引き籠って、アルベール・カミュ「ペスト」を読め。

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

今日で三月も終わり。窓から外を見ると公園の木が緑色に染められている。今年の二月八日で七十一歳になったが、老人の誰でもが言うように時のすぎるのが速い。大げさでなく一年が一か月くらいに感じる。

勤め先の日芸は令和二年度で非常勤講師の任期を終える。従来は七十五歳まで非常勤講師として学部の授業を務められたが、七十歳までとなった。わたしの場合は暫定処置として七十二歳まで。今まで江古田の「同心房」で一週間に一回集まって雑談していたメンバーの多くが令和二年度、つまり来年の三月末日をもって退職することになる。寂しいかぎりである。

文学や芸術は生涯をかけてやるものだから、定年など関係ない。大学が七十歳以上の研究家を必要としない見解には賛同できないが、敢えて抗議する気持ちもない。わたしは2015年の暮れから難病にかかり、その治療中である。難病の症状は薬によって抑えられているが、帯状疱疹後神経痛がいっこうによくならない。別に命に関係するわけではないが、思った通りの講義はできない。だが、七十歳を越えても身体頑強で研究教育に情熱を傾けている者もいるので、七十歳で非常勤講師を一列に辞めさせるという方針が、大学として正しい選択とは思えない。

さて、先日「ペスト」を読め、「罪と罰」を読め、などと本ブログで書いたが、今日は「ペスト」について少しばかり書くことにしたい。わたしは十七歳の昔からドストエフスキーを読み続けているが、アルベール・カミュは大学二年の時に集中的に読んだが、その後読み返してはいない。ただし、大学二年のゼミ雑誌に「不条理の世界──カミュドストエフスキーか──」を書いているので「異邦人」や「ペスト」に関してはそれなりに記憶している。この論文は大学四年の時に刊行した「停止した分裂者の覚書──ドストエフスキー体験──」と「清水正ドストエフスキー論全集」第二巻に収録してある。

「ペスト」はペストが蔓延するオランを舞台とした小説である。二十歳に書いたわたしの「不条理の世界」は五十枚ばかりのものだが、新型コロナが流行する今、読み返すとなかなか面白い。後半部分を引用するので、ペストを新型コロナウイルス、オランを今日の世界全体に置き換えて読んでほしい。引用は「清水正ドストエフスキー論全集」第二巻に拠る。

 

ペストは個々の意思に関わりなく、外部から襲撃してくるものであり、人間の手に負えないものである。したがってここで問題とされているのは、外部から不可抗力的に襲撃してくるペストという病原菌に対し、個々人がどのような状態におかれ、またどのような態度をとり得るかという点にある。一見、通常で平穏な町オランにペストが発生し、蔓延することによって、一種の孤立状態に置かれた人々は、この逃れることのできない極限状態を各々の仕方で体験しなければならなくなる。この作品の記録者でもあり主人公でもある医師リウー、克明な観察を「手帳」に記しておいたタルー、老吏グラン、司祭パヌルー、判事オトン、記者ランベール、喘息病みの爺さん、自殺未遂者コタールという主要人物達は、それぞれ異なった、あるいは類似した形而上学を賦与されてこの閉塞された状況に対処していく。なかでも、ペストとの遭遇によって顕著なる変化を示す司祭パヌルーと、変化を示さぬ医師リウーの関係は、作者カミュキリスト教に対する一つの見解、および極限状態に置かれた人間の取り得る二つの極端な立場を明示しているので興味深い。しかも「ペスト」という作品は、作者自身が明言しているように、最も反キリスト教的色彩の強い作品であるとするならば、なおさら読者の興味をそそるのである。

 医師リウーは飽く迄も神を否定し、人間の世界にとどまることを主張する不条理人であるのに対し、司祭パヌルーは神を肯定し、ペストは神の懲罰であるとしてオランの人々に悔悛の説教をするのである。だが彼はペストが蔓延していく途上で救護活動に献身し、ペストにおかされて死んでいく少年の姿を目撃する。彼は少年の死によって、少なからず動揺する。何故なら神を信ずるパヌルーにとって、罪なき少年の死は、今新たなる謎として彼の前に立塞がったからである。ここで読者が、一応想起しておかなければならないのは、「カラマーゾフの兄弟」の中でドストエフスキー自身が、神における究極的な問題を提起した〝大審問官〝の章である。【245頁】

 

イヴァンは神を肯定しようとして、肯定できない不正なる現実に直面して分裂し懊悩するが、医師リウーは飽く迄も明晰であり、神の存在を肯定しなければならないのだという観念は希薄である。あるいは全く存在しないといっても許されるであろう。彼にとって唯一の問題は、世界の不条理状態から逃げ出すことではなく、この不条理を明晰なる意識によって直視し、果てしのない緊張した態度で不正や悪の象徴であるペストに反抗していくことにある。神に背を向けて、飽く迄も地上的世界にとどまろうとする首尾一貫した姿勢を崩さない医師リウーは、いかにしてペストに抵抗し、ペストと闘い、それに打ち克つかということを第一の問題とする。ここに医師リウーの不条理人であると同時に反抗的人間である立場が確立される。【247頁】

彼はまず何よりも治療することが先決問題であることを訴え、医師として職務を忠実に果たしている。だが彼の実際していることは治療ではなく「診察し、発見し、調べ、記述し、登録し、宣告」するだけなのである。彼の医師としての職務に忠実であるということは、ペストに対して勝利を予想した行為ではなく、むしろ敗北であることを明白に自覚しながら行われている不条理人の反抗にしか過ぎない。地上の世界に蔓延する悪に対して、人間は勝利をおさめることはできない。ただ悪に対して眼を瞑ることなく、悪を直視し、それに抵抗していく姿の中に不条理人の真の姿が浮彫されるのである。したがって医師リウーは、ペストに対して無力であり、敗北者である自己を十分に自覚した上で、なお職務に忠実であろうとしているのである。

 リウーは医師であるよりも前に、オランから「何百キロか離れた」療養所に細君を持つ一人の夫であり、その点に関してのみ、オランから離れた所に愛人を待たせてある記者ランベールと同等の立場に置かれていた。だがそれにも拘らず、彼は記者ランベールのように逃走の計画を練ったりはしない。何故なら、不条理に目覚めてしまった人間に

とって自分一人の幸福を願うことは恥ずべきことであり、不条理人としての誠実さに欠くからであると説明する。ここで留意すべきは、医師リウーは決して、司祭パヌルーを、記者ランベールを非難したりはしなかったという点である。

 医師リウーの第一の分身でもあるタルーは「人は神によらずして聖者になりうるか」といった今日的な「唯一の具体的な問題」を追求しているのであるが、キリーロフの人神思想が自殺によって完成されるのに対し、タルーは「僕は死ぬ気はないし、戦ってみせるよ」と断言しているように、そこには明白な相違がある。リウーはタルーの「唯一の具体的な問題」に対して「僕は自分で敗北者のほうにずっと連帯感を感じるんだ、聖者なんていうものよりも。僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちは思う。僕が心をひかれるのは、人間であるということだ」と言って、飽く迄も人間であることにとどまろうとする。このリウーの言葉に対してタルーは「僕達は同じものを求めているんだ」と同意しながらも「しかし僕の方が野心は小さいね」と呟く時、われわれは医師リウーの不条理に生きることが、タルーの神なくして聖者になろうとする生き方よりも、さらに苦悩的であることを認識する。

 だが、私にとって本質的な疑問は、彼の医師としての職務を忠実に遂行する原動力はに存在するのかという点である。確かにペストに襲われたオランは追放された町であり、住民のある者は離別の悲しみを背負いながらも、それに耐え、何人かの人々は救護活動を通して人間の連帯に目覚めていく。作者カミュは、その過程を克明に描いてみせた。

 記者ランベールはリウーの境遇を知って町にとどまり、妻の家出によって一編の小説を書き上げようとしている老吏グランはリウーに身の上話や相談をもちかけ、タルーはリウーの唯一の親友でもあった。彼等は隔離された極限状態の中でペストに抵抗することを通して連帯していった。

 だが、このことは私の疑問を解消させてはくれないのである。神がなければ、医師は職務を忠実に果たさなければならない根拠を消失しているのである。自身を正義の遂行者だと信じて疑わなかった「転落」の主人クラマンスが、ある事件を契機として、正義に生きる自己のの偽善性を発見したように、神なき世界における正義の遂行などということは絶対にあり得ないのである。少なくとも医師リウーは、職務を忠実に遂行することが何故、人間として〝誠実〝であるかの自問自答をする必要があったのである。

 

 私は、例え神なき世界において医師リウーと同じような生き方をしか選べないとしても、彼の生き方に全面的に同意することはできないのである。何故なら、私は神に背を向けて不条理人であることの悲劇よりは、神を前にして、なお不条理人であることの悲劇を受け入れる立場にとどまらざるを得ないからである。

 神なき世界における誠実な行動家の欺瞞たらしさを思えば、傍観者であったり、逃亡者であったりする一群の人々を責めたりすることはできないできないであろう。われわれは安易に神の死の宣告を受け入れ、カミュ的不条理人であることに開き直ってはなるまい。神は存在しない、それは確かであるとしても、やはり神は存在しなければならないのである。故に、私は分裂と狂気のままに生きるか、又はドストエフスキー的不条理人としてとどまらざるを得ない。これは悲劇である。だが、現代人は依然としてこの分裂した悲劇の状態から出発するか、あるいはとどまっていなければならないのだ!【247~249頁】