ドストエフスキー曼陀羅展

f:id:shimizumasashi:20181117004717j:plain

 

f:id:shimizumasashi:20181117004654j:plain

f:id:shimizumasashi:20181117004626j:plain

f:id:shimizumasashi:20181117004724j:plain

  • お知らせ

展示会場に設置された巨大な「1865年のサンクト・ペテルブルクの絵画」を前に記念撮影。

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

 

ドストエフスキー曼陀羅」展示会を観た大学院生の感想を紹介します。

ドストエフスキー曼陀羅」が始まって
伊藤景

 十一月十三日から、芸術資料館にて「ドストエフスキー曼陀羅」展が始まった。初日に会場に足を踏み入れたときに、私は「ああ、やっと終わった」と心の中でこぼしていた。始まったばかりのはずなのに、気持ちは全く逆の気持ちだった。


 「ドストエフスキー曼陀羅」の企画の話を初めて聞いたのは、いつだったのか。もう思い出すこともできない。去年だった気がするが、展示に向けて本格始動した今年の十月より前のことは今や全て霞がかっており、自分がどうやって呼吸をしていたのかも思い出すことができない。「ドストエフスキー曼陀羅」に本格的に関わる以前は、博士論文と格闘し続けていたのだが、結局は上手く折り合うことも、妥協することもできず、自分でもやっつけ仕事かのように文字を羅列させることが、ただただ苦しかった。自分の未熟な点ばかりが見えて、筆も進まなかった。ゴールを見つけられないどころか、給水地点さえ見つけられないマラソンがこんなにも苦しいものだとは思っていなかった。覚悟が足りなかったのだと、痛感した。


 まだまだ短い人生ではあるが、この約一ヶ月は濃密であった。博士論文と改めて時間をかけて付き合う覚悟を決めてから、今まで少し距離を置いていた「ドストエフスキー曼陀羅」の方へと意識を向けることにした。まずは、状況把握だと「ドストエフスキー曼陀羅」の作業を手伝っている学生たちに話を聞いてみたが、こんなにも状況が理解できない企画は初めてであった。今までにも、山下先生や清水先生の企画するシンポジウムや展示、イベントといったものにスタッフとして関わってきたが、開始まで一ヶ月もない時期に、誰も現状を理解していない現場は初めてだった。そのときの恐怖は未だに忘れられない。しかし、私がここで同調して「今回の展示、本当に始められるのかな」なんて口に出すことはできなかった。そんなことを口にしたら、現実になってしまうのではないかという真実味が、あのときにはあったのだ。とにかくみんなに「大丈夫、大丈夫」と繰り返し続けた。何度も、何度も。笑いながら口にした。日常のルーチンをこなしながら、自分が切羽詰っていることを自覚しながらも、数えきれないほどの「大丈夫」を積み重ねた。


 少しずつ頭を整理して、何をしなければいけないのか、何が足りていないのかを考えて、先生の確認をとるよりも先に手を動かす。これで駄目だったら、やり直せばいいし、ゴーサインが出れば時間短縮にもなる。とにかく、時間がなかった。立ち止まることは恐怖だった。キャプションは、夏休み前に作ってもらっていたものもあったが、いくつかは手直しが必要だったし、新しく作らなければならないものがたくさんあった。久々に『罪と罰』を読み返しながら、聖書やお茶の缶、五カペイカ硬貨など山下先生がロシアから現地調達してくださった展示史料にキャプションを作成していく。文章を紙に印刷し、パネルにしていく。人に任せるよりも自分で作ってしまった方がはるかに手間が少ないと感じてしまったら、時間短縮のため、一人で作業を進めていくことを選択していた。パネルにしたいとき、連絡して人を捕まえる余裕さえなかった。返信を待つ時間さえ惜しかった。自分にはできないものだけを人に任せることにした。手放した作業には、「一切の文句を言わない」を信条に、相手に気持ち良く作業をしてもらえるようにと感情をポジティブに制御し続けた。


 休みの日も学校で作業をしながら、自分の心が段々とすり減り、攻撃的になっていくのを感じていた。自分が作業を抱え込んでいるだけで、誰かに任せてしまえば気持ちは楽になると分かっていながらも、手間を惜しんだせいで、自分を追い詰めていく。追い詰められている自覚はあった。カッターをただ作業的に操りながら、『罪と罰』のことを考えたとき、初めてラスコーリニコフのことを羨ましく感じた。彼は、人に愛されている。彼は人に手助けをしてもらえるだけ愛されているのだ。ラズミーヒンは、ラスコーリニコフを人殺し扱いするポルフィーリイに怒鳴る。「お茶くらい用意しろ」なんて強気な態度だ。しかし、そんなポルフィーリイは自首すれば刑を軽くするとラスコーリニコフに約束し、その約束を守っている。ソーニャは、失礼な態度のラスコーリニコフのことを本気で心配し、ついにはシベリアまでついていく。家族からも無条件に愛されるラスコーリニコフが、いっそ憎たらしくて仕方なかった。どうして、こんな奴が助けてもらえるんだろうと思ったとき、ラスコーリニコフ自身は、他人になにかを期待して行動していたわけではないことに気がつかされた。彼は彼らしく生きているだけであり、誰かの助けを必要だとは言わない。ただ、周りがお節介を焼いているだけ。人間としての魅力の差なのだろう。ラスコーリニコフは弱い人間ではあるが、強い人間であろうとし行動する。その姿が愛おしいと感じさせるのだろう。さすが、百年以上読み継がれている作品の主人公。作品の登場人物どころか、読者さえも魅了してしまう。そんな人物を創造したドストエフスキーの凄さや魔力が、展示を手伝ったことによって感じられた。


 凝縮されたこの準備期間は気がつくと失神状態で眠っており、毎日、リセットしそこねた携帯のアラームによって叩き起こされていた。まさに、心が亡びてしまいそうな忙殺の日々であった。最早、辛かったのか、楽しかったのかも分からない。そのときの感情を思い出すことができない。ただただ、本当に展示が始められるのかと不安を抱きながらも、黙々と手を動かし、頭を無理矢理に働かせ続けることしかできなかった。


 この一ヶ月、私の頭の中では「もう駄目だ」という言葉が巡り続けていた。しかし、何が駄目なのかは私でさえ分からない。ただ、「もう駄目だ」という呪縛からも、「ドストエフスキー曼陀羅」の開始によってようやく解放された。「ドストエフスキー曼陀羅」が無事に始まったからこそ、ようやく終わったのだ。


 展示に関して、サンクトペテルブルクドストエフスキーの作品世界が混ざりあうパネル展示の導入の素晴らしさや、ショーケースに収められてもオーラを放つ清水先生から貸していただいた貴重書のこと、中原ちゃんと夜中まで連絡を取りあって、励ましあって作ってもらった清水先生の講義映像のことや高橋さんに直していただき、完全版となった清水先生のドストエフスキー論の年譜、ドストエフスキー論の執筆五十年を体感することができる圧倒的な数の清水先生の著作についてなど、語りたいことはまだまだ数多いのだが、まだ「ドストエフスキー曼陀羅」は始まったばかり。「もう終わった」なんて言いながらも、次には「清水正先生大勤労感謝祭」のことや、TwitterFacebookの広報活動など、本当は何一つ終わってはいないので、展示品についてはこれらの広報媒体を使って、少しずつ私の気持ちとともに紹介していこうと思う。また、こうやって始まっていくのだ。

井ノ森 詩織 「ドストエフスキー曼荼羅」展を見て

 

お知らせ
ドストエフスキー曼陀羅
展示会場に設置された巨大な「1865年のサンクト・ペテルブルクの絵画」を前に記念撮影。


清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208
日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。


ドストエフスキー曼陀羅」展示会を観た大学院生の感想を紹介します。


ドストエフスキー曼荼羅」展を見て

 

 井ノ森 詩織

 


今日、清水先生の展示を初めて見た。
 私自身が関わっていたのは、パネルづくりがメインで、あとは山下先生から、その他に頼まれた清水先生のプロフィールやロシアの展示でも使う紹介文のデザインといった、仕事を細々とやっていた。そのため、パネルの準備を進めているときは、これらがどんな風に展示されるのか、どんな風に配置されるのかということに余り意識がいっていなかった。とにかく目の前の写真や書籍のプリントされた紙、発砲スチロールの台紙をさばくことだけに一心不乱になっていたと思う。ただ、今年の夏休み前にラスコールニコフの部屋を一部再現する、ということは聞いていたので、それに関してのみ「あんなふうかな、こんなふうかな」とワクワクしていた。


 実際足を踏み入れてみると、まずロシアの景色に心を奪われた。写真パネルが壁中に貼られており、ドストエフスキーが普段、日常的にこんなきれいな景色を見ていたのかと、羨ましく思った。私自身はロシアに全く行ったことがないので、ドストエフスキーの作品を読んでいても、頭の中に浮かぶ景色は、あくまで空想であってリアリティはない。私の持っている知識では、昔見た海外映画や絵本、また手塚治虫の描いた「罪と罰」といった資料しかなかったのだ。大学院に入って、清水先生の授業を受けるようになってから、清水先生は度々「ドンキと詩織は山下さんに付いて、ロシアに行かないのか。学生のうちに、行ってこい」とおっしゃっていた。私は清水先生が授業内で話してくださる、ロシア旅行の話や山下先生が教えて下さるロシア情報で満足していたのだが、こうして改めて写真を見てみると、先生が「行った方が良い」と言っていたことが分かったような気がした。ドストエフスキー作品に登場していた彼らが歩いていた道、側の川、暮らしていた街並み、イメージがぐっと湧きやすくなったことに加え、彼らをより近くに感じられたような気がする。きっとペテルブルクやモスクワに行ってみるとより肌で、直接的な感覚で、彼らを体験できるのかもしれない。


 清水先生の著作物の多さは、先生の研究室や、山下先生の研究室に並べられていたドストエフスキー全集によってなんとなく予想はついていたが、展示されているのを見ると、その量の多さに改めて驚いた。先生の年表が壁に貼られているのだが、その壁に沿ってずら~っと並べられた著作は圧巻だと思う。正直言って私はドストエフスキーの研究家を清水先生以外、知らない。しかしドストエフスキーを五十年も研究して、こんなにも多くのドストエフスキー論を書き上げ、世に出している、清水先生は宇宙一の批評家なのだな、と思う。私の小ささでは先生の大きさは測れないけれど、分かった気にしかなれないのだとは思うけれど、やっぱり清水先生は一番なのだと思う。しかも、清水先生の頭の中にはまだドストエフスキーについての批評がたくさんあるのだというから恐ろしい。帯状疱疹後の神経痛をはじめとして、清水先生が何かを体験、経験するごとにドストエフスキー作品の切り口が増えているのだから、ドストエフスキーもびっくりしているはずだ。清水先生はまさに自身の体を張って、批評家としての人生を学生である私たちに、社会に、世界に、そしてもしかすると、未来に向かって示しているのかもしれない。


 ドストエフスキー曼荼羅の特別号についても少し触れたい。展示の入り口で無料配布している、私たちからの清水先生へのラブレター集だ。清水先生は時々、先生の作品に学生である私たちの文章を載せて下さることがある。先生曰く、これは記念写真なのだそうだ。その時、その空間に居合わせ、想いを同じくした人たちの記念なのだ。今回のドストエフスキー曼荼羅もその記念写真の役割があるのだと思う。日芸を通じて、誰かを介して、清水先生に居場所を与えて貰えた人たちは、近くに居続けられる人も、たとえ様々な事情があって清水先生の元を離れた人も、想いはみんなここにあるのだ、とページをめくるたびに訴えてくるようだった。この曼荼羅を読んだ人は誰であれ、この多幸感に当てられて、ニコニコになってしまうのではないだろうか。当たり前だが、清水先生の周りにはいつの時代も、先生のことが大好きな人(もちろん私も含まれている)がたくさん居て、それぞれが先生との大切な思い出を持っているのは少々妬けるが、読んでいると「清水先生はずっと清水先生だったんだなぁ」と嬉しくなってしまう。


 ラスコーリニコフの部屋を模した展示も面白かった。ただ、ラスコーリニコフがこんな部屋に住んでいたのだ、という情報だけでなく、これは山下先生がどこどこで入手したと言ってやつか、こっちはロシアで見つけたやつだ、などその背景もちらついて二倍楽しめた。ラスコーリニコフの部屋の窓も印象的だった。あの展示で一番見続けてしまったといっても過言ではない。あの窓を見た時に私の脳裏をよぎったのは清水先生の授業で幾度と聞いた「あれが俺にできるだろうか」というラスコーリニコフの言葉だ。ドストエフスキーが彼に託した皇帝殺しのたくらみを、彼はどのような想いで受け止めていたのだろうか。
私はロジオンがあの窓の向こうに見ていたであろう、景色に思いを馳せた。

 

 

 

「ドストエフスキー曼陀羅」展示会を観た大学院生の感想

お知らせ
ドストエフスキー曼陀羅
展示会場に設置された巨大な「1865年のサンクト・ペテルブルクの絵画」を前に記念撮影。


清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208
日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。


ドストエフスキー曼陀羅」展示会を観た大学院生の感想を紹介します。


わたしはまだ、世界の仕組みを知るには青すぎる

野中咲希

 会場には、大学院山下聖美ゼミの面々と訪れた。まず、会場に足を踏み入れると書籍と写真パネルの多さに圧倒された。わたしにとっては文字の世界、現実としてよりもフィクションとして感じていた、作品が描かれた当時のロシアの美しい街並み。ずらっと並ぶ、貴重な本の数々。それらは、ドストエフスキーとフィクションの国のように感じていたロシアを、実在のものとしてはっきりと感じさせてくれた。

 受付を背にして右手には、清水正先生の著書が並び、年表が張り出されている。展示場所の一角には、ドストエフスキーが生きた時代の品々がセンス良く展示されていた。わたしは、旅行先で祈る人を見るのがとてつもなく好きだ。展示品の中にはイコンもあり、遠い昔のだれかが、ロシアで祈っていたのかと思うとなぜだか気が遠くなった。

 わたしを含め、学生たちは各々に展示を見て回る。それぞれに自分の心に刺さった展示があるようで、小声で感想を言い合いながら、時折本を手に取ったり、パネルの文字を追ったりする。

 わたしが一番、感嘆したのは清水先生の年表だ。一九四九年から、現在に至るまでの清水先生の業績がわかりやすくまとめられている。わたしは現在、二十四歳。清水先生はわたしの年齢の時に何をしていたのかしら、と考え見てみると、すでに書籍を出している。『ドストエフスキー体験記述―――狂気と正気の狭間で―――』だ。その翌年にベトナム戦争終結を迎え、外の世界はひとつのわかりやすい区切りを迎える。その時の清水先生の心の内は、どんなものだったのだろう。戦争よりも災害よりも、何よりも激しい己が論ずる対象との闘いが起こっていたのかもしれない。そして、その闘いがいまだに続いているのだ。恥ずかしながら、わたしの内側でそんな闘いが起こったのならば正気ではいられないかもしれない。

 また、十三〜十四歳の頃の日記からの抜粋もある。「万物はすべてくりかえし」というタイトルだ。タイトルだけでもインパクトがすごい。キャッチー。「アインシュタイン相対性理論を一般向けに書いた本の影響を受け、時間は繰り返すという思いに至った。この時からわたしは必然者となった」から始まり、そこには若干十四歳の清水少年が、何を読み、何を感じたのか書かれている。

 アインシュタインを読み、十七歳にして『地下生活者の手記』に出会った清水先生。その出会いから、今までドストエフスキーと向かいあっているなんて。わたしが十四歳であったときには、野山を駆けずり回り、文章を書くのは好きであったが、何かを深く考えることをしなかった。大人になればすべての理由がわかると考えていたし、わからないものはそうあるだけだと感じていたのだ。この時期からもうすでに、清水先生は清水先生であったのだ。

 十三〜十四歳の覧、最後には「気まぐれもまた、必然の網の目から抜け出すことができないのだとすれば、要するにすべては決定されているということになる」とある。すべてが必然であるのだ。必然であることは、時に優しく残酷だ。助けにも諦めにもなる。わたしはまだ、この境地に達するには怖い。わたしは、わたしの意思で清水先生のゼミに行き、この文章を拙いながらも書いているのだが、すべてが決定されていたと考えると、ロマンチックでありながらもぞっとする。わたしの、憧れや驚きや尊敬の念は、わたしだけのものだ。わたしはまだ、世界の仕組みを知るには青すぎる。十代の先生には、世界の形はどんな形であったのだろう。

 同じように、清水先生が読み込んだ書籍にも驚いた。いたるところに付箋が貼られ、細やかな字でびっちりと書かれている。わたしは、こんなにも使い込まれた本というものを見たことがなかった。わたしの使用している本たちに貼られた付箋や、書き込まれた文字の数々のなんと少ないことか。もとより、超えられると思ってはいないが、年表と書籍、この二つを見て、改めて手本としたい人の存在が大きすぎるほどだと感じた。

 大学に入るころまでわたしは、誰かを尊敬する気持ちが薄かった。人にはそれぞれの良さと悪さがあり、しょせん生き物であるのだから、尊い一瞬があったとしても、あやふやで持続性がないものだと勝手に思い込んでいたからだ。思春期特有の、誰も信じないような心。もちろん、すごいと思う人はいたし、感謝している人もいた。しかし、世界の中心は絶対的にわたしで、そこから全人類に向かってフラットな線が伸びていた。なんて恥ずかしい十代。

 わたしの入学のきっかけは、山下先生であり、はじめて本当の意味で憧れ、純粋にこの人のようになりたいと感じたひとであった。その師である清水先生。すごくないわけがない。大学院生になった今も、何度も強い衝撃を受けている。その清水先生の使用した書籍。「お前は何をやっていたんだ」と、言われたような気がした。わたしも、ひとつのことに真摯に向き合い批評できるような人になりたい。いつか絶対。

「想像を超える現象としてのドストエフスキー──清水正の仕事──」と題して講演する ソコロワ山下聖美教授


清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208
日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。



第43回国際ドストエフスキー研究集会において「想像を超える現象としてのドストエフスキー──清水正の仕事──」と題して講演するソコロワ山下聖美教授(2018年11月9日 ドストエフスキー文学記念博物館に於いて)




講演後、ロシアのテレビ局から取材を受ける山下教授。




中央はドストエフスキー像。画面右はケース内に「清水正ドストエフスキー論全集」第一巻から十巻まで展示。その上の壁には小山田チカエ作「清水正の肖像」(清水正所有)が飾られている。画面左のケースにはドストエフスキー文学記念博物館所蔵の資料が展示。その上の壁には小山田チカエ作「ソーニャ像」が飾られている。13日に研究集会終了。「清水正ドストエフスキー論全集」全十冊はドストエフスキー文学記念博物館に寄贈される。




講演中の山下教授



講演の資料として使ったもの



聴衆の方々

荒岡保志  清水先生との思い出(連載5)


清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208
日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

お知らせ
ドストエフスキー曼陀羅


協力:ドストエフスキー文学記念博物館(ロシア・サンクトペテルブルク)
期日:2018年11月13日(水曜)〜11月30日(金曜)
開館時間:9:30〜16:30(月曜〜金曜) 9:30〜12:00(土曜)
場所:日本大学芸術学部芸術資料館
 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
  日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階
  (西部池袋線江古田駅北口下車1分)
※どなたでも入場できます。守衛室で手続きの後、会場にご来場ください。
 展示会場には清水正ドストエフスキー論の掲載雑誌、単行本、写真。清水正所蔵の貴重なドストエフスキー文献などが展示されています。またサモワール、イコン、燭台なども展示されています。
清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅』�5号、8号、特別号を展示開催中は希望者に無料で配布します。





【特別企画】

清水正ドストエフスキー論執筆50周年
    清水正先生大勤労感謝祭

 第一部  今振り返る、清水正の仕事
      (日本大学芸術学部芸術資料館に於いて)
 第二部  清水正先生 特別講演 「『罪と罰』再読」
      (日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 E303教室に於いて)

 日時:2018年11月23日(金・祝日)15:00〜17:30 
 場所:日本大学芸術学部芸術資料館
   〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
   日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 芸術資料館&E303教室
   (西部池袋線江古田駅北口下車1分)

     お問い合わせ:TEL03-5995-8255(文芸学科事務室)


清水正の著作・購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。
連絡先電話番号は03-5966-3850です。
FAX 03-5966-3855
E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp


第一巻〜第六巻まで3500円+消費税。第七巻7000円+消費税


ドストエフスキー曼陀羅」特別号に寄稿していただいたものを何点か紹介したい。
今回は、わたしと同じく我孫子在住の漫画評論家荒岡保志さんの文章を連載します。



清水先生との思い出(連載5)

荒岡保志

●エピソード五・最後に・清水先生
 
図書館長時代〜今日現在
 
二〇一一年、この頃になると、清水先生との飲み会は、我 孫子ではなく、殆ど、常盤線で二つ東京寄りになる柏に場所 を移すようになる。柏、国道六号線の一本手前の裏道にあ る、昔ながらの古書店「H」で古書を物色してから、向かう のは、そこからさほど離れていない居酒屋「N」である。
 
二〇一一年と言えば、清水先生も、還暦を迎えて間もない 頃である。そこで、また、面白い出来事が起こる。清水先生 が、日芸の図書館長を兼務する事になった、と言うのであ る。図書館長というものは、どういう業務なのか、あまり見 当がつかず、巨大な古書店の店長みたいなものだろうと推測 していたが、実際には、仕事量に幅がある、かなりクリエイ ティブな業務であったのだ。
 
清水先生が、図書館長として着任していたのは、二〇一六 年までであろうか。その間に、日本大学芸術学部図書館から 発行された「日本のマンガ家」シリーズは、『日野日出志』、 『つげ義春』、『○型ロボット漫画』、『わたしが魅せられた漫 画』、『畑中純』と、五冊に上る。
 
五冊、と書いてしまうと、清水先生の仕事量から考えると、如何にも簡単そうであるが、それはB五サイズの上製本 で、ハードカバー、フルカラー、上質紙、いったい、印刷、 製本にいくらかかるのだろうと思われる画集のような豪華本 なのだ。
   
原稿の依頼、資料の収集から始まり、構成、編集まで、清 水先生一人行っていたのだと思う。単に原稿を集めて並べれ ばいいという性質のものではない事は明らかであるが、問題 なのは、出版の企画、段取りまで、一人で行っていた事であ る。寧ろ、こちらの方が相当なエネルギーを消費する。例え ば、「日本のマンガ家」シリーズの企画であるが、漫画家全 員が全員、日野日出志先生のように、快く出版を了解してく れず、協力もしてくれないという事実だ。それだけではな い、その企画は容認出来ない、中止して欲しいという輩まで 現れる始末である。特に、『○型ロボット漫画』の苦労談は、 良く酒の肴になったものだ。どこの、誰が了解してくれな かった、どこの出版社が拒んだかは、敢えて言うまい。
 
また、清水先生は、「日本のマンガ家」シリーズの発行の 他、「日藝・図書館案内」を四誌発行、そして、「日野日出志 展」、「つげ義春展」、「畑中純展」、「林芙美子展」など、多く の展示会を開催など、今では死語だろう、猛烈、と言う言葉 が当て嵌まる精力的な活動をする。図書館の館長とは、こんなにハードな業務であったのか? と思わざるを得ない。
 
そして、清水先生に異変が起きたのは、二〇一六年であっ たか。清水先生が突然倒れて、緊急入院したのだ。確か、我 孫子南口のスーパー「I」のエントランスで、バッタリ出 会った清水夫人から聞いたのだと思う。相当悪い、と伺った が、病名、入院先などは教えてくれなかった。
 
柏の古書店「H」でも、清水先生の話題になる。店番をし ていた奥さんが、清水先生は大丈夫ですか? と私に聞いて きた。凄い情報網をお持ちだと感心したものだが、そんな二 〇一七年の春先に、清水先生から連絡が入る。どうやら、無 事に退院したらしく、我孫子南口、スーパ「I」の中のハ ンバーガーショップ「L」に居るから、という事で、「L」 で落ち合う事となる。
 
その時の先生は、というと、正直、かなり辛そうであっ た。身体中が痛くて仕方ない、話すのも億劫である、と言 う。癌だったのか、と問うと、病名は不治の病だ、としか答 えてくれず、夜も、身体中が痛くて一睡も出来ないと言う。 私は、清水先生は、鉄人というか、魔人というか、エネル ギーの塊だと思っていたので、急に寂しくなる。

ただ、それから暫くして、清水先生は、以前程ではないも のの、少しだけ酒を飲むようにまで復活した。ホッピーで ジョッキ一杯程度である。少し肉付きも良くなり、血色も良 くなったように見える。ただ、未だ身体中が痛む、とは言う。
 
二〇一八年十一月二十三日に、清水先生の、ドストエフス キー論執筆五十周年   大勤労感謝祭を行うと、案内状が私に も届いた。清水先生が、日大芸術学部の学生だった頃からド ストエフスキーを批評し始め、今年で半世紀という事だ。
 
二〇〇七年に、清水先生は、ドストエフスキーの批評の集 大成として、「清水正ドストエフスキー論全集」を刊行し 始めた。清水先生は、この全集は、十巻まで出す、と話して いた。
 
正直、私は半信半疑であったのだが、成程、この第一巻 「萩原朔太郎ドストエフスキー体験」の帯には、「全十巻」 と、堂々とうたっている。その、第十巻目を刊行したのが、 今年、二〇一八年である。清水先生は、十年の時間を掛け、「清水正ドストエフスキー論全集全十巻」を完成させてし まうのだ。
 
ドストエフスキーに限らず、批評家として、休むことなく、五十年間書き続けたという事に、やはり圧倒される。と にかく、書き続けるのだ。居酒屋だろうが、喫茶店だろう が、移動中の電車内だろうが、不治の病に倒れ、入院しよう が、また、身体中が激痛に苛まれ悶絶しようが、とにかく清 水先生は書き続けるのだ。
 
前述した通り、私は日大芸術学部の卒業生ではない。もっ と言えば、清水先生の弟子でもない。清水先生も、荒岡は私 の弟子にはなれないと、きっぱりとお断りされている。ただ し、私にとって、清水先生は師匠である。清水先生から叱責 されようが、こればかりは止める訳には行かないし、清水先 生たりとも止めさせる訳には行かないだろう。私の、勝手な 思いなのであるから。
 
ドストエフスキー論執筆五十周年だけでなく、六十周年、 七十周年と、精力的に批評家活動をし、清水先生を取り巻く 皆に、刺激を与え続けて欲しい、という言葉で、この雑文を 締め括りたいと思う。尤も、七十周年の時には、私自身が元 気でいられるか不安であるが。



清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

ここをクリックしてください エデンの南 

荒岡保志  清水先生との思い出(連載4)

ドストエフスキー曼陀羅展がいよいよ明日に迫った。準備に立ち会いたいのはやまやまだが、神経痛も半端ではない。準備に忙しいソコロワ山下聖美教授、高橋由衣助手、大学院生の伊藤景、飯塚舞子、イッシー峰さん、芸術資料館のスタッフの皆さん方に深くお礼申し上げたい。
わたしは火曜日の午後一時過ぎには会場に顔を出す予定でいます。


お知らせ
ドストエフスキー曼陀羅
協力:ドストエフスキー文学記念博物館(ロシア・サンクトペテルブルク)
期日:2018年11月13日(水曜)〜11月30日(金曜)
開館時間:9:30〜16:30(月曜〜金曜) 9:30〜12:00(土曜)
場所:日本大学芸術学部芸術資料館
 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
  日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階
  (西部池袋線江古田駅北口下車1分)
※どなたでも入場できます。守衛室で手続きの後、会場にご来場ください。
 展示会場には清水正ドストエフスキー論の掲載雑誌、単行本、写真。清水正所蔵の貴重なドストエフスキー文献などが展示されています。またサモワール、イコン、燭台なども展示されています。
清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅』�5号、8号、特別号を展示開催中は希望者に無料で配布します。
【特別企画】

清水正ドストエフスキー論執筆50周年
    清水正先生大勤労感謝祭

 第一部  今振り返る、清水正の仕事
      (日本大学芸術学部芸術資料館に於いて)
 第二部  清水正先生 特別講演 「『罪と罰』再読」
      (日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 E303教室に於いて)

 日時:2018年11月23日(金・祝日)15:00〜17:30 
 場所:日本大学芸術学部芸術資料館
   〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
   日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 芸術資料館&E303教室
   (西部池袋線江古田駅北口下車1分)

     お問い合わせ:TEL03-5995-8255(文芸学科事務室)


ドストエフスキー曼陀羅」特別号に寄稿していただいたものを何点か紹介したい。
今回は、わたしと同じく我孫子在住の漫画評論家荒岡保志さんの文章を連載します。



清水先生との思い出(連載4)

荒岡保志

●エピソード四・日野日出志先生との出会い
 
時間は少し遡る。二〇〇四年であったから、私が未だ漫画 評論家を名乗る前の出来事である。
いつも通りの我孫子「A」で、清水先生と杯を交わしてい ると、会話の中で、日野日出志という漫画家を知っている か、と清水先生が聞く。もともと日野日出志ファンの私は、 勿論知っている、何故ですか? と聞き返すと、日芸の講師として着任するとの回答である。日野日出志と言えば、日本 のホラー漫画家の大重鎮にして、カルト的な人気もあるカリ スマ漫画家である。そんな漫画家が講師で着任するとは、日 芸、恐るべし、である。
 
清水先生が、もし日野日出志の漫画本を持っているなら、 一冊貸してくれと言うので、私は、『怪奇のはらわた』という、一九九六年に講談社サスペンス&ホラーから出版された 短編集を選び、再び「A」で手渡した。 『怪奇のはらわた』を選んだのは、収録されている作品が、「蔵六の奇病」、「幻色の孤島」、「はつかねずみ」、「水の中」 と、日野日出志の初期作品集で、しかも代表作ばかりと、か なりクオリティが高い作品集だと思ったからである。
『怪奇のはらわた』を読んだ清水先生は、思った以上の反 応で、収録されていた全ての作品を評価し、中でも、「蔵六 の奇病」はベタ褒めで、つげ義春に勝るとも劣らない、とま で言い切る。日野日出志は、作品数が膨大な漫画家の一人 で、作品の出来、不出来に相当な差がある。流石に少し言い過ぎかと素直に思ったが、それはそれでいい事だ、私は、素 直に受け止めた。
 
同年、清水先生は、『実存ホラー漫画家  日野日出志を読む 母胎回帰と腐れの美学』という批評集を発行する。『怪 奇のはらわた』に収録された四作品に、やはり名作「赤い 花」を加えた五作品が批評されている。
   
中でも、お気に入りである「蔵六の奇病」は、やはり、清 水先生独特の、一コマ一コマを読み解く手法で書かれている のだが、原作にして三十九ページの漫画作品を論じるのに、 二百枚以上の原稿を費やし、非常に丁寧に分析している。そう言えば、以前、清水先生が、文庫本にして僅か十ページ程 の、宮沢賢治オツベルと象」を分析するのに、ゆうに原稿 千枚を超えた事を思い出す。地面の下に埋もれるピラミッド が巨大だったという事だ。
 
また、私が少し驚いたのは、当時、未だ日野日出志初心者 と言ってしまっては申し訳ないが、日野日出志と出会って間 もない清水先生が、何故「赤い花」を選んだのか、否、選べ たのか、という点だ。清水先生も評価している通り、日野日 出志作品の中でも「赤い花」は名作の範疇に入る事は間違い ない。ただし、この「赤い花」は、何と単行本未収録作品な のだ。
 
厳密に言えば、一九八七年に、ペンギンカンパニーという 恐ろしくマイナーな出版社から、『日野日出志 怪奇・幻想 作品集Big Hits Vol.1 赤い花』として発行されてはいる。「Vol.1」という事は、日野日出志作品 集を刊行しようという意思だろう。「Vol.1」に、当時 としては単行本未収録であった「赤い花」を選び、更に、こ ちらも単行本未収録の「ばか雪」を収録するとは、なかなか 的を射た編集であると評価出来る。
 
実際には、『日野日出志を読む』、九十ページに、「赤い花」 は、文春文庫ヴィジュアル版の『マンガ黄金時代   六十年代 傑作集』で発見した、と書いてある。そっちか、と思いなが らも、それでも、清水先生が「赤い花」と出会える確率は相 当低いものであった事には間違いない。問題の『マンガ黄金 時代』でさえ、既に絶版、そこまでの希少性はないが、古書 店でしか手に入らないのだから。
 
二〇一〇年、それから暫く経つが、日大芸術学部文芸学科 研究室で、日野日出志先生の研究本、その名も『日野日出志 研究』を発刊する事になり、もれなく私にも原稿の依頼が 来る。私は、以前に、清水先生のブログに掲載した「偏愛 的漫画家論   日野日出志へのファンレター」を大幅に加筆、 修正し、一九六七年、「つめたい汗」で日野日出志先生がデ ビューしてから、一九八三年に描き下ろした「赤い蛇」まで の約十五年間を、その生い立ちと作品を追った漫画家論「偏 愛的漫画家論 ホラー漫画家は終末地獄変の夢を見るか?」を寄稿する。
 
そして、『日野日出志研究』は、原孝夫先生亡き後でスタ ジオ・マイ、及びスピーチ・バルーンを率いる、森嶋則子先 生の装丁により、その年末に発行された。日野日出志先生の 代表作「蔵六の奇病」、「赤い花」を全ページ掲載し、貴重な アルバム、写真年譜を収録、左近士諒先生の、日野日出志先 生の似顔絵を扉とした、感動の一冊となった。
 
日野日出志先生と初めてお会い出来たのは、二〇一〇年十 二月二十七日、『日野日出志研究』、その発行記念忘年会で、である。
 
清水先生の研究室で、発行されたばかりの『日野日出志研 究』を受け取り、発行記念忘年会会場に移動する、日芸の正 門付近で、日野日出志先生と合流したのだった。写真でしか 拝見していなかった日野日出志先生である。私に取っては、 四〇年間に渡ってファンであった漫画家が、いきなり目の前 に現れた、という異常事態であり、かなり緊張した事を覚え ている。
日野日出志研究』の発行記念忘年会は、江古田の居酒屋 「H」で行われた。清水先生を主幹事に、日野日出志先生、 左近士諒先生、山崎行太郎先生、森嶋則子先生、山下聖美先生など、この研究本の執筆者、関係者が全員集まった忘年会である。
 
清水先生の計らいで、私は、日野日出志先生の隣に着席し た。日野日出志先生は、その一見厳つい容姿とは裏腹に、大 変気さくで話し易い方である。ご自身の漫画に登場する、猟 奇的な自画像は何なのだろう、というくらいのギャップで あった。
 この忘年会がきっかけで、私も、たまに江古田に出没し、 清水先生を中心に、日野日出志先生、山崎行太郎先生、山下 聖美先生らの飲み会に、参加するようになる。
   
そんな事もあり、それから日野日出志先生については、評 論、というか、エッセイもどきの原稿を書き捲った。作品に ついては勿論、映画、というより、紙芝居、映像コミック 『四谷怪談』、『日野日出志のザ・ホラー   怪奇劇場』という タイトルで映像化された、『地獄小僧』、『わたしの赤ちゃん』 など六作品、とにかく、あらゆる日野日出志先生関連につい て書いた。今現在も、二〇一八年五月に発行されたばかりの 短編集『日野日出志 泣ける!怪奇漫画集』について書いている。

荒岡保志 清水先生との思い出(連載3)


一昨日金曜日、ポメラで原稿執筆中、操作ミスで現在書き続けている「地下室の手記」論の後半30枚、消失してしまった。がっくりである。金曜会は椎名町の「正ちゃん」で浅沼璞さんと山崎行太郎さんと三人でじっくり飲む。井原西鶴の「置土産」の話などする。今わたしは「源氏物語で読むドストエフスキー」という壮大なテーマで書き続けている。井原西鶴の小説も視野に入れている。今年から参加した浅沼さんが西鶴研究家であるので、話はしぜんと盛り上がることになる。源氏物語西鶴の小説は世界文学のただなかに置いても十分に通用する。

お知らせ
ドストエフスキー曼陀羅
協力:ドストエフスキー文学記念博物館(ロシア・サンクトペテルブルク)
期日:2018年11月13日(水曜)〜11月30日(金曜)
開館時間:9:30〜16:30(月曜〜金曜) 9:30〜12:00(土曜)
場所:日本大学芸術学部芸術資料館
 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
  日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階
  (西部池袋線江古田駅北口下車1分)
※どなたでも入場できます。守衛室で手続きの後、会場にご来場ください。
 展示会場には清水正ドストエフスキー論の掲載雑誌、単行本、写真。清水正所蔵の貴重なドストエフスキー文献などが展示されています。またサモワール、イコン、燭台なども展示されています。
清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅』№5号、8号、特別号を展示開催中は希望者に無料で配布します。
【特別企画】

清水正ドストエフスキー論執筆50周年
    清水正先生大勤労感謝祭

 第一部  今振り返る、清水正の仕事
      (日本大学芸術学部芸術資料館に於いて)
 第二部  清水正先生 特別講演 「『罪と罰』再読」
      (日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 E303教室に於いて)

 日時:2018年11月23日(金・祝日)15:00〜17:30 
 場所:日本大学芸術学部芸術資料館
   〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
   日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 芸術資料館&E303教室
   (西部池袋線江古田駅北口下車1分)

     お問い合わせ:TEL03-5995-8255(文芸学科事務室)


ドストエフスキー曼陀羅」特別号に寄稿していただいたものを何点か紹介したい。
今回は、わたしと同じく我孫子在住の漫画評論家荒岡保志さんの文章を連載したい。



清水先生との思い出(連載3)

荒岡保志

●エピソード三・二〇〇七年
 
我孫子市長選
 
我孫子市手賀沼公園の入口に、生涯学習センターという施設がある。
 
地元民が、通称「アビスタ」と呼ぶこの施設は、公民館と 図書館の複合施設である。ミニホール、工芸工作室、調理 室、学習室など、レンタルスペースも豊富で、コピー機、F AX、パソコンなども完備され、かなり近代化された施設であり、利用客も相当多い。
 
そこで長年センター長を務めた、渥美省一先生が、引退後 に、東葛地区、即ち柏、我孫子、沼南地区で、文化サークル を幾つも立ち上げていた。その中に、サークル名は覚えてい ないが、毎回貸会場を借り、作家、評論家など文化人を呼 び、講演して頂くという趣旨のものがあり、我孫子の文化人 という事で、清水先生が呼ばれ、講演した事が何度かあっ た。貸会場と言っても、その多くは飲食店のフロアを貸し切 りで使用するレベルのものではあった。また、東葛地区で、 主婦や、退職者などを中心に集めて行う講演なので、ここは 敢えてドストエフスキーではなく、主に宮沢賢治について講演する事が多かったと記憶している。
 
私は、日大芸術学部の学生ではないので、清水先生の講演 を聞く機会はなく、このサークルに参加して初めて清水先生 の講演を聞いた。やはり、杯を交わしながら聞く清水先生の 話とは、雲泥の差がある事は紛れもない。清水先生の講演は、非常に分かり易く、順序立てられ、流石は大学教授の講 演、といった印象であった。
 
清水先生の、ドストエフスキーに次ぐテーマ、宮沢賢治に ついての講演を何度か聞いたのだが、これもなかなか奥行き があり、考えさせられる事の多い内容であった。批評家清水 先生お得意の、作品を読み解く、解体する、のオンパレード であり、清水先生の持論である、作品はピラミッドの頂上の 僅かな四角錐の部分に過ぎず、その大部分の本質は、地面に 埋まっている、批評家はそれを掘り起こす、という言葉が、 多大な説得力を持つのだ。
 
二〇〇六年、秋口、清水先生と渥美先生との交流が充分に 深まった頃である。我孫子市で、三期に渡って市長職に就い ていた名物市長の、福嶋市長が再出馬しないと表明した事に より、二〇〇七年一月に行われる我孫子市長選挙が俄かに慌 ただしくなる。そこで、何と渥美先生が出馬すると決意した のだ。それだけではない、渥美先生は、何と、清水先生に後 援会の会長を引き受けて欲しい、とお願いまでしたのであ る。
 
正に寝耳に水、とでも言うべきか。清水先生は、渥美先生 のその申し出を、二つ返事で受けてしまった。清水先生は、 大学教授と批評家とで相当に忙しい日常を送りながら、渥美先生の後援会にして市民団体「まちのわ」を立ち上げ、自ら 会長に就いたのである。そして、その「まちのわ」の幹事 に、私が任命されてしまった事は言うまでもない。
 
批評家、清水先生と、市長選挙というと、寧ろ相反するよ うな印象だが、これも清水先生のエネルギーなのか、熱血漢 とでも言うべきか、清水先生は、何の違和感もなく、市民団 体の運営をグイグイと進めて行く。
 
これは、清水先生の持論の一つでもあるが、ここ我孫子市 が他の市町村に比べて、圧倒的に優位に立っているのは、文 化である、という事だ。冒頭にも書いたが、我孫子市は、多 くの文化人が好んで住み、白樺派とも深い繋がりがある町で ある。多くの遺蹟も発見され、その歴史の深さも有名な土地 だ。文化に関しては、完全に差別化できる町だと思うし、私 も同意である。
 
清水先生が、「まちのわ」のキャッチフレーズとして選ん だのは、「子供を守る。文化を創る」である。制作された 「まちのわ」のポスターは、何と漫画家の、今は亡き村野守 美先生に描いて頂いたもので、子供が森林に戻って行く、そ んな風景を切り取った秀作であった。また、今は亡き、原孝 夫先生のデザインでもある。今思えば、市民団体のポスター としては、豪華極まりない。
 
そう言えば、清水先生と出会った我孫子「A」の店頭に、 そのポスターを何枚も貼らせて頂き、清水先生と私は、選挙 事務所よろしく、「A」を根城としていた事もあった。今か ら思えば、市民団体のポスターとは言え、選挙活動を応援す るとは、飲食店としてはご法度であろう。そこも、「A」の ママの度量と言うか、懐の深さであったのだ。
 
市長選挙は、渥美先生と、我孫子市湖北の開業医、星野順 一郎先生との一騎打ちとなる。簡単に言えば、民主党が推す 渥美先生、自民党が推す星野先生という構図である。
 
実は、私事になるが、私は地元我孫子市で、歯科医師会と 結構な繋がりがある。飲み友達が多いという事に留まらず、 例えば、我孫子歯科医師会主催のゴルフコンペの幹事も担っ ている。星野先生とは、飲む席で同席するくらいで、個人的 に付き合いはないものの、星野先生を順ちゃん先生と呼ぶく らいの距離にはある。当然、歯科医師仲間から、順ちゃん先 生への応援を促される。私は、渥美先生陣営だから、とお断 りするのだが、プチ裏切り者状態ではあり、少しだけ肩身の 狭い思いをした事も覚えている。
 
二〇〇七年一月二十一日、運命の開票日である。清水先生 も私も、前日は我孫子駅南口、北口で、最後の応援に声を上 げた。当日、手賀沼通りの店舗を間借りした、渥美先生の事
務所で、その開票経過に一喜一憂しながら結果を待ったが、 意外と早く決着が付いてしまった。     

結果は、星野先生の圧勝、渥美先生の惨敗である。確か に、投票日間近になって、「まちのわ」内部で一悶着あった と聞いたが、そういう事も影響があったのかも知れないし、 やはり自民党が強かったのかも知れない。どうあれ、清水先 生が描いた、渥美先生当選後の、我孫子市を、文化都市とし て確立する計画も、ここで破綻した訳だが、やるべき事は やった、ある種の達成感はあったと思う。
 
この後で、応援ありがとう、お疲れ様会の後日談もあるの だが、原稿枚数の都合もあり、何か機会があればお話しよ う。