動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載4

江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第4回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層
清水正


 次に問題にしたいのは〈獣〉(Зверь)に力と位と権威を与えた〈竜〉(Дракон)である。この〈竜〉を『創世記』における〈蛇〉(Змей)と見る解釈がある。〈蛇〉は「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」(Змей был хитрее всех зверей полевых, которых создал Господь Бог. )(3章1節)と書かれている。〈蛇〉は女に神が食べてはならないと命じた木の実を食べることをすすめる。〈蛇〉は言う「あなたがたは決して死にません。あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(нет, не умрете; Но знает Бог, что в день, в который вы вкусите их, откроются глаза ваши, и вы будете, как боги, знающие добро и зло.)(3章4〜5節)と。

〈蛇〉は狡猾な動物であり人間を誘惑するものであるが、全能の〈神〉(Бог)によって造られた被造物であることに間違いはない。被造物である〈蛇〉が誘惑し、被造物である〈人〉(エバとアダム)が〈神〉の命令に背いてその誘惑にのってしまう、この誘惑劇をどのように理解すればいいのか。『創世記』の〈神〉は自らが創造したものに対し、試み、裁き、罰するものとして描かれている。異教徒にとってこの全能の〈神〉を神として信じることはとうていできない。〈神〉が全能であるなら、被造物である狡猾な〈蛇〉が誘惑し、〈人〉が禁断の〈木の実〉を口にすることを予め分かっていたであろう。予め分かっているのに、敢えて試みるということ自体が滑稽である。脚本通りに演技している舞台俳優に、とつぜん監督が現れて罰したり裁いたりする理不尽と同じである。
『創世記』の〈神〉は被造物である〈蛇〉や〈人〉に自分と同等の自由意志を賦与したというのであろうか。〈蛇〉は自分の意志で〈人〉を誘惑し、〈人〉もまた自分の意志で禁断の〈木の実〉を口にした。書かれた限りのことで読めば、〈蛇〉も〈人〉も自由な意志を持っているように見える。が、被造物の意志をコントロールできない〈神〉を全能と言えるのだろうか。それにたとえ自由意志を〈神〉から与えられていたにしても、被造物である物は〈神〉の裁き、断罪を一方的に受ける身であって、〈神〉と同等の位置を占めることはできない。ドストエフスキーのリアリズム文学を読むように『創世記』を読めば、〈神〉は退屈の余り一人遊びを始めたようにしか見えない。〈人〉を恐るべき言葉で誘惑する〈蛇〉は〈神〉の化身であり、〈人〉が誘惑に落ちることを予め分かっていながら誘惑せずにおれないこの〈神〉は、組織の頂点に立った人間(たとえば独裁者)の不安や恐怖を体現した存在とも見える。一神教の〈神〉は人間の様々な要素をたっぷりと備え持った存在であり、不断に試み、裁き、罰せずには自らの権威を絶対化できない存在なのである。
 いずれにしても、〈神〉から自由意志を与えられた〈蛇〉や〈人〉は、〈神〉に従属することに我慢がならず、〈神〉に反逆し、〈神〉と戦うことになる。〈神〉は絶対的な存在ではなく、その地位は代替可能な相対的な存在と見なされる。そもそも〈神〉が絶対的な存在であるなら、被造物から戦いをのぞまれるなどという屈辱的なことはあり得ない。が、一神教の世界では創造者である全能の絶対的な〈神〉と〈被造物〉でしかない〈蛇=竜〉の戦いが様々なかたちで描かれてきた。この戦いの場に〈神〉が登場した時点で〈神〉は絶対の玉座から相対の座に引きずり落とされているが、一神教の支配する世界では、最終的には〈神〉が勝利を収めることで、その絶対性はかろうじて守られることになる。〈神〉と〈蛇=竜〉の壮絶な戦いをミルトンは『失楽園』で想像力豊かに華麗にビジュアルに描いているが、しかしここにも相対性にまみれた〈神〉の絶対性、全能性を根本から問う視点は見られない。
罪と罰』の主人公〈一人の青年〉の額に〈666〉という〈獣〉の数字を刻印したのは誰か。まずは『創世記』の〈蛇〉(Змей)として考えてみよう。この〈蛇〉はある種の人間、つまり自分を非凡人や絶対者と考えるような人間の心を鷲掴みするような誘惑の言葉を発していた。
〈蛇〉は神が禁じた〈木の実〉を食べると、〈人〉が〈神〉のようになり、善悪を知るようになると言う。被造物の〈人〉が全能の創造者〈神〉となることができるというのであるから、〈蛇〉は実に恐るべき誘惑の言葉を発していたことになる。この誘惑の言葉に〈女=エバ〉がまず反応し、〈木の実〉を食し、次いで〈男=アダム〉も食する。つまり〈人〉は〈蛇〉の誘惑に乗って〈神〉になる途を選んだことになる。〈蛇〉はどのようなことを言えば〈人〉が〈神〉の命令に背いて禁断の〈木の実〉を食するかを予め知っていたことになる。
 エデンの園での〈蛇〉と〈女〉の会話から分かることを列記しておこう。〈人〉は〈神〉のような存在になりたいと思っていた。〈神〉は〈人〉が自分と同じようになることを望んでいなかった。〈蛇〉は〈神〉の真意を理解していたが、〈神〉に反逆して〈女〉を誘惑することに成功した。
 さて、ここで素朴な疑問を呈しておこう。〈女〉によれば、園の中央にある〈木の実〉を触れても食べてもいけないのは「あなたがたが死ぬといけないからだ」ということであった。しかし、エバもアダムも〈木の実〉を食べてもただちに死ぬことはなかった。この時点で〈神〉の言葉はその絶対性を奪われ、〈神〉の言葉より、〈蛇〉の言葉の方が説得力を獲得する。
 次に問題にしたいのが、〈神〉のようになると「善悪を知るようになる」という〈蛇〉の言葉である。ドストエフスキーは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンにおいて〈善悪観念の摩滅〉という問題を提起した。スタヴローギンは言わば理知の極限において、何が善であり悪であるかを判断できない虚無の領域に入り込んでしまった。理性、理知、思弁の次元にとどまる限り、絶対的な善や悪を知ることはできない。つまり〈木の実〉を食したことによって〈賢さ〉を手に入れた〈人〉は、「善悪を知る」こととは全く逆に、スタヴローギンと同じ途をたどることになる。
〈蛇〉の言葉をそのままに受け止めれば、『創世記』の〈神〉は〈善悪〉を知っている。換言すれば〈善悪〉を決定できるということである。人間の理性や知性は〈善〉〈悪〉を限りなく相対化することはできるが、そこに唯一絶対性を付与することはできない。ロジオンは言わば禁断の〈木の実〉を食した〈666〉であり、賢い思弁家である。が、ロジオンの知性は、ソーニャの信じている〈神〉(бог)の絶対性を獲得することはできない。ロジオンは〈蛇〉の誘惑に乗って〈木の実〉を食し〈賢さ〉を手に入れたが、〈神〉のように〈善悪〉を知ることができず、〈思弁〉(диалектика)からイエス・キリストの〈命〉(жизнь)へと向かわざるを得なかった。
 いずれにせよ、『創世記』の〈神〉と『罪と罰』の〈神〉とを同一視することはできない。前者は試み、裁き、罰する〈神〉であるが、後者はマルメラードフの告白で語られるように裁きの後で赦す〈神〉であり、額に獣の数字〈666〉を刻印されたロジオンさえ赦す〈神〉なのである。
 ロジオンは〈666〉としてローマ皇帝の息子としての薔薇であり英雄であり太陽である。が、ロジオンは皇帝ネロのように、ナポレオンのように〈666〉としての力、権威を発揮することはできなかった。ロジオンは開幕時からすでに〈革命か神〉かの深い惑いの中にあり、〈踏み越え〉(アリョーナ殺しとリザヴェータ殺し)の後にはさらに分裂の度合いを深めている。ロジオンは最初の犯行において、斧の刃先を自分の額に向けて振り上げており、これはアリョーナ殺しの前に〈666〉を叩き割った隠喩と受け止めることもできる。つまり、この解釈でいけば、ロジオンは〈666〉としてではなく、〈666〉から解放された直後にアリョーナの頭を叩き割ったことになる。
 アリョーナ殺しは意識朦朧状態で斧の峯を使っているが、目撃者リザヴェータの場合は明晰な意識を保持したまま斧の刃先で叩き殺している。〈666〉を叩き割った後でのこの殺人行為をどう受け止めたらいいのか。ロジオンは〈666〉から解放されたのではなく、より深く〈666〉との関係を強めてしまったのであろうか。ロジオンは後に、犯行はある神秘的でデモーニッシュな力の作用によって行われたのだと思う。まさにロジオンは自分の力では統御できない〈悪魔〉の誘惑に乗ってしまったのだ。が、この〈悪魔〉は、〈神〉に対立する存在とは思えない。ロジオンの最初の〈踏み越え〉は〈殺人〉であるが、最終的な〈踏み越え〉は〈復活〉である。ロジオンに殺人を促した神秘的でデモーニッシュな力の作用とは、言わば〈悪魔〉に化身した〈神〉のものではなかったのかとも思わせる。
 が、ロジオンは二人の女を殺しながら〈罪〉の意識に襲われることはなかった。罪意識のないまま、ロジオンは復活の曙光に輝く。作者は「思弁の代わりに命が到来した」と書いて、ロジオンの復活を保証するのだが、殺された二人の女の苦痛や恐怖をいったいだれがどのように贖うというのであろうか。
 信者にとって聖書は絶対であるが、そうでない者にとっては聖書を文学書として読むこともできる。『創世記』において〈神〉は絶対として描かれるが、その絶対からしてすでに相対的である。被造物である〈蛇〉や〈人〉に〈神〉の命令に背く自由意志が与えられた時点で彼は相対化の世界に落ちたことになる。聖書を文学作品と見れば、〈全能の神〉を創作した作家こそが〈神〉の上位に位置することになろう。このことに関しては当然反論もあろうが、今は不問に伏して先に進むことにする。

清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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