「日野日出志研究」二号の原稿紹介

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日野日出志『赤い蛇』と見世物小屋の蛇女 
猫蔵
日野日出志の漫画には蛇が似合う。事実、日野の代表的作品に『赤い蛇』というものがある。この作品をはじめ、日野日出志が描く漫画を皮膚感覚で捉えるとすれば、ヌルヌルと湿り気を帯びたぬめりをイメージするのではないか。これはまさしく爬虫類の皮膚を表している。しっとりとした蛇のウロコである。同時に、「赤」は日野の作品においてもっとも頻繁に用いられ、特権的な高みをもつ色であると以前明らかにした。『赤い蛇』の場合、その特権的な色と結び付くことを許されたものこそが、他ならない「蛇」であった。以前に僕は『赤い蛇』について、主に、日野日出志の描く「赤」に焦点を当てて論じた。しかし今回は「蛇」に的を絞り、再度、日野の代表作である『赤い蛇』を捉え直したい。
 まず、僕にとっての「蛇」である。田舎の埼玉といえど、首都圏近郊で生活を営む僕にとって、「蛇」とは恐れの対象でもなければ、ましてや信仰の対象などでもない。言うなれば「芸能」のシンボルであろうか。なぜなら僕にとって「蛇」とは、毎年心待ちにしている高市の興行において、見世物小屋の蛇女が貪り食う、代替不可能な生き物だからである。興行師は「悪食の実見」と称してまだ妙齢の女性に生きたシマヘビを喰わせる。いや、喰わせるというよりも、喰っている女と観ているお客たちを「のせる」と言う方が適切かもしれない。「蛇女」という謎めいた太夫として客の前に立っている以上、女はみずから進んで蛇を貪り食っているのである。興行師は、それを囃し立て、女をその気にさせ、客の興味を引き出すことに努めているに過ぎない。これは紛れもない「興行」なのだ。
 恐怖漫画もそうだが、興行とは、お客にヤバいものや過剰なものを見せる(あるいは意図的に見せない)仕掛けによって成り立っている。つまり、常識では考えられない禁忌を、である。呼び込み役の口上の、「好きで食べるのか病で食べるのか…」「恋も知らねば情けも知らぬ蛇女…」という、ある種古風な説話を思わせる因果な内容とその特異な節回しによって、次第にお客が小屋の周りに集まって来るのだ。僕自身乗せられ易いタイプの人間なので、まだだいぶ小屋から離れた場所からその声が漏れ聞こえてくるだけで、「今年の見世物小屋はどんなだろう?」「蛇女は今年も健在だろうか」と期待に胸を膨らませてゆく。それは、実生活において蛇が身近ではないゆえ、蛇に対するロマンチシズムを失わずにいることも遠因となっているのかもしれない。いずれにせよ、普段僕が「蛇」の神秘性をもっとも感じられる場所はあの見世物小屋の、ややケレン味のある興行空間に他ならず、それゆえ僕にとって「蛇」の神秘性と「芸能」とは切っても切り離せない間柄にある。
『赤い蛇』においても、蛇は物語の鍵を握る存在であった。本編終盤、主人公である「ぼく」の姉の口を裂いて、それまで秘め隠された存在であった「赤い蛇」が「ぼく」の前に姿を現す。そして、蛇の出現と共に姉はその命を落としてしまう。少女の可憐な口唇を突き破り、太い胴の真っ赤な蛇が飛び出してくる。その様は、否が応でもエロチックなものを想起させずにはいられない。赤い蛇をこの世に召喚するためには、見返りとして、主人公の姉の肉体と命を必要とした。
 見世物小屋の蛇女もまた、生きた蛇を食い殺す直前、みずから手にした蛇をさも愛おしそうに愛撫する。赤く長い舌を這わせ、ぺろーりと嘗めるのだ。明らかに、見る者に対してエロチシズムをアピールしている。蛇女と「ぼく」の姉。蛇女が蛇の死と引き換えにその生を際立てるのに対し、姉はみずからの死と引き換えに赤い蛇をこの世へと召喚する。結末こそ真逆ではあるが、いずれも「死」からは逃れられない宿業にあり、蛇に魅入られた存在である。
 改めて捉え直すと、ふたりの女は「赤」という色を欲しており、その「赤」との邂逅が彼女たちの生のクライマックスとなっている。蛇女が着ている衣装は赤の長襦袢であり、前髪を切り揃えたお河童の鬘は、戯画化すればそのまま『赤い蛇』の姉の姿そっくりになる。この姿は、つげ義春の漫画『赤い花』に登場する少女・キクチサヨコにも通じる。その少女めいた容姿に不釣合いな女郎風の長襦袢は、象徴の上においては、少女自身の破瓜の血によって染められたものと捉えることができる。すると、「赤い蛇」によって口唇を突き破られた姉とは、半ば強引に破瓜を経験させられた少女の姿を除いて他に重なり合うイメージは沸いてこない。
『赤い蛇』において、主人公である「ぼく」は、ある日の夜、異変に気づき、姉の寝ている隣部屋を覗く。するとそこには、全身を無数の蛇に這い回られ悶え苦しむ姉の姿があった。「ぼく」は「うわわ」と怯えた素振りを見せる。だが、本編に描き出された絵が、すべて、語り部である「ぼく」自身の肉眼を通して再現されたものであると解釈すれば、蛇に犯される姉の有り様はあまりにも妖艶そのものだといえる。つまり「ぼく」自身、みずからの姉に対し、多少なりとも異性を意識していたことが推察できる。「ぼく」にとって姉はもっとも身近な異性であり、もっとも身近な秘め隠された異界への扉なのである。
 姉の口から這い出た蛇は、執拗に「ぼく」の後を追いかけて来る。そして、とうとう「ぼく」は追いつかれ、太い胴を身体に巻き付かれた挙句、首筋を咬まれ血を吸われてしまう。「ぼく」はその時のことを以下のように回述している。「不思議にぼくは なんの苦痛も感じなかった」「それはむしろ とろとろとまどろむ時の心地良さににていた」。これはなにを意味しているのか。思うに、この場面において遂に、「赤い蛇」と「ぼく」とが一体となったのである。つまり、「赤い蛇」とは、他ならない「ぼく」自身の抑えつけてきた願望なのではないか。
 当初、「ぼく」は「あかずの間」の鏡の扉に人一倍強い関心を抱いていた。鏡でできている以上、その表に映し出されるのは他ならない「ぼく」自身の姿であった。やがてその扉が何者かによって破られ、それ以降、家族たちの悪癖は歯止めが利かなくなり、遂には殺し合いにまで発展する。確かに「ぼく」の家族は誰もが一風変った人たちばかりである。だが、鏡の扉が壊されてからというもの、彼らの異常は度を超えて凄まじくなる。裏を返せば、いかなる家族も外からは窺い知ることのできない複雑な事情を抱えていることに相違ないが、それでも毎日顔を付き合せていれば、それが当り前の日常と化してしまうのである。「赤い蛇」の出現は、その均衡を破った。明確にはされていないものの、「あかずの間」の封印を破ったのが「ぼく」自身であることが仄めかされていることから、心の奥底では、「ぼく」は「赤い蛇」の到来を待ち望んでいたといえよう。
 誰しも、みずからの本心を直視することを厭う傾向にある。なぜなら、本心の指し示すまま行動するとなると、往々にして、これまで培ってきた社会生活を放棄せざるを得なくなるからである。だから、努めて見ないように、あるいは認めないようにする。しかしながら、そうやって生きてゆくこともなかなか容易ではない。抑圧した願望が発酵し、絶えず鈍い痛みを伴うのだ。「ぼく」は「赤い蛇」に執拗に追いかけられるが、とうとう捕まったときの悦楽は換え難いものであろう。愛憎に身を滅ぼしてゆく家族をあざ笑い、その破滅を見届け、ただひとりの姉をみずからの手によって汚す。あまりにも恐ろし過ぎるがゆえに、けっしてみずからの手では実現できない願望の数々。それらは、いまだ“願望”という輪郭さえ伴っていないのかもしれない。「赤い蛇」はそれを具現化してくれる存在であり、「祖父」を頂点とする家族のヒエラルキーを超越している。家族のなかで、年少であり、いまだもっともその立場を確立していない「ぼく」が、「赤い蛇」の出現とその行為の観察を通じて、みずからの秘め隠された願望の輪郭を次第に明確にさせてゆく過程こそが『赤い蛇』の主題なのではないか。“ドラえもん”の秘密道具を借りていじめっ子への仕返しを思い描く“のび太”のように、「ぼく」もまたみずからの内部にあるアナーキーの萌芽を意識せざるを得なくなる。アナーキーとは既存の常識をあざ笑う新たな世界観のことである。力なき芸術があり得ないように、新たな価値観は時としてバイオレンスをも伴う。ただし、バイオレンスそのものが目的ではない。
 蛇女を見よ。神聖な高市の片隅、黒い闇を背に佇む見世物小屋を見よ。その中では今まさに、生きた蛇を喰い千切らんとする「蛇女」の実存が問われている。女が蛇を喰い、にっこりと微笑んだ瞬間、僕は「蛇女」という人智を超えた存在とまさに目の前で対峙することができる。ここに見世物の醍醐味がある。この瞬間、ヒューマニズムという自明にがんじがらめにされた僕の魂の、どこかが反応する。漫画『赤い蛇』において、「赤い蛇」の姿がもっとも際立つ背景もまた、闇の「黒」であったことに注目するべきだ。そう捉え直すと、「赤い蛇」の禍々しさ以上に、黒塗りの闇がもたらす底知れなさの方が遥かに恐ろしく、寄る辺ないもののように見えてくる。見世物小屋の「蛇女」も「赤い蛇」も、いずれも死をもたらす。しかしその到来は、実は、誰かによって待ち望まれるべきものとしてそこにあるのだ。