清水正   情念で綴る「江古田文学」クロニクル  ――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様――

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

 

 

 

 情念で綴る「江古田文学」クロニクル
 ――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様――

    清水正


 序章「江古田文学」復刊まで

 昭和四十三年四月、文芸学科の入学ガイダンス時に「文藝科」という雑誌が配布された。なるほど、文芸学科ではこういった学内誌が刊行されているのだな、と妙に記憶に残っている。
 わたしは一年浪人して文芸学科を受験するため初めて江古田に降りた。北口を降りてすぐに背後から何かにつかまれたような感触を覚え、この霊的な体験をずっと不思議に思っていた。
 合格発表の掲示板には七十名ほどの受験者番号が張られていた。なるほど、文芸学科は少数精鋭の学科なのかと漠然と思い、すぐにその場を離れた。さて、入学してみると文芸学科の新入生は実に三百名近くいた。七学科全学年でいったいどれくらいの学生が在籍していたのか。狭い江古田キャンパスは学生で溢れかえっていた。渋谷駅前の混雑どころの騒ぎではない。文芸学科に限っても正規合格者七十名、補欠二百三十名である。この半端なしの営利主義はマンガを越えている。正確なことはわからないが、当時、学生間でささやかれていたのは、補欠は一次から五次まであり、一次ごとに十万円上乗せ、従って五次補欠者は五十万円上乗せ、しかもこれだけにとどまらず学部長推薦とか理事推薦もあるということだった。
 当時、巷間で、日大は日大株式会社と呼ばれており、学術研究、教育の機関と見なされてはいなかった。学生の大半は研究意欲も問題意識もなく、体育関係の部に所属する学生は大学の犬とさえ言われていた。わたしが最初に受けた大講堂での授業は、千名以上の受講生がぎっしりつまり、そのほとんどが雑談や週刊誌を読んでいた。教授の講義に熱心に耳を傾ける学生は皆無に近く、講義も単にノートを棒読みするような程度のもので、教授の独創性など微塵も感じなかった。わたしは一浪までして入学したが、日藝を最高学府としての大学とはとうてい思えなかった。まもなくして大学紛争が勃発するが、これは当然の成り行きといえよう。
入学当時、校舎は本校舎と完成した大講堂しかなく、まだ学科棟と図書館棟は完成していなかった。一般教育科目の講義は大講堂、専門科目の授業は本校舎の教室で行われた。わたしが受けた授業で記憶にあるのは三浦朱門の「演習1」と坪井一のフランス語ぐらいである。三浦朱門の授業は受講生の一人に家から大学までの道順を口頭で発表させ、次に他の受講生にその道順を黒板に書かせるものであった。言葉によって物事を正確に伝えることがどれほど難しいか、それを実際にわかりやすく説明する授業であった。「演習1」はゼミのようなもので、クラスのような役割も果たしていた。しかし、紛争前で学内はゴタゴタ続き、この授業は一回しか行われなかった。フランス語の授業で覚えているのは、講師が遅刻する学生を教室に入れさせないために入り口のドアの前に何脚かの椅子を受講生におかせたことである。要するに授業以前の体たらくであった。
 当時、文芸学科は英語の他に第二外国語としてドイツ語かフランス語を履修しなければならなかった。マンガみたいに多くの補欠者をとっていた学科で、外国語履修に厳しかったのはどういうことだろう。語学に旧制高校並の厳しさを求めたからなのであろうか。文芸学科出身者でドイツ語やフランス語で大成した者はひとりもいない。
 わたしは入学してすぐに文学クラブに入った。顧問は助手の関井光男ときいていたが、会ったことはなかった。機関誌に「『罪と罰』におけるラスコオリニコフの問題」を載せた。この機関誌は粗末な用紙をホチキスで止めたもので頁数も三十頁に満たないようなものと記憶している。新入部員歓迎会が江古田の居酒屋「和田屋」の二階で催された。先輩の大半が芸闘委に所属していたこともあり、話題はもっぱら政治のことであった。文学を話題にしない文学クラブはその後自然消滅した。文学クラブがいつ誰によって創部され、どのような活動をしてきたのか、わたしはその歴史を何も知らない。
 授業は一、二回しただけで江古田校舎は全共闘の活動家たちによって封鎖された。わたしは江古田銀座から環七を渡って十五分ほど歩いた所の段ボール工場で、時給百円のアルバイトに精を出した。大学前の路地には機動隊員が何十名も控えていた日もあったが、わたしはその前を通ってバイト先に向かった。当時のわたしは体重四十三キロ、長髪で髭を生やしており、まるで十九世紀ロシアのニヒリストのような格好をしていたが、別に尋問されるようなこともなかった。
 芸闘委の学生が大学改革や社会改革をスローガンに暴力闘争も辞さずに連日デモを繰り返していた時、わたしは真っ赤なカバー表紙の平凡社版『悪霊』を小脇にかかえ、彼らに負けぬ悶々とした情熱を胸深くに押さえ込んでバイト通いを続けた。校舎封鎖のおかげで、わたしは一年近くドストエフスキーに没頭することができた。『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』について三百七十枚の批評を書き、それを『ドストエフスキー体験』として自費出版した。発行所は清山書房とした。学生時代、最も親しくしていた山形敬介は高知県吾川郡の出身で、高知学芸高校二年の時に『疑陽性』という詩集を刊行していた。印刷所を山形に紹介してもらったこともあり、二人の苗字の一字を取って発行所名を清山書房としたのである。山形は詩人だが、彼の詩論など聞いたことはない。彼の話題はもっぱら女で、〈女が世界〉のような男であった。
 女といえば、日芸の入学式に左隣りに座った男が、ふいに黙ったまま原稿用紙の束をわたしの眼前に置いた。「読め」ということらしい。主人公は中学生の男子。隣家の人妻と肉体関係を結ぶにいたったいきさつが描かれていた。彼とは段ボール工場で何回か顔を合わせた。彼はバイト代がたまるとトルコ(今のソープランド)に出かけた。彼はサングラスをかけた寡黙な男で、一緒にいてもほとんど何も話さない。ある日、バイトの帰り道、彼はポケットからトルコ嬢の名刺を出してわたしに見せた。「からだのつきあいから始まる愛もある」なるほど。話題を変えてわたしは聞いた「なんでおまえはいつもサングラスをかけているんだ」。「世界がいつも黄昏時にみえるからさ」――忘れようとしてもわすれられない名セリフだ。
 ちなみに、卒業を間近に控えたある日、文芸学科研究室棟前のテラスにいたわたしに静かに近づいてくる男がいた。長髪をリクルートカットにし、サングラスの代わりに透明レンズの眼鏡をかけていた彼はボソッとつぶやいた。「おれ、就職がきまったから」わたしは去っていく彼の後姿を忘れたことがない。卒論でサローヤンを書いた彼は、今頃いったい何をしているのだろうか。名前は敢えて記さない。
 一年次、ろくすっぽ授業はなかったが、単位は取れた。レポート提出という措置で切り抜けたのであろうか。大学側の事情はわからない。わたしは大学の講義(文芸の講義)は年に四回もやれば十分だと思っている。大学で自主的に学問研究・創作に励むために必要なのは自由な時間である。本を読み、映画・演劇を観、音楽を聴き、自分の頭で考え、書き、仲間と語らい、尊敬する師の指導に接することが大事である。授業の回数が多ければいいというわけではない。特に文芸の場合、一人にならなければ満足に本を読むこともできない。
 わたしはドストエフスキーについて批評し続けているが、批評の書き方を誰かに教わった訳ではない。わたしは様々なドストエフスキー論を読み、書き続けることで自分の批評の仕方を身につけた。はかり知れないマグマが内部に蓄積されていなければ、方法論など学んでも役にはたたない。持って生まれた資質と書き続ける宿命を背負っていなければ、文学などやれたものではない。
 三年浪人して文芸学科に入学、すぐに学生運動に参加、文学クラブの機関誌に「鬼瓦」一篇を発表、紛争収束後除籍処分で大学を去っていった同期生もいる。あの頃(昭和43年)は熱い政治的季節で、ゲバ棒で頭を強打され、以来、精神に異常をきたし大学をやめた幼なじみも近所にいた。
芸闘委の製作した記録映画「日大闘争」はすばらしい作品で、当時の全共闘運動の生々しい現実が伝わってくる。わたしが江古田の段ボール工場や所沢のゴム工場でバイトに精を出していた時、芸闘委の連中は必死で大学改革のために闘っていたというわけだ。
 わたしは日芸に入学して丸一年をかけ、『ドストエフスキー体験』という〈わが闘争〉の歴史を刻んだ。『地下生活者の手記』でドストエフスキーに魅入られ、『悪霊』で革命幻想を打ち砕かれていたわたしは、革命運動に身を投ずることはできなかったが、同世代の芸闘委の闘う心情は痛いほどわかる。紛争後、学生証を提示しなければ学内に入ることは許されなかった。「鬼瓦」の活動家は学生証の提示を拒み続け、やがて江古田の地から離れていった。
 一年次のクラス担任であった三浦朱門赤塚行雄と共著『さらば日本大学――バッタ派教師の見た日大紛争――』(昭和44年8月 文藝春秋)を刊行し、日芸を去っていった。日芸の文芸学科出身で助教授であった赤塚行雄とは顔を合わせることもなかったが、三浦教授とは紛争解決のために数名の有志学生が集まった居酒屋で会い、ドストエフスキーの話をしたことがある。三浦教授は酒が飲めずオレンジジュースを飲んでいた。「ドストエフスキー全集を資料室に入れましょう」と言っていたが、約束は守られなかった。
 紛争後、大学は何事もなかったかのように授業が再開された。文芸学科では昭和四十四年からゼミ雑誌が発行されることになった。わたしは二年次にアルベール・カミュを研究するゼミに、三年次にニーチェを研究するゼミに入った。
 卒業した昭和四十七年の五月にゼミ教授の推薦でティーチング・アシスタントとして文芸学科に残った。この年のある日、わたしは学科事務室で進藤純孝教授と雑談していた此経啓助助手の口から初めて「江古田文学」の存在を知った。進藤教授によれば江古田文学早稲田文学三田文学と並んで〈三〉田文学と称されてもいたとのことだった。後で『日本近代文学大事典』(全6巻 講談社)にあたったが、「江古田文学」は項目にすら入っていなかった。
 三浦教授が日芸を去ったことで文芸学科の専任はフランス語、英語、ドイツ語などの語学系の教授が主導権を握ることになった。此経啓助は助手の任期を終えるとインドへと旅立っていった。ちなみに紛争時に文芸学科の研究室に所属していた藤田勢津子助手(後に専任講師)と関井光男助手も大学を去っていた。わたしは副手になってから指導教授との折り合いが悪くなり、窓際に追い込まれた。副手時代七年の後半には辞職勧告も二度ほどあった。わたしが同期から三年遅れで助手になったのは、学内政権の移動があったからである。
 新たに文芸学科主任になった進藤教授はわたしをすぐに助手に推薦し、彼が担当するゼミを全面的にまかせてくれた。進藤教授は早速「江古田文学」復刊のために動き、わたしは一編集委員として協力することになった。復刊創刊号は昭和56年11月20日に刊行された。実に二十年ぶりの復刊である。
 ちなみに、第一次「江古田文学」は昭和25年12月15日に日本大学芸術学部江古田文学会より創刊された。創刊号後記に刊行に至る経緯などは記されておらず、詳しいことは分からないが、文芸創作に情熱を持った学生有志を中心に学内に発行所を置くことになったのであろう。発行人は創刊号と2号が山下秩光、3号と4号は田代三千稔、5号から終刊39・40号(昭和36年11月)までが神保光太郎である。
 わたしは第二次「江古田文学」創刊(1981年)から7号(1985年)まで編集委員として、8号(1985年)から28号(1995年)まで編集長として制作に関わり、29号(1996年)から50号(2004年)までの九年間は江古田文学会会長として江古田文学会の運営に関わってきた。
 今回は編集長時代のことを振り返ってみたい。編集長を引き受けてすぐにわたしは、友人知人の書き手に声をかけ協力を求めることにした。文芸学科同期の山形敬介(詩人・デザイン会社経営)、村上玄一(小説家・編集者)、後輩で学生編集者でもあった小柳安夫(学生時代にわたしの『分身』論を本格的に鋭く批評した。マンガや映画に関する批評もあった)、映画学科出身の中村文昭(詩人で宮沢賢治論や中原中也論の著作もあった)、富岡幸一郎(文芸評論家の秋山駿が担当していた「文芸批評論」を中央大学の学生時代から聴講していた)には直接会って、「江古田文学」に対する熱い思いを語り、執筆を依頼した。
江古田文学」は大学から補助金をもらって印刷製本費にあてていたので、編集費、会合費、原稿料はいっさい出せなかった。ただひたすら熱い思いをぶつけることで協力を仰いだ。彼らには何年か後に非常勤講師として文芸学科の教員スタッフに加わっていただくことになった。何かことをなすに当たって最も重要なのは、要するに〈ひと〉である。わたしは、「江古田文学」をしっかりと支えるために、まずは有能で独創的な書き手を江古田の地に結集させなければならないと考えたのである。

(以上は「江古田文学」100号に掲載予定の原稿である。刊行が遅れているので、まずは最初の箇所をここに載せる)