荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載47)

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荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載47)

山野一
「消えた天才漫画家の復活を再び祈る」(その⑪)

●エリ子、神様になります!

まずは、病人、怪我人、不自由な人たちが多いだろうと思われる病院に勤めようとするエリ子だが、看護学校も卒業していなく、何の資格も持っていない為、そこはあっさりと不採用になる。
病院でも、触れるだけで病人たちの患部を癒すエリ子の能力を発揮するが、同時に、その病人たちの邪な考えも瞬時に読めてしまうエリ子は、この世には悪意だけが蔓延り氾濫していると、息苦しさを感じるのだ。

病院の帰りに、風俗店のキャッチに捕まるエリ子は、その強引な勧誘を断る為に念力を使い、キャッチの男を跳ね飛ばしてしまう。
偶然、その場に通りかかった白髪の老紳士「宗教法人大日本まごころ教団」の理事「佐伯博文」は、エリ子の持つ素晴らしい能力を一瞬で見抜き、エリ子に、教団で働くように誘う。この佐伯も、自らの盲目を補う為に、エリ子と同じ特殊な能力が身に付いている。その為か、エリ子も、この老紳士の心だけは読めなかった。

そして、佐伯に誘われるがまま教団の本部に赴くエリ子であるが、そこで、教団を代表する巫女「吉川つる」の説法を見る。エリ子は、このつるが、傲慢、残忍、淫蕩、狂気と、濁った情念しかない事を一瞬で見抜く。
また、つるも、説法に参列するエリ子の能力に気付き、「わらわを蔑ろにする不埒者」と、敵意と憎悪の塊、地獄の業火を吐き、攻撃をする。エリ子は全身に結界を張り、その業火を跳ね返し、逆につるの方が火達磨になってしまう。

佐伯は、ここぞとばかり、すかさずエリ子を祭り上げる。エリ子こそ、我々の新しい神であると。つるは、神の依代である事をいい事に、私利私欲を貪っていたと言う。もはや、この教団の指導者としては失格であったのだ。佐伯は、つるに代わる新しい指導者を探していたのであった。エリ子との出会いは、佐伯にとって渡りに船だったのだ。

その頃、つるは、手下の四ツ子の美少女に全身を舐めさせ、エリ子への復讐に燃えるのだ。

佐伯は、エリ子の支度金一億円をまさえの前に積み、家族ごと教団の敷地内に転居して欲しいと頭を下げる。強欲なまさえが、その誘いを断る訳もなく、岸本家は教団に転居、エリ子は、教団の新しい神となるのだ。

つるは、神としての全ての特権を剥奪され、教団の敷地から立ち退きを通告される。最後の最後に、つるに忠誠心を誓う親衛隊を動かし抵抗するが、それも敢え無く取り押さえられる。またその親衛隊も、エリ子の能力以前に、その慈悲深い心に打たれ、エリ子に寝返ってしまうのだ。已む無く、つるは、手下の四ツ子の美少女を連れ、教団を後にする。

そうしてエリ子は、50万人の信者を抱える巨大新興宗教の生き神様となった訳だが、同じくその頃、もう一方のエリ子、業の深い方のエリ子はと言うと、山々に囲まれ、空中に浮遊する神殿で、シヴァ神を前に、塩せんべいを肴に日本酒を煽る。退屈で仕方がない、と言った様子である。

エリ子は、暇を弄び、これも酒の肴に、シヴァ神に話しかける。この、エリ子とシヴァ神との会話、ここに神の本来の姿があり、宇宙の真理がある。これこそ山野一が拘り続けて来たヒンドゥ教そのものであり、この「どぶさらい劇場」の主題でもあるのだ。ここで、その全文を紹介しよう。

エリ子「なんかこう、神様らしい事とかやってみれば」
シヴァ神「神様らしい事とは何か?」
エリ子「そーねー例えば悪徳政治家に天誅を加えるとか、アフリカとかの食うや食わずの餓鬼どもに食い物をめぐんでやるとかア」
シヴァ神「神はそのような事はしない、おまえは神というものを誤解している。そもそも道徳とか慈善などという福留の顔みたいな低俗な理念で神が動くと考えるのは間違いだ」
エリ子「へえーほーなの」
シヴァ神「善―悪・正―不正・美―醜・愚―賢、これらの言葉によって示される価値概念は人間が勝手に定めたものであり、神はこれに関知しない、どちらかが他の一方より望ましいということはないのだ。神とは完全なもの・・・自分が創造した世界に罰や救済という形で介入し修正しなければならないとすれば、それはもはや神とはいえない。世界で起こるすべてのことは必然・・・たとえそれが人間にとって理不尽で受け入れ難いものであるとしても」

もし、この「山野一論」で初めてヒンドゥ教に触れた者が居るとすれば、これは中々に響く言葉ではないか。成る程、ご尤もである。現在、世界中に蔓延るせっせと布教活動に励む宗教の数々、それらが崇める神々は、シヴァ神に比べて何と威厳のない事か。それらが、絶対的な神ではないと証明しているようなものである。少なくとも、神であれば、人間の下に降り立ち「悔い改めよ」と強制したりしないのだ、売れないセールスマンではないのだから。

エリ子「でエ、神って何なわけ、何のためにいるわけ?」
シヴァ神「神とは宇宙のすべてを内包するものである。宇宙の総体と言ってもいい。あらゆる要素をすべてのみ込んでいるためにそれ自体意思も目的も持たない。ただ虚無の中に存在するのみ」
エリ子「ふうーん・・・じゃあ宇宙って何よ?」
シヴァ神「その答えは無数にあるが、その一つはおまえだ」
エリ子「私?私が宇宙だって言うの?」
シヴァ神「そう・・・神(ブラフマン)は宇宙のあらゆる部分(アートマン)を内包している。そして同時にあらゆる部分はその内に神を有している。というわけで宇宙の構成要素の一つであるおまえの中にも全きブラフマンが存在している事になる」

ヒンドゥ教徒は自我(アートマン)を宇宙(ブラフマン)の一部と考え神との一体化を志し、仏教徒は宇宙を自我の中にあるものと認識し、その寂滅を目的とした。両者は二千数百年もの間論争し続けたが、実は同じ真実を違った視点から捉えていたに過ぎない。原因は内と外と言う、三次元的思考を脱却出来なかった事にある。

これは、山野一の哲学、宇宙論である。「どぶさらい劇場」論の冒頭に書いた通り、初出はグラビア系情報誌「スコラ」の姉妹誌「コミックスコラ」である。どちらかと言えばエロ色の強い成年誌だ。その為に、むやみやたらにセックスシーン、ヌード、局部のアップが登場するが、山野一の真意はここにあるのだ。

シヴァ神との対話に辟易するエリ子は、何とかこの神殿からの脱出を図る。ここが実体のない世界である事ぐらいは理解出来るエリ子は、勇気を振り絞って空中神殿から飛び降りるのだ。

エリ子が落ちたのは、草木が生い茂げ、美しい湖、四方を霊峰に囲まれた言わば楽園のような土地である。湖に魚は泳ぎ、空には鳥が飛ぶ。
そこで、一人の美少年が猫と虎の合いの子のような動物に襲われるのを助けたエリ子は、早速その美少年の性器を貪り、無理矢理性交する。それでも物足りないエリ子の表情は、益々業に満ちて来るのだ。

ここまでを第三部としよう。この「どぶさらい劇場」で、最も重要な部分であろう。業に満ち満ちたエリ子と、シヴァ神との会話は秀悦だ。漫才のように軽妙なのだが、本質を抉っている。
一通り神、宇宙の説明をするシヴァ神であるが、エリ子の事なんぞはお見通しである。
「まあそのよーに業が深くては何もわかるまい・・・何も・・・」と呟くシヴァ神に「あんたねえ、何かと言えば業がどーとか言うけど、そもそも業って何なわけ?」と食いつくエリ子。「業を捏ねて作ったような人間に業とは何かを教えるのは、粘土の人形に粘土とは何かを理解させるより難しいな」と突き放すシヴァ神である。この会話の絶妙さ。業に満ちた大富豪の我侭なお嬢様と宇宙の真理との会話なのだ。まともに通じる訳もないが、ここでシヴァ神の語る事は間違いなく真理である。

第四部はこの壮大なストーリーのクライマックスである。神となった光のエリ子、業の塊である闇のエリ子、ドラッグ、宇宙、虚無、全ての要素が交錯し、絶望のクライマックスを迎えるのだ。
このエンディングは、「悪魔」、「人間」、そして「神」の葛藤をバイオレンスに描いた「永井豪」の、戦後漫画史の金字塔「デビルマン」をも揺るがし、超越する。