モーパッサン『ベラミ』を読む(連載39) ──『罪と罰』と関連づけながら── 清水 正

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載39)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ジョルジュが美貌を最大の武器として出世階段を上り詰めるというのは予め作者によって決定されている。わたしは『ベラミ』を、目先にぶら下げられた〈えさ〉につられて息つく暇もなく読み進め、あっという間に読み終えた。途中、『罪と罰』を読むときに覚える精神の緊張、はらはらどきどき感はまったくなかった。わたしは作者が結末をどうするかを的確に予感していたので、堅固な、絶対に崩落することのない階段を上っていくような安心感があったのである。ジョルジュの前に彼を自己破綻に突き落とすような人物は一人も登場せず、男と女の間に生じるもめごとも発狂、自殺、心中といった悲劇に発展することもない。『ベラミ』においては『白痴』のナスターシャをめぐるムイシュキン、ロゴージンの悲惨な結末を迎えるような三角関係は起こらない。『ベラミ』の社交界においてはすべての人物が俗物性を脱しきれずに自己保身の次元にとどまっているので、惚れたはれたの〈もめごと〉(不倫)など当事者はもちろん周囲の者もスマートに隠しきる手だてを持っているのである。俗物同士の黙契が成立している場所では、不倫を告発することなどは野暮の骨頂ということで、この世界にはムイシュキン公爵が登場する微塵の余地もなかったというわけである。

 『ベラミ』には〈第二日目〉以降、ジョルジュと関わる女たちが複数登場するが、わたしの目には〈第一日目〉に登場した茶髪の娼婦の印象が強い。茶髪はベテランの娼婦らしくジョルジュをまるきり子供扱いしている。太母的な魅力を持った娼婦で、ソーニャとは異質の男を癒す力を備えているように思えた。ジョルジュは金と女に抜け目のない色男で、フォレスチェの紹介で社交界に出入りしていくうちに権力欲にも目覚めていくが、もし彼が癒しを求めるなら茶髪が一番ふさわしかったのではないかと感じた。

 フォレスチェ夫人(マドレーヌ)、フォレスチェ夫人の友人のド・マルレ夫人(クロチルド)、ヴァルテール社長夫人などとジョルジュはそれぞれ深い関係を結ぶようになるが、彼女たちとの関係はかけひき、とりひき、自己保身の俗物性にまみれており、そこに純粋な精神的な交わりを見ることはできない。彼女たちの誰ひとりとしてジョルジュとの内的関係など求めていない。彼女たちはジョルジュと同様の肉欲に支配された淫蕩な女たちであり、ついにその域から脱することはなかった。彼らはすでにどっぷりと世俗のぬるま湯につかっており、人間の理想や理念を語る言葉を完全に喪失している。ハイデッガーの言葉で言えば、彼らは世界に頽落した現存在で〈好奇心・おしゃべり・曖昧〉の諸様態を生きるほか能がないのである。

 フォレスチェは病態が重くなった時点で死について考えをめぐらすが、それが今までの非本来的な生の様態からの脱皮を促すことはなかった。フォレスチェにおいては〈死〉に直面することが遅すぎたのである。フォレスチェは結果として就職の世話をしたジョルジュにも妻のマドレーヌにも裏切られた惨めな男として孤独な生を終える。『ベラミ』において唯一、自分の死生観を持っていたのは老詩人ノルベール・ド・ヴァレヌである。

    まず彼はジョルジュに向かって、議会で一番有能な人間として通っているラローシュ-マチゥについて「ああいう連中はね、みんなぼんくらだよ。なぜといって、二つの壁の間に精神を閉じこめられている連中なんだ、――金と政治という二つの壁の間にね。――物識り振っているばかに過ぎないよ。ああいう奴らを相手に何事かを、我々の愛するような何事かを語ることは、不可能だ。奴らの知能の底は川泥だね。というよりはむしろ肥溜だな、アニエールあたりのセーヌ河の底のような」と言っている。これ以上の毒舌はめったにお目にかかれない。さらに彼は言葉を続ける「全く! 思想の中に広がりを感じさせる男を見つけることは実にむずかしいね。 2022/10/02 23:19 沖から吹いて来る爽快な風を海岸に立って胸いっぱいに吸いこむような感じを与える奴はね。僕はそういうのを何人か知っていたが、みんな死んでしまった」(上巻・208)。

    ノルベール・ド・ヴァレヌの発する言葉は、まさに詩人と呼ばれるにふさわしい含蓄のある真理に通底した言葉である。しかしそれが選りに選って、権力欲だけが旺盛な中身空っぽの色男ジョルジュに向かって発せられているのはどういうことだろう。ジョルジュはノルベール・ド・ヴァレヌが言う、肥溜のようなセーヌ河の川底に棲息している男ではないか。詩人の直観がジョルジュの正体を看破していないはずはないが、しかしここでもまたわたしは作者の〈設定〉を感じてしまう。『ベラミ』においてジョルジュの〈ばか〉(詩人の言葉を借りて言うなら、〈金と女という二つの壁に閉じこめられたばか〉)は登場人物の誰によっても告発され糾弾されることはなく、従ってジョルジュの〈安全〉は作者によって守られているということである。本来なら、ノルベール・ド・ヴァレヌは詩人にふさわしい鋭利な批評の矢をジョルジュの胸に容赦なく突き刺すべきであったろう。しかし彼は本来の役割を果たすことを作者によって封じられている。思想も理念も持ち合わせのない色男の前で、高尚な言葉を発することの無意味によく耐えたと言っておこう。

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発行日 2021年12月3日

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