どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載24)




人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。


どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載24)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


小さん落語と談志落語

 小さんの落語は言わばオーソドックスな伝統芸としての落語である。落語家として大成しようとするなら、こういった落語家についてみっちり落語の基礎を身につけるのがいい。絵画で言えばデッサン力をつけるのと同じで、この基礎を怠ると解体も再構築もできない。
 談志は小さんの弟子になって落語の基本をしっかり身につけ、その上で再構築化に突き進んでいる。伝統を守っているだけの落語に飽きたらず、伝統を現代に蘇らせるという実験に果敢に取り組むことになる。当然、談志は落語家であると同時に落語研究家・落語批評家にならざるを得ない。
 談志が落語論に取り組むようになった一つの理由として、同時代の落語評論家に大いなる不満を感じていたということがあろう。自分の落語のよき理解者がいれば、落語家自らペンをとって論を展開することはない。
 わたしは談志の落語をじっくり聴いたことがない。聴こうとは思うのだが、談志の身振りや理屈が気に障ってだめなのだ。談志の落語論が駄目なのではない。談志が口にする論に、おれはたいしたもんだろう、ほかのバカな落語家とは違って、おれは誰よりも落語を愛し、落語の本質を理解し、現在の落語に危機意識を持ってのぞんでいるんだ、まあおまえさんたちにゃわからんだろうがね、といった彼の自意識をうるさく感じてしまうのだ。

おそらくこの自意識に最も苦しんでいたのが談志だろう。談志と同レベルの相手が眼前にいれば、その相手と対話する喜びを感じたろうが、レベルが違いすぎれば他在の他者がいるにもかかわらず一人遊びをするしかない。他在の他者を鏡にして、その鏡に映った自分と対話するということで、これが高じれば変人奇人のカテゴリーを逸脱して狂人扱いされることになる。
 談志自身が自分のことを〈狂人〉と言ってはいるが、もちろんこの〈狂人〉は精神病理学上の狂人ではない。談志ほど社会の常識とか分別に敏感であった芸人はいなかったと言ってもいい。その時代の常識・分別に敏感でなければそこからの逸脱をはかることはできないし、そこへと戻ってくることもできない。




人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。