文学の交差点(連載37)○省略された性愛場面

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載37)

清水正

○省略された性愛場面

 先に指摘したように『罪と罰』には性愛描写がない。当時、性愛描写はどの程度許されていたのか。これは実際にどのような作家が、どのような〈性愛描写〉を検閲によって発表禁止になったのかを検証する必要があろう。が、こういった実証的研究はそれにふさわしい研究者にまかせて、わたしは『罪と罰』における描かれざる性愛描写を確認しておきたいと思う。

 ソーニャとイワン閣下の性的関係、ソーニャの淫売行為の数々、それに加えて問題となるのがソーニャとロジオンの性愛関係である。この点に関しては別のところで詳しく言及したのでここでは簡単に記す。ロジオンは第八日目、ソーニャに「ラザロの復活」を読んでもらった翌日の〈第九日目〉に再びソーニャ宅を訪れアリョーナ、リザヴェータ殺しの犯人を一種独特の仕方で〈打ち明ける〉(открыть)。 〈открыть〉は多くの訳者が〈告白する〉と訳しているが、ロジオンは〈犯罪〉(преступление)を打ち明けただけで、この行為に〈罪〉(грех)を感じておらず、従って未だ〈懺悔〉の意識はない。〈告白〉には神に対する〈懺悔〉の意識が含まれているので、厳密に言えばここでの〈открыть〉は〈報告〉の次元にとどまっている。

 その後、ソーニャはロジオンに向かって、十字路に立ってお辞儀をし、汚した大地に接吻しなさい、そうすれば神が再び命を授けて下さると言う。ロジオンは「ぼくが監獄にはいったら、面会に来てくれるかい?」と訊く。ソーニャは「ええ、行ってよ、行ってよ!」と答える。このソーニャのセリフの後、改行して「ふたりは嵐のあと、無人の浜辺にふたりだけ打ち上げられたように、悲しげにうちしおれて、並んで腰かけていた」と続く。

 ソーニャとロジオンの最初の肉体関係は〈嵐〉(буря)の一語で象徴的に報告される。この〈嵐〉の象徴的意味が読みとれなければ、ソーニャとロジオンの霊肉合体の〈濡れ場〉は永遠に見えてこないであろう。ドストエフスキーは登場人物たちの性愛場面に関しては読者の〈読み〉に任せていると言ってもいい。

文学の交差点(連載36)○恐るべき省略

 

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文学の交差点(連載36)

清水正

○恐るべき省略

罪と罰』は十三日間の物語で、ロジオンが四日間ほど意識不明に陥っているので実質十日間ほどの物語である。江川卓訳・岩波文庫版で三冊もある長編小説なので、長い期間を扱っているように思いこんでいる読者も多いと思うが、『罪と罰』で描かれている場面はごくわずかで、わたしは『罪と罰』は俳句のようなものだと言っている。描かれざる場面が非常に多いのである。ソーニャ一人とりあげても〈謎〉は余りにも多い。先にも少し触れたが、わたしたち読者はマルメラードフの告白の表層を読んで、よほどのことがない限り彼の言う話を文字通り信じてしまうのである。

 イワン閣下が慈悲深い〈生神様〉であることやソーニャが身売りするまで処女(純潔な娘)であったことなどを疑う読者はいなかった。しかしソーニャが鞭身派の〈秘密の会合〉ですでに男性信徒と肉体関係を結んでいたことを否定することはできない。何しろソーニャと親しい関係を結び、ソーニャにロシア語訳の新約聖書をあげていたリザヴェータがしょっちゅう孕んでいたというのであるからなおさらである。

 こう書いただけでも『罪と罰』には恐るべき〈省略〉があることを痛感するだろう。読者はソーニャとリザヴェータの〈秘密の会合〉の実態を知らず、リザヴェータが孕み産み落とした子供たちについて何一つ知らされない。

 異教徒、異民族のわたしにとってリザヴェータが信じていた神と、彼女の腹違いの姉アリョーナが信じていた神は同じなのか、それとも違うのか。こういった信仰の問題に踏み込んでいくと分からないことばかりである。十九世紀中葉において聖書は稀覯本であり、容易には入手できなかったと思われるが、どういういきさつでリザヴェータがそれを持っていたのか。なぜ貴重な聖書をリザヴェータはソーニャに贈呈したのか。

 読者は、ソーニャがロジオンの要請に答えて「ラザロの復活」を朗読しているので、ヨハネ福音書を読んでいることは了解できるが、はたして新約聖書のすべてに通じていたのかどうか。作者はこういった点に関していっさい報告しない。いずれにしても新約聖書を読みながら淫売稼業を続けるソーニャという聖女に改めて照明を当てる必要はあるだろう。

文学の交差点(連載35)○描かれなかったソーニャの淫売稼業

 

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文学の交差点(連載35)

清水正

○描かれなかったソーニャの淫売稼業

 ソーニャの場合、描かれなかったのは最初の〈踏み越え〉ばかりではない。ソーニャは黄色い鑑札を受けて売春婦とならなければならなかったが、イワン閣下以外のどのような男たちと関係を結んだのか、どういうわけか作者はいっさい報告しない。読者は淫売婦ソーニャの稼業の実態――一日に何人の客をとったのか、場所、時間、値段、どのような避妊対策を取っていたのかなど――を何一つ知らされないままに、ソーニャという聖者(狂信者=聖痴女=юродивая)を分かったようなつもりで読んできた。

 ところで、『罪と罰』を愛読する小説家で描かれざるソーニャの〈踏み越え〉に興味を抱く者がいなかったことはどういうことだろうか。『罪と罰』は熱狂的に読まれてきたが、しかし大半の読者はテキストの表層をなぞる次元にとどまって、テキストに仕掛けられた謎を発見することも読み解くこともできなかった。ソーニャはその過酷な現実(淫売稼業)の実態に眼を向けられないまま、一人の信仰厚き〈聖女〉として受け止められてきた。わたしはソーニャを生身のソーニャとしてもきちんと見ていかなければいけないと思っている。

    もしドストエフスキーがソーニャの淫売稼業の実態を具体的に描いていたら、ソーニャの印象は全く違ったものになったかもしれない。描かれた限りで見た聖女ソーニャを、男たちはどのように抱いたのか。もちろんソーニャを買った男の数だけの抱きかたがあっただろうが、それを描くことは容易ではなかろう。

 丸谷才一瀬戸内寂聴が描かれざる「輝く日の宮」を創作したように、ソーニャの〈踏み越え〉や淫売稼業の実態を創作する衝動に駆られる小説家はいないのだろうか。わたしはそれを読みたいと思うと同時に、絶対に読みたくないという気持ちもある。ドストエフスキーが書くならまだしも、『罪と罰』を中途半端にしか読んでいない者に関わってもらいたくないという思いがある。

文学の交差点(連載34)○〈純潔な娘〉ソーニャの〈あんなこと〉

 

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文学の交差点(連載34)

清水正

○〈純潔な娘〉ソーニャの〈あんなこと〉

 マルメラードフは語る。

 

 で、私が見てますと、五時をまわったころでしたか、ソーニャが立ちあがって、プラトーク(ネッカチーフ)をかぶって、マントを羽織って、部屋から出ていきましたっけ。それで八時すぎになってから、また帰ってきたんです。帰ってくるなり、まっすぐにカチェリーナのところへ行って、その前のテーブルに黙って三十ルーブリの銀貨を並べました。そのあいだ一言も口をきこうとしないどころか、顔をあげもせんのです。ただ、うちで使っているドラデダム織(薄地の毛織物)の大きな緑色のショールを取って(うちにはみなでいっしょに使っているそういうショールがあるんですよ、ドラデダム織のが)、それで頭と顔をすっぽり包むと、顔を壁のほうに向けて寝台に横になってしまった。ただ肩と体がのべつびくん、びくんとふるえていましたがね……(上・42~43)  И вижу я, эдак часу в шестом, Сонечка встала, надела платочек, надела бурнусик и с квартиры отправилась, а в девятом часу и назад обратно пришла. Пришла, и прямо к Катерине Ивановне, и на стол перед ней тридцать целковых молча выложила, Ни словечка при этом не вымолвила, хоть бы взглянула, а взяла только наш большой драдедамовый зеленый платок(общий такой у нас платок есть, драдедамовый), накрыла им совсем голову и лицо и легла на кровать, лицом к стенке, только плечики да тело всё вздрагивают…(ア・17)

 

    カチェリーナが一方的に強制した、ソーニャの言葉で言えば〈あんなこと〉の具体はマルメラードフの口から直接に説明されることはない。が、どんな鈍感な読者でも〈あんなこと=身売り〉であることは分かるだろう。マルメラードフは「いったい貧乏ではあるが、純潔な娘がですよ、まともな仕事でどれくらいかせげるもんでしょう?……純潔一方で、腕におぼえのない小娘じゃ、日に十五カペイカもかせげやしませんや。それも、働きづめに働いてですよ!」(上・41)〔много ли может, по-вашему, бедная, но честная девица честным трудом заработать?… Пятнацать копеек в день, сударь, не заработает, есль честна и не имеет особых талантох, да и то рук не покладая работавши!〕(ア・17)と言っている。

 マルメラードフにとって娘ソーニャは〈純潔な娘〉(честная девица)、すなわち未だ男を知らない〈処女〉(девица)なのである。この〈純潔な娘〉ソーニャが〈まともな仕事〉で働きづめに働いても、日に十五カペイカにもならないとマルメラードフは強調していた。〈純潔な娘〉の〈あんなこと〉とはもちろん〈まともな仕事〉ではないが、〈第六時〉から〈第九時〉までの三時間(実質的には三時間以内)で銀貨三十ルーブリである。再就職を決めたマルメラードフの一ヶ月の給料が二十三ルーブリ四十カペイカである。いかにソーニャの〈処女〉が高く評価されていたかを忘れてはならない。  マルメラードフは告白の中でソーニャの〈踏み越え〉に関しては何ら具体的に語ることをしなかった。ふつうに読めば、ソーニャの最初の男がイワン閣下だとはなかなか特定できないのであるから、読者はソーニャの〈踏み越え〉前と〈踏み越え〉後のことしか分からない。作者はロジオンの場合と違って、ソーニャの内的世界にいっさい踏み込もうとしない。ソーニャは神を信じている娘として設定されているが、「汝、姦淫することなかれ」の神の命令に反して、カチェリーナの身売り要請に従わざるをえなかった。作者は、ソーニャの内心の苦しみに直に照明を当てることを完璧に回避している。 

     描かれざるソーニャの〈踏み越え〉に関して、読者は想像力の限りを尽くして思い描くほかはない。酔いどれてソファに横たわるマルメラードフの脳裏で実の娘ソーニャの〈踏み越え〉はどのようにとらえられていたのか。〈第六時〉から〈第九時〉までの三時間の〈踏み越え〉のドラマはマルメラードフにとっては地獄の苦しみであったろう。この苦しみを継母カチェリーナも共に味わっていたことだろう。彼らはソーニャの相手が誰であるかを知っているのだから。

 さて、次に問題になるのはソーニャの〈踏み越え〉の場所である。わたしは当初、その場所をイワン閣下の邸と思いこんでいたが、妻子ある高位高官のイワン閣下がソーニャと自分の邸で関係を結んだと思えない。やはり前もって特定した場所にソーニャを呼んだのであろう。アパートからその場所までの道のりをソーニャがどのような思いで歩んだか、その場所でソーニャはイワン閣下とどのような会話を交わし、どのようにして関係を結んだのか、対価の銀貨三十ルーブリはどのように手渡されたのか、どのような気持ちでその場所を後にしたのか。

 ソーニャの〈踏み越え〉の場面は読者の想像力をいたく刺激する。マルメラードフやカチェリーナの気持ちに寄り添えば、この場面は耐え難い地獄の場面となる。が、姦淫を絶対に許容しないキリスト者からすれば、ソーニャの〈踏み越え〉

(преступление)は許し難い〈罪〉(грех)の行為と見なされるかもしれない。マルメラードフの悪人正機説的な神学に馴染んでいる読者はソーニャの〈踏み越え〉に果てしない〈同情〉(сострадание)を覚えるだろうが、〈試み〉と〈裁き〉の神に帰依するキリスト者はこういった〈同情〉を厳しく拒むかもしれない。

 いずれにせよ、読者は〈踏み越え〉たソーニャの内心の苦悩を直に知ることはできない。神を信じているソーニャがイワン閣下に身売りしたことの〈罪〉(грех)をどのように受け止めていたのか。このことをソーニャは自分の口から語ることはなかったし、作者もまたソーニャの内心を代弁することはなかった。  ソーニャは自分のことを〈たいそうな罪の女〉(великая грешница)と言っているから、イワン閣下との〈踏み越え〉が〈罪〉(грех)であることは充分に認めている。ソーニャは不断に罪の意識に苛まれながら神へと帰依しているキリスト者なのである。

文学の交差点(連載33)○ソーニャとロジオンの〈踏み越え〉

 

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文学の交差点(連載33)

清水正

 ○ソーニャとロジオンの〈踏み越え〉

 ソーニャは〈おとなしい女〉(тихая Соня)と言われている。不条理な運命に反逆の狼煙をあげることなど思いもよらない。カチェリーナの理不尽な物言いにも真っ向から刃向かうことはない。ソーニャはカチェリーナの無遠慮な下卑た言葉に対して、静かな口調で「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことをしなくちゃいけないの?」(上・42)〔Что ж, Катерина Ивановна, неужели же мне на такое дело пойти?〕(ア・17)と答える。この〈踏み越え〉前のソーニャの言葉は、わたしの中でロジオンの〈踏み越え〉前の独白「いったいおれにあれができるんだろうか?」(上・13)〔Разве я способен на это?〕(ア・6)と響き合う。

 ロジオンの場合、作者は彼の内部に照明を与え続けているので、読者は彼の自虐的な思い惑いの逐一を知ることができる。作者はロジオンの内的独白を続ける「あれはまじめな話なんだろうか? よせやい、なにがまじめな話なもんか。空想をもてあそんで、自分の慰みにしていただけじゃないか。つまり、玩具だったのさ! そう、玩具というのが、どうもぴったりするようだな!」(上・13)〔Разве это серьезно? Совсем не серьезно. Так, ради фантазии сам себя тешу; игрушки! Да, пожалуй что и игрушки!〕(ア・6)と。

 ロジオンにとって〈アレ〉(этоのイタリック体)は未だ決定的な事となっていない。ロジオンは〈アレ〉をめぐって何度も逡巡を繰り返すし、〈アレ〉の悪魔的妄想から解放され自由を満喫することさえあった。ところがソーニャの場合、〈あんなこと〉(такое дело)に微塵の躊躇も逡巡も許されてはいなかった。カチェリーナはせせら笑って言葉を投げつける「それがどうしたのさ」「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」(上・42)〔А что ж, ――отвечает Катерина Ивановна, в пересмешку, ――чего беречь?〕(ア・17)と。

 酷い言葉だ。酒場に居合わせた酔客も使用人も主人も、そしてすべての読者がそう思うだろう。マルメラードフは聞き手すべての意識を先取りして、誰よりも真っ先にカチェリーナの弁護にたつ。彼は言う「けれど責めないでないでくださいよ、あなた、責めないで! あれは落ちついた頭で言ったことじゃない。気持がたかぶって、病気がひどいところへ、腹のへった子どもたちが泣きたてるなかで言ったことで、それも言葉どおりの意味というより、あてつけに言ったことなんです……だいたいカチェリーナはそういう気性の女で、子どもたちが泣きだせば、それがひもじくて泣くのでも、すぐにぶつんですから」と。もちろんソーニャもまたカチェリーナの気性をマルメラードフと同様に分かっている。ソーニャはカチェリーナからどんなに酷い理不尽な言葉を浴びせられてもいっさい口答えしない。

文学の交差点(連載32)○マルメラードフの告白から見えてくる秘密の数々   ――カチェリーナの〈踏み越え〉――

 

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文学の交差点(連載32)

清水正

 ○マルメラードフの告白から見えてくる秘密の数々

  ――カチェリーナの〈踏み越え〉――

〈最初の男=イワン閣下〉と解釈することによってそれまで明確に見えていなかった人物間の関係や役割が鮮明になる。マルメラードフ一家のアパートの家主アマリヤは単に家主であったばかりか、女衒ダーリヤ・フランツォヴナの手先となってペテルブルク中の淫蕩な高位高官たちの欲望を満たすために貢献していたことが分かる。

 ロシア最新思想の崇拝者レベジャートニコフは、〈同情〉(сострадание)などというものは本国イギリスにおいては学問上ですら禁じられていると公言してはばからなかった。ソーニャの継母カチェリーナは貴族女学校を優秀な成績で卒業した誇り高き潔癖な〈貴婦人〉(дама)である。いくら貧困に喘いでいるとはいえ、ソーニャに身売りさせるなどという屈辱を受け入れることはできない。が、この誇り高き〈貴婦人〉もアマリアの三回目の申し出を拒みきることはできなかった。

 ドストエフスキーの文学にあって〈三〉は神・神の子・聖霊の聖なる三位一体を意味するのではなく、イスカリオテのユダがイエスを裏切って手にした金貨〈三〉枚を意味する。つまり〈三〉という数字は〈悪魔〉〈裏切り・駆け引き・取引き〉を意味している。潔癖で誇り高きカチェリーナもまた遂に〈三=悪魔〉の声に屈してしまったのである。 〈貴婦人〉カチェリーナがソーニャに浴びせた「この穀つぶし、ただで食って飲んで、ぬくぬくしてやがる」(上・41)〔《Живешь, дескать, ты, дармоедка, у нас, ешь и пьешь, и теплом пользуешься》〕(ア・17)は余りにも下卑た言葉である。この屈辱的な言葉にソーニャは次のように答える「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことをしなくちゃいけないの?」(上・42)〔Что ж, Катерина Ивановна, неужели же мне на такое дело пойти?〕(ア・17)と。 

 マルメラードフの口から語られるカチェリーナとソーニャのやりとりは凄まじくも悲しくもせつない。〈貴婦人〉(дама)と強調されたカチェリーナの口から吐き出される薄汚い言葉――この言葉だけでも貧困と病気に追いつめられたカチェリーナの疲労困憊、衰弱しきった実存が厭なほど浮き彫りになる。この言葉には誇りのかけらもない。  カチェリーナは悪魔の誘惑に乗らざるを得なかった。しかしここには一筋縄ではいかないカチェリーナの〈踏み越え〉のドラマも潜んでいる。彼女の〈踏み越え〉はソーニャの実の父親マルメラードフのプロポーズを受けたことである。彼女はマルメラードフを愛してもいなかったし尊敬もしていなかった。夫に先立たれ、幼い子供三人を抱えたカチェリーナはマルメラードフと結婚しなければ文字通り一家心中しなければならなかった。カチェリーナにとってマルメラードフとの再婚は自分では微塵も望まなかった〈踏み越え〉であったのである。カチェリーナの内心の声を拡大すれば『私だってあんたの父親のプロポーズを仕方なく受けたんだ。あんたが〈踏み越え〉たってバチなんか当たらないよ』ということになる。

文学の交差点(連載31)○ソーニャの最初の男(キリスト)

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

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文学の交差点(連載31)

清水正

○ソーニャの最初の男(キリスト)

 作品は読者の数だけの感想があり、一人の読者の内にも様々な感想がある。どれが正しい読みであるとは言えない。様々な〈感想〉〈解釈〉が 存在するだけである。これから少し厄介な問題に踏み込んでいこう。わたしは今までソーニャが最初に身売りした男は〈イワン閣下〉であると して批評を進めてきた。が、これも一つの〈解釈〉であって絶対的な事実ではない。 わたしはソーニャの最初の男に関してはもう一つ別の〈解釈〉も提示している。それは〈キリスト〉である。イワン閣下はマルメラードフの口から〈生神様〉(божий человек)と言われていたが、この言葉は字義から言えば淫蕩漢のイワン閣下より遙かに神の子イエス・キリストの方が近いということになる。

 ソーニャはロジオンが斧で殺したリザヴェータと〈秘密の会合〉を持っていたが、この会合と彼女たちが所属していたと思われる分離派の一つ〈観照派〉とを結びつけると、ソーニャの最初の男は観照派の男性信者の可能性も出てくる。観照派の秘密の会合においてキリストの霊に憑かれた男性信者をキリストと見れば、まさにソーニャの最初の男は〈キリスト〉ということになる。

 ソーニャの最初の男はイワン閣下なのか、それともキリストなのか。わたしはどちらが正しくてどちらかが間違っているかなどとは問わない。わたしは作品批評において様々な〈解釈〉を受け入れる。最初の男をイワン閣下と見なすことで一義化し固定化しがちなテキスト解釈を限りなく解放し、そのことで新たに開かれた領野に大胆に踏み込んでいく、それがわたしの批評の方法である。