平成28年度、清水・ドストエフスキーゼミ課題レポートより(連載1)

今年は宮沢賢治生誕百二十周年にあたる。今まで単行本に収録していない千五百枚強の賢治童話論
を刊行することにした。『清水正宮沢賢治論全集』第二巻として今年中に刊行する予定で準備に入った。現在、校正中。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

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京都造形芸術大学マンガ学科特別講義(2012年6月24日公開)
ドラえもん」とつげ義春の「チーコ」を講義

https://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg

清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
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四六判並製160頁 定価1200円+税

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ソーニャについて
  霞由利菜



平成28年度、清水・ドストエフスキーゼミ課題レポートより



 ソーニャは家族のために自分の身体を売って生きている。そしてその穏やかとはいえない生活にも、それを催促した周囲の人間にも、ソーニャは怒りや憎しみを露わにすることなく、それどころか寛容な態度を示している。このことについては、罪と罰におけるドストエフスキーの、ソーニャに対する絶対的な人物像を位置づけるためのものだと推測することができる。つまりソーニャは、自身の身体が穢れていてもその心は以前無垢であり、少女という言葉が当てはめられるほどに純真なのだ。ソーニャはこの物語において、周囲にあたたかな白い光を灯す役割を担っているのだと思う。
 わたしは、そんなソーニャが羨ましかった。彼女は本来、羨ましがられるような境遇に生きてはいないが、わたしは頭を抱えたくなるほどの羨望を彼女に向けていたと思う。わたしは、恵まれた日常に「こわい」と感じる。帰ることのできるあたたかい家があって、生活に困らない程度にはお金があって、親や周りの人間がわたしの幸せを見つめてくれている。ありがたいことだということは自覚している。しかし、だからこそ辛い時があるのだ。見つめていられるのが苦痛でたまらない時がある。わたしのことなど放っておいてほしい、そうでなければわたしから全てを放ってしまいたいと思う時が。だったら初めから恵まれた日常に身を置かずに、劣悪な環境で生きていたいと考えてしまうのだ。こんなわたしはいっそのこと、親に捨てられたかった、ろくな教育を受けたくなかった、幼いうちに不運な事故にでも合いたかった。こんなにも、愛されるべきではなかった。わたしは家族や、あるいは他の誰かのために身体や心や、他のなにか大切なものを売って生きるくらいが丁度いいのかもしれない。何故だかは自分でもまだ分からないが、わたしは自分がいたって普通に安定した場所で生きていると常に息苦しさを覚えるし、幸福を感じた時にはほとんど同時に罪悪感、罪の意識が沸き起こるのだ。
しかし、この考えはただ自己犠牲なんてキレイなものではなく、「逃げ」だということもわたしは知っている。つまり、わたしは言い訳がほしいのだ。きちんとした人生の過程の中で、それなのにきちんと生きられない自分に、逃げ道があったらどんなに気が楽だろうと。それならば仕方がない、とわたしの無力さを見逃してくれる何かに期待してしまう暗愚な思考がよく分かる。この考えは、実際にそういった家庭環境や事故に合われた方に対して非常に失礼にあたるということも分かっている。けれど、それでもわたしは上に述べてきたような考えをいまだに変えることなく持っている。
ソーニャは周囲の人間からみたら望まれない、恥ずかしむべき環境の中で生きているにも関わらず、その顔に苦悶の表情を露わにしたり、誰かに冷たく当たったりすることもない。まさにけなげで可哀そうな女性である。わたしはソーニャの姿を思い浮かべると、白い花が連想される。ソーニャ自身は穢れてしまっていても、その内面は彼女が本来持つ純真さがうかがえるからだ。もしくは、そうでなければわたしと同じで、自分が恵まれない境遇にいて可哀そうな人間だということに安心感を覚えているのだろうか。少なくとも罪と罰の本文からはそこまで彼女の深いところまで考察することができない。彼女もまた、自分を大切に出来ない女の子なのだろうか。いずれにせよ、いつか彼女は耐えられなくなる時が来ると思う。ふと我に返って、思い返して、もううんざりだ、わたしはわたしに生きさせてほしいと思うだろう。
 また、ソーニャの父親であるマルメラードフは、働きもせずに酒に飲んだくれる堕落した男である。マルメラードフは自分がろくにお金を稼いでいないために自身の身体を売っている娘を見て、どう思っただろうか。いや、自分の娘を見るということは、自分がどれだけひどい状況を生み出しているのかということを真っ向から見ることであるために、マルメラードフはソーニャを見ていなかったかもしれない。ソーニャがいつ全てを投げ出し、自分の家庭が今度こそ崩壊することにおびえながら、けれど現実を映した被写体である娘を直視できなかっただろう。ソーニャが弱音や愚痴を吐かずに働き続ける様は、周囲に不満をまき散らし泣きわめくよりも効果的にマルメラードフの精神に罪悪感を呼び起こしたかもしれない。
 この物語におけるソーニャの健気なキャラクター性は、読者の心に悲哀や道徳心を催促させたかもしれない。もしソーニャが別の家の子供として生まれ生きていたら、彼女は今と同様に優しくひたむきに、悲しみを隠して生きていただろうか。今よりも、より一層幸せに笑って生きていただろうか。それともこのように彼女が儚く輝いて見えるのは、この恵まれない環境ありきなのかもしれない。いずれにせよソーニャは、周囲にたくさんいる罪や罰を背負った人間のその罪の深さ、罰の重さを一層際立たせていると思った。