動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載5



江古田文学97号(2018年3月)に掲載したドストエフスキー論を何回かに分けて紹介しておきます。第5回目。

動物で読み解く『罪と罰』の深層
清水正

 ロジオンの父称の一つロマーノヌィチ(Романыч)を〈Роман=小説の〉と解釈するとロジオンの父親は〈小説〉となるが、その〈小説〉を書いているのは作家であるから、まさにロジオンの生みの親はドストエフスキーとなる。ドストエフスキーはロジオンのみならず、すべての登場人物の生みの親であり、被造物である人物たちは作家の意志を超えることはできない。ロジオンは殺人を犯し、ソーニャと出会い、そしてエピローグでは復活の曙光に輝く。わたしは『罪と罰』を半世紀にわたって読み続けているが、未だにロジオンの高利貸しアリョーナ、リザヴェータ殺しから復活に至るまでの〈踏み越え〉を納得できないでいる。十七歳で「馬鹿ばかりが行動できる」という〈地下室人〉の言葉に共鳴を覚えたわたしは、思弁の人、屋根裏部屋の空想家ロジオンが殺人という行動を起こしたことが不思議でならなかった。不断に精神の分裂を抱えている自意識過剰の青年が、殺人という一義的行動に走ったことが腑に落ちなかった。こういった青年は大学教授か文筆業に従事することは可能でも、殺人などというだいそれた一義的行動家になることはあり得ないと思っていたのである。が、一読者でしかないわたしがこんな不満をもらしたところでどうしようもない。人物たちの言動に関して決定権を握っているのは作家なのであるから。しかし、作品を解体しその再構築化をはかることが読者に禁じられているわけではない。この批評行為は作品の〈絶対性〉に揺さぶりをかけるということで、ある種の〈信者〉のような読者にとっては冒瀆と見なされる行為である。
 ロジオンに最初の〈踏み越え〉(殺人)がなければ、最後の〈復活〉もあり得ない。作者が書きたかったのは単なる屋根裏部屋の空想家ではなかった。作者はタイトル通り、〈踏み越え〉(преступление)と〈罰〉(наказание)を描きたかったのだ。最も行動家から遠く離れたかのような空想家・思弁家を作者は殺人者として描いた。わたしは自分に照らして空想家・思弁家のイメージを作り上げ、そのことに固執していた。〈地下室〉に閉じこもって、政治的な活動家を愚弄していたわたしは殺人を実行したロジオンに何か納得できないものを感じ続けていた。が、思弁家=非行動家という図式を振り捨てて、作品に描かれたロジオンを冷静に見つめ直すと、彼はわたしが勝手に思いこんでいたような青年ではないことも分かってきた。彼の言動(現存在諸様態)はゴリャートキン(第二作『分身』の主人公)の如く正真正銘の狂気に陥るほど深刻とは言えないにしても、〈突然〉(вдруг)に支配されていたことは明らかである。思弁は論理的展開を前提とするが、ここに〈突然〉が現出すると、論理が破綻する。「わたしにアレができるだろうか?」という疑問は未だ論理の枠内に収まっている。アレ(表層的にはアリョーナ殺し)が論理の枠内に収まっている限り、思弁の主体を行動に駆り立てることはできない。
 ロジオンは雑誌に「犯罪に関する論文」を寄稿するほどのインテリであるから、彼の思考は論理的である。はたして論理的思考によって行動家となれるのであろうか。もしかしたらこういったわたしの疑問そのものに疑問を抱く者が少なからずいるかもしれない。わたしが二十歳の頃、まさに日本は政治的な季節を迎えており、過激な革命運動に身を呈する者は珍しくなかった。おそらく彼らは自分たちの行動に確信を持っていたのだろう。が、連合赤軍の凄惨なリンチ事件の発覚、続く浅間山荘事件をもって日本における革命運動は実質的に幕を下ろした。わたしは十七歳で『地下生活者の手記』を読み、ドストエフスキー文学の凄まじい自意識の洗礼を受けたので、革命思想の絶対性など微塵も信じていなかった。当時の活動家たちはおそらくドストエフスキーなど読んでいなかっただろうから、革命思想を根底から覆す思想に直面することもなく、活動に専心することができたのであろう。彼らの革命運動の実態を、ドストエフスキーは『悪霊』において百年以上も前に描き尽くしていた。事件を起こした後で、それを知ることになった革命家たちはいったいどのように総括するのであろうか。
 若者たちを一義的な行動に駆り立てる革命思想がある。従って論理的思考がその主体者を行動から遠ざけるということにはならない。もしロジオンの思弁が革命に絶対正義を見いだしていれば、彼は迷うことなく革命家の途を選んだであろう。が、『罪と罰』の最初の場面を読めば明白なように、ロジオンは思いまどっている青年として描かれている。作者はロジオンの〈惑い〉の内実(革命か神か)について触れていないが、これは当時の検閲官の目をたぶらかすためである。十九世紀ロシア中葉に生きるインテリ青年で革命に関心を持たなかった者はいない。が、ドストエフスキーはロジオンに過激な革命家の接近を封じている。作中に登場するロシア最新思想の持ち主と言えば、穏健な活動に甘んじているレベジャートニコフただ一人である。しかもドストエフスキーはこのレベジャートニコフにすらロジオンとの〈革命をめぐる〉対話を許さなかった。読者はよほど注意して読み進まないと『罪と罰』に秘められた〈革命〉の要素を発見することができない。
 ロジオンは殺人の道具としてどうして〈斧〉にこだわったのか。〈斧〉は皇帝殺しの象徴的な道具として当時の急進的な革命家たちによって檄文などに記された。つまり〈斧〉はロジオンに秘められた革命思想を体現している。さらに問題となるのは、当初予定されていなかった〈リザヴェータ殺し〉をなぜドストエフスキーは設定したのかということである。ここには目的を達成するためには手段を選ばずという革命思想の根幹が示されている。ロジオンは「わたしにアレができるだろうか」と考えるが、〈アレ〉は単なる〈高利貸しアリョーナ殺し〉だけではなく〈皇帝殺し〉をも意味していた。因みにこういった点に関しては今までに執筆した『罪と罰』論、特に「『罪と罰』再読」(「ドストエフスキー曼荼羅」8号 二〇一八年一月)で詳細に考察したので興味のある方はぜひご一読ください。
 ロジオンの〈666〉に関しては実に多様な解釈が可能であり一筋縄ではいかない。犯罪に関する論文において、非凡人には「良心に照らして血を流すことが許されている」と書いたロジオンは、確かに論文執筆時においては自分を〈ナポレオン〉と同等の〈非凡人〉の範疇に入れていた可能性もある。その時彼は未だ単なる屋根裏部屋の一思弁家にすぎなかったが、しかしそれにも関わらず自分を世界を変えうる英雄と見なしていたとは言えるだろう。ああでもないこうでもないとはてしなくしゃべり続けるたわいもない空想家にとどまるか、それとも〈英雄〉として〈非凡人〉として自分自身の第一歩を踏み出すべきか。ロジオンは〈アレ〉を前にして迷いに迷う。そうだ、この迷い自体が彼の〈凡人性〉を証明しているが、それに気づくのは犯行後のことである。
 ロジオンは『創世記』のエバのように〈蛇〉(змей)に誘惑されるのではない。ロジオンにおける〈蛇〉はすでに彼自身の内部に深く侵入しており、いわばそれは彼自身と言ってもいいほどである。ロジオンの内部に〈英雄〉と〈蛇〉が存在し、はてしのない会話を交わしているようなものだが、まさにある神秘的でデモーニッシュな力が働いてロジオンは〈蛇〉に呑みこまれてしまうのである。これをソーニャに言わせれば「あなたは神さまから離れたのです。それで神さまがあなたをこらしめて、悪魔にお渡しにになったのです!」(От бога вы отшли, и вас бог поразил, дьяволу предал!)ということになる。これに対してロジオンは「そうそう、ソーニャ、それはぼくが暗やみに寝そべって、あのいっさいが見えてきたときさ、あれは悪魔がぼくを迷わせていたんだね? そうだね?」(Кстати, Соня, это когда я в темноте-то лежал и мне все представлялось, это ведь дьявол смущал меня? а?)と応える。ここでの〈悪魔〉は両者ともに〈дьявол〉である。が、ロジオンは次のセリフでは「黙ってくれ、ソーニャ、ぼくは何もひやかしちゃいない。だってぼくは、自分でも悪魔に引っぱって行かれたことを知っているんだ」(я ведь и сам знаю, что меня черт тащилу.)と言って〈悪魔〉を〈черт〉で表している。
 因みに、『カラマーゾフの兄弟』でドミートリイ・カラマーゾフは「ここでは悪魔と神が戦っている、で、その戦場は―人間の心なんだ」(Тут дьявол с богом борется, а поле битвы―сердца людей.)と言っているが、ここで〈悪魔〉は〈дьявол〉である。また同作品の第十一編・九の「悪魔・イワン・フョードロヴィチの悪夢」(ЧЕРТ. КОШМАР ИВАНА ФЕДОРОВИЧА)では〈悪魔〉は〈черт〉で、本文でイワンが口にしている〈悪魔〉も〈черт〉である。イワンは幻影の〈悪魔〉がローマの詩人テレンティウスの句「Satan sum et nihil humanum a me alienum puto(ぼくはサタンだ。人間のことで無縁なものは何もない)」を口にしたときも、〈Satan〉を〈сатана〉(サタン)ではなく〈черт〉に置き換えている。 ドストエフスキーは『悪霊』で「ゲラサの豚」を取り上げたときは、〈悪霊〉を聖書通り〈бес〉で表している。以上〈悪魔〉はドストエフスキーの場合〈дьявол〉〈черт〉〈бес〉で表記される。それでは『創世記』に登場する〈蛇〉(змей)は登場しないかというと、『カラマーゾフの兄弟』でスネギリョフ退役二等大尉とイリューシャ少年が〈大きな石〉のある場所にたどり着いたとき、空に飛んでいる三十ばかりの〈凧〉〈змей〉として現れている。
 ドストエフスキーは〈神〉(бог)に対する〈悪魔〉として『創世記』の〈蛇〉(змей)を特に意識してはいなかったのであろうか。〈神〉(бог)の化身としての〈悪魔〉(змей)という見方をした場合、〈神〉(бог)と〈悪魔〉(змей=дракон)の戦いという構想は成立しない。ドミートリイやイワンにとっての〈悪魔〉(дьявол,черт)ははたして〈神〉(бог)と同格のものとして扱われていたのであろうか。彼らにとっての〈神〉は、〈дьявол〉や〈черт〉と戦う時点ですでに相対化されていたと見ることができる。

清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=wpI9aKzrDHk

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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