「日藝ライブラリー」3号松原寛特集を読んだ「雑誌研究」受講学生のレポートを紹介

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

 

「日藝ライブラリー」3号松原寛特集を読んだ「雑誌研究」受講学生のレポートを紹介します。

 

松原寛特集を読んでの感想

 

私たちの日常は平和なものだと、つくづく思う。
 私が大学紛争、という言葉と向き合ったのは、高橋和巳の『わが解体』を読んだ時であった。
 大学で授業をまともに聞く機会もなく、時には命を落とす程の戦いが行われたことなど、その本を読むまでは考えたこともなかったし、実際に現在には一遍も、その跡が残っていないと思う。
 平和ボケな私たちは、平和ボケしたまま、過去にどのような歴史が繰り広げたのかなど、呑気に何も考えず、ただこの日本大学芸術学部という空の箱に通い、そこで「芸術」の薄っぺらい言葉の上澄みだけをすすって、卒業後に「芸術をかじっていた」というつまらない大人になる将来を考えると、暗い気持ちになったのを覚えている。
 そのくらい私たちには「これでなければだめ」という熱意をかけられないほどの、のっぺりとした平和と、無駄なほどの将来への不安を抱いているのだと思う。これがつくづく馬鹿げたことであるというのは、私自身分かっているし、これが「現代病」と言われるのも、それはそれで平和ボケが一層増していることを理解していない世間もあほらしいと思ってしまう。
 人間が、追い詰められたときでなければ力を発揮しないというのは、この3年間で痛いほど痛感した。私たちは「課題」をやりに来たためにこの大学に入ったわけではないのに、いつの間にか目的を見失っていることすら忘れている。「通学」することが第一目的となってしまって、授業中には睡眠時間となっているのだから滑稽だ。そうして4年生になって、いよいよ最後というところにくると、何かを得なければならない、と焦りだすのだ。
 私がそんな平和ボケした現実から目が覚めたのは、坂口安吾の『不良少年とキリスト』を読んだためであった。
 彼の小説はもともと好きであったし、作品から読み取れる、どことなく感じるほの暗さや、心の空白感に惹かれているのには気づいていた。しかし、それにすべてをかけられるほどの強い情熱を感じるかというと、そうではなかった。
 『夜長姫と耳男』を読んで、この人は誰かに恋い焦がれたまま終わってしまった人なのだろうな、と思い、史実を調べたのが、今を思うと始まりだったのかもしれない。そこで矢田津世子という女性が彼の作品の背景にいることを知った。
「現実は小説よりも奇なり」。その言葉は、実際正しいと思う。小説のお手本のような文を書く志賀直哉は、山の手線に自転車でぶつかってもほぼ無傷であった男だし、坂口安吾は薬物にやられてカレーを百人前頼んだ。小説よりも、現実の方がよほど面白いし、恥であるのだ。
太宰治の恥は、彼らに比べてよほどこじれていた。その拗れ具合が、「青春の文学」などと言われて持ち上げられているのだから、もしかしたら恥は買ってでもするべきなのかもしれない。
 坂口安吾は、彼の恥と、同時にその人間性をよく捉えていた。だから、故人について書かれていた『不良少年とキリスト』を読んでも、それは決して同情の表情もみられなかったし、彼に純粋に「生きて」いて欲しかったことが伝わってきたのだろう。
 『日藝ライブラリー』の8ページ目を読んで、「負けないという言葉は坂口安吾から譲り受けた。」という文は、この『不良少年とキリスト』の「負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。」のことだと思った。
 私は、生きるという戦いに負けた、太宰の弱さを、安吾の作品から学んだ。そしてその時初めて私は、この平和ボケした世界で生きようと、(それは生命の意味と、精神的な意味の二つの意味である)彼の文学や背景をきちんと学ぼうと思ったのである。

 私は演劇学科に所属しているが、この大学は割と放任主義であると思う。他学科公開の授業もそこそこ多いし、ゼミナールも、きちんと話せば違う学科の教授に教えて貰うこともできる。一つの学科に所属しているはずなのに、1年間の単位の半分は他学科に費やすこともできてしまう。何を学ぶかは、個人の自由なのだ。
 しかし反対に厳しい面もある。演劇学科は映画学科に比べ、きちんと申請しようとしても、授業外では絶対に機材を使わせてもらえない。使えるのは「教室」、たったこれだけなのである。
 私たち演劇学科はその制約に悩み、怒り、二年生になる頃には大学に匙を投げたものもいた。しかし、松原寛の「苦悶の叫びこそ芸術ではないでしょうか。」「真に生きんとするならば、其処に苦悩があり、其処に苦悶がある、此の苦しみを描くところにこそ、真の芸術が生まれるのである。」という言葉を目にし、この苦悩の二年間が救われた気がした。(きっと彼のこの文はそのような意味ではないと思うが)
 私は、芸術とは、傷を負ったことのある人間しかつくりだすことの出来ないものだと思っている。
 先生も初めに本の中で述べている「失恋の痛手」というのも、これの中に入ると思っている。そしてそれが一番分かりやすい例だと思う。
 何かを失い、それの穴を懸命に埋めようとする。しかし、全く同じものなどもう手に入らないのだから、どうやっても心の空白は埋まらない――その、それぞれがもつトラウマや、悲しみが具現化したものが芸術なのではないかと、私は思うのだ。
 私たちがこの学生生活で体感した制約も、現時点で、松原寛の言うような「叫び」となっている。その葛藤が、いつかは芸術に昇華できるのだろうかと、私はひそかに、淡い期待を抱いている。(2246文字)

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
 
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk