どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載20)





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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載20)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


落語は人間の業の肯定

落語の歴史は古いから、一つの咄を最初につくった者が誰なのか不明なものが多い。従って著作権だの二次創作はけしからんなどという厄介な問題はない。落語家は誰でも自由に既存の落語を再構築することができる。落語テキストはそれを演ずる落語家の数だけ存在することになるし、談志のように常に再構築化をはかるような落語家もいる。創作落語も盛んで2001年3月9日 含笑寺で「圓窓五百噺を聴く会」500席を達成した六代目三遊亭圓窓のような落語家もいる。
 談志は落語は人間の業の肯定だと言った。業というからには、要するに人間のすべての側面を認めるということだ。人間などというものはまったくどうしようもない生き物で、卑劣、卑怯、嫉妬、憎悪、欲望から抜け出せた者などいない。どんなに修行を積んだって聖人になどなれるものではない。ドストエフスキーは人間はすべて卑劣漢だと言った。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老でさえ卑劣漢だったということだ。
 ドストエフスキーは最後の未完の長編小説の最後を、アリョーシャを囲んだ子供たちの「カラマーゾフばんざい」の合唱で幕を下ろした。いろいろ解釈はできるが、要するに善も悪も含めてすべてを肯定するということだ。ニーチェアポロンディオニュソスを包むところの大いなるディオニュソスと言った。これも全世界の肯定だ。キリスト教のアーメンもまた神の意志の肯定だ。諦念も肯定だ。創世の場に立ち会ったわけでもない人間は、わけもわからずこの世に生まれ、そして死んでいかなければならない。中世ペルシャの詩人オマルハイヤームはこんな悲しみの多い人生は眠るか酔うかして過ごしたらよかろうとうそぶいた。わたしは、とりあえず、祈るか諦めるしかなかろう、と言っておこう。
 ソポクレスは『オイディプス王』の主人公を通して運命と意志の相克を描いた。オイディプスアポロンの神から父を殺し、母と臥所を共にするという呪われた運命を告げられ、その運命から必死の逃亡をはかるが、しかし運命の網の目から逃れることはできなかった。絶対不動の運命を神が定めたのだとすれば、もはやこの時点で人間の意志もまた運命に組み込まれていたことになる。神の予定表から、人間が逃れることができるのだとすれば、神はただちにその絶対性を喪失することになる。神が相対化されれば、もはや神は二度と再び絶対性を獲得することはできない。
 『オイディプス王』において神はアポロンしか登場しなかった。神々のうちの一神でしかないアポロンに絶対紳のごとき振る舞いをさせているのは作者ソポクレスで、それなら作者ソポクレスは神アポロンより優越しているのかとさえ思ってしまう。神が聖典や作品に書かれたものであるなら、書いた作者が神の創造者ではないのかとさえ思うが、それでは神の絶対性を保持できないので、聖典の場合は、神が作者を通して己の存在を示したのだということになっている。
 神の絶対性を相対化ないしはなし崩しにしてしまう者は神を冒涜する者として徹底的に罰せられることになる。ソポクレスは『オイディプス王』にゼウスの神を登場させて、アポロンの神を相対化するような〈暴挙〉をはかることはない。が、アポロンの神殿に捧げられた奉納劇『オイディプス王』において、ソポクレスこそがデモーニッシュな創作衝動に駆られていたことは確かである。いずれにせよ、ソポクレスのような悲劇作家は神の畏るべき領域に限りなく近づいていくことを避けることはできないのである。
 




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