どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載15)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載15)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正



立川談志ドストエフスキーの〈地下室人〉



 
  寄席で観客を相手にする場合でも、楽屋や居酒屋で弟子たちを前にする場合でも、おそらく談志は他在の他者を〈鏡〉に見立てて〈独り言〉を言っていたに違いない。みんなのいる前で〈内なる他者〉すなわち〈もう一人の自己〉と会話しているということだ。
 ドストエフスキーは『地下生活者の手記』の主人公を通してこういった自意識過剰者の〈道化〉〈軽業〉を徹底的に描いた。この主人公には名前は付けられていない。物語のヒーローとしての性格も付与されていない。言わば彼はアンチヒーロー的な性格を持った名無しの権兵衛で、彼の居場所は〈地下室〉ということになる。そこで彼のことをここでは〈地下室人〉と呼ぶことにする。
 彼は〈地下室人〉ではあるが、純粋な〈観念〉(幽体)として描かれてはいない。彼もまた現実の世界で生きていた。第二部「べた雪からの連想」には、彼が軽蔑する同窓生から金を借りて淫売窟へと繰り出し、そこでリーザという娼婦を抱いた後で〈ひとリクツ〉こいてアパートへ戻ってくるという、実に卑劣きわまるエピソードが書かれている。
 〈地下室人〉は現実の世界で醜悪卑劣な道化を演じて、そのことを不断に意識し続けてのたうち回っている自意識過剰者である。わたしはテレビで談志を見ていると、彼の自意識過剰っぷりが、この〈地下室人〉と共通する側面を持っているように感じていた。もちろん、談志と〈地下室人〉をまったく同じ存在とは思わない。決定的に違っている面もある。今回はそんなこんなも含めて、批評を展開していくつもりでいる。





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