どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載52)

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載52)


清水正


談志の急所


 この本(『談志 名跡問答』 2012年4月 扶桑社)で石原慎太郎が談志の思い出を語っているが、その中で三木のり平とのやりとりを紹介している。

  談志の十八番と言えば「芝浜」だろうが、かつて三木のり平さんと高座を聴きに行ったときのこと。寄席をはねてから飲みに出、その場で「芝浜」の出来について、身体性が全然感じられず、「アーティキュレーション(articulation=発声の明瞭度、歯切れ)だけがいい」と率直に言うと、談志は「今日のは出来がよくねえ」と言い訳した。
 「ねえ、のり平さん、どう思いました」と稀代の珍優、名優にふると、彼がボソッと「慎太郎さんの言うの、わかるんだよなあ。談志さん、なんで押しばっかりなのかね。引きがない、間がない」。
  言われてそのひと言で談志がガクンとなってしまった。名人が名人を小太刀で斬り倒したような趣があって、傍目に興味深い瞬間だったが、そのあと談志はすっかり悪酔いしてしまい大変だった。(412)

 三木のり平の指摘は的確で談志落語の急所をさりげなく容赦なく突いている。談志には談志なりの咄の“間”があるのだろうが、三木のり平と同じく、わたしの耳にもそれが“間”とは感じない。前にも指摘したように、談志にとっての観客は他在の他者というよりは、想定された〈他者〉、鏡像としての〈他者〉であり、彼が投げた球は鏡面に当たってはねかえってくる。つまり談志の言葉は限りなく自意識過剰な屈折したピエロのような内的対話と化している。
 ドストエフスキーの読者なら『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン、『分身』のゴリャートキン、『ポルズンコフ』の半職業的道化師ポルズンコフなどが発する言葉をすぐに想起するだろう。彼らの言葉は内的対話の構造を抱えたまま他在の他者に向けられる。こういう言葉を受け取る側は、発する者以上の当惑を覚える。この当惑を最も簡単に解消するために、ひとは〈狂気〉という判断を下す。
 ワルワーラに去られた後のマカール・ジェーヴシキンはもはや手紙を書く主体にはなり得ない。彼は実存的な対話的原理から頽落して内的対話者(手記の主体)とならざるを得なかった。愛する他者を喪失した者が、依然として〈愛する者〉を烈しく希求するときに内的対話の壷にはまりこむのである。この壷は蜜をたっぷり蓄えた地獄の壷であり、もはや二度と元の現実的な地平へと立ち戻ることはできない。

 
 



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