清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載5)

江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀)に掲載した「ドストエフスキー論」自筆年譜を連載する。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載5)

一九八四年(昭和59年)35歳

◎『ドストエフスキーの作品Ⅲ』 (8月31日 私家版)A5判・並製■六六頁 非売品
 ※「『フロハンチン氏』をめぐって」「おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折」所収。
○「〈書評〉中村健之介著『ドストエフスキー 生と死の感覚』」 :「日本読書新聞」(10月1日 日本読書新聞


一九八五年(昭和60年)36歳
○「秘教術的「数」の象徴と円還する時間」 :「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「スヴィドリガイロフの子供」 :「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「図表・『罪と罰』の十三日間」 :「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「図表・ラスコーリニコフの食事と金銭出納表」 :「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
◎『ドストエフスキーの作品Ⅳ』 (6月30日 私家版)A5判・並製■六六頁 非売品
 ※「道化が戯れに道化を論ずれば──『ポルズンコフ』を中心に」「『弱い心の運命」「関係の破綻と現実還帰の試み──『正直な泥棒』『白夜』『他人の妻とベッドの下の夫』をめぐって」「父親殺しと再生への途──『ニェートチカ・ニェズヴァーノヴァ』について」「死の家の記録」「喜劇作者ドストエフスキ──ー『おじさんの夢』を中心に」「道化と赦しの物語──『ステパンチコヴォ村とその住民』について」所収。


一九八六年(昭和61年)37歳
○「秘教的「数」の象徴と円還する時間」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「スヴィドリガイロフの子供」 :「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「〈書評〉精緻な室内楽としての主調音──共通した主体の消失ないしは隠蔽──江川卓亀山郁夫編『ドストエフスキーの現在』」 :「週間読書人」No.1624(3月17日 読書人)
◎『ドストエフスキー罪と罰」の世界』 (3月25日 創林社)A5判・上製四六五頁 定価三八〇〇円
 ※「第Ⅰ部」(「第一章 精神の空白性」「第二章 精神の跛行十牛図」「第三章 初期作品と十牛図」「第四章 百尺竿頭からの最初の投身──ラスコーリニコフの場合」「第五章 犯行後の軌跡──マルメラードフの臨終まで」「第六章 運命的な邂逅──ラスコーリニコフマルメラードフ」「第七章 マルメラードフの告白と聴衆」「第八章 踏み越えとラスコーリニコフの思想」「第九章 赦罪者ソーニャとラスコーリニコフの出会い」「第十章 ラザロの復活」「第十一章 犯行の告白とソーニャの指示」「第十二章 主人公はひとりの青年(один молодой человек)」「第十三章 スヴィドリガイロフの肖像」「第十四章 スヴィドリガイロフの謎」「第十五章 чудо(奇蹟)の実践者スヴィドリガイロフ」「第十六章 スヴィドリガイロフの孤独」「第十七章 死者もまた夢を見る」「第十八章 スヴィドリガイロフと一匹のはえ」「第十九章 スヴィドリガイロフと『オルフェ』の死の女神」「第二十章 〈復活〉へのプロセス」「第二十一章 ラスコーリニコフにおける“突然”の時性」「第二十二章 作者ドストエフスキーの事後処理」「第二十三章 ラスコーリニコフの復活」「第二十四章 作者と結託した批評家ポルフィーリイの予言」「第二十五章 もっとほかの理論とあれ(ЭТО)──リザヴェータ殺しをめぐって」「第二十六章 真夏の夜の夢と現代の青年」「第二十七章 帝王の緋袍(道化)」「第二十八章 ポルフィーリイと『オルフェ」「第二十九章 おしまいになってしまった男の信仰」)「第Ⅱ部(「ルージンをめぐって」「ラズミーヒン論──ぶりっこ仮面の“好青年”──」「『罪と罰』の女性をめぐって」「秘教術的「数」の象徴と円環する時間」「踏み越えの時と場所」「図表・『罪と罰』の十三日間」「ラスコーリニコフの食事と金銭出納表」)所収。
【「ドストエフスキー遊園地」などを書いて、わたしはドストエフスキーで戯れて戯れて戯れつきようと思っていたのだが、これは衰弱の兆候でもあったのだろう。わたしはドストエフスキー論に行き詰まっていた。(略)
 原稿はよほどのことがない限り喫茶店で書く。わたしは四度目の『罪と罰』論を書こうとしていた。テーブルについてノートを開け、いきなり書き出すのがいつものわたしのやり方だが、とうしても書けない。何も言葉が出てこない。才能が尽きたか、まさか。まさか、と思わなければ生けていけない。そうだ、ドストエフスキーについては書き尽くしたのではないか。こう思えば気も楽だ。よし、この際ドストエフスキーの墓参りにでも行ってこよう。そういうわけでソヴィエトへと行くことにした。ところで私は海外旅行など行ったこともない。友人の山形敬介と行くことにした。かくして総勢十名ほどのソヴィエト旅行ツァーの一員となったわたしと山形の珍道中が始まることとなった。
 ドストエフスキーが眠る芸術家墓地へ着いてみると、ドストエフスキーの墓の前にだけ人が集まっていた。花束も捧げられていた。わたしは感慨深く、なかなか墓の前に立つことができなかった。ドストエフスキーについてすべてを書き終えたなどと思った自分の傲慢を感じて恥ずかしかった。ソヴィエト旅行はわずか一週間であったが得るところは大きかった。なんか途方もないエネルギーをもらった感じであった。
 帰国してすぐに『罪と罰』論を開始した。わたしにとってドストエフスキーとはどういう存在なのか、そういった根源的な問題を視野において『罪と罰』論を書き進めていった。江川卓氏が「新潮」で「謎とき『罪と罰』」を述載し始めた。この江川氏の評論は〈謎とき〉を全面に押し出したもので毎回興味深かった。長年ドストエフスキーをロシア語で読んできた者ならではの卓見が随所に見られた。わたしは江川氏の〈謎とき〉にも十分に目を配りながら論を進めた。(略)
 この本を出してから長男が病気になり、半年間の入院後、十一歳で他界した。わたしは思うところがあって創林社版の『罪と罰』論のカバー表紙のデザインを変えた。どこをどのように変えたかを、今はまだ言いたくない。創林社版のカバー表紙は色違いを含めると三種類存在する。】(「自著をたどって」より)
  ●チェルノブイリ原子力発電所事故(4月26日)
◎『ドストエフスキーの作品研究』 (6月30日 私家版)A5判・並製三〇三頁 限定三十部 非売品
 ※創林社版『ドストエフスキー罪と罰」』第Ⅰ部に収録した『罪と罰』論の第一章「精神の空白性」から第二十九章「おしまいになってしまった男の信仰」までを一冊にまとめた私家版。
◎『「罪と罰」の脇役達』 (6月30日 私家版)A5判・並製一三二頁 限定三十部 非売品
 ※創林社版『ドストエフスキー罪と罰」』第Ⅱ部に収録した「ルージンをめぐって」「ラズミーヒン論」「『罪と罰』の女性をめぐって」を一冊に纏めた私家版。


一九八七年(昭和62年)38歳
Д文学研究会を発足。主宰者として出版活動を開始する。「Д文学研究会」(デーブンガクケンキュウカイ)とは「ドストエフスキー文学研究会」の意味で「D文学研究会」とも表記する。
○「『罪と罰』キャスト表(清水ゼミ雄志編)」 :「ドストエフスキー研究」5号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「鼎談 ドストエフスキーの現在──『罪と罰』から『白痴』そして未完の『カラマーゾフ』へ──(小沼文彦・江川卓清水正)」 :「江古田文学」12号(5月20日 江古田文学会
◎『死と復活の秘儀──「白痴」の世界』 (10月1日 Д文学研究会)
 A5判・並製一九四頁 限定五十部 非売品
 【『罪と罰』論を書き終え、わたしは次の『白痴』論にとりかかった。が、途中で息子が病に倒れ、わたしは半年間いっさいぺンをとらなかった。風邪で長いこと熱の下がらなかった息子は急性骨髄性白血病と診断された。長男の名前は新人と書いてアラトと読む。『罪と罰』のエピローグに出てくる〈新人〉からとった名前で〈神の国の人〉の意味である。しかし、わたしはその名前を付けたときはそのように解釈していなかった。血で汚れたこの地上の世界を浄化し更新する使命を持った者、すなわち世界が終末を迎えた時に何人か生き残った者として把握していた。
 わたしは病室で息子に「名前変えようか」と言った。息子は無邪気な笑顔で何もかも見透したような眼差しをわたしに向けて「今の名前がいい」と言った。母親が死んだとき、わたしはすべてが許せるような気持ちになった。どんな人間も一度は死ななければならないのだ。どんな人間だって悲しい、淋しい。が、新人のときで違った。悲しみは憤怒となった。】(「自著をたどって」より)
○「第一章 『白痴』へ向けて──純粋の結末」「第二章 ムイシュキンは境を越えてやって来た」 :「江古田文学」13号(10月20日 江古田文学会


一九八八年(昭和63年)39歳 
○「第三章 ИДИОТ・新しい物語」「第四章 ホルバインのキリスト像をめぐって」「第五章 復活したキリストの無力」 :「江古田文学」14号(5月30日 江古田文学会
◎『ドストエフスキー初期作品の世界』 (6月28日 沖積舎)A5判・上製四〇四頁 定価六八〇〇円
 ※「ドストエフスキー──そのディオニュソス的世界」「『貧しき人々』の多視点的考察」「意識空間内分裂者による『分身』解釈」「『プロハルチン氏』をめぐって」「『おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折」「道化が戯れに道化を論ずれ場──『ポルズンコフ』を中心に」「『弱い心』の運命」所収。
【本書は二十二歳から二十九歳までの八年間に書いた初期作品論を一冊に纏めたものである。わたしのドストエフスキー論は雑誌に発表したり、それらを私家版で刊行することが多い。別に特別な理由があるわけではない。ただ単に出版社がつかないだけである。文学作品の批評などは商業的にはまず採算がとれないわけだから、出版社としても積極的に企画して印税まで払って出そうとはしない。一般読者向けに入門書の類を書くなら話は別だが、批評対象の作品に関して好きなように書いたものなど、とにかくびっくりするほど売れないものである。宮沢賢治の場合もそうだが、作家自身の作品は売れても研究書などはほとんど売れない。そこでいつも出版に関して悩むことになる。私家版の場合は極めて限られた人の手にしか渡らない。やはり書いた以上は多くの人に読んでもらいたいと思うのが人情である。
 ドストエフスキーはよく読まれているとは言っても、それは『罪と罰』とか『白痴』とか『悪霊』とか『カラマーゾフの兄弟』といった後期の作品で、初期作品や中期の喜劇的作品などはほとんど読まれていない。ドストエフスキー 研究をライフワークとした小林秀雄からして初期・中期作品を批評の対象とすることはなかった。まあ、『地下生活の手記』については短い批評を書いているが、それも完成された批評ではない。ドストエフスキーの文学を総体的に理解しようとすれば初期・中期の作品を抜かすわけにはいかない。それは今さら言うまでもなく当たり前のことなのだが、日本の文芸評論家は後期の作品にとらわれ、呑み込まれて初期・中期の作品にまで手をつけることができなかった。
 次に小沼文彦、江川卓、木下豊房各氏の惟薦文を引用しておく。
 小沼氏《この作家の初期の作品は後期の大作に幻惑される余り、従来ともすればなおざりにされてきた傾向がありました。しかし初期作品には後期作品に盛られるこの作家ならではの要素がすべて含まれていることから見ても、それでよいはずはありません。さきに「『罪と罰』の世界」でわれわれを瞠目させた清水正氏が、この関門としての独特な世界を解明してくれます。ドストエフスキーの愛読者たるもの決して見のがすわけにはいきますまい。》
 江川氏《清水正さんは、いまの日本でドス卜エフスキーをいちばん突きつめて読んでいる一人です。今度、これまで私家版でしか出ていなかった初期作品論がまとまって出るとのことで、私自身、これらの論稿にみずみずしい刺戟を受けた日身を想起しています。とりわけ、『プロハルチン氏」に〈悪魔に魂を売った道化人形〉の原型を、『おかみさん』に〈胎内復帰願望〉を読みとった手ぎわは、清水さんの若々しい熱気と独創性を感じさせるものでした。》
木下氏《著者によれば、ドストエフスキーの文学は唯一絶対の《我》が崩壊し、意識空間内に分裂した我が織り成すディオニュソス的世界である。著者はバフチンのいわゆるポリフォニー論に示唆を受けつつ、これを作家・作品・読者(評家)の三者の構造に転移し、さらにはそれを著者自身の「ドストエフスキー 体験」として恨底的に自己に引き受けることによって、無数の視点がダイナミックに交錯し交響するディオニュソスドストエフスキー論を見事に完成させた。》】(「自著をたどって」より)
●イラン・イラク戦争終結(8月20日)
◎『死と復活の秘儀──『アンナ・カレーニナ』と『銀河鉄道の夜』の世界──』 (11月15日 Д文学研究会)
 【『アンナ・カレーニナ』論はわたしが初めて書いたトルストイの作品論である。三十代前半までわたしはどうしてもトルストイが読めなかった。ある時、トルストイを読もうと思った。『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』『復活』と読んでいった。『戦争と平和』を読んでいると、まさに現実の世界は小説の中にあり、こちらの現実が虚構に思えた。『アンナ・カレーニナ』はトルストイ作品の中では最もドス卜エフスキーに近い感じがした。ドストエフスキーに憑いている〈或るなにものか〉が『アンナ・カレーニナ』を執筆しているトルストイに憑いたのではないかとさえ思えた。『復活』はその題名に思うところがあり、一番最後に読むことに決めていた。この作品は場面によっては力強いリアリティを無条件に感じたが、〈復活〉という点に関しては余り説得力を感じなかった。
 ドストエフスキーを読み続けていると本当にうんざりするときがある。そこに描かれているのは屋恨裏部屋に閉じこもった観念的な青年ゃ、自意識過剰で気違いじみた小役人や夢想家や犯罪者が蠢いている。ああ、もっと清々しい読後感を覚えるような作品が読みたい。そう思って読んだのがトルストイであった。リョーヴィンが大鎌を振って草を刈る場面が延々と続く。はてしなく続く草原の地平線、巨大な真っ白な入道雲が立ち上がっている── わたしはそれらを眼前に見る思いで、自分もまた大鎌を振っていたかのように汗をかいた。トルストイはただものではない。かつて卜ルストイ山脈の背後にもう一つの未だ全貌を現さない山脈が潜んでいる、それがドストエフスキーの作品群だと言われた時代があった。が、わたしはそれとは反対のことを思った。ドストエフスキーはなんだかんだ言ってもぺテルブルクという都市の作家である。トルストイはロシアとかスラヴといった広大な領域を舞台にした作家である。スケールが違うなという印象は拭いがたい。
『アンナ・カレー ニナ』はまず第一にアンナを中心とした女たちの物語である。飛ぶ女アンナ、飛べない女ドリイ、そしてアンナという魔性の女に翻弄されたキチイの物語である。が、この物語にはアンナの悲しみを理解する人物は登場しなかった。『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナにムイシュキン公爵が現出したようには、アンナの前には誰も現れなかった。わたしはアンナが、その不倫の相手に選んだヴロンスキー青年などより、その夫カレーニンの方がはるかに興味深かった。この論を書いているときもいずれは本格的にカレーニン論を書いてみたいと思っていた。『白痴』でもラゴージンやムイシュキンなどより、ナスターシャの最初の男トーツキイが面白かった。こういったある意味本格的な俗物をドストエフスキーがうまく描いているとは思わない。カレーニンやトーツキイ論を書こうと思っていたが、いたずらに時が過ぎた。
 それにしても、愛する母親アンナを失った息子セリョー ジャの悲しみをどうしたらよかろう。
 わたしが家に帰ると、妻が「唇から血が流れている」と言った。わたしは無意識のうちに唇を噛んで歩いていたのだ。わたしが初めて読んだ宮沢賢治の童話が『銀河鉄道の夜』であった。カムパネルラを失ったジョバンニの慟哭が息子を失ったわたしの慟哭に重なった。
 日大板橋病院の桜並木をわたしは小さな居酒屋のカウンターから眺めていた。闇の中に桜の花びらが怪しく風に舞っていた。その並木道を風車売りの爺さんがリヤカーを引いて歩いていく。リヤカーいっぱいに赤い風車が回っている。白髪の爺さんが腰を曲げて歩いていく。その爺さんの後ろ姿、回る回る赤い赤い風車、怪しく渦を巻いて舞う真っ白な桜、桜、桜……幻か、一瞬自分の目を疑うほどにその光景が鮮やかだった。新人よ、父であるわたしは何もしてやることができない。せめて一分なりとも、せめて一秒なりともおまえのそばにいてやることしかできない。わたしの天使、新人よ、おまえがこの世にわたしの息子として誕生してきたことに感謝する。深酒で酔っぱらって病室に戻り、新人の側に眠る。
 愛する者を失ったときは、愛する者を失ったときは、死ななければならない、死ななければならない、業が深くて死ねなければ、せめて奉仕の気持ちになることです……とうたった詩人がいた。中原中也が息子を亡くしたときの悲しみの歌だ。わたしは怒りに燃えて修羅となった。つばきし、歯ぎしり行き来するわたしは一人の修羅となったのだ。
 愛する者を失った者はどう生きていけばいいのか。奉仕の気持ちを説いた中原中也は自分自身が天折してしまった。『アンナ・カレーニナ』論を書き終えて、わたしがすぐにとりかかったのは『銀河鉄道の夜』論であった。わたしは書くこと、書きつづけることで新人の魂と共にある。『死と復活の秘儀』の二冊は限定五十部・私家版として新人に捧げられた。】
(「自著をたどって」より)



清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


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四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp

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