清水正の『悪霊』論 坂下将人 連載2

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     清水正ドストエフスキー「悪霊」の世界』(Д文学研究会 1990年7月 限定100部非売品)


連載2

清水正の『悪霊』論

坂下将人

 

清水正『停止した分裂者の覚書ドストエフスキー体験 (1971)

 本書は『ドストエフスキー体験』の「増補改訂版」である。本書に収録された『悪霊』論は、『ドストエフスキー体験』に収められた『悪霊』論と「同一内容」である。

なお、増補改訂にあたって、本書には『未成年』論と「不条理の世界──カミュドストエフスキーか──」が追加されている。

 

清水正坂口安吾ドストエフスキー―『吹雪物語』と『悪霊』を中心に― (1977)

 横光利一は『悪霊』に誘発されて『純粋小説論』を執筆した。坂口安吾は横光が『純粋小説論』において提示した「四人称」(=「語り手」)の問題を、自著である『文学の一形式』の中で「無形の説話者」として定義し、「語り手」に対する考察を行っている。

清水は本稿において坂口が執筆した『吹雪物語』が「一でも多でも全でもあり、同時に形態としては無である第四人称」としての、すなわち、「無形の説話者」としての「語り手」によって一貫して叙述されている特徴を明らかにしている。従って清水は『吹雪物語』と『悪霊』の共通点を指摘し、『吹雪物語』が『悪霊』をモチーフとして執筆された作品であると述べている。清水が指摘するとおり、『吹雪物語』と『文学の一形式』は『悪霊』並びに『悪霊』の「語り手」であるアントンに対する坂口の理解を同時に浮き彫りにする。

 『吹雪物語』の作中人物達は坂口の精神が直接付与・反映されただけの「一義的な存在」にすぎず、作中人物達は作品内において独立した個性・性格を持たないままの状態で描出された。坂口は作中人物達一人一人に「他者」としての立場を与えられなかったがために、『吹雪物語』の作中人物達は作品内において自分以外の作中人物達に対して「他者」としての機能を果たせず「自壊」してしまった。当然の帰結として、作中人物達の相互関係は対話的に発展せず、作中人物達は一人一人が異なる「人格」を持った「生命体」として作品世界を生きれなかった。

 しかし、『吹雪物語』には美点が存在する。『吹雪物語』の「叙述」は、第八章を除く全ての章において「無形の説話者」としての「語り手」によって一貫してなされている。

 清水は『吹雪物語』と『悪霊』の関連性を「語り手」に見出し、『吹雪物語』と『悪霊』の最大の共通点は「叙述の構造」にあると指摘している。また清水は、『吹雪物語』の作中人物達一人一人を統合するとニコライの持つ「魅力」や「謎に満ちた表情」が浮かび上がると述べている。特に『吹雪物語』の主人公である青木卓一がニコライをモチーフとしている特徴は、『吹雪物語』の第八章からも明らかである。さらに『吹雪物語』の第八章は、「告白」の内容と酷似している。『吹雪物語』が『悪霊』の影響を受け、『悪霊』をモチーフとして執筆された事実は疑いの余地がない。従って『吹雪物語』の美点の一つは、清水が指摘するとおり、「ニコライの精神内部の深淵から発せられる様々な独白の変形が作品内に散りばめられている」点に特徴がある。

 『悪霊』の叙述構造を踏襲して描かれた『吹雪物語』は『悪霊』をモチーフとしており、また『吹雪物語』の作中人物達には特に『悪霊』の主人公であるニコライの持つ特徴や性質が継承・分与されている。清水は『悪霊』において「語り手」であるアントンはニコライを直接規定付けるような言葉は一言も記しておらず、ニコライ像をニコライ以外の作中人物達各々の視点から描出し、ニコライを神秘に包んだままの状態にしているが故に、ニコライの存在の実体について一切明らかにしなかったと指摘している。

 清水は、「チホンに読ませた手紙」並びに「ダーリヤに宛てた手紙」以外に、ニコライが自己を語れなかった点に着目し、ニコライは「語り手」を含めた地上世界における全ての人間達のいかなる言葉によっても把捉されない人物であり、「地上世界に属さない人間」として描写されていると指摘する。ニコライは「「ニコライ自身の言葉」をもってしか描出できない存在」である。

 『悪霊』の「語り手」によって規定付けられなかったニコライの精神を継承した『吹雪物語』の作中人物達が自己を語り、また「無形の説話者」である『吹雪物語』の「語り手」が作中人物達を「援護」した結果、『吹雪物語』は『悪霊』が持つ特徴を備え、『吹雪物語』の作中人物達はニコライに備わる性質を有する。『吹雪物語』を執筆するにあたって、坂口は『悪霊』の「叙述構造」と主要登場人物であるニコライ、並びに語り手であるアントンに着目し、作中人物達に対してニコライが持つ性質を付与している。従って坂口は、ニコライが持つ性質を付与された作中人物達にニコライの内的独白を語らせ、さらには語り手を「作中人物達に対する最大の理解者」として機能させる方法で、『吹雪物語』を完成させた。

 なお、清水は本稿において昭和元年から昭和十年にかけて『悪霊』が日本の作家達に与えた影響を跡付けてもいる。

 本論文では『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』をテキストに用いた。本稿は、『ドストエフスキー狂想曲』第Ⅳ輯(注3) 、『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』 (注4)の他に、『清水正ドストエフスキー論全集10 『宮沢賢治ドストエフスキー』』(注5) にも収められている。

3  清水正坂口安吾ドストエフスキー―『吹雪物語』と『悪霊』を中心に―」 『ドストエフスキー狂想曲』 第Ⅳ輯 p.3-p.25。

4  清水正坂口安吾ドストエフスキー―『吹雪物語』と『悪霊』を中心に―」 清水正『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』 p.170-p.195。

5  清水正坂口安吾ドストエフスキー―『吹雪物語』と『悪霊』を中心に―」 清水正清水正ドストエフスキー論全集10 『宮沢賢治ドストエフスキー』』 p.459-p.483。

 

坂下将人(プロフィール)

日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。ドストエフスキー研究家。日大芸術学部文芸学科非常勤講師。論文・エッセイに「『悪霊』における「豆」」(「江古田文学」107号)、「ф・м・ドストエフスキー研究の泰斗」(「ドストエフスキー曼陀羅」特別号)、「清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を読む」(『ドストエフスキー曼陀羅』)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」(「藝文攷」27号)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──先行研究一」(「清水正研究」2号)その他。