マルメラードフの告白について

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清水正ドストエフスキーゼミ(第二回課題)

マルメラードフの告白について

マルメラードフの告白について思ったこと

福田 紋子

私が日芸に入学して約二か月が経つだろうか。私は今、最悪なことにマルメラードフの気持ちが徐々にわかり始めてしまっている。
つまり、私は今、駄目人間ライフを送っているということだ。
日芸に入学したての頃は、これから将来に向けてしっかり勉強してやるぞとか、たくさん交友関係増やしてやるぞとか意気込んで、私生活では、自炊、掃除、洗濯とまともな人間の最低限やるべきことはこなして、バイトして少しでもお金を稼ごうなんて目標をたてて希望に満ち溢れていた。
しかし、現実はうまくいかないもんである。
なぜなら人間には怠惰という一面があるからだ。
始めはそこそこ頑張っていたが、今や勉強はそこまで頑張っている風でもないし、交友関係も結構いい加減である。
私生活にいたっては壊滅状態。自炊、掃除、洗濯をほっぽいてすぐに睡眠。
バイトはやりたいといいながら、面接にもいかず実行していない。
つまり、現在の私はぷー太郎ならぬぷー子生活を送っているわけである。
いつからこうなったんだろう、私だってなりたくてこうなったわけじゃない。
こんなむだな暮らしをしてて、私の心が痛まないわけがない。
読み始めた当初はこんな奴にはなりたくないと思っていたマルメラードフの気持ちが今では手に取るようにわかる。なんて悲しいことだろう。でも、皮肉なことにそのおかげでこの話題にはスムーズに感想が書けそうである。
読み始めた当初はマルメラードフにはどちらかといえば嫌悪感を抱いていた私だったが、現在では妙な親しみができて、彼のことをできるだけ理解したいと思った。
マルメラードフは生粋の駄目人間ではあるが、非人情ではないと思う。
確かに、娘に売春させて酒代つくるなんてひどい話だし、嫁さんや子供にも大変な苦労をかけてきたんだろうが、娘や奥さんには尊敬のまなざしをもってはいるし、子供にも教育を教えるなど稼ぎはしていないものの、家族愛は感じられるからである。
彼は本当はいいやつなのだ。でも、人間は怠惰の味を一度知ってしまうとなかなかその甘い蜜から抜け出せないもんだ。彼もたぶんその蜜の中につかってしまっていて、もうどうにもならなかったのだ。だから、酒を飲んで、この堕落しきった現状を語るしかなかったのである。
私もマルメラードフと同じようによく友人にメールなどでだべる。
堕落した生活の悩みをひとりで抱えているとつらいので、誰かに聞いて分かちあいたいからである。友人に話したところで、現状はなにも変わらない場合がほとんどだ。
でも、話さずにはいられない。自分の内で葛藤を続けることは人間の成長には必要だけど、
続けすぎたら、いつか自分を壊してしまう日がくるかもしれないからだ。
そうならないように、適度にぐちは吐き出しておくべきである。
こう考えてみると、居酒屋なんかでのぐちりも自分を保つ為に吐き出しているだけ。そこに悪意はないのである。もし、飲み会で私が何かをぐちっても、大目にみてもらいたいもんである。



マルメラードフについて

櫻井縁

本作を読み始めた当初、私はセミョーン・ザハールイチ・マルメラードフという人物がこうまで物語に大きく絡んでくるキャラクターだとは毛ほども思っておらず、今回の課題が出された時、軽く読み流したことを後悔しながら久々に一巻を手にとって酒場のシーンをしっかり読み直させていただきました。改めて噛み砕いてみると、彼の物語中での登場と退場は予想以上に深い意味を持っていたのではないかと思えてきます。
 二つ前の課題で私は「罪と罰の登場人物は皆いやらしくて好きになれない」といった旨の感想を書きましたが、今回課題としてあげられたセミョーン・ザハールイチ・マルメラードフについてはその限りではありません。むしろ彼に関して言えば“理解しがたい”という方が正しいでしょう。
 私は未青年なので飲酒経験がありません。だからかもしれませんが、金を作ってはすべてを酒につぎ込んでしまう彼の心理が全く理解できません。駄目だとわかっていても堪らずやらかしてしまうことは私にもよくあるので責められた話ではありませんが、しかし彼と私の事情ではいくら何でも規模が違いすぎるのは言うまでもないことです。さらに、よほどどうしようもない人間かと思えば九等官なんて立派な地位に就いていたりするところもますますわからない。ただでさえ貧窮してる中で生活費はおろか妻の記念品やら何やらを質に流してしまったり、あれだけのことをしでかしていっそ詰ってくれた方がいいと嘆いてみたりとやっていることがめちゃくちゃすぎて、もはや好き嫌いの域を越えて彼が物語から退場した今でも私は彼という人間を掴みかねています。
 ただ、それがいいかどうかという話はともかく、マルメラードフ含め彼の一家は作中でもっとも人間らしく・素直に生きている人たちなのだな、とわたしは気づきました。
ロジオン一家や警官連中、あるいはポルフィーリィが計算高く面倒な人たちである一方、酔っぱらい・狂人・信心深い娼婦とてんでバラバラの彼らはなんの裏もなく自らの胸の内を激しく(特にロヂオンに対し)吐露します。それはこの作品において大きな意義を以て、必然的に作られたものではないかと私は読みました(既出の研究結果でしたら恐縮です)。
そして私自身は好きでも嫌いでもない彼らは、きっと本来はまごうことなき良い人であったんだろうなとも思います。酒に溺れたマルメラードフも、夫の死をきっかけについに完全に狂人と化してしまったカテリーナも、身体を売らざるをえなかったソーニャも――それこそマルメラードフの言う「貧乏のどん底」でさえなければ、あるいはそれぞれの人となりも、家族の運命も、いくらか変わっていたのかもしれません。

今読み返せば、ラスコーリニコフがソーニャに自らの罪を“告白”したのも、マルメラードフの“告白”が影響しているのかもしれない、と先ほどふと思いつきました。終始、それこそ死ぬ瞬間まで懺悔に執着した彼の姿は、明確には描写されてはいませんでしたがラスコーリニコフの深層心理に一本のとげを残していったのではないでしょうか。

マルメラードフの告白について

篠原 萌

 はっきり言って、私はマルメラードフという男が理解できない。とんでもない
奴である。なぜ小さな子がいるのに仕事を放り出して逃げ出したのだろう。子供
の生活が目に見えて大変になるだろうということはわかっているだろうに。その
上、娘からお金をもらって酒を飲んでいるのも気に入らない。娘がその父親を叱
りつけずにお金を渡すのもよくわからない。父親が大事なのは勿論わかる。家族
が大事だからこそ、体を売る仕事をしているのだろう。だが、そのお金は父親の
酒に使われるべきものなのだろうか。断ることも愛情だと思う。子供を叩くカチ
ェリーナが本当に育ちが良いのかというのも疑問に思うし、私からすれば何だか
理解できない家族だなといった印象である。
 マルメラードフの何が一番わからないか。それは酒場での告白である。なぜラ
スコーリニコフに今までのいきさつを話したのだろうか。開き直り、自暴自棄、
それとも贖罪のつもりだろうか。他人に話して、それで何が変わるというのだろ
う。少々スッキリするのだろうか。そんなのはただの自己満足であって、自分の
行いが許されたわけではない。
 私は自分の過去の暗い心境というものを話すのが物凄く苦手な人間である。今
まで20年近く生きてきたので、確かに何回か嫌な目にあったこともある。だけ
ど「中学生の時にこういうことがあって、こういうのが嫌で、こういう気持ちで
」だとか、「高校生の時にこういうことされて、それでこうなって」だとか話そ
うとは思わないのである。話しても昔に起こった出来事は変わらないし、気持ち
が楽になるわけでもないからだ。「私は昔の嫌なことを話すのが苦手だ」という
ことに気が付くまで、他の人に話しては「話さなければよかった」と自己嫌悪に
陥る日々を繰り返していたのである。
 だから演説のように話すラスコーリニコフが理解できないのである。私なら決
してそのようなことはしないからだ。きっと自分のしたことを後悔して、恥ずか
しくて必死で隠し通すだろう。どこか遠く、決して家族には会わない場所へと逃
げるかもしれない。そこで何食わぬ顔で新しい人生を始めるのである。自分の行
いを告白するなんてとんでもない。墓場まで持っていくだろう。こうして考えて
みると、私の行動も大概ひどいものだ。ラスコーリニコフのことは気に入らない
が、私が笑える立場に立っているわけでもないということはわかる。
 なぜラスコーリニコフは私の考えのように逃げ出さずに、酒場で飲んだくれて
いたのだろう。私の想像でしかないが、きっと許されたかったのだろう。自分の
行いを後悔しているということは伝わってくる。だが、問題は許されるかどうか
である。自分が許されたくても、相手が許さないのなら意味がない。元々崩れか
けていた家庭が、マルメラードフの行動によって粉々になってしまった。彼の行
動は理解できないし、許されるものでもないと思う。私はマルメラードフのよう
にはなりたくない。彼を笑って「最低だ」と言える立場でもないけれど、出来る
限り彼より高い位置に立っていたいのである。


マルメラードフの告白について

結城花香

私は第一回の課題、「ロジオンと私」でロジオンと浪人生だった頃の私の類似点について論じた。それは「ただ幸せになりたいのに上手く立ち回れない」という感情についてだったが、マルメラードフもまた、その感情に飲まれた人間であり私と似ている。彼は、元は社会的に高い地位である官吏であり、本来は裕福な家庭を持ち幸せに暮らしているはずだった。しかし欲に飲まれ全てを失い、家族への罪の意識を高めることで自分を罰しようとした。それは絶対に良い選択ではないのにだ。マルメラードフ自身も心のどこかでそのことは分かっていたのではないか。それでも毎日酒を飲んでいた、彼もまた病魔に飲み込まれたロジオンと同様酒に思考を麻痺させられていたのだろう。
 高校の頃の私は、決して成績が悪くはなかったと思う。平和ボケした私に見える世界は、とても狭いものだったのでそう思い込んだ。受験勉強は辛いだろうけど、自分にはずっと机に向かい集中することなんて容易だと思っていた。浪人してからも。もう絶対に失敗出来ない、受からなきゃいけないと思っていながらも、思うように実力を実感出来ない自分はもう一度失敗して罪悪感に苛まれればいいと、心のどこかで思っていた。第一志望に受からなくても、その罪悪感でもう一度心を洗って、高校の頃のように真っ直ぐな自分に戻れば良いのだと。しかしそれで良いはずが無いと、本当は分かっていた。なのに、全てが砂を噛むように上手くいかずあらゆる感情で元々薄っぺらな神経をすり減らしていた私の脳もまた、飲まれてしまっていたのだ。自分の中で抱えきれないほど大きくなった甘えにだ。
私はどうにか受験校の一つに合格し、そういった感情から分化することが出来たがマルメラードフはどうだろう。彼は死ぬ間際、みすぼらしい姿の妻や娘たちを目にして自分のしていたことが違いであったと感じたのであろうか。仮に彼が一命を取り留め馬に蹴られる前のように健常な体に戻れたのなら、官吏ではなくとも社会に復帰し、酒に飲まれることもなく家族を養い幸せにする努力をしたのだろうか。何事にも同調し美化して考えようとする私はハッピーエンドを望むが、これは世の中のどんな出来事にももちろんのこと、全ての人間にとってのハッピーエンドは存在し得ない。正義が勝てば悪は負けを見る。殊に人間の業を描いた「罪と罰」では、主人公であるロジオンは最終的に人間回復することが出来たが、マルメラードフはそれが出来なかった人物として人間回復への強烈な願望を際立たせる役目を持っている。
私が現在通っているこの大学の受験日の面接で、私は全く上手く話すことが出来なかった。浪人してから一年近くが立ち、もう大丈夫だと信じていただけに費やした時間と自分の卑小さを実感するとたまらなく、二度目で駄目なら一生変われないのではないかと思うと消えて無くなりたくなった。全ての志望校の受験を終えた私は、(決して二浪するという意味ではなく)「二度目で駄目でも三度目で出来るかもしれない」と気持ちを持ち直すことが出来た。
私が経験したことは「人間回復」と呼ぶにはあまりに小さなことかもしれないが、私よりも遙かに成熟した大人でありながら回復することが出来なかったマルメラードフは、現状が悪いものだと分かっていながらどうあっても変われない人間の業を象徴した人物であろう。そういう人間は時に防衛本能が働いて、自分を美化して考える。誰かに自分のことを知って、理解してほしくなるのだ。
マルメラードフの告白は人間のそういう行為をそのまま表している。調度、今の私が浪人したということを一つのアイデンティティのように感じてしまっているのと同じに。


薬は毒に変わるのか

斉藤有美

この文章を今読んでいる人は、お酒を飲んだ事があるだろうか。私は小学校の頃父が残していたビールを間違って飲んでしまって以来、全く縁がない。同じコップに入っていたからだと思うが、口にした瞬間に広がったあの苦味は今でも覚えている。大人が美味しいと言うのをよく耳にしたが麦茶だと信じて飲んだ私にしてみれば苦過ぎたため、美味しいどころか驚きしか感じなかった。それからお酒にはあまり良いイメージがない。
だからなのか、最初にマルメラードフの告白のシーンを読んだときに私は彼を好きになれそうもなかった。家族が飢えているにもかかわらず、自分はお酒を飲んでいるのだ。私の父もよくお酒を飲んでいるがきちんと仕事をしている。家族の誰よりも早くに家を出て、一番遅くに帰ってくる。家でも仕事をする姿を私は小さい頃からよく見ていた。こうして私が今大学に通う事が出来るのも父のおかげであり、とても感謝している。だがマルメラードフは違う。仕事もせずに家のお金をお酒に変えてしまうのだ。子供が4人もいて、奥さんは病気なのに。私だったらこんな父親は嫌だ。だから彼がカチェリーナに暴力を振るわれても可哀想だとは思えなかったし、むしろ当然の報いだと思った。今回清水先生にマルメラードフの告白についての課題が出た時は正直なところ戸惑ったし、書く事も特になかった。あまりにも書く事がなかったので、私はここのシーンを読み返してみた。そして感じたことをこれから書こうと思う。
最初に感じた事はやはりマルメラードフに対する嫌悪感だ。定員改正によってクビなり、お酒に手を出した時はまだ彼の気持ちも分かる。自分の義務を忠実に、後生大事に果たすために頑張っていたのならこれは理不尽だ。お酒に手を出したくもなるだろう。自分は悪くないのにクビになったのは可哀想かもしれない。だがそれにも限度がある。彼には家族がいるのだから、いつまでも嘆いてないで早く次の仕事を探すべきではないのか。いつまでもグダグダとお酒におぼれ、家族に迷惑をかけるのは間違っている。自分の娘に黄色い鑑札で暮らしを立てさせるまで仕事を求めに行かない姿に私は怒りを感じた。自分の妻の靴下や襟巻を売ったお金でお酒を飲むことで、自分の無力さと家族に苦労を掛ける悲しみや苦しみを見出そうとする暇があるならどうして仕事を探さないのか。苦痛が快楽だと言うならばなぜ仕事をして誰よりも苦しもうとしないのか。今のところ学生である私には分からない。仕事をせずに落ちぶれた自分を演出して家族が可哀想である事を周囲にアピールしたいのかもしれないが、だとしたらそんな彼の自己満足はカチェリーナ達には関係ないし、むしろ収入がないのだからいい迷惑である。
苦痛を「か・い・ら・く」と強調する彼の様子は、自己暗示をかけているようだと始めは思った。妻からの暴力は辛いけれど快楽であると自分に言い聞かせていく事で痛みを紛らわせようとし、現実逃避をしようとしているのだと。だが読み返した時、別の考えが生まれた。彼は本当に快楽を感じていたのかもしれない、と。始めに述べたように、私はマルメラードフのような父親は嫌だ。それは夫だとしても変わらない。家から出ていきたいだろうし、結婚した事を悔やんでしまうと思う。だがカチェリーナは違う。出ていくためのお金がないからだと思うが、暴力をふるっていたとしても今も変わらず子供とともに家にいる。もしかすると家族が家にいる状況そのものが彼の喜びなのではないだろうか。自分がどんなに落ちぶれたとしても家には妻と子供がいる。話し相手のいない一人ぼっちの生活はおそらく私が考える以上に辛いものだろう。暴力をふるわれる事で自分が一人ではない事を確認できるのだとしたら、それは彼にとって快楽なのかもしれない。だからといって家族の人生を犠牲にしていいわけではない。妻がどんなに忙しくしていても、娘が必死で家族を支えてきた時でさえ酔っぱらって寝ていたマルメラードフは馬車に轢かれてやっと酔いがさめたのか、瀕死の状態でカチェリーナに赦しを乞おうとしている。馬車に飛び込んだのが故意だったにせよ、正気を失うほど酔っていたにせよ、赦しを乞うのなら死ぬ直前ではなくもっと早くに行動すべきではないかと私は思う。死んでしまってはそれこそカチェリーナの言う通り子供たちはどうなるのだ。明日の食べる物を調達する事でさえ困難な生活を家族にさせて、自分は赦しを求めてあっさり死んで行くのはあまりに自分勝手ではないだろうか。
何が彼らの人生をここまでボロボロにしたのかと問われたならば、私はマルメラードフをガラリと変えたお酒の誘惑ではないかと思う。気つけや料理を始め、使いようによっては沢山の人の薬となっているお酒だが飲み過ぎるとマルメラードフのように人生がボロボロになってしまう。いわば両刃の剣なのだ。急性アルコール中毒のようにお酒によって命を落としてしまう事もある。私は禁酒をすすめているわけではないが、マルメラードフの人生を反面教師として私達は限度を見極め行動していかないといけないのかもしれない。