ドストエフスキー曼陀羅展

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  • お知らせ

展示会場に設置された巨大な「1865年のサンクト・ペテルブルクの絵画」を前に記念撮影。

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ドストエフスキー曼陀羅」展示会を観た大学院生の感想を紹介します。

ドストエフスキー曼陀羅」が始まって
伊藤景

 十一月十三日から、芸術資料館にて「ドストエフスキー曼陀羅」展が始まった。初日に会場に足を踏み入れたときに、私は「ああ、やっと終わった」と心の中でこぼしていた。始まったばかりのはずなのに、気持ちは全く逆の気持ちだった。


 「ドストエフスキー曼陀羅」の企画の話を初めて聞いたのは、いつだったのか。もう思い出すこともできない。去年だった気がするが、展示に向けて本格始動した今年の十月より前のことは今や全て霞がかっており、自分がどうやって呼吸をしていたのかも思い出すことができない。「ドストエフスキー曼陀羅」に本格的に関わる以前は、博士論文と格闘し続けていたのだが、結局は上手く折り合うことも、妥協することもできず、自分でもやっつけ仕事かのように文字を羅列させることが、ただただ苦しかった。自分の未熟な点ばかりが見えて、筆も進まなかった。ゴールを見つけられないどころか、給水地点さえ見つけられないマラソンがこんなにも苦しいものだとは思っていなかった。覚悟が足りなかったのだと、痛感した。


 まだまだ短い人生ではあるが、この約一ヶ月は濃密であった。博士論文と改めて時間をかけて付き合う覚悟を決めてから、今まで少し距離を置いていた「ドストエフスキー曼陀羅」の方へと意識を向けることにした。まずは、状況把握だと「ドストエフスキー曼陀羅」の作業を手伝っている学生たちに話を聞いてみたが、こんなにも状況が理解できない企画は初めてであった。今までにも、山下先生や清水先生の企画するシンポジウムや展示、イベントといったものにスタッフとして関わってきたが、開始まで一ヶ月もない時期に、誰も現状を理解していない現場は初めてだった。そのときの恐怖は未だに忘れられない。しかし、私がここで同調して「今回の展示、本当に始められるのかな」なんて口に出すことはできなかった。そんなことを口にしたら、現実になってしまうのではないかという真実味が、あのときにはあったのだ。とにかくみんなに「大丈夫、大丈夫」と繰り返し続けた。何度も、何度も。笑いながら口にした。日常のルーチンをこなしながら、自分が切羽詰っていることを自覚しながらも、数えきれないほどの「大丈夫」を積み重ねた。


 少しずつ頭を整理して、何をしなければいけないのか、何が足りていないのかを考えて、先生の確認をとるよりも先に手を動かす。これで駄目だったら、やり直せばいいし、ゴーサインが出れば時間短縮にもなる。とにかく、時間がなかった。立ち止まることは恐怖だった。キャプションは、夏休み前に作ってもらっていたものもあったが、いくつかは手直しが必要だったし、新しく作らなければならないものがたくさんあった。久々に『罪と罰』を読み返しながら、聖書やお茶の缶、五カペイカ硬貨など山下先生がロシアから現地調達してくださった展示史料にキャプションを作成していく。文章を紙に印刷し、パネルにしていく。人に任せるよりも自分で作ってしまった方がはるかに手間が少ないと感じてしまったら、時間短縮のため、一人で作業を進めていくことを選択していた。パネルにしたいとき、連絡して人を捕まえる余裕さえなかった。返信を待つ時間さえ惜しかった。自分にはできないものだけを人に任せることにした。手放した作業には、「一切の文句を言わない」を信条に、相手に気持ち良く作業をしてもらえるようにと感情をポジティブに制御し続けた。


 休みの日も学校で作業をしながら、自分の心が段々とすり減り、攻撃的になっていくのを感じていた。自分が作業を抱え込んでいるだけで、誰かに任せてしまえば気持ちは楽になると分かっていながらも、手間を惜しんだせいで、自分を追い詰めていく。追い詰められている自覚はあった。カッターをただ作業的に操りながら、『罪と罰』のことを考えたとき、初めてラスコーリニコフのことを羨ましく感じた。彼は、人に愛されている。彼は人に手助けをしてもらえるだけ愛されているのだ。ラズミーヒンは、ラスコーリニコフを人殺し扱いするポルフィーリイに怒鳴る。「お茶くらい用意しろ」なんて強気な態度だ。しかし、そんなポルフィーリイは自首すれば刑を軽くするとラスコーリニコフに約束し、その約束を守っている。ソーニャは、失礼な態度のラスコーリニコフのことを本気で心配し、ついにはシベリアまでついていく。家族からも無条件に愛されるラスコーリニコフが、いっそ憎たらしくて仕方なかった。どうして、こんな奴が助けてもらえるんだろうと思ったとき、ラスコーリニコフ自身は、他人になにかを期待して行動していたわけではないことに気がつかされた。彼は彼らしく生きているだけであり、誰かの助けを必要だとは言わない。ただ、周りがお節介を焼いているだけ。人間としての魅力の差なのだろう。ラスコーリニコフは弱い人間ではあるが、強い人間であろうとし行動する。その姿が愛おしいと感じさせるのだろう。さすが、百年以上読み継がれている作品の主人公。作品の登場人物どころか、読者さえも魅了してしまう。そんな人物を創造したドストエフスキーの凄さや魔力が、展示を手伝ったことによって感じられた。


 凝縮されたこの準備期間は気がつくと失神状態で眠っており、毎日、リセットしそこねた携帯のアラームによって叩き起こされていた。まさに、心が亡びてしまいそうな忙殺の日々であった。最早、辛かったのか、楽しかったのかも分からない。そのときの感情を思い出すことができない。ただただ、本当に展示が始められるのかと不安を抱きながらも、黙々と手を動かし、頭を無理矢理に働かせ続けることしかできなかった。


 この一ヶ月、私の頭の中では「もう駄目だ」という言葉が巡り続けていた。しかし、何が駄目なのかは私でさえ分からない。ただ、「もう駄目だ」という呪縛からも、「ドストエフスキー曼陀羅」の開始によってようやく解放された。「ドストエフスキー曼陀羅」が無事に始まったからこそ、ようやく終わったのだ。


 展示に関して、サンクトペテルブルクドストエフスキーの作品世界が混ざりあうパネル展示の導入の素晴らしさや、ショーケースに収められてもオーラを放つ清水先生から貸していただいた貴重書のこと、中原ちゃんと夜中まで連絡を取りあって、励ましあって作ってもらった清水先生の講義映像のことや高橋さんに直していただき、完全版となった清水先生のドストエフスキー論の年譜、ドストエフスキー論の執筆五十年を体感することができる圧倒的な数の清水先生の著作についてなど、語りたいことはまだまだ数多いのだが、まだ「ドストエフスキー曼陀羅」は始まったばかり。「もう終わった」なんて言いながらも、次には「清水正先生大勤労感謝祭」のことや、TwitterFacebookの広報活動など、本当は何一つ終わってはいないので、展示品についてはこれらの広報媒体を使って、少しずつ私の気持ちとともに紹介していこうと思う。また、こうやって始まっていくのだ。