「動物で読み解く「罪と罰」の深層」は江古田文学103号で連載7回完結。

 

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近況報告

江古田文学」103号が3月25日に刊行された。わたしの「動物で読み解く「罪と罰」の深層」は連載7回目。今号で連載を打ち切った。前にも書いたがこの連載原稿の続きの60枚をポメラ操作ミスで失い、少なからずガックリきている。少し時間をおいてからまた書きだそうと思っている。

本ブログでは103号に掲載した100枚のうち、最後の箇所を載せておく。今流行りの新型コロナを、ドストエフスキーが「罪と罰」でロジオン・ラスコーリニコフの悪夢の中で描いた「理性と意志を賦与された施毛虫」に重ね合わせると意義深い。この「施毛虫」は「精霊」とも言われており、これに感染したものは自分が絶対的に正しいと信じ、お互いに闘争し始める。やがて感染者は全世界に及び、人類は滅びてしまうという悪夢である。

ドストエフスキーは、それでも絶望的な幕引きを避けて、何人かの選ばれた者がこの厄から逃れたと記している。はたして人類は破滅しきってしまうのか、それともまだ希望はあるのか。ドストエフスキーは次のように書いている。

「火災が起こり、飢饉が始まった。何もかも、ありとあらゆるものが滅びていった。疾病はしだいに猖獗を加え、ますます蔓延していった。世界じゅうでこの厄をのがれたのはようやく四五人にすぎなかった。それは新しい人の族と新しい生活を創造し、地上を更新し、浄化すべき使命をおびた、選ばれたる純なる人々であった。しかし、だれひとりとして、どこにもそれらの人を見たものもなければ、彼らの言葉や声を聞いたものもなかった。」米川正夫訳。

ここで詳しいことは語らないが、ここに引用した箇所だけ読んでもドストエフスキーがいかに予言者的な恐るべき小説家であるかがわかるだろう。この際、特に若い人たちは真剣にドストエフスキーを読んだらいいと思う。ヒカルが「罪と罰」をどう読むか、たいへん興味がある。ヒカルが動画で「罪と罰」を取り上げたら、まさに奇跡的に読まれると思うのだが。

 

江古田文学」103号に掲載した論文の一部を再録。

なお「江古田文学」購読希望者は下記の江古田文学会にお申込みください。

〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1 日本大学芸術学部文芸学科内

 TEL 03-5995-8255 FAX 03-5995-8257  振替 00170-5-25828

 ソーニャの部屋を俯瞰する
 ――二人の〈神〉の現出とペテルブルク――

清水正


 さて、ここでもう一度〈ソーニャの部屋〉を俯瞰的に見ることにしよう。
 ソーニャの部屋の壁を取り払ってしまえば、左側にカペルナウモフ夫妻と七人の子供たちが、そして右側に立ち聞きしていたスヴィドリガイロフが現れることになる。妻マルファを毒殺したのではないかと噂される淫蕩漢スヴィドリガイロフもまた間違いなく〈奇妙な人〉(странный человек)である。まさにソーニャの部屋は奇妙な人々の集合場所である。緑色に塗られた掘割に面した三階建ての建物の一室は一挙に意味ありげな神秘的な部屋に変貌する。ここでスヴィドリガイロフが〈ラザロの復活〉という前後未曾有の一大〈奇跡〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であり、〈実際に奇跡を起こした人〉(чудотворец)であり、ラズミーヒンと同じく〈現世的な意味での神・善行を施す人〉(провидение)で、亡き妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を観ることのできる男であったことを確認しておこう。まさにスヴィドリガイロフは際だって奇妙奇怪な男であり、〈怪物〉(чудо)である。はたしてこの男に並ぶような〈奇妙な人〉が存在するであろうか。わたしの脳裡にすぐに浮かんできたのは、ソーニャの傍らに顕れる〈幻=видение〉、すなわち〈キリスト〉である。
 ソーニャの信じている〈神〉(бог)は、彼女の傍らに顕れることはあっても、現実的な救済の手を差し伸べることはなかった。ヨハネ福音書に描かれたイエスは様々な奇跡を起こしているが、ソーニャの信じる神は沈黙し続ける神であり、ロジオンに言わせれば「何もしてくれない神」である。つまり、壁を取り払ったソーニャの部屋には、顕れるだけで何もしてくれない〈神〉(бог)とスヴィドリガイロフという〈現実的な奇跡を起こす人・神〉が居合わせていたことになる。スヴィドリガイロフが単なる奇跡の〈立会人〉にとどまらず、ソーニャを淫売稼業の泥沼から救い出し、カチェリーナの子供たちに救いの手を差し伸べたことは、まさに彼こそが望まれるべき〈神〉(провидение)に思える。
 二千年前には死者をも甦らせた神のひとり子イエス、しかしソーニャの傍らに〈幻=видение〉として顕れる〈キリスト〉は〈何もしてくれない神〉にとどまっている。福音書に描かれたイエスは、彼を信じる者にとっても、彼を迫害する者にとっても、きわめて〈奇妙な人〉であったことにかわりはないが、〈ラザロの復活〉朗読の場面においては、〈幻=キリスト〉よりもスヴィドリガイロフのほうがはるかに〈奇妙な人〉に見える。
 〈奇妙な人〉関連で付け加えておけば、スヴィドリガイロフはロジオンとの最後の会見の場で「ペテルブルグでは、歩きながらひとり言をいう人がたくさんあります。こりゃ半気ちがいの町ですよ。もしわが国にほんとうの科学があったら、医者も、法律家も、哲学者も、それぞれ自分の専門に従って、ペテルブルグを対象にきわめて貴重な研究をすることができたでしょうよ。ペテルブルグほど人間の心に陰うつ険峻な、奇怪な影響をあたえるところは、まずあまりありますまいよ」(533)と言っている。
 十八世紀、ロシアの近代化を促進するために、ピョートル大帝フィンランドの湿地帯に全ロシアから石を運んで建築した人工都市ペテルブルクは、ヨーロッパの諸学問を受け入れる窓であると同時に軍事要塞の役割も果たしていた。ピョートルのまさに西欧的な理性と意志によって建築された都市ペテルブルクは世界一美しい幻想的な都市であると同時に、官僚的な、人間性を疎外する人工都市でもあった。それは悠久の歴史を刻むロシアの自然性から乖離した、いびつな、不具的な近代都市であり、そこに生きる者の精神性を歪めずにはおれなかった。ドストエフスキーが初期作品で描き出した小役人――『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン、『分身』のゴリャートキン、『プロハルチン氏』のプロハルチン、『弱い心』のワーシャ・シュムコフなど、精神の危機に陥らざるをえなかった人物たちの悲劇的運命がそのことを明確に示している。弱い心の持ち主や、空想癖のある人間にとって、ペテルブルクは実に危険な町だったということになる。
 つまりソーニャの部屋にだけ〈奇妙な人〉が集まっていたのではなく、ペテルブルクという都市に住むあらゆる人間が、程度の差はあれ奇妙、奇怪な側面を備えていたということである。それはロジオンがシベリアの監獄で見た悪夢の中にあらわれる〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉とも深く繋がっている。つまりペテルブルク全域に、この旋毛虫、すなわち感染するとただちに自分だけが正しいと思ってしまう微細な〈旋毛虫〉が蔓延していたということである。注意すべきは、この顕微鏡を覗かなければ見えない〈旋毛虫〉(трихина)が〈精霊〉(дух)であったことだろう。まさにペテルブルクはピョートル大帝にとり憑いた〈理性と意志を賦与された精霊〉(духи, одаренные умом и волей)によって建築され、十九世紀中葉にあってもペテルブルク全域にこの〈精霊〉が蔓延していたのである。

 

 

 池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

Youtuberヒカルに大いなる期待

近況報告

Youtuberヒカルに大いなる期待

前にYouTube革命について書いたが、新型コロナ蔓延で外出自粛が国家から要請されている今、ますますこの革命は加速度的に進むだろう。大学も教室に大勢の学生を集めての授業ができないので、オンライン授業が当たり前となっている。中田敦彦Youtube大学などは見本とすべき一つの授業スタイルと言えるだろう。現在注目すべきYoutuber

は少なからずいるが、わたしは中でもヒカルに最も大きな期待をかけている。ヒカルの斬新な企画力、実践力はすさまじいものがある。この度のロコンドとの連携でヒカルブランドのシューズ販売という企画は二日間で二億円を売り上げ、さらに二度目の企画では六時間で二億円を売り上げるという快挙である。頭のキレがよく、企画を的確に実践化していくそのスピード感がたまらない魅力となっている。今や相棒的な存在となっている大スター宮迫やロコンドの社長を巻き込んでの靴販売というエンターティンメントを奇跡的な規模で大成功に導いている。ヒカルは金の稼ぎ方と使い方をよく知っている。義理人情にもあつく、彼がアップする動画は観ていて気持ちがいい。ビジョン、企画力、実践力を伴ったヒカルのような政治家はこの国にはいないのか。のろのろ、ぐずぐず、まったく先の見通しをかいたアホみたいなころころ変わる政策を口にし、失敗に何らの責任も取らずに、政局時局を泳いでいるのが今の政治家の大半である。ヒカルのような有能な青年が政治経済に影響を与えるような存在になってほしいと思うのはわたしだけではあるまい。ヒカルの動画のとうてい読み切れないコメントを読めば、彼に期待するものが百万以上いることは間違いない。明確な国家ビジョンを持った政治家や財界人が出現しなければ、この日本に明るい未来が到来することはないだろう。

 池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

中田敦彦のYouTube大学「罪と罰」に一言。

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7日は行きつけの医院に出かけ、薬をもらってきた。午後四時前、患者は診察中の一人のみ。すぐに診察を終え、50日分の薬をもらってきた。非常事態宣言もあって街にひとは少ない。大学は五月一日からオンライン授業を開始するという。年配の非常勤講師も多く、戸惑ったひとも少なくないだろう。学科研究室の助手や助教の援助なくしては成り立たないかもしれない。

新型コロナに関しては多くの異なった情報が入り乱れていて、わたしのように二十時間以上も動画を観ている者にとっては、逆に真実が見えてこない。ニーチェの言う「事実はなく解釈あるのみ」である。新型コロナをチャイナの生物兵器と見る解釈があれば、日本とアメリカが仕掛けたのだという解釈もある。どちらも自分の主張が正しいという立場にたって動画を発信している。新型コロナは風邪の一種で大げさに騒ぎ立てることはないという者があり、政府の非常事態宣言自体が後手後手で甘すぎるという者がいる。動画をほとんど観ずにテレビ、新聞だけで情報を得ている者たちは、多様な情報に混乱することもなく、政府の自粛要請に素直に従っているのかもしれない。それにしても今日の日本がこれほどチャイナの影響下にあったのかと驚く。田中角栄の日中国交回復にまで遡れば、少しは今日の政治・経済状況が浮き彫りになるかも。日本は天安門事件のチャイナと国交を回復し、親日国の台湾を切り捨てたことを決して忘れてはなるまい。それにしても現安倍政権を批判する保守陣営のまとまりのなさもどうしようもない。お互いに罵詈雑言を発したり、同じような政策を提示しながらまったく歩み寄ろうとする姿勢がない。まさにこういう状況下にあっては女子の力が存分に発揮されなければなるまい。

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

先日、中田敦彦YouTube大学で「罪と罰」を取り上げていたのでさっそく観ることにした。中田氏の動画に関しては当ブログでも紹介しておいたが、とにかく人気のある評判のいい動画である。「罪と罰」動画は3月23日に公開され本日4月9日現在で視聴者数が75万を軽く突破している。この動画も中田氏のエンターティナーとしての才能を存分に発揮したものとなっている。ストーリイや人物たちを分かりやすく説明しているので、今までタイトルぐらいは知っていても読む機会のなかった者に読む気を起させることまちがいない。大長編小説を一時間で熱く語れるのはなかなかのものである。コメント欄を見ても好意的なものが多い。ところで、中田氏の語る「罪と罰」は原作と異なる箇所が少なからずある。彼は参考文献に「罪と罰 まんがで読破」を一冊のみあげている。日本で「罪と罰」を漫画化したマンガ家は手塚治虫をはじめとして汐見朝子、大島弓子岩下博美、峰岸ひろみ、落合尚之、漫F画太郎などがいる。それぞれ独自の解釈で再構築しているが、「まんがで読破」もまた大長編をコンパクトにまとめあげている。わたしはマンガ家たちの再構築をそれなりに楽しんで読んでいるが、手塚治虫のマンガ「罪と罰」に関していっさいの妥協なく1500枚を費やして批評した。興味のある方は「清水正ドストエフスキー論全集」第4巻と第5巻をお読みください。

中田氏の動画でまず気になったのは、彼は原作をどのテキストで読んだのかといった点であった。理由は「罪と罰」の重要人物の一人であるスヴィドリガイロフをスビドリガイノフと表記しまたそのように発音していたからである。「罪と罰」の愛読者でスヴィドリガイロフの名前を間違える者はいない。「まんがで読破」では「スビドリガイロフ」でヴィがビとなっているが、これはまあ間違いとは言えない。ドストエフスキーは名前一つに様々な象徴的意味を潜めた小説家であり、ささいな間違いとしてすますわけにはいかない。

もう一つ気になったのは、動画の最後のほうで「口伝えでしゃべった」と重ねて強調していたことである。「罪と罰」全編をすべて口伝えでしゃべることができたら、そりゃあ間違いなく大天才ということになろう。中田氏はこういった作家に関する情報をどこで得たのであろうか。わたしは最初聞き間違いかと思って繰り返し観たが、中田氏は確かに「罪と罰」全編が口伝えでしゃべったものと思い込んでいるらしい。ドストエフスキーが後に第二の妻となる速記者に口述したものをもとに書き上げたのは「賭博者」であって「罪と罰」ではない。詳しいことを知りたければアンナの日記や、ドストエフスキー研究家として定評のあるグロスマンの著作「ドストエフスキイ」北垣信行訳・筑摩書房を読めばいい。

それにしても中田氏の動画は百万単位の視聴者があり、わたしのブログの読者は百人そこそこである。わらうしかない差であるが、べつに気にもしていない。ついでに大川隆法氏の「ドストエフスキーの霊言」についても一言書いておこう。霊言とはおそれいった、おわらいにもならない。ドストエフスキーの霊魂と大川氏のそれになんの共通項も見いだせない。ドストエフスキーの大いなるディオニュソス的精神世界、イヴァン・カラマーゾフに体現されたわが魂の震えをもって神に抗議するヨブ的悲憤、人類の全苦悩の前にひれ伏すことのできる殺人者ラスコーリニコフの分裂と苦悶など、「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」に魂を慄かせた読者には、大川氏の霊言は全く異質のものを感じるだけである。

 

引き籠って、アルベール・カミュ「ペスト」を読め。

 

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

今日で三月も終わり。窓から外を見ると公園の木が緑色に染められている。今年の二月八日で七十一歳になったが、老人の誰でもが言うように時のすぎるのが速い。大げさでなく一年が一か月くらいに感じる。

勤め先の日芸は令和二年度で非常勤講師の任期を終える。従来は七十五歳まで非常勤講師として学部の授業を務められたが、七十歳までとなった。わたしの場合は暫定処置として七十二歳まで。今まで江古田の「同心房」で一週間に一回集まって雑談していたメンバーの多くが令和二年度、つまり来年の三月末日をもって退職することになる。寂しいかぎりである。

文学や芸術は生涯をかけてやるものだから、定年など関係ない。大学が七十歳以上の研究家を必要としない見解には賛同できないが、敢えて抗議する気持ちもない。わたしは2015年の暮れから難病にかかり、その治療中である。難病の症状は薬によって抑えられているが、帯状疱疹後神経痛がいっこうによくならない。別に命に関係するわけではないが、思った通りの講義はできない。だが、七十歳を越えても身体頑強で研究教育に情熱を傾けている者もいるので、七十歳で非常勤講師を一列に辞めさせるという方針が、大学として正しい選択とは思えない。

さて、先日「ペスト」を読め、「罪と罰」を読め、などと本ブログで書いたが、今日は「ペスト」について少しばかり書くことにしたい。わたしは十七歳の昔からドストエフスキーを読み続けているが、アルベール・カミュは大学二年の時に集中的に読んだが、その後読み返してはいない。ただし、大学二年のゼミ雑誌に「不条理の世界──カミュドストエフスキーか──」を書いているので「異邦人」や「ペスト」に関してはそれなりに記憶している。この論文は大学四年の時に刊行した「停止した分裂者の覚書──ドストエフスキー体験──」と「清水正ドストエフスキー論全集」第二巻に収録してある。

「ペスト」はペストが蔓延するオランを舞台とした小説である。二十歳に書いたわたしの「不条理の世界」は五十枚ばかりのものだが、新型コロナが流行する今、読み返すとなかなか面白い。後半部分を引用するので、ペストを新型コロナウイルス、オランを今日の世界全体に置き換えて読んでほしい。引用は「清水正ドストエフスキー論全集」第二巻に拠る。

 

ペストは個々の意思に関わりなく、外部から襲撃してくるものであり、人間の手に負えないものである。したがってここで問題とされているのは、外部から不可抗力的に襲撃してくるペストという病原菌に対し、個々人がどのような状態におかれ、またどのような態度をとり得るかという点にある。一見、通常で平穏な町オランにペストが発生し、蔓延することによって、一種の孤立状態に置かれた人々は、この逃れることのできない極限状態を各々の仕方で体験しなければならなくなる。この作品の記録者でもあり主人公でもある医師リウー、克明な観察を「手帳」に記しておいたタルー、老吏グラン、司祭パヌルー、判事オトン、記者ランベール、喘息病みの爺さん、自殺未遂者コタールという主要人物達は、それぞれ異なった、あるいは類似した形而上学を賦与されてこの閉塞された状況に対処していく。なかでも、ペストとの遭遇によって顕著なる変化を示す司祭パヌルーと、変化を示さぬ医師リウーの関係は、作者カミュキリスト教に対する一つの見解、および極限状態に置かれた人間の取り得る二つの極端な立場を明示しているので興味深い。しかも「ペスト」という作品は、作者自身が明言しているように、最も反キリスト教的色彩の強い作品であるとするならば、なおさら読者の興味をそそるのである。

 医師リウーは飽く迄も神を否定し、人間の世界にとどまることを主張する不条理人であるのに対し、司祭パヌルーは神を肯定し、ペストは神の懲罰であるとしてオランの人々に悔悛の説教をするのである。だが彼はペストが蔓延していく途上で救護活動に献身し、ペストにおかされて死んでいく少年の姿を目撃する。彼は少年の死によって、少なからず動揺する。何故なら神を信ずるパヌルーにとって、罪なき少年の死は、今新たなる謎として彼の前に立塞がったからである。ここで読者が、一応想起しておかなければならないのは、「カラマーゾフの兄弟」の中でドストエフスキー自身が、神における究極的な問題を提起した〝大審問官〝の章である。【245頁】

 

イヴァンは神を肯定しようとして、肯定できない不正なる現実に直面して分裂し懊悩するが、医師リウーは飽く迄も明晰であり、神の存在を肯定しなければならないのだという観念は希薄である。あるいは全く存在しないといっても許されるであろう。彼にとって唯一の問題は、世界の不条理状態から逃げ出すことではなく、この不条理を明晰なる意識によって直視し、果てしのない緊張した態度で不正や悪の象徴であるペストに反抗していくことにある。神に背を向けて、飽く迄も地上的世界にとどまろうとする首尾一貫した姿勢を崩さない医師リウーは、いかにしてペストに抵抗し、ペストと闘い、それに打ち克つかということを第一の問題とする。ここに医師リウーの不条理人であると同時に反抗的人間である立場が確立される。【247頁】

彼はまず何よりも治療することが先決問題であることを訴え、医師として職務を忠実に果たしている。だが彼の実際していることは治療ではなく「診察し、発見し、調べ、記述し、登録し、宣告」するだけなのである。彼の医師としての職務に忠実であるということは、ペストに対して勝利を予想した行為ではなく、むしろ敗北であることを明白に自覚しながら行われている不条理人の反抗にしか過ぎない。地上の世界に蔓延する悪に対して、人間は勝利をおさめることはできない。ただ悪に対して眼を瞑ることなく、悪を直視し、それに抵抗していく姿の中に不条理人の真の姿が浮彫されるのである。したがって医師リウーは、ペストに対して無力であり、敗北者である自己を十分に自覚した上で、なお職務に忠実であろうとしているのである。

 リウーは医師であるよりも前に、オランから「何百キロか離れた」療養所に細君を持つ一人の夫であり、その点に関してのみ、オランから離れた所に愛人を待たせてある記者ランベールと同等の立場に置かれていた。だがそれにも拘らず、彼は記者ランベールのように逃走の計画を練ったりはしない。何故なら、不条理に目覚めてしまった人間に

とって自分一人の幸福を願うことは恥ずべきことであり、不条理人としての誠実さに欠くからであると説明する。ここで留意すべきは、医師リウーは決して、司祭パヌルーを、記者ランベールを非難したりはしなかったという点である。

 医師リウーの第一の分身でもあるタルーは「人は神によらずして聖者になりうるか」といった今日的な「唯一の具体的な問題」を追求しているのであるが、キリーロフの人神思想が自殺によって完成されるのに対し、タルーは「僕は死ぬ気はないし、戦ってみせるよ」と断言しているように、そこには明白な相違がある。リウーはタルーの「唯一の具体的な問題」に対して「僕は自分で敗北者のほうにずっと連帯感を感じるんだ、聖者なんていうものよりも。僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちは思う。僕が心をひかれるのは、人間であるということだ」と言って、飽く迄も人間であることにとどまろうとする。このリウーの言葉に対してタルーは「僕達は同じものを求めているんだ」と同意しながらも「しかし僕の方が野心は小さいね」と呟く時、われわれは医師リウーの不条理に生きることが、タルーの神なくして聖者になろうとする生き方よりも、さらに苦悩的であることを認識する。

 だが、私にとって本質的な疑問は、彼の医師としての職務を忠実に遂行する原動力はに存在するのかという点である。確かにペストに襲われたオランは追放された町であり、住民のある者は離別の悲しみを背負いながらも、それに耐え、何人かの人々は救護活動を通して人間の連帯に目覚めていく。作者カミュは、その過程を克明に描いてみせた。

 記者ランベールはリウーの境遇を知って町にとどまり、妻の家出によって一編の小説を書き上げようとしている老吏グランはリウーに身の上話や相談をもちかけ、タルーはリウーの唯一の親友でもあった。彼等は隔離された極限状態の中でペストに抵抗することを通して連帯していった。

 だが、このことは私の疑問を解消させてはくれないのである。神がなければ、医師は職務を忠実に果たさなければならない根拠を消失しているのである。自身を正義の遂行者だと信じて疑わなかった「転落」の主人クラマンスが、ある事件を契機として、正義に生きる自己のの偽善性を発見したように、神なき世界における正義の遂行などということは絶対にあり得ないのである。少なくとも医師リウーは、職務を忠実に遂行することが何故、人間として〝誠実〝であるかの自問自答をする必要があったのである。

 

 私は、例え神なき世界において医師リウーと同じような生き方をしか選べないとしても、彼の生き方に全面的に同意することはできないのである。何故なら、私は神に背を向けて不条理人であることの悲劇よりは、神を前にして、なお不条理人であることの悲劇を受け入れる立場にとどまらざるを得ないからである。

 神なき世界における誠実な行動家の欺瞞たらしさを思えば、傍観者であったり、逃亡者であったりする一群の人々を責めたりすることはできないできないであろう。われわれは安易に神の死の宣告を受け入れ、カミュ的不条理人であることに開き直ってはなるまい。神は存在しない、それは確かであるとしても、やはり神は存在しなければならないのである。故に、私は分裂と狂気のままに生きるか、又はドストエフスキー的不条理人としてとどまらざるを得ない。これは悲劇である。だが、現代人は依然としてこの分裂した悲劇の状態から出発するか、あるいはとどまっていなければならないのだ!【247~249頁】

引き籠って「罪と罰」を読め。人類破滅を予言する恐ろしい悪夢を味わったらいい。

近況報告

相変わらずの引き籠り生活。新型ウイルスの蔓延化で世間は大騒ぎ。大学も卒業式入学式の中止などで精一杯の対策に追われている。授業もいつ開始されるかわからない状況にある。学生時代に読んだアルベール・カミュの「ペスト」や、「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフのシベリアでの悪夢などを想起させる。テレビは観ないし、新聞も読まず、もっぱらネットで情報を得ている。「deep max」「状況の交差点」「kajiちゃんねる」などが面白い。「kajiちゃんねる」の加治将一氏はわたしと同年齢。毎日のように発信している。共感するところが多い。彼の作品「舞い降りた天皇」「失われたミカドの秘紋」「第6天魔王信長」「倒幕の南朝革命 明治天皇すり替え」をアマゾンで購入。わたしの批評方法とも共通するところがあり面白く読んだ。

ところで新型ウイルスの件だが、感染者数死者数など、つまり「数」が大きく取り上げられている。これを機会に一人一人が生きてあることの意味を深く考えたほうがいいだろう。生とは何か、死とは何か。カミュドストエフスキートルストイもわが魂の震えをもって「人間とは何か」「神は存在するのかしないのか」を徹底的に追求した小説家である。わたしは「罪と罰」を半世紀にわたって読み続け、批評し続けているが、いっこうに飽きることがない。ネット上で政治、経済の危機を熱く語るものは多いが、彼らの言説には哲学、文学がない。いちいち詳しくは書かないが、この際一か月くらい引き籠って「ペスト」「罪と罰」を読んだらいい。先人たちがどれほど深く根源的な次元で「ウイルス」問題を扱っていたかがわかるだろう。

 池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文芸批評の王道    夏目漱石から清水正へ 連載5此経啓助

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挨拶する此経啓助氏

2018年11月23日 「清水正ドストエフスキー論執筆50周年記念 清水正先生大勤労感謝祭」第一部「今振り返る、清水正先生の仕事」(日大芸術学部資料館に於いて)で挨拶する此経啓助氏(元日芸文芸学科教授)

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自宅(清水正D文学研究会)の住所名が昨年下記のように変更になりました。

〒270-1151 千葉県我孫子市本町3-6-19

 郵便物などはこの住所宛にお送りください。

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

ドストエフスキー曼陀羅」9号に掲載した此経啓助氏の原稿を連載します。

文芸批評の王道
   夏目漱石から清水正
 連載5

 
此経啓助

おわりに
  近年ベストセラーとなったトマ・ピケティ著『 21 世紀の資 本』は、数字データの少ない過去の経済状況を読者に理解し てもらうために、同時代の古典文学作品から金銭の価値や貧 富の格差などを描いた場面を巧みに引用している。たぶん多 くの読者の印象に残った作品は、バルザックの『ゴリオ爺さ ん』だろう。バルザックは周知のように、 19 世紀前半のフラ ンスを代表するリアリズム作家だ。それこそ「世界文学」全
集の要の作家だが、この小文でいう「世界文学の地平」に登 りつめた。
  「世界文学」の作家たちは、「世界」(バルザックならば「生 活世界」)のすべてがよく見えている。私たち読者がそれを 知ったとき、「微にいり細にいり、よく描けている」という。 しかし、たとえば清水先生が「解体」しようとする場面は最 初、読者には細かすぎて、あるいは物の陰に入ってよく見え ない。ピケが引用した場面を読んでいたにしても、「ゴリオ 爺さん」が人生の達人であることに気がつけないように。清 水先生はそうした場面を巧みに「再構築」することによって、 場面の「微に入り細にいり、よく描けている」真の姿を私た ちに見せてくれる。
  「世界文学」の小説家や批評家は、「世界」の時空を「パー スペクティヴ」(作品の場面)で瞬時に切り取る。映画フィ ルムの一場面のように。読者はそれが二六コマで回転してい る事実を教えられなければ知らない。その仕組みを教えるの が「理論」ならば、その一コマに写し出されたもの(ミメー シス)を教えるのが「哲学」だろう。漱石が「文学論」によっ て前者に力を傾注したとすれば、清水先生は「解体と再構築」 批評によって後者に五〇年の歳月を注いできた。漱石は「文 学論」を立脚点にして、「世界文学」執筆にカーブを切ったが、 二人は文芸批評の王道のスタートライン(「文学」とは何か への問いかけ)を同じにし、決して道を踏み迷わなかった

「チョコチョコ」と「二代目はづきちゃんねる」をご覧になってください。

近況報告

相変わらず帯状疱疹後神経痛で一日の大半を横になって過ごしている。

痛む腹部に布団を強く押し当てて、多くの時間を動画を観て過ごしている。

札幌学派の安濃豊氏、日本第一党党首の桜井誠氏、それにN国関係の動画を観ている。
歌は東亜紀、東京大衆歌謡楽団など。

東亜紀ちゃんは小学六年生、数年前から観ている。癒しの歌姫である。日本を代表する世界的な歌手になること間違いなし。

N国関係で今一番注目しているのが「チョコチョコ」。2月7日8日の北海道の旅・生配信はすべて観た。何しろ痛みで眠れないのでいつまでも観ていられる。大阪在住のチョコチョコを北海道に招待したリスナーの丸子さんと、北見で合流した同じくリスナーの「二代目はづきちゃんねる」のはづきさんの優しさに心しびれた。チョコチョコは口はわるいが人の好さは抜群、心でつながった者どうしのやりとりは観ていてこころ和む。三人ともに初対面なのに何年もつきあってきた友人・同志に思える。

感動のおもむくまま、「二代目はづきちゃんねる」をみると、登録者数は80人代であった。これが一日もたつと倍以上の登録者数となっていた。チョコチョコの生配信に感動した者たちが登録したのだろう。ちなみにわたしは150人目に登録した。北見の焼肉祭りですきっ腹にアルコールを飲みすぎたチョコチョコは祭りの後にノックダウン、その倒れた姿のままに動画を配信、最後まで看病と配信を手伝ったはずきさんに感動しなかった者はいないだろう。このせちがらい世の中に丸子さんやはづきさんのような優しいひとたちがいることをしるだけで心がなごむ。日本もまだまだ捨てたものではない。一人でも多くのひとに知ってもらいたいと思い、この文章を書いている。ぜひとも「チョコチョコ」と「二代目はづきちゃんねる」をご覧になってください。

https://www.youtube.com/watch?v=e7LAM331jmw

https://www.youtube.com/watch?v=u4ouzLwhUvM&t=359s