どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載14)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載14)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正



立川談志における〈送り手〉と〈受け手〉



 
 受け手がバカだと、送り手がどんなにすばらしいアイディアをぶつけてもそれを的確に受け止め、返すことができない。これは赤塚不二夫の言う通りだとしても、これと全く逆のことも言える。賢い受け手は、どんなにつまらないものでもすばらしいものに再構築することができるということだ。

談志は落語家として送り手であるが、落語批評家としては受け手と言える。批評も送り手には違いないが、談志の場合、送り手であると同時に受け手でもあって、彼の意識は常に自分の投げかけた言葉を追いかけて誰よりも先に受けているようなところがある。相手に自分の言葉が届く前に、自分の言葉を受け止めて自分に返している。他在の他者が目の前にいるにもかかわらず、その他者に向かって玉を投げているように見せかけておいて、自分で受け止めてしまうのであるから、相手にとってはこんなに七面倒なやつはいないということになる。
 なぜこのような自意識の一人遊びが生じてしまうかと言えば、要するに談志は相手を信用していないというか、かなり低く見なしているので、自分の投げた玉が正確に相手の胸に届くとは思っていないのである。相手に対して、絶対的な不信を抱いていれば、自分の部屋で独り言を言っているのだろうが、天の邪鬼の性格の持ち主はわざわざ他在の他者を要請してしまう。




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