文学の交差点(連載33)○ソーニャとロジオンの〈踏み越え〉

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載33)

清水正

 ○ソーニャとロジオンの〈踏み越え〉

 ソーニャは〈おとなしい女〉(тихая Соня)と言われている。不条理な運命に反逆の狼煙をあげることなど思いもよらない。カチェリーナの理不尽な物言いにも真っ向から刃向かうことはない。ソーニャはカチェリーナの無遠慮な下卑た言葉に対して、静かな口調で「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことをしなくちゃいけないの?」(上・42)〔Что ж, Катерина Ивановна, неужели же мне на такое дело пойти?〕(ア・17)と答える。この〈踏み越え〉前のソーニャの言葉は、わたしの中でロジオンの〈踏み越え〉前の独白「いったいおれにあれができるんだろうか?」(上・13)〔Разве я способен на это?〕(ア・6)と響き合う。

 ロジオンの場合、作者は彼の内部に照明を与え続けているので、読者は彼の自虐的な思い惑いの逐一を知ることができる。作者はロジオンの内的独白を続ける「あれはまじめな話なんだろうか? よせやい、なにがまじめな話なもんか。空想をもてあそんで、自分の慰みにしていただけじゃないか。つまり、玩具だったのさ! そう、玩具というのが、どうもぴったりするようだな!」(上・13)〔Разве это серьезно? Совсем не серьезно. Так, ради фантазии сам себя тешу; игрушки! Да, пожалуй что и игрушки!〕(ア・6)と。

 ロジオンにとって〈アレ〉(этоのイタリック体)は未だ決定的な事となっていない。ロジオンは〈アレ〉をめぐって何度も逡巡を繰り返すし、〈アレ〉の悪魔的妄想から解放され自由を満喫することさえあった。ところがソーニャの場合、〈あんなこと〉(такое дело)に微塵の躊躇も逡巡も許されてはいなかった。カチェリーナはせせら笑って言葉を投げつける「それがどうしたのさ」「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」(上・42)〔А что ж, ――отвечает Катерина Ивановна, в пересмешку, ――чего беречь?〕(ア・17)と。

 酷い言葉だ。酒場に居合わせた酔客も使用人も主人も、そしてすべての読者がそう思うだろう。マルメラードフは聞き手すべての意識を先取りして、誰よりも真っ先にカチェリーナの弁護にたつ。彼は言う「けれど責めないでないでくださいよ、あなた、責めないで! あれは落ちついた頭で言ったことじゃない。気持がたかぶって、病気がひどいところへ、腹のへった子どもたちが泣きたてるなかで言ったことで、それも言葉どおりの意味というより、あてつけに言ったことなんです……だいたいカチェリーナはそういう気性の女で、子どもたちが泣きだせば、それがひもじくて泣くのでも、すぐにぶつんですから」と。もちろんソーニャもまたカチェリーナの気性をマルメラードフと同様に分かっている。ソーニャはカチェリーナからどんなに酷い理不尽な言葉を浴びせられてもいっさい口答えしない。