帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載35) 清水正 

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清水正ドストエフスキー論全集

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載35)

清水正 

  ソーニャは神を信じることで救われているのか。救われているとして、その救いとは何を意味するのだろうか。淫売稼業で残された義理の弟妹たちを面倒みなければならない、この状況のただ中にあって何をもってして救いというのだろうか。ソーニャの内的苦悩は計り知れない。現実的になんの解決にもならない信仰による救いを、はたして救いと言えるのだろうか。思弁的見地からは何もしてくれない神を狂おしいばかりに信じているソーニャの内面において、救いは成就されているのだとでも言うのであろうか。『罪と罰』に描かれたソーニャは、彼女自身が紛れもないキリストに見えてくる。ロジオンもそう感じたからこそ、突然ソーニャの前にひれ伏したのである。ロジオンは、すぐに起きあがって「ぼくは人類のすべての苦悩の前にひざまずいたのだ」と言う。この時の、思弁の人ロジオンの行動は〈突然〉の時性に支配されている。思弁は思弁本来の性格によって信仰そのものの領域に踏み込むことはできない。ロジオンは孤独な屋根裏部屋の思弁家であるが、時に彼の行動は思弁や自意識を越えた〈突然〉(вдруг)の時性に支配される。
 ロジオンは書斎派のアポロン的な哲学者にはなれない。ロジオンが求めているのは思弁の持続(はてしなく続くおしゃべり)ではない。が、ロジオンにおける〈突然〉は、思弁から信仰へと彼の背を押すが、すぐにまた信仰から思弁へと突き戻す作用を持っている。ここにロジオンの信仰という一義に徹しきれない悩ましい実存の本質が潜んでいる。結果としてロジオンは作者ドストエフスキーによって復活の曙光に輝いているが、この曙光が永遠に輝き続ける保証はない。

 「思弁の代わりに生活が登場したのだ」と書いた後、ドストエフスキーは次のように続けてペンを置いた。

  彼の枕の下には福音書があった。彼は無意識にそれを手にした。この本は彼女のだった。彼女がラザロの復活を彼に読んでくれたあの福音書だった。徒刑生活の最初のころ、彼女が宗教で自分を悩まし、福音書の話をはじめ、自分に本を押しつけるのではないか、と考えたことがあった。だが、まったく驚いたことに、彼女は一度もその話をしようとせず、一度として彼に福音書をすすめようとさえしなかった。病気にかかるすこし前、彼は自分から彼女に頼んだのだった。彼女は黙って聖書を持ってきた。今日まで、彼はそれを開いて見ようともしなかった。
  いまも彼は、それを開こうとはしなかった。ただ一つの考えが彼の頭をかすめた。『いまや、彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか? すくなくとも彼女の感情、彼女の願望は……』
  彼女も、この日は一日興奮していて、夜になると、また病気をぶりかえしたほどだった。けれど彼女は、自分のしあわせがむしろ空怖ろしく思われるくらい、幸福感にひたっていた。七年、わずかの七年! 幸福をえた最初のころ、ときとしてふたりは、この七年間を七日のように見ることもあった。彼は、新しい生活がけっしてただで手にはいるものでなく、これからまだ高い値を払ってあがなわなければならぬものであること、その生活のために、将来、大きないさおしを支払わねばならぬことも、すっかり忘れていた……。(下・403~404)

 

  しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。(下・404
  Но тут уж начинается новая история,история постепененного перерождения его,постепененного перехода из одного мира в другой,знакомуства  с новою,доселе совершенно неведомою действительностью.Это молго бы составить тему нового рассказа,ーно теперешний рассказ наш окончен.(ア・422)

 文字通り読めば、ロジオンは初めて福音書を読む気になったらしい。はたしてロジオンは〈踏み越え〉(アリョーナ、リザヴェータ殺し)の前に福音書を読んだことがなかったのであろうか。子供の頃、母プリヘーリヤから読み聞かされた程度の福音書の知識しか持ち合わせがなかったのであろうか。もしそうだとすれば、ロジオンはソーニャの小部屋で初めてヨハネ福音書中の「ラザロの復活」を聞いたことになる。注意すべきは、ロジオンが自らの目で読んだのではなく、狂信者ソーニャの声を通して聞いたことである。活字を通して読むことは思弁の働きを活発にさせる。ましてや神に対する不信と懐疑のただ中にある者にとってはなおさらである。さらに注意すべきは、ロジオンは〈踏み越え〉た後に「ラザロの復活」の朗読(ソーニャの信仰告白)を聞いていることである。
 ロジオンは高利貸しアリョーナ婆さんのアパートに瀬踏みに立ち寄った後、地下の居酒屋で酔漢マルメラードフの告白を聞くことになる。ロジオンはこの告白でソーニャの存在を知った。ロジオンはこの時、踏み越えた〈後〉で、ソーニャにそのことを報告しようとする。踏み越えた後でなければ、ロジオンはソーニャと同一の次元に立つことはできない。これはロジオンが逃れることのできない運命として直覚したことで、この書かれざる直覚を共有できない読者は、ロジオンとソーニャの神秘的な合一のドラマに参入できない。
 いずれにしても、ロジオンは福音書に書かれた数多くのイエスの言行のうちから、「ラザロの復活」の場面を最初に聞いたことを忘れないようにしておこう。ロジオンはこれから七年間の獄中生活のただ中で福音書を読み続けることになる。ドストエフスキーは四年間にわたるシベリアの監獄生活においてデカブリストの妻から贈られた福音書を読んだ。この死の家で福音書を読み続けたドストエフスキーが、ロジオンにおける〈新しい物語〉ーー〈ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語〉を約束している。

 ドストエフスキーはこの〈新しい物語〉(новая история)に揺るぎのない確信を抱いていたのだろうか。ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう」(Это могло бы составить тему нового рассказа,)と書いた。ロジオンの〈新しい物語〉(новая история)、その「将来、大きないさおしを支払わねばならぬ」現実的な歴史は、ドストエフスキーによって〈新しい物語〉(новый рассказ)として描かれなければならない。が、ドストエフスキーはこの約束を果たさぬままに生を終えた。
 〈突然〉の時性に支配されていたロジオンの〈踏み越え〉と〈復活〉の〈物語〉(история)に立ち会ってきた読者にしてみれば、ドストエフスキーがエピローグで約束したロジオンの〈更生〉〈生まれかわり〉〈一つの世界から他の世界への移行〉が〈徐々に〉(постепенный)成し遂げられるということに妙な感じを覚える。
 ロジオンの行動は突然に支配されている。もしロジオンがこの突然の時性から解き放されていれば、彼の殺人という踏み越えも、ソーニャの前の跪拝も、ソーニャとの性的合一も、そして復活の曙光に輝く瞬間もないことになる。わたしは屋根裏部屋の思弁家にとどまり続けるロジオンにリアリティを感じ続けているので、『罪と罰』本編、及びエピローグで伝えられるロジオンの〈経歴〉(история)そのものにも作者の〈物語〉(рассказ)を強く感じる。何度でも指摘するが、わたしはおしゃべりし続けるロジオンに現実性を感じるので、二人の女を殺すロジオンにはどうしても違和感、というか虚構性(рассказ)を感じてしまうのである。わたしの『罪と罰』テキストに対する不信と懐疑は執拗で、その執拗な力をエネルギーにして批評行為を続けている。わたしが二十歳の昔から疑問に思っていたことは、ロジオンによる第二の殺人リザヴェータ殺しと、殺人の道具に使った斧であった。この謎の解明には五十年近くの年月を必要とした。
 ロジオンは最初の場面から思い惑っている一人の青年として登場していた。しかし、ロジオンのこの思い惑い自体に照明を与えた批評研究はなかった。ロジオンの惑いは高利貸しの老婆アリョーナ婆さんを本当に殺すことができるかできないか、そういった彼の非凡人思想に重ねた〈踏み越え〉の次元にとどまっていた。しかし、〈踏み越え〉の対象をアリョーナにだけ限っていたのではリザヴェータ殺しの秘密は解けない。ドストエフスキーはきわめて巧妙な書き方で当時の優秀な検閲官の眼をくらましている。ましてや発表誌「ロシア報知」の編集者はもとより、大半の読者がその作者の巧妙な手口を看破することはできなかった。
 作者ドストエフスキーがまず第一に隠したのはロジオンの内なる〈過激な革命思想〉であった。『罪と罰』の読者で、主人公のロジオンが過激な革命思想を抱いた青年と見なす者はいない。『罪と罰』の舞台は一八六五年七月である。ロジオンが大学に入学する一八六二年以前、ペテルブルグ大学の進歩的な学生たちが制度改革を求めてデモをしたりチラシを配ったりしていた多数の者たちが逮捕、監禁、追放の憂き目にあっていた時代である。その時代にあって、ロジオンが革命思想の洗礼を受けないはずはない。しかし社会の根源的な悪は皇帝による専制君主制度そのものにあり、従ってそれはどんな手段を使ってでも打倒しなければならないと認識していた、いわば正当な革命思想を抱き、革命のためには自らの命をも顧みなかった純粋な革命家は『罪と罰』の世界に一人も登場しない。過激な革命家の代わりにドストエフスキーが登場させたのは、ロシア最新思想の感染者として、思う存分に戯画化されたレベジャートニコフのみであった。 『罪と罰』表層のテキストを読む限り、主人公のロジオンも、また作者ドストエフスキーも〈革命〉思想を潜めているとは思えない。が、すでに指摘した通り、ロジオンが殺人の道具として〈斧〉にこだわったことは、彼の潜めた革命思想の発露以外のなにものでもなかった。〈斧〉で殺した相手は〈高利貸しアリョーナ〉を装った皇帝であった。革命の為には手段を選ばず、革命のために邪魔なものは容赦なく始末される。第二の殺人〈リザヴェータ殺し〉はそのことを端的に語っている。つまり、ロジオンの中に潜む革命思想とその体現の為には〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉は必須であったというわけである。
 ロジオンの深い思い惑いはつまり「革命か神か」の二者択一にあったということになる。しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』のこの重要なテーマを隠した。政治犯として死刑執行寸前の体験とシベリア流刑の体験を持つドストエフスキーは、『罪と罰』の主人公ロジオンが実は過激な革命思想を抱いていたことが検閲官に看破されることを極力恐れていただろう。それにしてもドストエフスキーは〈皇帝殺し〉を企んでいた〈一人の青年〉を〈高利貸しアリョーナ婆さん殺し〉の次元で描ききり、百年以上にわたって読者をもだまし続けていたのだからそうとうなものである。謎を解く鍵は〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉にあったわけだが、おそらく『罪と罰』にはまだまだ謎が仕掛けられているに違いない。
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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載34) 清水正

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載34)

清水正 

   ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「愛が彼らを復活させた」(Их воскресила любовь,)「思弁が命に取って代わった」(Вместо диалектики наступила жизнь,)と書いた。ここで言われている〈愛〉、〈復活〉、〈命〉をどのように理解すればいいのだろうか。まず、〈彼ら〉(Их)をソーニャとロジオンと見なした上で考えてみよう。ソーニャは淫売婦であるから〈姦淫〉の罪を負っている。が、ソーニャは罪人であると同時に狂信的な信仰者であった。この信仰者ソーニャにおける〈復活〉とはどういうことを意味するのか。またロジオンは二人の女を斧で叩き殺しておきながら遂に〈罪〉(грех)の意識に襲われることがなかった。罪意識のない犯罪者の〈復活〉とはいったいどういうことなのであろう。ロジオンは犯行後、一回でも良心の疼きに襲われたことがあっただろうか。
 確かにソーニャが言ったように、ロジオンは苦しんでいる。そのことを否定することはしまい。しかしその〈苦しみ〉は二人の女を殺したことに対する良心の呵責によるものではない。ロジオンは犯行後、自分が非凡人の範疇に属する人間ではないことを思い知った。つまりロジオンは、自分が殺した高利貸しアリョーナ婆さんよりも卑小なシラミでしかないことを認めざるを得なかった、そのことに苦しんだのである。罪の意識に襲われないままに復活の曙光に輝いてしまったロジオンは、はたしてイエスの言葉「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死すとも生き返る。また、生きて、私を信じる者は、永遠に死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」に対して、「主よ、そのとおりです。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」と言えたのであろうか。わたしは、ソーニャが貧しい菱形の小部屋で朗読(告白)したあの〈ラザロの復活〉の場面をもう一度、ロジオンに照明を与えて再現してもらいたいとさえ思う。ソーニャの狂信的な〈信仰〉に対するロジオンの妥協を許さぬ〈思弁〉があってこその『罪と罰』の醍醐味である。
 ドストエフスキーはソーニャの〈信仰〉の結果を余りにも都合よく描き出してはいないだろうか。ロジオンはソーニャの信じる神様はなにもしてくれないではないかと言う。これはひとりロジオンの思いではない。一家の犠牲になって淫売稼業に身を落としたソーニャに、神はいったいどのような救いの手を差し伸べたというのか。マルメラードフとカチェリーナの死後、ソーニャは残された三人の子供たちの面倒もみなければならない。やっと十歳になったポーレンカの運命も決まったようなものである。現実的な眼差しを注げば、ソーニャと三人の子供たちの運命は悲惨の一語につきる。ソーニャは神様はなんでもしてくださる、ポーレンカに自分のようなことをさせるわけはないと言う。が、『罪と罰』の世界に、ソーニャの言うなんでもしてくださる神様はついに登場しない。その意味で『罪と罰』は宗教的なファンタジー小説の部類に属することはない。『罪と罰』はあくまでもリアリズムの手法に則っており、ソーニャには視えるイエス・キリストを誰にでも認知できる存在として作品世界に登場させるようなことはしなかった。が、ドストエフスキーはロジオンの〈何もしてくれない神様〉とソーニャの〈何でもしてくださる神様〉の問題を、〈思弁〉と〈信仰〉の次元からずらして、別の方向へと舵を取ってしまった。
 ドストエフスキーは〈何でもしてくださる神様〉を作中に登場させる代わりに、〈ラザロの復活〉の朗読場面を隣室で立ち聞きしていたスヴィドリガイロフ(Свидригайлов)にその役目を背負わせている。〈ラザロの復活〉という前後未曾有の一大〈奇蹟〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であった得体の知れない〈怪物〉(чудо)に〈現実的に奇蹟を起こす人〉(чудотворец)の役割を演じさせた。スヴィドリガイロフはソーニャを淫売稼業の泥沼から救いだし、カチェリーナの連れ子三人を養護施設に預けた。とりあえずめでたし、めでたしである。が、このスヴィドリガイロフの善行で「何でもしてくださる神様」の存在を認めることができるのだろうか。『罪と罰』の中で、スヴィドリガイロフのこの善行をめぐってソーニャとロジオンが表だって口にすることはない。
 スヴィドリガイロフは死んだ妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を視ることができる。この〈привидение〉を〈провидение〉と書き換えると〈神〉となる。マルファ(Марфа)は、ラザロの復活の場面でイエスに面と向かって「あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」と応えたマルタを意味する。スヴィドリガイロフがソーニャたちに施した金はもともとマルファのものである。すると、マルファがスヴィドリガイロフの手を通して何でもしてくださる〈神様〉(провидение)の役を演じたと言えないこともない。が、いずれにしても、こういった設定はリアリズムの圏外に属する。ドストエフスキーが『罪と罰』で描いたスヴィドリガイロフのソーニャに対する善行(奇蹟)は余りにもファンタジー過ぎる。このファンタジーを信じることはソーニャの狂信を信じることと同様に困難を極める。
 わたしは改めてソーニャにおける〈救い〉を問題にしたいと思う。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載33)

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載33)

清水正

 

    ドストエフスキーは全生涯を通して神の存在を問題にした。神は存在するのかしないのか。神は存在するとして、なぜこの地上世界を不条理に充ちた世界として創造したのか。いったいこの世界のどこに正義・真理・公平が体現されているというのか。『罪と罰』のカチェリーナ、ロジオン・ラスコーリニコフ、『悪霊』のアレクセイ・キリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフの口からわたしたちは神に対する深く激しい抗議の言葉をきくことになる。はたしてドストエフスキーは自らが創造した人神論者たちを説得することができたのであろうか。アレクセイ・カラマーゾフやゾシマ長老の信仰は、彼らの不信と懐疑に十分に応えることができたのであろうか。
 ドストエフスキーが信仰と思弁の問題に関して徹底的に追及しているのは『罪と罰』である。地下の居酒屋でロジオン相手に親鸞悪人正機的な赦しの神を説くマルメラードフの神学、ロジオンの要請に応えてラザロの復活を朗読した狂信者ソーニャの信仰、これらの神学と信仰は本当に思弁の人ロジオンを回心させることができたのであろうか。わたしはドストエフスキーの人神論者以上の執拗さで神の問題を問い続けていきたいと思っている。
 マルメラードフの口にする神は、「汝姦淫するなかれ」の死罪に値する戒律を破っている淫売婦ソーニャを、自分の娘を犠牲にして酒におぼれているろくでなしのマルメラードフを、額に獣の数字666を刻印している涜神者ロジオン・ラスコーリニコフをも赦す神である。この神は愛と赦しの新約の神イエス・キリストドストエフスキー風に描き出したものと言える。マルメラードフが頭に抱いている神はおそらく新約の神イエスであって、厳しく裁き、罰する旧約の神ではない。マルメラードフの神学は旧約の神と新約の神の違いを明確にした上で展開されていないし、そもそも旧約の神の存在は彼の意識の圏外にある。ソーニャの場合も同様で、彼女の信仰の対象はあくまでもイエス・キリストである。尤もヨハネ福音書において、イエスは自分が天の神から遣わされた神のひとり子であることを証明するためにラザロの復活という奇蹟を起こすのだと口にしている。従ってイエスを信じることのうちには旧約の神を信じるということが予め含まれているということになる。
 ユダヤキリスト教の文化・信仰圏に生まれ育った者にとって神と神の子(および聖霊)の一体化は論議以前の真理として受け止められているのかも知れない。が、それとは異なる文化・信仰圏に生まれ育った者にとっては旧約の神と新約の神の一体化を理性的に理解することはできない。ましてや聖霊となるとちんぷんかんぷんである。なぜ、神と神の子の一体のほかに聖霊を必要とするのか。聖霊をたとえば、神と神の子の間を仲介する天使と見れば、それなりの理解はできるが、それにしても神と神の子の間になぜに仲介者を必要とするのか、その理由がわからない。
 『罪と罰』の中で観照派に属すると思われるソーニャはイエス・キリストを〈幻〉(видение)として視ることができる。「ラザロの復活」の朗読の場面において、ソーニャは部屋の片隅に現出したイエスを視ている。大半の読者には理解できないとしても、ドストエフスキーはそのように描いている。わたしがここで問題にしたいことは、ドストエフスキーはこのイエス・キリストの〈幻=видение〉を、その場にいたロジオン・ラスコーリニコフには分からないように描いていることである。『分身』における新ゴリャートキンは作中において旧ゴリャートキンのみならず、その他のすべての登場人物にとっても実在している人物として描かれている。もし、ドストエフスキーが『罪と罰』においてイエス・キリストを〈幻=видение〉としてではなく、誰にでも認知できる存在として描いたなら、この作品の評価はずいぶんと異なったものになったに違いない。
 ドストエフスキーの文学は既存のキリスト教を大々的に広めるために創造されたわけではない。彼がなしたことは、はてしのない不信と懐疑の力によってキリスト教の深みへと徹底的に踏み込んでいったことにある。このドストエフスキー的な不信と懐疑の洗礼を受けていない信仰は信仰とは言えない。換言すれば、キリスト者を称する者はすべてドストエフスキー的な不信と懐疑に真っ向から対面し対決しなければならない。ソーニャが感知しているイエス・キリストの存在〈幻=видение〉を同様に感知できる者は、ソーニャと同じ信仰を獲得していると言えるかもしれない。が、それを感知できない者にとってはイエス・キリストの存在はないに等しいのである。
 ソーニャと同じ部屋にいて、ロジオンはソーニャの視ている〈幻=видение〉を感知することはできない。ロジオンはソーニャの信じる神を信じようとしても、彼の弁証法(диалектика)がソーニャの信仰を〈狂信〉としか認めないのである。信仰と思弁の戦いはおそらく永遠に決着がつかないであろう。ところで『罪と罰』を書いたドストエフスキーは、この永遠に決着のつかない問題に決着をつけてしまった。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載32) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載32)

師匠と弟子

清水正

 福音書に描かれるイエスがわたしにとって魅力的なのは、イエスが自分の信じるものに向かって一途に生きるその過程において悩み悲しむことを抑制していないところにある。わたしは福音書に描かれたイエスに対して、ここではあくまでも〈人の子〉を見ようとしているので、イエスの焦燥、苦悩、怯え、不安を人間のものとしてとらえる。イエスは人間であるからこそ、ユダの裏切りを裏切りとして受け止め、そんな者は生まれてこなければよかったのだとまで言い切るし、ペテロの裏切りも面と向かって口にする。イエスは十二弟子たち全員がつまずくことを知っている。こういった予言性は人間と深く関わったものであるならば、別に神の子である必要はない。革命運動においても組織のトップに立つものは不断に同志や部下たちの裏切り、策謀に敏感である。理想や志は高くても、それを実現する過程において主導権争いはどんな組織においても見られる。イエスの実現しようとする理想が、既存の権威を脅かすものとして受け止められた以上、彼および彼の仲間や弟子たちが弾圧の対象になることは当然の成り行きである。
 戒律を重んじるユダヤ教の祭司長たちがイエスを逮捕し、裁判にかけ、死罪を決定したことは、はたして彼らにとって有利に働いたであろうか。たとえイエスが自ら〈ユダヤの王〉を自称したにせよ、極力無関心を装っていたならば、イエスを〈神の子〉とするキリスト教の教義は成立しなかつたに違いない。イエスの受難は、それが尋常を逸すれば逸するほど、悲劇的な英雄性を獲得する重要な材料となってしまう。イエスはローマ兵たちに茨の冠を被せられ、殴られ、唾を吐かれている。これほど屈辱恥辱的な愚弄と嘲笑はない。イエスゴルゴタの丘への道行きにおいて単なる犯罪者以上の屈辱を受け続ける。この受難を神の子キリストの受難と受け止める者にとっては、受難は即栄光となるだろう。人間イエスの次元で見ればどんなに屈辱的な受難も、神の子キリストの次元で見れば輝かしい栄光となるのである。
 わたしの脳裏に浮かんできたのは十九世紀ロシアの革命家の公開処刑の場面である。

 革命のために自らの命を犠牲にできる革命家と十字架上で息を引き取ったイエス、彼らに共通しているのは自らが正しいと信じるものに対する揺らぐことのない確固たる意志である。意志に揺らぎが生じれば、死に際においてみっともない醜態をさらけ出すことになる。革命家とイエスの違いは、前者に復活はなく、後者に三日後の復活が用意されていたということである。前者に信じる絶対的な神の存在はなく、彼らの死は新しい命を獲得することはできない。

 革命家が何故に革命を絶対視し、その実現のために自らの命をまで投げ出すのか。彼らの行動を内的に支える情念はいったいどこから生じているのか。わたしは革命家が信じている革命後の理想的な社会を具体的に描き出すことができない。この地上世界にユートピアを実現することはできないし、もし実現しようとすれば、当初の理想社会とはまったく正反対の社会(誰もが自由でなく、平等でない社会)の来現に直面することになろう。革命家が目指す理想的な社会は畢竟幻想でしかないということになる。もし革命家が革命後の社会を生きたら、その社会から真っ先に逃げ出すのではなかろうか。人間の自由は社会制度によって保証されるものとは根本的に性格を異にしているものなのである。
 イエスはいったい何をしたかったのだろうか。イエスの言動は旧約聖書を引きずっているが、しかしその世界に踏みとどまってもいない。もしイエス旧約聖書の神を否定して、新しい神として登場して来るのなら理解しやすい。理性の次元で考えれば、旧約の神の子として登場するイエスの言動はいたるところで解決しようのない矛盾を晒している。
 モーゼの十戒において旧約の神は「汝殺すなかれ」と命じているが、ヨシュア記においては厳しく「殺す」ことを命じている。ヨシュア記に何度「聖絶」という言葉が出てくるか数えてみたらいい。ユダヤ教の神は自らが選んだユダヤ人以外の人間に対して情け容赦のない皆殺し(聖絶)を許容する。神が絶対であるなら、二つの異なる命令を同時に受けたユダヤ教徒はどちらの命令に従うのであろうか。可能な選択は、「殺すなかれ」は同胞の者に限定し、「殺せ」は他部族の者に限定するという解釈に則って判断するということであろう。それではキリスト者はどうするのであろうか。イエスは愛と赦しを説いた〈人の子〉である。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せと言い、汝の隣人を自分と同じように愛せと言ったイエスの言葉に従えば、「殺せ」と命じる旧約の神の命令に反することになる。イエスを神の子と信じるキリスト者は、この時、父なる神に従うか、それとも子の神に従うかの、恐るべき二者択一に迫られることになるのではなかろうか。こういった二者択一の前に苦悩したキリスト者があったのだろうか。
 ゲツセマネの祈り自体の中に、わたしはイエスの〈人の子〉としての苦悩を見る。誰よりも神を問うているのがイエスなのではないか。ゲツセマネのイエスに、イワン・カラマーゾフの神に対する不信と懐疑を注入したら、イエスは実に生々しい存在として今日の世界に蘇ることになる。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載31) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載31)

師匠と弟子

清水正

 

  イエスが逮捕される前、彼は三人の弟子ペテロ、ヤコブヨハネを連れてゲツセマネに行き、そこで深く恐れもだえながら「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい」と言う。この場面も多くの謎を秘めている。ゲツセマネという場所に特別の意味があるのか。なぜ十二弟子のうちペテロ、ヤコブヨハネの三弟子が選ばれたのか。この時、イエスは何に対して深く恐れもだえ、死ぬほどの悲しみに襲われたのか。イエスは語らず、弟子は問わず、福音書記者マルコはいっさい説明しない。マルコは続ける。

  それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
  またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ福音書14章35~36節)

 ゲツセマネにおけるイエスの祈りをどのように受け止めればよいのか。この時のイエスの深い恐れと悲しみは逮捕、裁判、処刑を受け入れなければならないまさに人の子のそれである。イエスが父なる神に派遣された神の子であれば、ここに描かれたようなきわめて人間的な苦悩や悲しみの感情が起きることはないだろう。福音書に描かれたイエスはある時は神の子としての威厳を示すが、このゲツセマネの祈りの場面のように人間に共通したきわめて弱々しい側面をもさらけ出す。
 イエスは自分の人生がどのように幕を下ろすかはっきりと自覚している。神の子でなくても、自分の思想、理想をいっさいの妥協なく貫きとおそうとすれば、自ら命を絶つか、殺されるか、いずれにせよ必ず死に直面する。イエスの言動は戒律を重んじるユダヤ人たちにとっては忌々しい存在であった。イエスを信じる者たちが増えてくれば、自分たちの立場が危うくなる。ということで、彼ら旧秩序の側にいる者たちは一致団結してイエスを、神を、冒涜する者として断罪しようとはかる。
 もし戒律派のユダヤ人たちがイエスを十字架刑に処すことを望まなかったら、イエスの神の子としてのドラマは説得力を持たなかったであろう。十字架上での六時間にわたる苦悶のはての死がなければ、三日後の復活という秘儀のドラマは成立しようがない。こう考えれば、ユダヤ人たちの欲求こそがイエスを神の子として祭り上げたとも言えよう。
 わたしはユダヤ教徒でもなければキリスト教徒でもないので、原罪、三位一体などまったく理解の外にある。というより、わたしの理性がそれらを受け付けない。イエス旧約聖書の神を否定して、新しい神となったのではない。イエスは何かにつけて旧約聖書の言葉を持ち出しては、自分の言動の正しさを根拠付けている。イエスは旧約の神から解放された存在ではない。そこにイエスの存在の二重性、分裂性が見られる。時にイエスの言動はこの二重性と分裂性にいらだっているようにも見える。
 キリスト信者はゲツセマネの祈りの場面など、どのように読むのだろうか。恐れもだえ、悲しみに沈むイエスを神の子と見なすことができるのだろうか。イエスと行動をともにしている弟子たちでさえ、一人残らずイエスを裏切っている。直にイエス接触のあった弟子たちでさえ、イエスのキリストであることを信じきることができなかったというのに、二千年も経過して福音書の中のイエスしか知り得ようのない者たちが、どういうわけでイエスの神性を信じることができるのだろうか。それよりなにより、はたしてキリスト者を自称する者たちがきちんと聖書、福音書を読んでいるのだろうか。もし読んで研究を進めれば進めるほど、新たな疑問が生じ、ますます信仰から離れていくことになるのではなかろうか。神学は信仰を深めるより、むしろ信仰からの離脱を促しはしないだろうか。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載30) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載30)

師匠と弟子

清水正

夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
  ピラトはイエスを尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
  そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。
  ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
  それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。(マルコ福音書15章1~5節)

 イエスは大祭司に「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」と尋ねられて「わたしは、それです」と答えた。ここでも、ピラトに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と問われて、すぐに「そのとおりです」と答えている。
 イエスは自分が〈ほむべき方の子〉〈キリスト〉〈ユダヤ人の王〉であることを認めた。そのことでイエスは死罪を引き受けた。もしイエスが沈黙を守り通せば、彼を死罪にすることは難しかったであろう。
 イエスは布教の最初から自分の存在をキリストと見なしていたのか。それともただの人の子と見なしていたのか。この点が微妙である。わたしは、ここでは人の子イエスを浮き彫りにしたいと思っている。もしイエスが自分をキリストと思っていたのなら、最初からそのことをはっきり公言すればよかったと思う。イエスは、ペテロがイエスをキリストであると口にした時も、そのことを口外してはならないと言っている。なぜ、イエスはこのような微妙な、曖昧な態度を取ったのか。
 イエスはマリアとヨセフとの間に生まれたナザレの人であってどうしていけないのか。ただの人イエスの言動が祭司長たちの立場を危うくする強大な力を発揮することによって、イエスは最終的には十字架上で殺されることになった。イエスを一人の人間とのみ見なせば、十字架上で死んだイエスが三日後に復活することはない。
    イエスがキリストであることによって十字架上の死と復活は意味を持つ。が、イエスが人間イエスにとどまっていれば、福音書で書かれたような復活はない。生前のイエスと実存的同時性を獲得した時、まさにその時イエスはその人の内に復活したとは言える。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載29) 師匠と弟子

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近況報告 

漸く『ドストエフスキー曼陀羅』の校正が終わった。と言っても初校だが。引用文の校正が面倒で疲れる。近日中に『清水正ドストエフスキー論全集』第11巻の初校と共に印刷屋に送ることにしたい。校正は原稿を書く三倍ぐらい疲れる。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載29)

師匠と弟子

清水正

 強調されているのは「祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めた」ということである。が、イエスに関する不利な証言はすべて偽証であったとマルコは記している。モーゼの十戒において偽証は厳しく戒められている。にもかかわらず、ここでは多くの人々の証言が偽証とみなされている。偽証をもってしてもイエスを処刑にしなければならないという祭司長側の願望が露骨に反映されている。
 被告として裁きの場に立たされているのはイエスただ一人、それに対し裁く側のユダヤ人は大勢である。が、イエスを死刑にするための決定的な証言はない。そこで大祭司はイエスに向かって「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と聞く。今まで頑なに沈黙を守っていたイエスがついに口を開く「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、なたがたは見るはずです。」と。この「キリストですか」の問いにイエスは「わたしは、それです」と答える。わたしはこの答え方に妙な感覚をおぼえる。
 イエスは自分がキリストであることを公言していなかった。弟子たちに対しても、自らの口を通して自分がキリストであることをはっきり表明することはなかった。なぜ、イエスは大祭司の挑発に乗って「わたしは、それです」と言い切ったのか。この言葉を発することによって、自分が死刑の判決を受けることは明白である。福音書に書かれたこの場面をそのまま受け止めれば、イエスは単なる人として布教活動を展開していたのではないということになる。
 それにしても、なぜイエスは「わたしは、キリストです」と言わずに「わたしは、それです」などという曖昧な言い方をするのであろうか。く人の子〉〈それ〉〈キリスト〉という言い方のうちに、人の子イエスが神の子キリストへと変遷していく内的過程が潜んでいるのかもしれない。
 裁く側のユダヤ人にとってイエスが発した言葉「わたしは、それです」は神を最大限に侮辱する偽証ということになる。全員一致でイエスの死刑を決定したというのであるから、祭司側の人々のうち誰一人としてイエスをキリストと見なした者はいなかったということになる。ところでイエスの側の者、祭司長の中庭にまで忍び込んだペテロはどうだったのか。ペテロははっきりとイエスをキリストだと言っていた。が、イエスはペテロが裏切ることを予め知っていた。ペテロはイエスがキリストであることを確信してはいなかった。つまり、イエスは裁く側の者からも、弟子たちからもキリストとは見なされていなかった。わたしが問いたいのは、はたしてイエス自身は自分をキリストと確信していたのかどうかである。
 マルコの福音書を読むかぎり、マルコはイエスをキリストと見なしていることは確かである。そうでなければ福音書を書く根拠は失われることになる。しかし、マルコの人間を描き出す眼差しは冷徹である。マルコは裏切り者ユダやペテロの内的世界に深く立ち入ってその心理を詳細に描き出すことはなかったが、端的な文章で彼らの内的世界を浮き彫りにしている。
 マルコは人間イエス、人間ユダ、人間ペテロを冷徹な眼差しで見つめている。イエスに反感、憎悪、恐怖を覚え、なんとしてでもイエスを処刑せよというユダヤ人たちもまた人間として見られている。が、福音書は人間たちの織りなす横糸のドラマの中に、別の縦糸が差し込まれてくる。縦糸とは言うまでもなく、神の子キリストの出現である。わたしがまず問題にしたいのは、このキリストの出現の仕方にある。
 『白痴』のムイシュキン公爵はもちろん虚構の人物であるが、彼はあくまでも人間として振る舞っている。ムイシュキンは善良で純粋無垢な青年であり、作者ドストエフスキーは彼の造形を通して〈十九世紀ロシアに出現したキリスト〉を描き出したいと願っていた。しかし『白痴』全編を通してムイシュキンがキリストの衣装を身につけることはなかった。ムイシュキンは〈白痴〉とか〈おばかさん〉とか呼ばれることはあっても〈キリスト〉と見なされたことはなかった。福音書に登場するイエスは数々の奇蹟を行うが、ムイシュキンはただ一つの奇蹟も行うことはなかった。ドストエフスキーはムイシュキンを徹底的に人間の次元にとどまらせた。
 マルコにはこのドストエフスキーの視点はない。マルコにはイエスを人間の次元でのみ描こうという意志はない。マルコの課題は、人間イエスをいかにして神の子キリストとして描き出すかということにあったように思える。福音書記者マルコにとって、イエスが人間イエスの段階にのみとどまっていたのでまずいのである。イエスはナザレ人イエスから神の子キリストへと変容を遂げてもらわなければなんの有り難みもないということになるのであろう、少なくともキリスト者にとっては。
 福音書記者は人間イエスにキリストという新しい威厳のある衣装を着せたが、わたしはその衣装をはぎ取り、生々しい人間イエスを復活させたいという願望がある。
 福音書を書いているマルコの後ろ姿を見つめながら、わたしは人間イエスを浮き彫りにしたいと思う。

 

 

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