『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第八回)

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本
平成22年9月11日(土曜)執筆
 9月3日(金曜)は六時起床。川沿いを二十分ほど散歩して、七時朝食。八時半ロビー。八時五十分、屋久島交通タクシーの鎌田敏治さんのガイドつき運転で安房方面へと向かう。九時十分に「屋久島森林管理署 安房貯木土場」に着く。かつては営林署と呼ばれていた所で、運びこまれた土埋木が積まれていた。土埋木は三百年以上たっても腐らないと言われているが、染み込んだ雨が樹木の中心部を少しずつ溶かすということで、積まれた土埋木の中心は空洞になっているものが大半であった。今は屋久杉の伐採は禁じられており、もっぱら工芸品用に土埋木が使われている。伐採が盛んであった頃は、正目のいい平木が重宝され、こぶがあったり、不細工なものはそのまま打ち捨てられていたが、今では森の中に放置されていた土埋木の方が高価なものになっている。鎌田さんの話を聞きながら、土埋木も人間も同じようなものだなと思った。時流に乗って生きる者もあれば、一見、時代の波に乗り遅れているかに見えて、死後、名声を高める者もある。
 蒲田さんは昭和二十四年十一月、屋久島の南部に五人兄弟の長男として生まれ、しばらく東京にいたが帰郷して今の仕事についているということであった。子供の頃は曲がりくねった砂利道で、裸足で駆け回っていた。靴は年に一度、正月の時に買ってもらった。わざと水たまりに入ったり、蜂の巣にわざと石を投げたりして怒った蜂に追いかけられたりした。小学校では一クラス三十何人で二クラスあった。今は一クラス十何人になった。昭和三十年頃、屋久島の人口は二万五千人、今は一万四千人、長男は屋久島に戻って来るが、ほかの子供は都会に出て二度と戻ってくることはないという。 鎌田さんとわたしは同じ年に生まれた。屋久島と千葉の我孫子の違いはあっても、同じ時代を生きて還暦を迎えた者同士として理屈を越えて分かりあえるものがあった。

田代別館を出て朝の六時過ぎ散歩。すばらしい風景、さわやかな空気。生き返ったような気分を満喫。屋久島宮之浦の光景を楽しんでください。










屋久島森林管理署(営林署)の安房貯木土場で蒲田さんの解説を聞く