清水正 「情念で綴る「江古田文学」クロニクル」(連載2)

情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載2)

――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様

 

 特集主体で組む「江古田文学」と人間模様


  わたしは〈「江古田文学」同人〉のような魂の交流のある書き手を中心に様々な特集を組み、インパクトのある誌面作りを心がけた。

 8号(昭和60年10月)は中村文昭企画で夭折した詩人山本陽子(映画学科・中退)を特集した。山本の詩編・遺稿詩の他、批評「神の孔は深淵の穴」、中村の山本陽子論「詩と死の内臓図鑑」などを掲載。山本陽子の文芸雑誌での最初の本格的な特集となった。創作は村上玄一の「穴まどい」、評論は富岡幸一郎の「三島由紀夫論」、エッセイには酒井幸雄の「電信柱への怨念」、松本鶴雄の「戦後文学と私小説」などを掲載した。

 酒井幸雄は日大法学部出身で読売新聞政治部の記者、当時は日大研究所教授、文芸学科では「新聞研究」を担当していた。「江古田文学」復刊当初から協力を惜しまなかった。わたしは副手時代からおいしいお酒を飲ませてもらっていた。松本鶴雄はドストエフスキー文学にも深い関心を寄せていた文芸評論家で、わたしは当時行きつけの池袋の居酒屋「玉淀」で会い、原稿を依頼し、快諾を得た。

 

 9号(昭和61年2月)は発行人・進藤純孝企画で「中国における日本文学の現在」を特集。創作は村上玄一の「シャッターチャンス」、池田博(映画学科教授)の「荒唐無稽物語」。詩は中村文昭の「物質まであと何歩?」、坂井信夫の「鏡」。評論は大貫虎吉の「昭和三十年代の家族小説(一)」。エッセイは木島知草の「わたしのなかにすむこども心へ」など。

 坂井信夫は同人誌「あぽりあ」を中村文昭と共に主宰。わたしは15号(昭和48年4月)に「回想のラスコーリニコフ」を掲載した。坂井にはアルベール・カミュに関する著作もある。

 大貫虎吉と最初に会ったのは小山田チカエオのアトリエであった。大貫は早稲田大学の大学院を出て映画評論を書いていた。彼はわたしの最初の著書『ドストエフスキー体験』を早稲田の古書店で見て「こいつは天才かきちがいか」と思ったとか。酔って、新宿にあった彼のアパートを訪ねた時、柱に掛かっていた人形の青い眼が輝いてわたしを凝視した。とつぜん電話のベルが鳴った。彼は机の引き出しから金をとり、飲みに行こうと部屋を出た。

 新宿の夜、激しくビル風が吹きまくり、外套にくるまった彼の後姿はまるで黒い段ボール箱のようであった。ゴールデン街の二階の店、カウンターの隅に腰掛けた彼は、ボソッと「弟が死んだ」とつぶやいた。反対側のカウンターで静かに呑んでいた初老の男は、派手なマフラーを首に巻き、ベレー帽を被っていた。今村昌平監督『にあんちゃん』の撮影監督だと教えてくれた。大貫は弟との確執を語った。優秀な兄といつも比較される弟の鬱屈は死によってしか幕を下ろせなかったのか。新宿の夜の闇は深かった。  

木島知草は文芸学科在学中から人形劇を主宰するチャーミングな女性で男子学生のアイドル的存在であった。

 

 10号(昭和61年8月)は特集として「追悼 土方巽」を組んだ。「日本読書新聞」(昭和59年2249~2273号)に掲載された舞踏批評家・合田成男と詩人・中村文昭の土方巽論、及び座談「舞踏は“世界”を演出できるか」(合田成男・中村文昭・市川雅・木幡和枝)を再録。合田成男の講演「燔犠大踏鑑(土方巽を語る)」を掲載した。創作は村上玄一「ジュニアは戦場へ行った」。評論は大貫虎吉「昭和三十年代の家族小説(二)」、青山健の「三島由紀夫における“虚”と“実”」。エッセイは松原剛(演劇学科教授)の「Oさんへ――中国五訪記――」などを掲載。

 わたしは中村文昭に招待券をもらい、大森政秀の舞踏公演を見た。公演後、会場近くの居酒屋で打ち上げがあった。その席で、わたしは初めて土方巽と会った。和服姿で現れた土方はわたしの真ん前の席に座った。彼の静謐な佇まいにわたしは〈舞踏〉の神髄を感じた。彼は「舞踏ドストエフスキー派」をつくりたいと話した。わたしは近刊予定の『ドストエフスキー罪と罰」の世界』を彼に読んでもらいたいと思った。その日は早めに帰路についた。いずれ彼とは思う存分、ドストエフスキーについて語り合いたいと思っていた。が、彼は二ヶ月もたたないうちに逝去してしまった。

 わたしは土方巽の『病める舞姫』を徹底して批評することで彼の舞踏に肉薄しようと試みた。『土方巽を読む――母性とカオスの暗黒舞踏』は平成14(2002)年7月にD文学研究会(限定50部私家版)と鳥影社より刊行した。わたしの批評活動の中で最も難産であった。非論理的な霊的インスピレーションに溢れた土方の詩的言語を批評の言葉に置き換えるには、異様なエネルギーを必要とした。この本は三年後に詩人で絵本作家、当時鳥影社に勤めていた窪田尚(文芸学科卒。現・文芸学科講師。わたしの大学院での一期生)により『暗黒舞踏論』(平成17年3月)として装いを新たに刊行された。

 合田成男は本物の批評家。「追悼 土方巽」特集のため文芸学科の特別講義で公演していただいた。公演中、教室の天井近くの窓ガラスが小刻みに震え続けていた。単なる空気による振動ではない。土方巽の霊の訪れを感じた。合田成男はこの日「皮剥ぎ」の話をした。すれ違った瞬間に全身の皮が剥がされてしまうという、出会いの恐ろしさ。北斗の拳のセリフじゃないが、殺されて二十年たっても気づかないようなひとには無縁の話。批評家の見えない刃の鋭さを、わたしは初めて感じた。

 この号の表紙絵とカットは近藤承神子に依頼、彼には14号まで力作を寄せていただいた。彼はわたしのドストエフスキー論を最初に評価し、『ドストエフスキー体験』の増補改訂版を豊島書房に紹介してくれた恩人である。彼は「るうじん」編集長時代にわたしの『分身』解釈を連載してくれたり、つげ義春滝田ゆう大友克洋石井隆などの漫画家をいち早く紹介してくれたひとでもある。彼とは小沼文彦が主宰していた「日本ドストエフスキー協会資料センター」を一緒に訪れたり、とにかくわたしの青春時にかかわった大切なひとの一人であり、わたしの依頼には惜しみのない無償の力を注いでいただいた。

 

 11号(昭和62年2月)は山形敬介の企画による「高知詩人」特集。高知在住の林嗣夫、小松弘愛、坂本稔、岡本弘、沢英彦など十四人の詩人の詩作品を掲載。編者の山形敬介は「詩人が時間を守り始めるようになったのはいつ頃からだろう。今日のぬくもりを明日に残すようになってからどれだけの時間が経っただろう。そのような時の自覚がないままに詩人が詩を書くようになって……。」と書き、日本の詩壇が忘れてならない詩人として昭和36年に三十六歳で「つぶれこんだ」大川宣純の詩「てんごう」を引用している。山形が方言を日本語にまで高めたと評価する「てんごう」の最初の一節を紹介しておこう。「あしあ/根が百姓ぢゃった/その外に能がなかった/けんど/ひょっとしたことで/みょうな女を知ってから/しょうことものう好きになった」。

 評論に中村文昭の「何んだ! 詩とは?」、今野靖人の「エラン・ヴィタールの場所をもとめて――太宰治中原中也の間――」、小柳安夫の「書かれざるノートから」などを掲載。今野は昭和61年度の卒業論文・創作「感触」副論文「『病める魂の所有者』としての文学論」で芸術学部賞を受賞。ちなみにこの年度、吉本真秀子(吉本ばなな)は創作「ムーンライトシャドウ」副論文「MAKING OF “MOONLIGHT SHADOW”」で芸術学部賞を受賞している。

 

 12号(昭和62年5月)は特集として「鼎談・ドストエフスキーの現在」を組んだ筑摩書房から個人訳『ドストエフスキー全集』で知られている小沼文彦、新潮社から『謎とき「罪と罰」』(1986年2月)を刊行した江川卓とわたしの鼎談の記録である。場所は江古田駅近くの居酒屋「和田屋」の二階、時は昭和61年11月14日。ビールを飲みながらの座談でたいへんリラックスした楽しい雰囲気の中で話がはずんだ。ドストエフスキー文学の現代性、永遠性が熱く語られた。

 わたしは編集後記に「ドストエフスキーの影響を受けた作家は世界に五万といる。だがドストエフスキーを超えた作家は未だ現われてはいない。この事実をきちんと認識した上で、われわれはペンを持たなければならない」と書いた。  わたしが小沼、江川両氏に初めて会ったのは早稲田の大隈会館で「ドストエーフスキイの会」の総会があった時である。わたしはまだ学生で、出来立ての『ドストエフスキー体験』を持参し、江川氏に一冊、小沼氏には二冊購入していただいた。お二人に対する思いはつきないが、いずれにしてもこの鼎談はドストエフスキー研究史上に残る画期的な出来事だったと自負している。

 

 13号(昭和62年10月)は山形敬介の企画で「詩人大川宣純の世界」を特集。「1925年~1961年、36年間の詩人大川宣純の無頼と時代の足跡を問う!」ということで生前に発表された詩、遺稿、小説、絵画、エッセイ、短歌、俳句、川柳などを掲載。さらに大川宣純に関する批評として岡本弘「ひとりの詩人の死」、大崎二郎「大川宣純・その稚拙の時代」、甲藤勇「放浪の詩人 大川宣純」、沢英彦「大川宣純の詩」、山形敬介編「その他の大川宣純論」を掲載。

 山形敬介はこの特集で大川宣純を〈現代〉に蘇生させようと渾身の力をしぼって取り組んだ。わたしは編集後記に「噴出する悲しみを、深く抑えて記した、大崎二郎氏の“大川宣純の回想”は胸を打つ。はてしない沈黙、はてしない沈黙が雨だれのごとく、ひとつ、またひとつと言葉を紡ぎだす。残された者たちの沈黙から重さがとれたとき、大川宣純は紛うことなき一人の詩人として生きはじめるだろう」と書いた。

 評論は清水正「死と復活の秘儀――『白痴』の世界――」、大貫虎吉「昭和三十年代の家族小説(三)――『海辺の光景』論――」、中村文昭「何んだ! 詩とは?」を掲載。  わたしは「江古田文学」に初めて評論を載せた。山形敬介と中村文昭両氏は昭和62年度に文芸学科の非常勤講師として後進の指導にあたることになった。ちなみに両氏は文芸学科の長い歴史の中で日芸出身者最初の非常勤講師である。当時の文芸学科主任に何度も働きかけ、説得した結果である。「江古田文学」を内容面で支える有力な執筆者のうちの二人を文芸学科教員スタッフに迎えたことで、「江古田文学」はより強固な地盤を獲得することになった。

 エッセイに小島良隆「坂口安吾の母と女」など七編。小島は文芸学科卒でわたしの主宰していた「ドストエフスキー狂想曲」の同人で一番弟子。二十代から三十代まで週に何回かは必ず酒を呑んでいた。現在、音信不通、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。

 14号(昭和63年5月)は中村文昭の企画による第二弾特集「詩人・山本陽子山本陽子の詩作品のほか、山本陽子論として筏丸けいこ「酒と笑う」、坂井信夫「山本陽子の〈死〉まで」など五編を掲載。  創作は山形敬介の「風儀」など四編。エッセイは米倉巌「萩原朔太郎研究のことなど」、柳澤睦郎「私の中の落語」など八編。評論は清水正「死と復活の秘儀(二)――『白痴』の世界――」、芦崎大和「『アンナ・カレーニナ』をめぐって」、内田收省「魂の光景―フリードリッヒの絵画より―」など五編。

 柳澤陸郎とは酒井幸雄の紹介で知り合った。昭和6年生、映画学科卒業の大先輩、大の落語ファンでいつお会いしても優しい笑みをたやさなかったが、相手によっては容赦のない皮肉を浴びせることもあった。最初の著書『落語つれづれ草』(1994年7月 鳥影社)のあとがきで柳澤は次のように書いている《はじめ、「江古田文学」にエッセイを書いてみないかと、お誘いいただいたのが、日大芸術学部の酒井幸雄教授でした。先生が読売新聞で健筆を揮っておられたころ、わたしの勤める池野建設株式会社の会長、社長と昵懇の間柄だったことから、私も面識をいただいていたのがご縁のはじまりでした。その後、先生が日大で教鞭をとられることになり、その卒業生である私としては、二重のご縁を感じたものでした。先生から、「江古田文学」の編集長で、ドストエフスキー宮沢賢治研究の泰斗である清水正教授にご紹介いただき、エッセイを書くようになりました。そして、「本にしたら?」とおっしゃっていただいたのが、発刊の端緒となりました》。ちなみに柳沢は平成7年より文芸学科専門講座「風俗論」を担当することになった。

 芦崎大和はわたしのゼミの学生で才能を感じさせる独自のレポートを出していた。文芸学科には天才肌の書き手がたまに現われるが、今、彼は何をしているのだろうか。

 内田收省は山形敬介と同郷・高知のいごっそう詩人である。内田は山形を追って東京に出てきたが、上京の頃は毎週、池袋の「玉淀」で「ドストエフスキー狂想曲」の同人連中を交えて呑んでいた。当時のわたしは日本酒オンリー、吐くまで呑むのが当たり前だったので、いわば壮絶な飲み会が連日五、六時間続いたことになる。書き出すときりがないのでやめておく。