山下洪文 清水先生と私

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水先生と私
山下洪文

 

文学批評理論の一つに、原型批評というのがある。人間・ 歴史を、深層で支配する「原型」  それを光源として、 「文学」の本質を発見しようとする方法である。清水正の批 評は、これを限界まで拡張したものとして把握することがで きる。たとえば清水は、「わたしは『ドラえもん』論の延長 として『オイディプス王』論の続編を執筆したのである (1) 」と 記している。二千五百年前の悲劇詩人と、現代の人気漫画家 は、彼の批評空間においては等価なのだ。
 
原型批評は、その視野から「現在」が欠落するという、致 命的弱点を持っている。清水は、「現在」の視座から「神話」 を手繰り寄せる。また、「神話」の視座から「現在」を抉り 出す。彼は手塚治虫の漫画『罪と罰』を、本家のそれと比較 研究する著書も物している。原型批評は、清水において異数
神的微笑の領域に突入したと言えよう。
 
ところで、この未踏の場所に立つ主体は、いったいどんな 顔をしているだろうか?   清水は「ドストエフスキーのよう な小説家を理解するには百年、二百年の年月を必要とする (2)」 と書くが、これは、己こそが数世紀ものブランクを埋める批 評家だという矜持のあらわれと見ていい。だが、そんな不可 能事を目標に据える人格とは何者だろうか?
 
ここからは、個人的な断想を記したい。つまり、批評家清 水正でなく、大恩ある清水先生に向けての言葉を書いてゆき たいのだ。
 
先生は、面白いことが起こったわけでもないのに、ふいに 笑顔になることがある。その印象が脳裏に焼きついているた め、私が先生を想起するとき、いつも、その顔は不思議な微笑を浮かべているのだ。私に微笑みかけているのだろうか?
 
これは、私に愛嬌がゼロであるという理由から、却下され る。石田英一郎の言う、「日本人独特の不気味な笑顔」だろ うか?   だが、数千年もの時間にさえ囚われぬ先生が、日本 的「世間」に染まっているなど、ブラック・ジョークにすぎ まい。
 
私はその仕草を、神を欺こうとするものではないか、と考 えてみたい。先生は、つぎのように書いている。「オイディ プスが両の眼を潰したことは、彼が〈アポロンの神託〉に屈 したことを意味しない。むしろオイディプスは両の眼を潰す ことで神々へ向けて反逆の牙をむいたのである。わたしたち は深く歎くオイディプスの顔を、真下から覗きこみ、彼の不 敵な笑みを見なければならない (3) 」。
 
オイディプスの「歎き」は、神への反逆の意志を秘めてい る。そこには「自分を神、否、神以上の存在へと高めようと する野望 (4) 」が潜んでいる、と言う。先生の微笑こそ、この 「歎き」に類するものではないか。笑ってみせることで、「意 0 味そのもの 00000 さえ峻厳に拒む идиот」 (5) の如くふるまうことで、 「運命」を「拒否 (6) 」しているのではないか。あるいは、この 世界を笑うことで、「神」と同一化しようとしているのでは ないか。それこそが、先生を「狂気に陥ることのないイヴァ ン (7) 」たらしめたのではないのか。

 オイディプス王論を書いているあいだ、先生は、記した言
葉を「何ものかが打ち返してくる (8) 」のを感じたという。数千 年を隔てた、言葉のキャッチボール    しかし、なぜそこ までしなければならないのか?   過去との対話が、神への抗 議が、なぜ重要なのか?   その答えは、『ドストエフスキー 論全集』『宮沢賢治論全集』のなかにある、としか言いよう がない。そこで先生は、幼時の原体験や、無惨な別れのこと も語っている。そのエピソードを冷静に語る自信が、私には ない。ただ、つぎの言葉は、文学を「生」の中心において きた私たちにとって    清水先生を師に、歩んできた私に とって    、ひとつの救いである。 「ことばにならない憤りや、悲しさや、くやしさを胸いっ ぱいつめこんで、わたしは歩き続ける。多分歩き続けるだろ う 。その足跡がつづくかぎり、私たちもそれを追いかけてゆく だろう。

(1)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二〇一四年   D文学研究会   五八五頁

(2)『清水正ドストエフスキー論全集5『罪と罰』論余話』二 〇一〇年   D文学研究会   三九四頁

(3)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二三八頁

(4)同 二三六頁

(5)『清水正ドストエフスキー論全集8『白痴』の世界』二〇 一五年   D文学研究会   四五頁

(6)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二三六頁

(7)『清水正ドストエフスキー論全集1「萩原朔太郎とドスト エフスキー体験」』二〇〇七年   D文学研究会   一八二頁

(8)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』五八一頁

(9)『清水正ドストエフスキー論全集8『白痴』の世界』五〇 二 – 五〇三頁
(やました・こうぶん  日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程芸術専攻在籍)

校條剛 毎日十五枚

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

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京都造形芸術大学准教授の牛田あや美さん。清水正研究室の前で。牛田さんは校條さんと同僚ということになります。

毎日十五枚
校條剛

 

清水先生は私の恩人です。先生には大きく二つ恩を受けた と思っています。当時学科主任の清水先生から、二〇〇四年 に日大芸術学部文芸学科の非常勤講師に呼んでいただいたの が、私の人生後半部の新たな展開の端緒となりました。この 原稿を書いている現在、私は京都造形芸術大学文芸表現学科 の専任教授ですが、ここに至るまでのきっかけとなったの が、日芸の非常勤講師であることは間違いのないところだと 思うのです。まったく大学で教えた経験のない人間を他大学 が教授として招聘するはずもないのですから、日芸で非常勤 講師を務めさせていただいたことは、私の経歴に新たな強み を加える助けとなったのです。これが、「恩その一」という ことになるでしょう。
 
出版社の新潮社でエンタメの文芸編集者として会社と一体化していた私と会社との間に小さな溝ができ、それが大きな 亀裂に変わってきたころ、思い切って、大学教員に仕事替え ができないものかと夢想し始めました。大学という世界に詳 しくなかった私は、自分の赫奕たる経歴があれば、専任で 雇ってくれる大学があるはずだと思い込んだのです。それ は、大きな間違いだったのですが、最初、清水先生には、大 胆にも「専任教員」にしてほしいと申し出たため、あとあと の宴会の席で、その件で何度もからかわれたものでした。
 
非常勤講師になりたてのころの楽しい思い出はすでにどこ かに書いたような気がします。池袋なのになぜか「嵯峨」と いう京都じみた店名の飲み屋で月に一回とか二回とか「清水 組」の皆さんとお酒を飲んだ日々は忘れがたいものがありま す。池袋の地理に詳しくない私がこの店の場所を説明することは難しいのですが、確か西口公園の近くだったと思うので す。ビルの二階にあって、入り口は分かりにくく、ところが 店内に入ると、だだっ広い空間が広がっていて、カウンター 席も並んでいるのですが、基本は寝っ転がれるほど余裕のあ る座敷席でした。それは、これまで出版界でさんざん飲んで きたときとは、まったく違う感触の宴会でした。従業員に は、なぜかミャンマー人の女性たちがたくさん働いていまし た。店名は京都なのに、従業員はミャンマー人で、客は我々 関東人なんですよね。
 
いまや堂々たる教授の山下聖美先生も当時はまだ助手で清 水宴会の常勤幹事という役どころ、欠席ということは一度も なかったはずです。ほかに常連は清水先生の先輩に当たる此 経先生や評論家の山崎行太郎さん、韓国からの大学院留学生 だったパク・ヨオオクさん、副手の阿久澤君、川島さん、院 生の牛田さん、栗原君、さらには非常勤の先生方でした。
 
あのころ、この「嵯峨」での定期的な宴会ばかりではな く、他にも飲み会が何度もあったことを思い出します。清水 組の面々総動員、かなりの大人数で、新大久保の豚料理の店 に向かったこともありました。近年は江古田の線路際の「同 心房」という中華屋が会合場所として固定していますが、一 時期拠点だった椎名町も含めて、私が参加した宴会は数えき れないほどあったと思います。
 
清水先生は決して酒に飲まれる方ではないのですが、宴席では、「さあ、これからが本番だぞ」と議論をふっかけてこ られるのが常でした。
 
この世界のすべての作家がいかにドストエフスキーの影響下 で成長したか、作家としての核を持つことができたか、だいた いのところ、そこに議論が集約していくのでした。古今東西、 あらゆる作家、例外なしです。しかし、中央公論社のチェーホ フ全集を宝モノにしていた私には、ドストエフスキーは重要 な存在ではなかったので、たいへん申し訳ないことながら、 清水先生の主張はいささか強引としか思えなかったのです。
 
ただ、私にもかろうじてドストエフスキー体験といったも のがないわけではありません。
 
早稲田を出てからすぐに新潮社に入社して、小説雑誌の編 集部に投げ込まれました。当時の文壇は、「読む」より「飲 む」の時代、編集者は小説を読み込むよりも、酒に浸ること に熱心でした。他社の先輩編集者からの薫陶も得て、ずくず くと酒に飲まれていく生活に染まっていった私ですが、もち ろん嫌々飲んでいたわけではありません。他人や時代のせい にはできないのはもちろんです。酒に私が求めていた一番大 きな効用は「酩酊感」の追求であったと思います。
 
主たる飲み場所は新宿でした。新宿ゴールデン街の主など と呼ばれていた田中小実昌さんと滝田ゆうさんを担当してい たのですから、梯子酒は、これ当たり前。何軒かの酒場を放 浪するうちに、酩酊は深まり、のちにはかなり酒癖の悪い酒飲み、つまり「酒乱」の域に近づいていたようですが、当人 はそんなこととは知りません。とにかく、早く酩酊したい一 心なのですから。酩酊を深め、たとえばあるスナックのス ツールから立ち上がって、突然演説したいような気分になり ます。そんな風に迸り出てくる感情を乗せて演説したいなど と思うとき、必ず浮かんでくるイメージがドストエフスキー の『罪と罰』に登場するソーニャの父親マルメラードフだっ たのです。多分、ドストエフスキーの小説で一番気に入って いたのは、あの情けない酔っ払いの三流官吏マルメラードフ だったのでしょう。
 
私の読んだドストエフスキーの小説は『罪と罰』と『白 痴』の二作だけです。『悪霊』も『カラマーゾフ』も読んで いません。多分、これからも読むことはないと思います。こ れはもう読むべき時期を逃したということに尽きるでしょう ね。さらに述べると、こちらがメインの理由かもしれません が、やはり「私の趣味ではない」ということになるでしょう。 振り返ってみると二作目を『白痴』ではなく、『悪霊』とか 他の作品にしていれば、もう何作かは読んでいて、評価も変 わったのかもしれません。なぜなら、『罪と罰』については、 いまでも登場人物の何人かは覚えているほど、入れ込んで読 んだのですから、決してこの大作家の他の作品を読めなかっ たということはなかったはずなのです。 『白痴』は、中学の同級生で、クラシック友達でもあった
東京外語大ロシア語科の長谷川君から、強く薦められて読ん だのです。「ムイシュキン、ナスターシャ」の名前を感に堪 えたように発音していた彼の陶酔の様が強烈だったので、私 はその情熱に引きずられて読んだのです。ですが、「イッポ リートの告白」という章で、完全にアウトを喰らってしまい ました。あのくだくだしい語りには耐えられなかったので す。それでも最後まで読むことは義務と感じて、読み終えて はいます。その後、決してドストエフスキーの本は手に取ら なくなっただけというわけです。
 
清水先生はこれまで何冊の書籍を上梓されたのでしょう か。そもそも、先生のご著書は何百ページもある大部なもの が多いです。一冊出来上がると、「はい」といつも手渡しで下 さる。江古田から、決して近い距離に自宅があるわけではな い私にとって、判型の大きな単行本を持ち帰るのは、「エッコ ラサ」という労働であったので、正直有難いような、迷惑な ような……いや、大恩ある先生にそんなことを言ってはいけ ません。もちろん、ありがたいわけですが、ドストエフスキー 関連の本だとちょっと読みようがなかったのも事実です。
 
そうそう二つ目の理由(「恩その二」)ですが、この年間何 冊も著作を出されるということと密接に関連しているので す。本を出すためには、かなりの量の原稿を書かなくてはな りません。先生のように、一年に何冊も結果を出すために は、半徹夜で集中的に仕事をするか、毎日、休まず適量の文字を書きつけなくてはならないでしょう。
 
清水先生のやり方は、まず通勤の電車のなかで、膝の上に PCを置いて、自動小銃を連射するように、キーを叩き続け る。さらに、池袋に着いてからは、馴染みの喫茶店に入り、 また電車での続きを書くのだそうです。一日の文字量は、四 百字詰で十五枚が目安だったといいますから、字数にすると 六千字です。
 
この毎日の儀式は、強制された行為ではなく、自発的な義 務感だったのか、それとも指が勝手に動いたのかどうかは定 かではありませんが、私には一種の「自動書記」のように受 け取れました。というのは、清水先生にそのあたりのことを 尋ねたときに、「どんどん、次から次へと言葉が湧いてきて、 指が追い付かないほどだ」というのです。ドストエフスキー というより、まるでモーツァルトのようなトランス状態では ありませんか。
 
私は、当時、専任教員を目指していたと述べました。その ためには、著作を持つことも必須の要件だと考えていて、若 い編集者時代にとことんお付き合いをした滝田ゆう氏の評伝 をものしようと思い決めていたのですが、なかなか筆が進ま ずに、「また今日も書けなかったな」と反省ばかりの日々だっ たのです。こういうときに、清水先生の仕事ぶりは、天から 落ちてきた最高の啓示でした。熟考するまえに書いてしま え、というのが清水先生式の方法です。あれこれ、設計した
り、文章、構成に悩んだりするまえにとにかく思いついたま ま書くこと、量を書くこと。清水先生の考えとは違うかもし れませんが、私の理解では内容はどうあれ、とにかく書いて しまえ、ということでした。頭よりも手、見るまえに跳べ。
 
私の面前を覆っていた垂れ幕が、さっと引き払われた瞬間 でした。そうすればいいんだ!   私は一種感動に打たれてい たのです。
 
感動して終りであれば、私の本は完成していなかったで しょう。それから一年後でしょうか、私の処女作『ぬけられ ますか 私漫画滝田ゆう』は完成し、その後、大衆文学研 究賞も受賞することができました。授賞式にご来駕いただい た清水先生には、清水式の執筆姿勢を学んだおかげで、この ような晴れの日を迎えることができました、と深くお礼を申 し上げたのです。
 
その後も清水先生の教えを守って数冊の書籍を出すことが できたのですが、京都に単身赴任し、京都造形芸術大学に勤 めるようになって、執筆に関しては、いささか怠け癖が戻っ てきてしまいました。今期で京都を去ることですし、ここら でまた清水先生から一喝していただき、あと十年は執筆に励 みたいと思うのです。
 清水先生、これからもご指導よろしくお願いします。
(めんじょう・つよし 京都造形芸術大学文芸表現学科教授)

日芸創設者・松原寛の著作を読み返す。

日芸創設者・松原寛の著作を読み返す。

今日は久しぶりに松原寛の本を読み直す。

三年前、日大病院に入院中、入手できた本はすべて読み、450枚の松原寛論も執筆した。これは「日藝ライブラリー」松原寛特集号に掲載した。

松原寛は京都帝国大学哲学科を卒業した哲学者で、著作も二十数冊あるが、すべて五十年以上にわたって絶版状態にある。

松原寛の本はいわゆる書斎派の学的哲学というよりは、激しい内在的な欲求によって自在に書かれている。哲学、宗教、芸術、芸能から身辺雑記に至るまで、幅広く、熱く語っており、そこに最大の魅力がある。

まさに松原寛は市井の哲学者、現代のソクラテスぶりをいかんなく発揮している。

今回読み直したのは『哲学への思慕』に所収の「愛兒に與う」と「別れし妻に與う」の二篇。一読すれば松原寛、只者ではないことがすぐにわかろう。分別臭い、頭でっかちの思弁家ではなく、わが魂の震えをもって、ニーチェの言うわが血によってものを書く本物の哲学者なのである。松原寛の著作には例外なく血のしたたる「わが魂」が躍動している。

わたしは今後も徹底して松原寛の本を読んでいこうと思っている。

また、日芸の学生はぜひ、創設者松原寛先生の著作を読み、日芸魂にじかに触れてもらいたい。絶版状態にあってなかなか入手できない本を苦労して探し出すのも必要である。わたしは六年ばかり日芸の図書館長を務めたが、学生時代はもっぱら早稲田や神田の古書店街を歩き回って、本を購入した。目的の本を歩いて探す楽しみ、苦労して手に入れた本の一冊一冊に懐かしい風景がまとわりついている。

池田大作論、いつ再開なるか

近況報告

池田大作『新・人間革命』全30巻31冊読み終える

昨年末の31日、池田大作『新・人間革命』30巻下を読み終える。あとがきは2018年九月八日、「聖教新聞」連載完結の日に書かれている。つまり連載は終わったが、小説『新・人間革命』が完結したわけではない。

いずれにせよ、昨年、池田氏の大作がいちおう幕を下ろしたとは言えるだろう。

一つの時代が終わったという感もある。わたしは偏見なく、虚心にこの作品を読んだ。読み残していた30巻上は今年一月二日に、29巻は三日に読了した。

日大病院に入院していた時に初めてわたしはこの作品に触れ、退院後もずっと読み進めてきた。池田大作論を書こうと思い、関係文献を集め、読み、批評し始めた。が、途中で林芙美子の『浮雲』論、ドストエフスキーの『罪と罰』『地下室の手記』論など書き継いでいるうちに、あっという間に二年が過ぎ去った。わたしは特別なことがない限り原稿を読み返さないので、いつ頃なにをかいたのかさだかな記憶がない。幸い、原稿はポメラで書いているのですぐに確認することはできる。

池田大作論は2016年十二月一日から書き始めている。おそらく百枚以上は書いたが、途中、仏教語の漢語がポメラで打てないことによるイライラがある。それに池田氏の著作は漢字にルビがふってあったり、巻末に語句の解説があったりと、読者に極めて親切なのだが、批評するものにとって最もありがたいのは索引である、残念ながらそれがない。『人間革命』が全12巻、『新・人間革命』が全30巻31冊である。この膨大な著作から引用に必要な個所を見つけ出す手間は並大抵なことではない。健康な時はさしたる負担も感じないが、腹部に絶え間のない神経痛をかかえているので、それが最も面倒なことになってしまった。中断の理由は仏教語がポメラで打てないこと、著作に索引がなかったことばかりとは言えないが、大きな理由の一つであることに間違いはない。いつ再開できるかまったくわからないが、当ブログで最初の方を紹介したいと思う。

 

池田大作論(1)

清水正

 

 わたしは体調を崩し、2015年12月7日、日大病院に入院、2016年2月29日に退院した。入院して一週間後の12月14日、難病指定の「水泡性類天疱瘡」と診断され、すぐに治療が開始された。免疫力の低下もあってか、治療中の2016年1月15日、帯状疱疹が発症、夜中じゅう痛みと痒みに襲われた。幸い帯状疱疹は一週間ほどで収まったが、懸念されていた帯状疱疹後神経痛が残った。この神経痛はレザー治療も処方された痛み止めの薬も効き目がなく、今はひたすら痛みを我慢している。初めのうちは入浴中は痛みがとれていたが、一年近くたった今は入浴中も痛みが続く。とにかく、間断なく痛みが続くので睡眠がとれない。一日に一、二時間くらいしか寝れていないのではなかろうか。痛みと共にある人生を生きている。  入院当初、病室は11階の窓際のベッドで、四人部屋ではあったが部屋からの眺めもよく、痛みもなかったので快適であったが、途中で皮膚科処置室のある八階病室に移ることになった。眺めは良かったが、帯状疱疹後神経痛と同室人の鼾にはほとほと参った。眼科の患者が一週間ほど入院しては退院していくのだが、まず例外なく鼾がひどい。日本人の男性はなぜこんなに鼾をかくのか。それでなくても神経質なわたしは夜、満足に寝ることができなかった。

 わたしの右隣りのベッドにS氏が入院することになった。カーテンで仕切られているので顔は見えず、挨拶もしなかったのだが、彼はすぐに他の患者とも親しく言葉を交わしていた。わたしはベッドで本を読んだり原稿を書きながら、その会話をそれとなく耳にしていた。ある時、彼は「清水さん、清水さん」とカーテン越しに声をかけてきた。「わたしのことですか」と訊くとそうだと言う。それからS氏と挨拶程度の話を交わすことになった。名刺代わりに、わたしが監修した『日藝ライブラリー』No.1と『謎解き「ヘンゼルとグレーテル」』をさしあげた。退院する時、彼は「これ先生に合いますよ」と言って読み終えた一冊の本を置いていった。その本が『新・人間革命』第27巻であった。わたしは池田大作の名前も、彼に『人間革命』という本があることも知っていたが、別に何の関心もなかった。この時、わたしは松原寛の著作を読み続け、松原寛論を書き続けていたが、『新・人間革命』を手にしてパラパラとページをめくり、中程の「激闘」から読み始めた。2015年12月29日午後5時過ぎのことである。

 

 闘争のなかに前進がある。

 闘争のなかに成長がある。

 闘争のなかに希望がある。

 闘争のなかに歓喜がある。

 

 まず眼に入ってきたのが「闘争」の言葉である。わたしはよく学生に向かって「男は闘っていなければ美しくない。女は美しくなければ美しくない」などと、冗談とも真面目ともつかないような言葉を発して煙に巻いているが、本当のところ、自らと闘っていない者は魅力がないと思っている。そんなわたしであるから、ここに引用した言葉にわたしは素直に共感した。最初に共感があれば、本は一気に読める。『新・人間革命』第27巻はその日のうちに読み終えた。

 主人公の山本進一の人に接する真摯な態度には素直に感動した。こんな立派な人が創価学会の会長だったのか、と驚いた。が、このとき、わたしは山本進一と池田大作は別人だと思っていた。いずれにしても、今までマスコミの報道などでバッシングの対象になっていた創価学会に対する偏見を棄てなければならないという思いにかられた。退院後、『人間革命』全12巻と『新・人間革命』の1巻から26巻までを一気に読み終えた。  39冊を読み終えた感想を述べる。池田大作は人格者で学会員から先生と慕われ尊敬されることがよく理解できた。彼の構想力、その構想をすぐに実現する実行力、組織力、人事力、どれもが人並みはずれて優れている。人に対する思いやり、真摯で誠実な対応には頭が下がる。本を読む限り、完璧で、山本進一に人格上の欠点を見いだすことはできない。【平成28年12月1日(木)に記す】

 陰で働く人に対して励ましの声を掛けていることには特に感心した。聖教新聞の場合もインテリの記者よりも、新聞を配送する人や新聞配達人の苦労にまなざしを向けている。組織の底辺を支えている人々の日々の苦労を励まし、幹部の傲慢や官僚主義を決して許さない姿勢は共鳴できる。  池田大作の生き方に強い影響を与えた人にまずは母親と長男をあげることができる。長男は戦地に赴き、戦争がいかに残酷であるかを大作に語る。大作には兄が四人いたが、四人共に戦争にとられている。大作に戦争の悲惨、残酷を語った長男は戦死する。戦死の報告を受けた母親の悲しみの背中を大作は生涯忘れることはなかった。子供を戦争で失った母親の悲しみを二度と味わわせてはならない。大作少年の胸に戦争のない世界を建設しなければならないという使命が刻印された。  世界の平和と人間の幸福を実現するために何をなすべきか。

 池田大作にとって運命の人が現れる。創価学会第二代会長となった戸田城聖その人である。 『人間革命』全巻を通して牧口常三郎戸田城聖戸田城聖池田大作師弟不二の絆が繰り返し書かれている。『戸田城聖 偉大なる「師弟」の道』(2015年7月3日 潮出版社)所収の「戸田城聖とその時代年譜」によれば、戸田城聖牧口常三郎に出会ったのは1920年(大正9)1月である。4月の項に「牧口のはからいで西町尋常小学校の3カ月間、臨時代用教員に採用。政友会代議士の牧口校長追い出し運動に対し他の教員とともに反対。牧口の転任後、三笠尋常小学校に勤める(22年3月末退職)。この頃、開成中学夜間部に通う。後に旧制高等学校入学資格試験に合格(22年2月23日)、中央大学予科に入学する(25年4月)。」とある。

 牧口常三郎戸田城聖の師弟関係の詳細を今ここで検証することはしないでおく。わたしが最も感心のあるのは牧口常三郎日蓮仏法への帰依である。【平成28年12月2日(金)に記す】

横尾和博 大宇宙を彷徨う(4)

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

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大宇宙を彷徨う(4)

横尾和博

 

文学の深化のために
 
清水氏の批評でみてきたように、私たちは自分自身の「登 場人物論」を持たなければならない、それが清水氏のドスト エフスキー論から学ぶところだ。
 
ドストエフスキー作品のなかでも謎の多い小説『悪霊』。 大切なことはなにも書かれていない。なにも書かれていない 闇に向かって私たちは自身の想像力を武器に漕ぎだす。
 
清水氏の論のように『悪霊』は三角形の構図で成立してい る。人間の三角関係は社会を破壊する動力である。負のエナ ジーが『悪霊』をひっぱっているのだ。 『悪霊』を政治の季節に読むのと、現在のように政治や社 会運動が凪の状態で読むのとは印象がだいぶ異なる。またこ れは『悪霊』だけではないが、年齢を経ることにより、作品 の読み方が違ってくるのは誰もが経験することであろう。
 
清水氏の読解のように、『悪霊』を人物に照明をあてて読 むと、哲学や思想とは別の貌が浮かんでくる。それは思想、 宗教、哲学という観念レベルの問題ではなく、権力欲、名誉 欲、征服支配欲などすべての欲望と、嫉妬、羨望、憎悪など あらゆる負の感情の総体としての人間である。ドストエフス キーは、それを「悪霊」と名づけた。
 
従って、「悪霊」とは外在的なものではなく、私たちの心 や体に内在するものなのだ。
 
文学とはアウトサイダー、つまり常識の枠のなかに入らない者、余計者、はぐれ者、異端児たちのものである。鬱屈、 狂気、毒などを抱え込んでいる者たちの世界である。ドスト エフスキーも、『アウトサイダー』の著者であり、ドストエ フスキー好きのコリン・ウィルソンもみなそうである。従っ て文学とはサロンや教室から生まれ出てくるものではなく、 路上や屋根裏部屋や裏町、賭博場など社会の陰から発生する ものだ。しかしなぜか文学研究や批評は、学問として理論の 積み上げで形成されている。
 
私たちは文学テクストの表面を、作者の思惑によっていつ もさまよっている。まるで宇宙のようだ。
 
ゆえに原点に戻り、テクストに書いてあることとあえて書 かれていない大切なことを見極める眼が必要である。だから こそ清水氏のように登場人物を中心としてテクストを揺さぶ り続けることが、王道である。
 
王道をいく者はいつも孤独であり、時代に屹立している。
 
低迷する現代文学だが、その深化のため清水氏の功績はこ れからも光り輝くであろう。

(よこお・かずひろ  文芸評論家)

横尾和博 大宇宙を彷徨う(3)

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

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大宇宙を彷徨う(3)

横尾和博

 

謎の小説、『悪霊』
 
さて「悪霊論」から清水氏に触れてみたい。同作は謎の多 い小説である。
 
いま私の手元には『悪霊』をめぐる清水氏の著作三冊が ある。『「悪霊」論』(一九九〇年一月)、『ドストエフスキー 「悪霊」の世界』(一九九〇年九月)、『「悪霊」の謎』(一九九 三年八月)である。この三つの労作を手がかりに清水氏の 「悪霊論」の世界に踏み込んでいこう。
 
テクストに揺さぶりをかけ、人物の暗部に光をあてる方法 で、清水氏はステパン、ピョートル親子、ヴァルヴァーラ夫 人、リーザなど次々に登場人物の精神の暗闇に照明、光線を あてる。
 
たとえば従来からの『悪霊』論では、中心軸は「主人公ニ コライ・スタヴローギン」が定説であり、ニコライを頂点とした人神論のキリーロフとロシアメシアニズムのシャートフ の関係が重視された。「スタヴローギンの告白」にもスポッ トがあたっていた。
 
そしてステパンとピョートルのヴェルホヴェンスキー親子 の役割は、道化的な役回りが指摘されていた。しかし清水氏 はあらゆる登場人物に目を配る。前掲の『ドストエフスキー 「悪霊」の世界』の「あとがき」ではこう述べられている。
 
ニコライをめぐる女性たち、正妻マリヤ、マリヤ・シャー トヴァ、ダーリヤ、リーザ、また新知事夫人ユリヤなどは 一人一人個別的に論じたい人物たちである。それに加えて 『悪霊』の中の名脇役たち、レビャートキン、リプーチン、 リャムシン、あて馬的三枚目を演じきったマヴリーキー、夫 人に尻をしかれっぱなしのレンプケ知事など、照明のあて ようによっては興味深い人物たちがごろごろしている。ま たある意味では『悪霊』の全人物中、最も重要な人物はニ コライでもピョートルでもステパン先生でもヴァルヴァー ラ夫人でもなく、この物語の作者として設定されたアント ン君であると言えよう。
 
清水氏の「悪霊論」の心髄である。このような読解があっ たのかと、私たちは驚いた。その新鮮な輝きはいまも失われ ていない。
  『悪霊』というテクストが、清水氏の読解をとおすことで、 「悪鬼たち」はさらに私たちに押し寄せ、飲みこまれてしま いそうである。
 
まずピョートルについての清水氏の評をみていこう。
 
ピョートル・ヴェルホヴェンスキーは、ステパン先生の 「息子」で、ロシア全土に革命結社をつくり、来たるべきと きに備え着々と準備している。そしてその基礎組織である 「五人組」を当地に結成しようと奔走。またカリスマ的な役 割をニコライにさせようと画策する。政治的陰謀家で、どこ の政治組織、革命運動にも存在するような人物である。従来 の解釈ではそうだった。しかし清水氏がひとたび光をあてる と、彼には当局のスパイ説、「秘密工作員」説が俄然浮上し てくる。革命の芽を早期に摘み取るために、当局が送り込ん だ秘密工作員なのである。そう指摘をされれば確かに「内ゲ バ」で「シャートフ殺害」の実行役であったリプーチンなど の五人組は事件後、誰ひとりとして死んでいない。実行役が 死んでいないということは、口封じをするのではなく、革命 の芽であり、イヴァン王子になりかねないカリスマのスタヴ ローギン、革命思想に利用されるような人神論(唯物論)の キリーロフ、転向したとはいえ危ないシャートフ、この三人 を殺害すれば、ピョートルの真の目的は達成されたというこ となのだ。「革命の萌芽を摘み取ること」、ピョートルが権力 の秘密工作員だとすると、作品のなかの謎のような言葉に合点がいく。
 
清水氏は『「悪霊」論』のなかで、シャートフ殺害の直前 のピョートルとその同志たち五人組との会話を引用する。こ こでは引用しないが、リプーチンやシガリョフとピョートル との会話の謎をぜひ清水氏の著作を読み、テクストにあたっ てほしい(『「悪霊」論』一九六~一九八ページ)。この会話 こそ、ピョートルが当局のスパイであったことの暗示であろ う。     次にステパン先生ことステパン・ヴェルホヴェンスキーで ある。従来の解釈では、息子ピョートルとの「父と子」を、 世代間の対立、理想主義と革命行動主義と位置づけた解釈が 一般的であった。その側面を私も否定しないが、清水氏の解 釈では「父と子」のメインストリームは、親子ではなく疑似 親子であり、ピョートルはステパン先生の妻がポーランド人 の愛人との間に生んだ子どもだと指摘する。すると彼らは血 の繋がらない疑似親子であり、しかもステパン先生はピョー トルを養育せずにほったらかしにしているのである。またス テパン先生の「唯一の教え子」であるニコライと先生は師弟 の関係を逸脱して、ホモセクシュアルな関係であることも指 摘する。するとピョートルの出自が不倫の子で、養父にも捨 てられたことによる歪んだ人間像や、ニコライの虚無主義な どが浮かびあがってくる。「悪霊」の元祖とは、そもそもス テパン先生自身のことではないのか、との疑問も浮かんでくる。
 
次にその元祖悪霊を二十年間「家庭教師」として居候させ たヴァルヴァーラ夫人とは何者なのか、との疑念が湧いてく る。夫人はステパン先生の保護者であると同時に、「奴隷的 服従」を強いる絶対専制君主でもあった。そのヴァルヴァー ラ夫人を清水氏は「太母」と位置づける。母なるものの原型 である。ひとり息子のニコライを溺愛するヴァルヴァーラ夫 人は、同時に息子に対しても庇護者であり、精神的な服従を 強いる。それは彼女の自己愛にほかならない。清水氏の筆は 冴えをみせる。このヴァルヴァーラ夫人とステパン先生、ニ コライの三角形の構図も疑似家族に思える。
 
そしてリザヴェータ・トゥーシナ(リーザ)である。リー ザはヴァルヴァーラ夫人の旧友ドロズドワ夫人の娘で、マヴ リーキーと婚約が内定しているが、ニコライと一夜を共に した。リーザの「罪と罰」について、清水氏はこう述べる。 ピョートルの口車に乗せられて、婚約者のいるリーザがマリ ヤという妻があるスタヴローギンと一夜を共にすること自体 が罪であるが、リーザにはさらに隠された罪があるという のだ。つまりは、天才的詐欺師ピョートルの口車に乗って ピョートルと関係したのだと。『悪霊』の記録者アントンは、 リーザとスタヴローギンの一夜の性関係の不首尾を遠回しに 記述している。しかしまず清水氏はリーザとスタヴローギン の性交渉はあったと指摘する。隠されてはいるが、リーザはピョートルとも性関係があったと指摘する。リーザの罪はそ のことだ。愛のためには迷いもなく踏み越えていくリーザ。 そのふたりの関係は一夜を共にした後、支配と被支配の関係 が、逆転してしまった。「気位の高い、意地っぱりで冷笑的 な性格」と母親が評するリーザ。わがまま娘の踏み越えは、 民衆によって撲殺されることで罰を受ける。
 
最後に『悪霊』の記録者アントンである。アントンはもち ろんドストエフスキーが設定した人物であるが、『悪霊』の 「作者」である。従って『悪霊』はアントンの視点で語られ ている。アントンはステパン先生の「若き友人」である。清 水氏はアントンはステパン先生と肉体関係も含めてホモセク シュアルな間柄であったと指摘する。そしてアントンこそ が、国家によりスクヴァレーシニキに派遣され高等教育を受 けたスパイであるというのだ。アントンが『悪霊』を書き上 げたのは、事件から三ヵ月後ということになっているが、そ の執筆の際にもうひとりのスパイである、ピョートルの当局 への報告書が下敷きになっているのだ。なるほどそう指摘を されればそのとおりであろう。
 
事程左様に清水氏の人物論には興味津々である。まだまだ 『悪霊』には興味深い登場人物たちがたくさんいる。
(よこおかずひろ 文芸評論家) 

横尾和博 大宇宙を彷徨う(2)

 

 

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

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大宇宙を彷徨う(2)

横尾和博

 

清水氏との思い出
 
私は十代のころ『罪と罰』を読んでドストエフスキーに魂 をわしづかみにされてしまった。以後ドストエフスキーやほ かのロシア文学を読み漁る日々は、雑事をこなす給与生活の なかで別世界に入る楽しみであった。
 
また若い時代は、古本屋めぐりは欠かすことのできない生 活の一部であった。ある日古書店の一角で、『停止した分裂 者の覚書―ドストエフスキー体験』、そして『ドストエフス キー狂想曲』と名づけられた本に出合った。
 
そのときの印象は、ドストエフスキーに魂をつかまれた人が、ほかにもいるんだ、という素朴な感動だった。その表紙 や中身を見ると記憶が鮮明に蘇る。
 
私が清水氏と初めてあったのは、いまから三十年前のこ ろ、一九八〇年代の終わりだった。「ドストエーフスキイの 会」の会員で画家の小山田チカエさんがきっかけを作ってく れたのだ。JR中央線の三鷹駅北口の近くに「アオ」というバーが あった。ある日小山田さんから電話があり、「アオ」に「ド ストエーフスキイの会」の主要メンバーが来るので飲みにき てほしい、との誘いがあった。清水氏も来るとのことであっ た。給与生活者の私は三鷹駅が通勤途中の駅で、気軽に承諾 して宴を楽しみにしていた。約束の日、仕事帰りに「アオ」 に行くと、小山田さんと清水氏以外に誰もいない。結局最後 まで三人で、ドストエフスキーのことを話した。話した、と いっても清水氏とは初対面だし、彼がドストエフスキーにつ いて多くのことを語っていたのだが。そのとき著書もいただ いた。
 
そして清水氏は私に出版を前提にした「書くこと」を勧め てくれた。
 
それが私の鬱屈していた時期に大きな励みとなった。ただ 書き溜めておくのはだめで、作品を世に出すことの重要性に 気づいたのである。以来、清水氏との交流が始まった。
 
そのころの清水氏は、ドストエフスキー論を数多く手がけ、日大芸術学部の先生としても活躍中であった。当時の 『江古田文学』に寄せられた学生の感想のなかにあった、「清 水先生の授業はまるで占い小屋」との記述がいまでも忘れら れない。
 
その学生もいまは五十代の働き盛りになっているだろう。 ドストエフスキーは読んでいるのだろうか。
(よこおかずひろ 文芸評論家)