動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載7



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江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第7回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層
清水正


 ミルトンの時代にあって神を相対化すること自体がタブーであったのかどうかは別として、彼の詩神は神の絶対性をも超脱して自在に飛翔する。神と同等のサタンを設定することによって、神はその絶対性を試みられる。ドストエフスキーの場合は、イワン・カラマーゾフの「神の存在は信じるが、神の創造した不条理に満ちたこの世界を認めるわけにはいかない」という言葉に端的に示されたように、神は地上世界における真理・正義・公平を体現しなければならない存在として想定され、それらを体現しない神は反逆、抗議の対象となる。
 ミルトンはドストエフスキーの人神論者たちが神に求めた真理・正義・公平などを問題にしていない。特に『失楽園』前編で問題にされているのは、神とサタンの闘争である。この闘争は人間の世界における政治的な主導権争い、それも仲間内の壮絶な争いを容易に連想させる。設定上、『失楽園』の神は絶対性を剥奪されることはなかろうが、天使たちによって反逆された時点で、すでにその相対的存在であることを暴露されている。が、ミルトンの詩神は、神の絶対性を保持することを前提に想像力を飛翔させている。神がサタンによってその玉座を奪われるかもしれないというハラハラドキドキは予め封印されている。そこに異教徒であるわたしなどは物足りなさを感じるが、ミルトンの内に神を相対化する異教徒の眼差しがあったことは否めないであろう。詩神に魅入られた者は、既成の神をも超脱する力を賦与されており、詩神は神よりはむしろサタンに加担するものなのである。ミルトンの場合、サタンと結託する詩神の本来の力をミルトン自身がかなり意識的に抑制していたと見ることもできる。ミルトンは『失楽園』執筆にあたって想像力を存分に発揮しながら同時に〈前提〉(神の絶対性の保持)から逸脱しないよう慎重に抑止力を行使している。
 神に反逆し、敗北したサタン軍は地獄へと突き落とされる。ここでもわたしの興味のあるのは神の意志とサタンの意志とである。ミルトンは神の意志を〈一切を統べ給う神の意志〉と書いている。神はサタンの陰険な策謀を分かっていて見逃していた。ミルトンの神は、厳しく禁じた知恵の実をアダムとエバが食することを予め知っていながら、敢えて彼らの自由な意志にまかせた『創世記』の神と同様な性格を賦与されている。神には〈無限の善と恩寵と慈悲〉が備わっているが、同時に〈言語に絶する破滅と憤怒と復讐〉の念もたぎっている。
 ミルトンにとって神は〈絶対性〉を保持する者として描き出されるが、サタンはその〈絶対性〉を認めない。サタンにとって神の〈絶対性〉は自らの〈絶対性〉を否定することにはならない。サタンは神と同等の〈理性〉と〈力〉を備えた者として認識されている。
 サタンは自身を神と同等のものと見なしている。神との戦いに敗れたのもたまたまそうなったのであって、戦略を充分に練り直せば勝利も可能と考えている。「彼がわたしより偉大だというのは、雷霆をもっていたからにすぎぬ」とサタンはひとりごちる。サタンは神がこの〈雷霆〉を持っていること自体が、神のサタンに対する絶対的優位性を備えているのだとは考えていない。サタンは神のもとにあって、神と共に安穏な生活をしようとは思わない。サタンにとって神と共にあることは、神への服従を意味している。サタンは神と共にある平穏な生活にあっては自らの自由を思う存分発揮することはできなかったのである。本来、神の国にあって大天使の地位にあったサタンは神の腹心であり、神の寵愛を一身に受けていたはずである。にもかかわらず、サタンは寵愛よりも自由を欲したのである。
 サタンにおいて自由であることは、神の支配統治からの離脱を意味していた。それは神に対する反逆ということになる。サタンの反逆は神の王国の秩序を根底から突き崩し、世界を混沌へと変えることになる。サタンは世界全体をカオスの渦へと巻き込むことによって新たなる世界構築を望んでいたかのようである。つまり、サタンは現存する神を殺し、自らが新たなる神となって再生することを願っていたことになる。『失楽園』前半における神の軍団とサタンの軍団による壮絶な戦いは、地上世界における権力奪取をめぐる人間の戦いを色濃く反映している。『失楽園』の神は、地上世界における人間(権力者)の貌を超越していない。この神は生々しいほどに権力欲に支配された人間の闘争心、復讐心、統治心、そして絶対的な勝利を確信しているときのみに寛容な心をかいま見せる。

清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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