船木 拓馬 日藝の大蛇路 ~日藝ライブラリーNo.3 「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」清水正 を読んで~

f:id:shimizumasashi:20181130163044j:plain

 

 

 

日藝の大蛇路
~日藝ライブラリーNo.3
「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」清水正 を読んで~


船木 拓馬


 「歴史に名前を刻むほどの文学者、芸術家は、その本質を処女作においてすでに表出していると言われる。ドストエフスキーで言えば、処女作『貧しき人々』は最晩年の作品『カラマーゾフの兄弟』に直結しているということだ。その意味で松原寛の「若き哲人の苦悶」は若書きの熱狂と過度のロマンチシズムに溢れかえっている文章だが、ここに彼が生涯に渡って煩悶し続けた哲学、宗教、芸術の問題が一つの壷に凝集していることに間違いはない。このいわば、ニーチェ風に言えば、大いなるディオニュソス的混沌(カオス)の坩堝から、熱く燃えさかる火と恐るべき噴煙を挙げて大量の溶岩群が噴出し、日大芸術学部創設に至る一本の確固たる大路となったのである。」(157)

 はたして、いまの日本大学藝術学部に松原寛の処女作より流れ出でた大路は続いているだろうか。しかり、ただし細々と、だがけっして絶えることなく続いてきた大路である。この大路はもはや地下水脈とでもいうべきであろう。
 いかに地下水脈とはいえ枯れるものは枯れる。ほとんど枯れかけのこの苦悶の血に滲んだ流れは、ふたたび鮮血としてよみがえり奔流しようとしている。きっかけはときの日本大学藝術学部図書館長が病室で「松原寛との運命的な邂逅」を果たしたことにはじまる、いや、それはある一人の青年が昭和四十三年三月一日に江古田の地に初めて降立ち、日藝校舎に向かう途中で突然背中がゾッとした、その瞬間であったかもしれない。
 日藝ライブラリーNo.3「特集 松原寛」の刊行に寄せての序文の見出しにはこう書いてある―日芸魂の源流と、その発展継承―「その発展継承」の文字を見逃してはならない。まずそのためには源流がおぼつかなくては話がはじまらない。ここに「特集 松原寛」および清水正による松原寛批評がある。
 広げた大風呂敷は、日藝ライブラリーNo.3というわれわれに残された遺産にあたってもらうとして(そこで私がけして大風呂敷を広げたのではないことはおのづから判明しよう、)ここではひとりの日藝生として、清水正による「松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証」について書いて行きたい。

 恩を着せるつもりではないのだが、清水正がいなければ、私は日藝に入ったことをのちのち後悔する羽目になっていた。私は日藝に小説を書くために入った。私はそのための時間を欲した。高校卒業後、無職で週五六日、一日十時間ひたすらアルバイトをしていたが、静脈瘤をわずらい、その手術・入院費の額をみて、このままバイト暮らしでは生きてゆかれないと思った。病気になったときの保証などなく、いっきに収入ゼロの人間になってしまう。
 両親および祖父母には、大学に行くなら金銭援助をしてもいいといわれた。バイト暮らしの中では、思うように執筆ができなかった。なにより、ドストエフスキーを読むかたわら、バイト先の人々と人間関係を保っていることが当時の私には非常にむつかしかった。
 私のアルバイト先は人間関係の濃厚な場所であった。そこをまとめていた店長、社員の人、それから先輩、同期後輩と、その人たちにはいまだに頭があがらない。十年に渡る恋の破局によって〈死の谷〉にいた私が再び立ち直ったのもほとんどその人たちのおかげであるといっていい。私はそこで更正していった。社会の入口まで連れ戻してもらった。そのためにかなりの迷惑をかけもした。そこでの恋愛事件もあった。私が四度目(二人目の)大きな失恋に遭ったのは、先の静脈瘤のための入院当日の朝であった。文字通り、身も心もズタズタになったまま、ひとり病院の門を叩いた。
 結果的に静脈瘤とは判ったものの、手術を終えるまで、医者からは悪性のガンであることを覚悟したほうがいいと、両親ともどもいわれていた。私自身、ああこれで自分は死ぬのだなと思っていた。
 死ぬ前の最後の望みの恋(それは甘えでしかなかったのであるが、)も絶たれた。病床にはなぜか、私を拒絶した人がもう一人のバイト先の先輩と一緒に訪れた。ぎこちない会話のあと、すぐに行ってしまった。ほんの小さな救いの時間であったが、直後にもっと深い絶望に私をおとしこむ最後の一撃でもあった。まさに女のおそろしさである。ドストエフスキーを読んでいたから、当時の私にも振った男の病室に訪れる女の、意識無意識がそれとなくわかった。死ぬ間際に、ちょっとしたドストエフスキー体験をしたぞ、となんだか笑いたくもなった。
 手術の後、一ヶ月してようやく動けるようになった。私は生き永えた。すぐに三月になった。そのときたまたま高校の後輩に日藝を勧められた。その日が願書提出の締切日であったから、そのまま江古田の地に赴き、届を出した。これで受かったら、私の人生は書くことにきめてしまおうと思った。いやその前に、悪性のガンでなかったと判った時点で、人生あとは書くだけだときめていた。すべてが必然であり、私はなおかつそのなかで自分はどこまでも自由であると思った。
 そして四月、さらなる必然は、文芸特殊研究Ⅲにおける清水正とその批評との出会いである。入学前から私の核はドストエフスキー宮沢賢治であった。この二人が己の文学の双北極星であること、また自分の書くものにもそれなりの自恃があった。その自恃は清水正をまえにことごとく打ち壊されることになる。
 そこから先の詳細な経緯は、ここでは省くことにする。とにかく私は、清水正批評をまえに自分が書けなくなってしまっては困ると、迂路をとることにした。私は、あえて清水正とは距離をとって自分の創作に没頭した。一年半かけて長篇小説に挑んでいたが、そこでドストエフスキーの壁にぶつかった。私はやはり自分は徹底的にドストエフスキーに向かわねばならないことに気がついた。三月にドストエフスキー作品を読み返すのと同時に、手元に置いてあった清水正の「停止した分裂者の覚書」と「宮沢賢治論全集1」を読んだ。機は熟した。ドストエフスキー清水正を読んで思ったことは「これ以上書いて何になる?」ということであった。私は、七百枚の小説原稿を一旦しまい、三年次は清水正ドストエフスキー全集をとりあえずすべて読むこと、それから先生の授業を受けることに決めた。私のこのとき、ようやく日藝生になった気がした。それまでは、ただ小説を書くために都合で大学にいる人間のつもりでいた。

 話はようやく「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」である。僭越ながら私はこれを、清水正批評のひとつの到達点であると思う。あくまでドストエフスキー論全集十巻を残すところ二巻の未熟な一読者としての意見ではある。
 ここでは松原寛についてと断っておきながら、清水正の幼少期、学生・教授時代、家族、我孫子の風景、それから志賀直哉三島由紀夫ニーチェ、イエス、いうまでもなくドストエフスキー宮沢賢治、とこれまでの清水正ネジ式螺旋批評の縮図ともいうべきものが展開されている。螺旋の糸はそれらすべてを的確に貫き、大曼荼羅を描くに至る。未読のひとには、これを清水正批評の入門書として勧めたくなるくらいだ。私は、どうしてここに清水正批評のひとつの到達点がマークされるに至ったかの理由に、松原寛と清水正の「運命の邂逅」を思わずにいられない。

「松原寛の著作を読んでいると、哲学書の中にも、母、父、子供、友人について語っている。松原寛はそれこそ自在に著書の中であちこち歩き回って、しかも全体のまとまりを崩さない巧みな編集感覚を備えていて、ぐんぐんと読者を松原寛ワールドへと引き込んでいく。」(182)

「彼の著作は、チャンコ鍋のように具が豊富で、崇高なるものも俗なるものも、古今東西の哲学者も家族の者も同等の価値を備えた、かけがえのない〈具〉として熱湯鍋の坩堝の中に投げ込まれている。あわてて口にするとどれも火傷するように煮詰められている。」(165)

 これらはそのまま、清水正批評にもあてはまる。ただ、この書き方の共通項だけでは「運命の邂逅」とまではいえない。「運命の邂逅」というのは「その発展継承」に掛かっている。清水正の松原寛批評がおそろしいというのもこの点にある。

 松原寛は、信仰と科学的理性の水と油の相克に生涯かけて苦悶した。

「松原寛の思索のうねりは一義的、直線的に目的地に着くことはない。蛇が全身をくねらせながら前方へ進むしかないように、松原寛の思索もまた蠕動的であり、それは彼の全身全霊を賭した止みがたき精神運動なのである。彼の文章には、彼の惑い、煩悶の血潮が漲っており、一義の結論に至ったその時には、すでに懐疑の芽が息吹いている。」(161)

「松原寛は思弁展開の上では肯定―否定を限りなく旋回する。松原寛はその烈しい活火山的な蛇行によって対象を一気に呑み込むということはない。最初は尊敬の眼差しで近づき、次に優しく全身でからみつき、やがてそれは抱擁から締め付けに変わり、相手が失神すると頭から一気に呑み込んでしまう。そして次なる獲物へと向かって蛇行し続ける。」(192)

 なぜ松原寛は懐疑し蛇行し続けるのか。そこには〈論理の悲しみ〉がある。以下は清水正の批評からの松原寛『生活の哲学』の孫引である。(括弧内筆者による註―清水正批評からの引用)

「(神を論理的に根拠づけたいとしながら、)覚り得たのが『理屈を去れ』の一語であるとは云うもののその実践ができなかった。今一歩と云う処まで来て居ながら畢竟は信仰生活のルンペンにすぎなかった(259~260)」(196)

 この境地に、いったい何人の人間が辿りつくことができるであろうか。松原寛の〈論理のかなしみ〉という言葉のもつ悲哀の波動がこれを書く私の手をふるわせる。同じポメラワープロ機)で書いているが、清水正の筆はそこから先もいっさいの躊躇することを知らず、松原寛のかなしみにこれでもかといったくらい照明を当て続ける。松原寛は、最後の著作『親鸞の哲学』においても彼の蛇行に終点を見出だすことができずに、その生涯を終えたと清水正はいう。まるで大蛇を食らう龍のごとくである。そして最後に批評家は「彼は日本大学芸術学部創設者として精力的に活動した稀にみる行動する哲学者であったが、その精神世界においては終生変わらぬ煩悶し求道する哲学者であったと言えようか。」と書き、病室でひとりポメラを閉じる。

 清水正は十代半ば前にすでに〈まっしろな虚無〉に行き着いたという。けっして同じとはいわないが私にはそのことが分からないでもない。私も遅れること十七歳のときに「存在が存在として存在するあるがままの宇宙」に出会っている。たしかにそこはまっしろのようであった。私はそれを愛ではないか思った。宇宙がすべて愛に満たされれば、それは無と同じである。そのとき、有はなく、すなはち無もない。存在が存在として存在しているだけである。そしてそれはこのような言葉ではなく、体感として味わわれたものである。むろんその時間は継続しない。気がついた時には、何も変わらない孤独な現実が目の前にある。
 いま私は清水正の〈まっしろな虚無〉にたいして、私がそのとき出会った虚無は弱いと感じている。私は無限を永遠と取り違えただけである。松原寛の終わらない無限の螺旋運動に対する清水正の目線は永遠のそれと同じである。私は清水正の松原寛批評を読み終えたとき、その永遠の眼差しを感じた。より強き愛は弱きものの眼にはつねにしばし冷徹として映る。
 私は、清水正を前にするといつも思う、〈まっしろな虚無〉を抱える人間を、これほどまでに突き動かしているものとはいったいなんなのだろう、と。不断の神経痛と戦いながらも、その筆は止まることを知らない。昨年(2018年)は十年に渡る林芙美子論を完結させ、いま氏はふたたび『罪と罰』に向かおうとしている。私は授業で清水正にこう質問した。「先生は、〈まっしろな虚無〉を抱えるピョートル(『悪霊』)をあそこまで突き動かすものはいったい何だと思いますか」
 この質問に対する清水正の答によって、私は松原寛の処女作よりはじまる日藝の大路に貫かれることになる。
「より大きな虚無を抱える人間ほど、神の聲を近くにきくことができるのだよ」


追記 「松原寛との運命的邂逅」における清水正の父との泥鰌釣りの文章、我孫子の描写を読んでない方は一度読まれるべし。あまりに批評の外からはみ出し、小説家その他の風景・人間描写をしのいでいるといわざるを得ない。