリアリテイがあった。

 なぜラスコーリニコフは〈あれ〉を実行してしまったのか。そんなことをいくら考えてもむだである、現にラスコーリニコフは二人の女の頭蓋を斧で叩き割ってしまったではないか。考えずに見ることだ。小林秀雄はこのようなことを書いていた。確かに、小説の中で起きてしまった事に異議を唱えても詮無いことだ。が、それを承知でわたしは異議を唱え続けてきた。わたしはラスコーリニコフの〈殺人〉から〈復活〉に至る物語を屋根裏部屋における〈真夏の夢〉とさえ書いた。この考えは未だに変わっていない。

 要するにわたしは作者が書いたことをそのまま全面的に認めるようなことはない。テキストを絶対視する評家は、そのことで作者を神の如く見なすのであろうか。わたしはテキストに対する作者の位置を相対化して見ているので、テキストを絶対不動のものと見なすことはない。

 作者ドストエフスキーは〈あれ〉を実行してしまったラスコーリニコフを描いたが、わたしは相変わらず〈空想〉〈玩具〉の次元で〈あれ〉を弄んでいるラスコーリニコフに現実味を覚える。その根拠を問われれば、まず第一にわたし自身が〈あれ〉を実行しない部類に属しているということである。これは作者にとっても同じ事である。ドストエフスキーは殺人を犯す主人公を描く側の人間であって、彼自身がラスコーリニコフのように二人の女の頭上に斧を振り下ろしたわけではない。

 犯罪に関する論文を書いて新聞に投稿し採用されるほどの分析力、文章力を持っていたラスコーリニコフに相応しいのは〈斧〉ではなく〈ペン〉であり、もし彼がその方面での努力を怠らなければ、やがていっぱしの文筆家として独り立ちできた可能性は高かった。学費未納入で大学を除籍処分された、貧乏な屋根裏部屋の思索家の未来が完璧に閉ざされていたわけではない。〈あれ〉を実行するよりは、〈あれ〉を素材にして論文や小説を書く側の人間になる方がどれだけ現実的であるかということである。

 この現実的なことを打ち捨てて、ラスコーリニコフに〈あれ〉を実行させたのは、決して〈あれ〉を実行しない作者である。ドストエフスキーは、一級の創作家であるからか、絶対に〈あれ〉を実行しない青年に〈あれ〉を実行させることができる。つまりそのように描くことができる。読者は作者が描いた事実に黙って従え、わたしはそんな声を聴いたことが一度もない。わたしは一人の読者として自由であり、テキスト解読に関してなんびとの指図も受けることはない。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載22)   〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(7)」江古田文学107号より再録

お知らせ

9月21日午後2時40分過ぎからズームで

清水正・批評の軌跡53年を振り返る──ドストエフスキー生誕200周年を記念して──」下記の要領で講義します。

清水正・批評の軌跡Web版より
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オンラインイベント開催決定!

 

2021年9月21日(火)zoomにて清水正先生による特別講義を開催いたします。

こちらの講義は、受講生以外の方や卒業生、学外者の方にもご参加いただけますので、ぜひご参加ください!

 

9月21日(火)14:40〜16:10

「特別企画 清水正先生による講義「時代を超えて読み継がれるドストエフスキーの魅力」」(表現領域拡張講座Ⅱ)

9月21日(火)16:20〜17:50

「特別企画 清水正先生による講義「本を生み出すエネルギー」」(出版文化論Ⅱ)

 

zoomURLは、こちら(https://nihon-u-ac-jp.zoom.us/j/82236911925...

当日、イベント時のトラブル等の問い合わせにつきましては、Twitterアカウント(@thanksfes_1123)にまでご連絡ください。

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ズーム参加希望者は下記の山下聖美氏のメール宛にお申込みください。

yamashita.kiyomi@nihon-u.ac.jp ソコロワ山下聖美(主催代表)

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清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載22)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(7)

清水正 

 『悪霊』における〈革命思想家〉(表面的には秘密革命結社の首魁を巧みに装っていた二重スパイ)のピョートル・ヴェルホヴェーンスキーのモデルとして有名なネチャーエフは「革命家のカテキズム」(『ロシア革命』松田通雄編/平凡社所収・一色義和訳)の(6)において「彼は自己にきびしくあるとともに、他の人々にもきびしくしなければならない。家族、友情、愛情、感謝、さらには名誉といった柔弱で女々しい感情はすべて、彼のうちでは、革命の事業をめざす唯一の冷徹な感情によって抑制されねばならない。彼にとっては、ただ一つの安らぎ、慰め、報酬、満足が、つまり革命の成功があるだけである。昼夜をわかたず彼は一つの思想、一つの目標を、つまり仮借なき破壊をいだいていなければならない。冷静にたゆむことなくこの目標の達成につとめながら、彼は、みずからが非業の死をとげる用意があるだけでなく、目標の達成を妨げるすべての者をみずからの手で殺す用意がなければならない」(108)と書いている。

 「革命家のカテキズム」でネチャーエフは26の項目をあげて革命家の使命を冷徹に記している。これらは革命家の本質を知る上ですべて重要であるが、ここではポルフィーリイが指摘するラスコーリニコフの(もっとほかの理論)との関連を明らかにする上で特に(6)のみを引用することにした。ラスコーリニコフは〈あれ〉を〈革命〉と結びつけて考えたことはなかった。これは先に指摘したようにラスコーリニコフ本人の問題というよりは元政治犯であった作者の側の問題である。

 当時のインテリであったラスコーリニコフが、皇帝専制政治の弊害について何も考えていなかったはずはない。彼は、一人の作中人物として作者の思惑から抜け出すことはできない。これは主人公のラスコーリニコフばかりでなく、彼に対して鋭利な分析力を存分に発揮したポルフィーリイでさえ例外ではなかったということである。現に彼は、ラスコーリニコフに向かって〈もっとほかの理論〉について何も説明しなかった。説明すれば、ここに引用したネチャーエフの革命家のなすべきことについても言及せざるを得なかったであろう。しかし、そうすればどんな鈍感な編集者、検閲官でもラスコーリニコフの〈あれ〉と〈革命〉との関連性に気づくだろう。ポルフィーリイは作者によって、ラスコーリニコフの〈あれ〉の秘密の核心部に触れることを禁じられた存在なのである。だからこそ、作中の批評家ポルフィーリイに代わって読者がその〈秘密〉に肉薄しなければならないのである。

 ネチャーエフが(6)で記した最後の言葉「目標の達成を妨げるすべての者をみずからの手で殺す用意がなければならない」をよくよく噛みしめたらいい。革命家は〈リザヴェータ殺し〉を許容するばかりではない、母親のプリヘーリヤも、妹のドゥーニャも、ソーニャも、ポーレンカも、ラズミーヒンも......彼らが〈目標の達成〉を妨げる者であれば自らの手で殺さなければならないのである。

 ラスコーリニコフの〈あれ〉、および〈もっとほかの理論〉をネチャーエフの〈革命家のカテキズム〉に照らして検証すれば、それまで曖昧だった事柄がだいぶすっきりと理解できる。しかし、作者は敢えてそこに大きな暗幕をかけて、編集者、検閲官、そして多くの読者をたぶらかす方法を採った、否、採らざるを得なかった。

 ポルフィーリイはラスコーリニコフに「あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ」(525)〔Еще хорошо, что вы старушонку только убили.〕(ア・351)と言っている。耳を疑いたくなるようなセリフである。ラスコーリニコフがリザヴェータ殺しを予定していなかったことは確かだが、それ以上に確かなのはラスコーリニコフが目撃者リザヴェータを明晰な意識の元で殺してしまったということである。

 にもかかわらず、予審判事ポルフィーリイはラスコーリニコフを眼前にして、彼が殺したのはアリョーナ婆さんだけであったかのような言い方をしている。これはやり手のポルフィーリイが、こういう言い方でもって相手から、リザヴェータ殺しの自白を引きだそうとしたとも考えられるが、それよりも説得力があるのはやはり〈作者とポルフィーリイの結託〉である。

 ポルフィーリイは事実誤認を口にしてまで〈もっとほかの理論〉と〈あれ〉(革命思想の実行)との関係性に照明を当てたいのだが、しかしそのことに気づかれてはならないと言う作者の指示を忠実に守っている。彼は、エピローグでラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせる作者の意向に則ってラスコーリニコフに対している。彼は予審判事という現実的な役割を大きく逸脱して、ラスコーリニコフに〈復活〉を促す預言者の衣装を纏っているのである。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載21)〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(6)」江古田文学107号からの再録

お知らせ

9月21日午後2時40分過ぎからズームで

清水正・批評の軌跡53年を振り返る──ドストエフスキー生誕200周年を記念して──と題してお話します。

ズーム参加希望者は下記の山下聖美氏のメール宛にお申込みください。

yamashita.kiyomi@nihon-u.ac.jp ソコロワ山下聖美(主催代表)

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載21)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(6)

清水正 

 ラスコーリニコフは『いったいあれがおれにできるのだろうか?』と呟いた後、次のように続ける『そもそもあれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具だ! そう、玩具というのがほんとうらしいな!』(4)〔Разве это серьезно?  Совсем не серьезно.  Так, ради фантазии сам себя тешу; игрушки!  Да, пожалуй что и игрушки!〕(ア・6)と。

 小説においてラスコーリニコフが思っていた〈あれ〉(アリョーナ婆さん殺し)はたしかに実行された。さらにラスコーリニコフが予定していなかった〈リザヴェータ殺し〉まで実行してしまった。小林秀雄は「そうだ、見る事が必要なのである。だが、評家は考えてしまう」(119)と書いた。あたかも〈考える〉ことを軽視しているかのような書き方であるが、批評家が作品を前にして考えることを止めるようなことをしてはならない。〈見る〉ことを重要視するあまり、〈考える〉ことを疎んじるようなことがあってはならない。小林の『罪と罰』論において、ラスコーリニコフの〈あれ〉が注目されることはなかった。つまり、小林はラスコーリニコフの犯罪理論と老婆アリョーナ殺しを結びつける視点はあっても、〈あれ〉自体に込められた秘密を看破することはできなかった。批評家はテキストに謙虚に立ち向かわなければならない。考古学者が何度でも発掘現場につくように、批評家もまたテキストに何度でも執拗に真摯に立ち向かわなければならない。

 わたしは最初に『罪と罰』を読んだときからラスコーリニコフのリザヴェータ殺しが不可解であった。単純に考えれば、リザヴェータ殺しはラスコーリニコフの非凡人思想、すなわち非凡人は「良心に照らして血を流すことが許されている」に合致していない。にもかかわらず、どうしてラスコーリニコフはリザヴェータをも殺してしまったのか。わたしはこの疑問で頭をいっぱいにして考えに考え続けた。わたしは、小林とは違って考えを徹底することによって見えてくる世界があると思っていた。現に、考え続けることで見えてきたことはある。

 ラスコーリニコフの〈踏み越え〉(преступление)は〈アリョーナ婆さん殺し〉だけであってはならなかった。そこに〈リザヴェータ殺し〉をも含み入れてこそ、ラスコーリニコフが独語した「いったいあれがおれにできるのだろうか?」の〈あれ〉の重要性がクローズアップされてくるのである。ここで初めて、作者がわざわざ〈あれ〉(это)をイタリック体にした意味が浮上することになる。

 批評家はテキストの森に分け入り、一本一本の木に、その枝葉の一枚一枚に細心の注意を払いながら歩み続けなければならない。テキストに向けて様々な疑問の矢を放ちながら突き進むことによって、作者が予め仕込んでおいた秘密が発見されたり、さらに作者にさえ見えていなかった光景の現出に立ち会うことも可能となるのである。〈リザヴェータ殺し〉の内には、ラスコーリニコフの内に封印された革命思想の断片、否、核心が潜んでいたと見ることができる。

 ポルフィーリイはラスコーリニコフに向かって「あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見ぐるしいことを仕でかしたかもしれませんよ! まだしも神に感謝しなきゃならんかもしれませんて。なんのために神があなたを守ってくださるのか、そりゃ、あなただってわかりっこありませんや。」(525)〔Еще хорошо, что вы старушонку только убили.  А выдумай вы другую теорию, так, пожалуй, еще и в сто миллионов раз безобразнее дело бы сделали!  Еще бога, может, надо благодарить; почем вы знаете: может, вас бог для чего и бережет.〕(ア・351)と言っている。

 ポルフィーリイがここで言う〈もっとほかの理論〉が〈リザヴェータ殺し〉をも許容する理論だったと考えられる。ラスコーリニコフは〈もっとほかの理論〉に関して問い質さず、ポルフィーリイもいっさい説明しないので見逃しがちだが、〈リザヴェータ殺し〉や〈斧〉に特別の関心を抱きつづけていたわたしはこの〈もっとほかの理論〉に注目した。〈あれ〉が〈革命〉的な意味を内包していたことは確実に思えた。

〈革命〉の文脈で見れば、〈斧〉は〈アリョーナ婆さん〉の頭上に振り下ろされるより〈皇帝〉の頭上に振り下ろされるべきなのである。読者は、当時の革命家の誰もが考えた〈斧〉の使用相手を、ラスコーリニコフが間違えていたことの滑稽をしかと認識しなければならないだろう。ラスコーリニコフには封じられていた〈革命思想〉を、作者は密かに〈リザヴェータ殺し〉や殺人道具の〈斧〉に託していたと見ることができる。

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載20)   〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(5)」江古田文学107号より再録

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載20)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(5)

清水正 

「回想のラスコーリニコフ」でわたしは次のように書いている。

 

    私は更生の可能であったラスコーリニコフの人生を拒絶され、死せる饒舌家ポルフィーリイの同胞とならざるを得なくなった。ラスコーリニコフの懊悩も理論的行き詰まりも、それ故の老婆殺害も、ソーニャとの出合いも、それを契機とした復活も、すでに私には不要のものとなってしまった。そして、ラスコーリニコフの人生が私にとって不要であることを自覚し、ポルフィーリイと同じ視点に立った時、私には私なりに『罪と罰』の隠された部分が見え始めてきたのであった。(18)

 

罪と罰』を読む青年の大半はおそらく自分自身とラスコーリニコフを同一化するのではなかろうか。ひとのことはともかく、わたしにとってラスコーリニコフは実に親しい存在であった。しかし、わたしは同時にラスコーリニコフとの決定的な違いも感じ続けていた。なにしろラスコーリニコフは二人の女の頭上に斧を振り下ろした青年であるが、わたしは人を殺したことはない。この違いを明確に自覚して、ラスコーリニコフに親近性を抱くのは自己欺瞞でしかあるまい。わたしは殺人者ラスコーリニコフよりも「おしまいになってしまった」ポルフィーリイにこそ親近性を覚えたのである。

 当時、わたしは自分をポルフィーリイに同化させながら、しかし同時にポルフィーリイに復活の可能性はないのかとも考えていた。それは先に書いたように、ポルフィーリイを「すっかりおしまいになってしまった人間」とは見ていなかったからである。が、作者は確かにポルフィーリイ自身の口を通して彼が〈すっかり〉おしまいになってしまった人間であることを言明している。要するに、殺人者ラスコーリニコフに復活更生は可能だが、「すっかりおしまいになってしまった」ポルフィーリイに復活更生の可能性は全くなかったということになる。

 ところで、ポルフィーリイの発する言葉についてラスコーリニコフはほとんどなにも突っ込みをいれない。なぜラスコーリニコフポルフィーリイに向かって「すっかりおしまいになってしまった人間」とはどういうことを意味するのかと問わないのであろう。失恋したばかりのわたしはそれを、いっさいのことに〈さようなら〉をした絶望者と解釈したが、後に米川正夫訳で〈生活〉と訳された〈жизнь〉がイエスが口にした〈命〉であることを知って、それは〈命〉に飛び込むことのできない人間を指しているのだと理解した。しかしこう理解したからと言ってすべてを了解したわけではない。なぜポルフィーリイはイエスの〈命〉に飛び込むことができなかったのか、という疑問は依然として残る。作品の中ではいっさい触れられることのなかったポルフィーリイの「おしまいになってしまった」体験とはいったいどういうことであったのか。想像力を限りなくたくましくしてもこのポルフィーリイの〈体験〉を可視化するのは容易ではない。また、なぜポルフィーリイはまるで預言者のごとくラスコーリニコフに「神はあなたに生命を準備してくだすった」とか「何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい」とか言えるのであろうか。

 ポルフィーリイは設定としては予審判事だが、ラスコーリニコフに関しては一流の心理分析官であり鋭利な批評家であり、そして預言者としても振る舞っている。わたしはポルフィーリイが預言者としてラスコーリニコフに肯定的な未来を約束しているのは、彼が作者と結託した存在であったからだと思っている。もしポルフィーリイが作者と結託した存在でなかったならば、ラスコーリニコフに対してきわどい質問の数々を発することができたであろう。

 たとえば、「なぜあなたは殺しの対象に高利貸しの婆さんを選んだのです。あなたが自分をナポレオンと見なしていたのなら、殺しの対象をちっぽけなシラミの代わりに、我が国の絶対専制君主、すなわち皇帝をこそ選んだのではないですか?」「あなたは殺人の目撃者リザヴェータを斧で叩き殺してしまいましたが、もし目撃者があなたの愛する母親や妹のドゥーニャであってもあなたは躊躇なく斧を振り下ろすことができましたか?」「あなたは殺人の道具に斧を選びましたが、なぜ斧にこだわったのですか?」──こういった問いは作者が作中に仕掛けた秘密を暴くことになるので、作者と結託したポルフィーリイは間違っても発することはない。作中に仕掛けられた謎を解くのは作中批評家ポルフィーリイの役目ではなく、テキストを眼前にする批評家である。

 ラスコーリニコフが独語した「いったいあれがおれにできるのだろうか?」(4)の〈あれ〉の内には〈老婆アリョーナ殺し〉ばかりでなく〈リザヴェータ殺し〉も、〈皇帝殺し〉も含まれていたが、このことが当時の検閲官や編集者、そして読者に分かられてはならなかった。ドストエフスキーが『罪と罰』に埋め込んだ仕掛けはそうそう簡単には暴かれないのである。小林秀雄が指摘したように「ラスコオリニコフを知ろうと思うものは、先ずポルフィイリイに転身」する必要があるが、それだけでは足りないのである。ポルフィーリイに転身しただけでは、作者と結託したポルフィーリイの発する言葉の裏に隠されたものを見ることができない。作者はエピローグでラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせた。つまり「いったいあれがおれにできるのだろうか?」の〈あれ〉を〈復活〉として成就させた。まさに作者と結託していたポルフィーリイは作者がラスコーリニコフに用意した最終的な〈あれ=復活〉を予め知っていたということである。ラスコーリニコフの運命を最終的に決定づけられるのは作者である。ラスコーリニコフには〈復活〉の他に〈発狂〉〈自殺〉〈さらなる殺人〉など様々な可能性があったにもかかわらず、作者は〈復活〉に決定した。なぜ、作者は様々な可能性の内から〈復活〉を選んだのか。このことに関して、わたしは何度でも立ち止まり検証を続けたい。なぜなら、わたしはわたしであって、作者と結託したポルフィーリイではないからである。

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

清水正・批評の軌跡Web版で「清水正・ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

 

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載19)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(4)

清水正

 

 思い起こせば二十歳過ぎの頃、わたしは小沼文彦の前で「おしまいになってしまった」人間、一度精神上で死を体験した者でなければ批評家にはなれないということを熱く語ったことがあった。当時、小沼文彦は渋谷に日本ドストエフスキー協会資料センターを開設し、定期的に情報誌「陀思妥夫斯基」(一九七〇年十一月十五日に創刊、一九七三年九月十五日に24号)を出していた。この情報誌は20号(全22頁)で高松敏男「ドストエーフスキー論──『地下生活者の手記』に於ける〈虫けらの哲学〉の考察──」を掲載、24号(全42頁)でグロスマン・中村健之介訳「ドストエフスキーの蔵書」を掲載したもの以外は4頁〜8頁の小冊子であった。そこでこれとは別に本格的なドストエフスキーの雑誌を作ろうということで、わたしは求めに応じて「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白──」(一九七〇年十一月五日執筆)を預けた。しかしどういうわけか雑誌は刊行されず、原稿も返却されなかった。

 小沼文彦は筑摩世界文學大系38『罪と罰』(昭和四十六年三月)の解説で「このポルフィーリイこそ実はこの『罪と罰』の本当の主人公かもしれないのである。なぜならばポルフィーリイこそ殺人を犯さなかったラスコーリニコフ、つまりドストエフスキー自身であるからである」(433)「殺人を行わなかったラスコーリニコフ、つまりポルフィーリイ・ペトローヴィッチはこのまま姿を消してしまうのであろうか? しかしポルフィーリイを新しい姿で登場させるためには、ドストエフスキーはさらに長生きをしなければならなかったし、おそらくはそのためにはまったく別な新しい作家の出現を期待しなければならないものなのかもしれない」(435)と書いている。

 わたしはこの解説を読んでおどろいた。なぜならまさにこういったことをわたしは小沼文彦に向かって熱く語っていたのであり、書いてもいたからである。関連する箇所を「回想のラスコーリニコフ」(『ドストエフスキー体験記述』所収)から一つだけ引いておく「ここまで来れば、神なき世界における私の生存にとって、真に関わり合って来る登場人物は、殺人を遂行し、更生するラスコーリニコフでなく、すでに〈おしまいになってしまった〉ポルフィーリイその人なのである。現代に生き、あるいは死んでいる人間としての私、あるいは物体としての私にとって、ポルフィーリイは私自身そのものなのである。ポルフィーリイは生活者ラスコーリニコフを翻弄し、愚弄し、嘲笑しながらも、誰よりも深く彼を愛している。もっとも、ラスコーリニコフにはポルフィーリイの愛を識ることはできない。ラスコーリニコフの必要としたのはソーニャの愛であって決してポルフィーリイの愛ではなかった。ポルフィーリイにはラスコーリニコフのすべてが見えているが、ラスコーリニコフにはポルフィーリイの正体が何であるのか見当もつかない。最後まで作者ドストエフスキーは主人公ラスコーリニコフに対して、空しくも優越した地点を離れることはなかったのである」(29)。

 わたしは原稿「回想のラスコーリニコフ」の控えを持っていたので別に返却要求もしなかった。この原稿は後に「あぽりあ」15号(一九七三年四月)に掲載、『ドストエフスキー体験記述』(一九七四年五月)に収録、「現代のエスプリ」164号(一九八〇年三月)に再録されることになる。

 小沼文彦の眼前で「おしまいになってしまった人間」ポルフィーリイに関して熱弁をふるっていたわたしは、当時、小沼訳『罪と罰』を読んでいなかった。まさか「おしまいになってしまった」以外の訳などあるなどとは夢にも思っていなかった。もし小沼文彦が〈поконченный〉を「おしまいになった」でなく「用のない」と訳したその理由を説明してくれたなら、話も面白い展開になったと思うのだが、当時、作品の中身に関して深く掘り下げるような議論はなかった。

 いずれにしても、わたしはポルフィーリイは「薹のたつた人間」でも「用のない人間」でもなく、まさに文字通り「おしまいになった人間」として受け止め、『罪と罰』の人物中、最も親近感を抱き、間断なく批評を続けてきたのである。そして原典にあたって〈поконченный〉の前に〈совершенно〉(すっかり、まったく)を発見した時の衝撃、わたしはサヴェルシェーンナ、サヴェルシェーンナと頭の中でつぶやき続けた。ポルフィーリイは単に「おしまいになってしまった人間」ではなく、「すっかりおしまいになってしまった人間」なのか。わたしはそれまでポルフィーリイにも〈復活〉の可能性は残されているのではないかと思っていたのだが、〈совершенно〉の一文字でそれを断念せざるをえなかった。同時に〈ポルフィーリイ〉を自称していた自分自身をも冷徹に見つめ直す必要に迫られた。

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載19)   〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(4)

 

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載19)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(4)

清水正

 

 思い起こせば二十歳過ぎの頃、わたしは小沼文彦の前で「おしまいになってしまった」人間、一度精神上で死を体験した者でなければ批評家にはなれないということを熱く語ったことがあった。当時、小沼文彦は渋谷に日本ドストエフスキー協会資料センターを開設し、定期的に情報誌「陀思妥夫斯基」(一九七〇年十一月十五日に創刊、一九七三年九月十五日に24号)を出していた。この情報誌は20号(全22頁)で高松敏男「ドストエーフスキー論──『地下生活者の手記』に於ける〈虫けらの哲学〉の考察──」を掲載、24号(全42頁)でグロスマン・中村健之介訳「ドストエフスキーの蔵書」を掲載したもの以外は4頁〜8頁の小冊子であった。そこでこれとは別に本格的なドストエフスキーの雑誌を作ろうということで、わたしは求めに応じて「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白──」(一九七〇年十一月五日執筆)を預けた。しかしどういうわけか雑誌は刊行されず、原稿も返却されなかった。

 小沼文彦は筑摩世界文學大系38『罪と罰』(昭和四十六年三月)の解説で「このポルフィーリイこそ実はこの『罪と罰』の本当の主人公かもしれないのである。なぜならばポルフィーリイこそ殺人を犯さなかったラスコーリニコフ、つまりドストエフスキー自身であるからである」(433)「殺人を行わなかったラスコーリニコフ、つまりポルフィーリイ・ペトローヴィッチはこのまま姿を消してしまうのであろうか? しかしポルフィーリイを新しい姿で登場させるためには、ドストエフスキーはさらに長生きをしなければならなかったし、おそらくはそのためにはまったく別な新しい作家の出現を期待しなければならないものなのかもしれない」(435)と書いている。

 わたしはこの解説を読んでおどろいた。なぜならまさにこういったことをわたしは小沼文彦に向かって熱く語っていたのであり、書いてもいたからである。関連する箇所を「回想のラスコーリニコフ」(『ドストエフスキー体験記述』所収)から一つだけ引いておく「ここまで来れば、神なき世界における私の生存にとって、真に関わり合って来る登場人物は、殺人を遂行し、更生するラスコーリニコフでなく、すでに〈おしまいになってしまった〉ポルフィーリイその人なのである。現代に生き、あるいは死んでいる人間としての私、あるいは物体としての私にとって、ポルフィーリイは私自身そのものなのである。ポルフィーリイは生活者ラスコーリニコフを翻弄し、愚弄し、嘲笑しながらも、誰よりも深く彼を愛している。もっとも、ラスコーリニコフにはポルフィーリイの愛を識ることはできない。ラスコーリニコフの必要としたのはソーニャの愛であって決してポルフィーリイの愛ではなかった。ポルフィーリイにはラスコーリニコフのすべてが見えているが、ラスコーリニコフにはポルフィーリイの正体が何であるのか見当もつかない。最後まで作者ドストエフスキーは主人公ラスコーリニコフに対して、空しくも優越した地点を離れることはなかったのである」(29)。

 わたしは原稿「回想のラスコーリニコフ」の控えを持っていたので別に返却要求もしなかった。この原稿は後に「あぽりあ」15号(一九七三年四月)に掲載、『ドストエフスキー体験記述』(一九七四年五月)に収録、「現代のエスプリ」164号(一九八〇年三月)に再録されることになる。

 小沼文彦の眼前で「おしまいになってしまった人間」ポルフィーリイに関して熱弁をふるっていたわたしは、当時、小沼訳『罪と罰』を読んでいなかった。まさか「おしまいになってしまった」以外の訳などあるなどとは夢にも思っていなかった。もし小沼文彦が〈поконченный〉を「おしまいになった」でなく「用のない」と訳したその理由を説明してくれたなら、話も面白い展開になったと思うのだが、当時、作品の中身に関して深く掘り下げるような議論はなかった。

 いずれにしても、わたしはポルフィーリイは「薹のたつた人間」でも「用のない人間」でもなく、まさに文字通り「おしまいになった人間」として受け止め、『罪と罰』の人物中、最も親近感を抱き、間断なく批評を続けてきたのである。そして原典にあたって〈поконченный〉の前に〈совершенно〉(すっかり、まったく)を発見した時の衝撃、わたしはサヴェルシェーンナ、サヴェルシェーンナと頭の中でつぶやき続けた。ポルフィーリイは単に「おしまいになってしまった人間」ではなく、「すっかりおしまいになってしまった人間」なのか。わたしはそれまでポルフィーリイにも〈復活〉の可能性は残されているのではないかと思っていたのだが、〈совершенно〉の一文字でそれを断念せざるをえなかった。同時に〈ポルフィーリイ〉を自称していた自分自身をも冷徹に見つめ直す必要に迫られた。

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年に寄せて」展示会が9月1日より日大芸術学部芸術資料館に於いて開催されています。

展示会場の模様を紹介していきます。

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9月1日(高倉慎矢・撮影)

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9月1日(高倉慎矢・撮影)

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9月1日(高倉慎矢・撮影)

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9月1日(高倉慎矢・撮影)

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

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9月1日(高倉慎矢・撮影)

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清水正『悪霊』論の生原稿。1969年執筆。撮影・高倉慎矢

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撮影・伊藤景

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9月1日(高倉慎矢・撮影)

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撮影・伊藤景

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撮影・伊藤景

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撮影・伊藤景

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撮影・伊藤景

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撮影・伊藤景

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撮影・伊藤景

※学生の入構制限中は、学外者の方の御来場について制限がございます。

詳細のお問い合わせにつきましては、必ず下記のメールアドレスにまでご連絡ください。

yamashita.kiyomi@nihon-u.ac.jp ソコロワ山下聖美(主催代表)

 

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清水正・批評の軌跡」カタログ表紙・裏表紙(デザイン・幅観月)

目次内容は

はじめに──二〇二一年〈清水正の宇宙〉の旅へ──

ソコロワ山下聖美日大芸術学部文芸学科主任教授)

停止した分裂者の肖像──清水正先生の批評について──

上田薫日大芸術学部文芸学科教授)

動物で読み解く『罪と罰』の深層江古田文学」101号から再録

清水正(批評家・元日大芸術学部文芸学科教授)

清水正・著作目録

※購読希望者は文芸学科研究室にお問い合わせください。

清水正・批評の軌跡」web版(伊藤景・作成)を観ることができます。清水正•批評の軌跡web版 - 著作を辿る

清水正ドストエフスキー論全集」(第1巻~第10巻まで)

清水正宮沢賢治全集」(第1巻、第2巻)

林芙美子に関する著作」10冊と監修した「林芙美子の芸術」「世界の中の林芙美子

下記をクリックしてください。

https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki/event?fbclid=IwAR2VgV-FLHqrgbmgSV8GH631V8pbxE9CI65MMi93Hzf-IQxCSG283KCPrLg#h.flc3slpstj7p

sites.google.com

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。

 

下記の動画は2016年の四月、三か月の入院から退院した直後の「文芸批評論」の最初の講義です。『罪と罰』と日大芸術学部創設者松原寛先生について熱く語っています。帯状疱疹後神経痛に襲われながらの授業ですが、久しぶりに見たら、意外に元気そうなので自分でも驚いている。今は一日の大半を床に伏して動画を見たり、本を読んだりの生活で、アッという間に時が過ぎていく。大学も依然として対面授業ができず、学生諸君と話す機会がまったくない。日芸の学生はぜひこの動画を見てほしい。日芸創設者松原寛先生の情熱も感じ取ってほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=awckHubHDWs 

ドストエフスキー生誕200周年記念お勧め動画

まだ元気な頃の講義です。

ジョバンニの母親は死んでいる、イリューシャ少年はフョードルの子供、など大胆な新説を開陳しています。ぜひご覧ください。

銀河鉄道の夜&カラマーゾフの兄弟 清水正チャンネル - YouTube

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新刊書紹介

清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅 松原寛&ドストエフスキー

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A五判並製341頁 定価2000円 2021-2-28発行 D文学研究会星雲社発売)

清水正ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会A5判上製・501頁。

購読希望者はメールshimizumasashi20@gmail.comで申し込むか、書店でお求めください。メールで申し込む場合は希望図書名・〒番号・住所・名前・電話番号を書いてください。送料と税は発行元が負担します。指定した振込銀行への振り込み連絡があり次第お送りします。

 

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定価3500円 2021-5-25発行 D文学研究会星雲社発売)

下記の動画は日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。 これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。是非ごらんください。

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk