『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第十回)

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本

 再び車に乗り、屋久島山荘を左手に見ながら安房川橋を渡り、右にまわってあんぼう大橋を通ってすぐに屋久島電工ロッコ発着場へと着いた。かつては安房川沿いにずっとトロッコの軌道が敷かれていたそうだが、今はここから縄文杉にまで続く軌道が登山道となっている。林芙美子はこのトロッコに乗った体験をもとに、富岡兼吾が小杉谷の営林署に向かう場面を生き生きと描いている。
 車を降りて軌道に足を踏み入れると、すぐに宮之浦の道路脇の崖で見かけた赤いカニが、ここでも全身を緊張感漲らせて身構える。屋久島出身の蒲田さんはこのカニを食したことはなかったということであった。わたしは鬱蒼とした樹木に囲まれたトロッコの軌道を一歩一歩踏みしめながら、六十年前、林芙美子がこの軌道をトロッコで登っていった時に想いを馳せた。どこまでも歩いていきたい気持ちに駆られる道である。
 林芙美子は「屋久島紀行」でトロッコに乗った時の体験を次のように書いている。

  トロッコの支度はなかなか出来ないとみえて、私は待ちくたびれてしまった。鹿児島を隔たること九十七里、東西六里、南北三里二十七町のこの山深い島に、私はいまぼんやり渡って来たのだ。寒いせいか、店先の火鉢に蠅がゴマを撒いたようにぴっちりとまっている。スケッチをするつもりだったが、熱っぽくて何事にも興味がない。
  やがて二時間ばかりして、やっと私達は、丘の上のトロッコの乗り場から、機関車のついたトロッコに乗った。小杉谷まで行くには、どうしても山の中で一泊しなければならないというので、途中の大忠岳まで行くことにした。私は機関車の運転台に乗せて貰った。機関車は、トロッコを四輌ばかりつけていた。山への荷物が載っている。断崖の狭い道に敷いたレールの上を、ごうごうと機関車は音をたてて登った。鬱蒼とした山肌は時々、真紅な煉瓦色をしていた。ヘゴと言う、大きな羊歯の一種が繁っていた。つわぶき、鬼あざみ、山うどが眼につく。右手の川底の安房の町がだんだん小さく消えてゆく。吊橋も小指ほどに見える。トロッコは荷物と沢山の山行きの人達をのせて、断崖の上を走っている。雨が降ったりやんだりした。

  一時間くらいして、トロッコはやっと、大忠岳の峠へ着いた。軒のかたむいた山小屋の前でトロッコを降りる。山小舎には誰も住んでいないのかと思ったら、安房の町で、後のトロッコに乗った、子供づれの細君が、その山小舎の戸を開けてはいった。私も雨やどりをさせて貰う。女の人はまだ若い。すぐ、子供を降して炉に火を炊いてくれた。がらんとした板壁の暗い部屋である。まだ十日ばかり前に宮崎からこゝへ来たばかりで、御主人は石切りを仕事にしている人だそうだ。子供は素朴な木裂に車をつけた玩具で遊んでいる。
  こゝで、一台のトロッコを残して貰った。徳川さんは、紺のレインハットに、ゲートルに地下足袋のいでたちで、私の乗っていた座席へ転り、雨の中を私達の乗って来た機関車は小杉谷へ登って行った。小杉谷へ行ってみたかったが、寒さがきびしいと聞き、肺炎にでもなっては災難だと、そのまゝトロッコに乗って山を降りることにした。畳一枚もない、狭いトロッコに、四人が肩を寄せて乗りあった。若い山の人がトロッコを上手にあやつってくれた。断崖絶壁の山径を、玉転しのように、トロッコは轟々とすさまじい音をたてて降って行った。しのつくような雨のなかを、濡れながらトロッコは降って行く。雨傘一本持って来ていたので、それを差してふわふわと傘の柄につかまっているかたちだった。
 ここに引用した場面に出てくる〈徳川さん〉は、この日の昼に営林署の応接間で庶務課長の境田に紹介してもらった農林技官の徳川弘で、林芙美子は彼を文芸評論家の小林秀雄の風貌にそっくりだと書き、その直後にさりげなく「なつかしい気がした」と書いている。わたしは初めて「屋久島紀行」を読んで、この場面に触れた時、ふと、ドストエフスキー研究をライフワークにしていた小林秀雄と、ドストエフスキーの『悪霊』を愛読していた山林事務官であった富岡兼吾が微妙に重なる瞬間を感じた。小林秀雄中原中也の愛人だった長谷川泰子を奪った男としても知られているが、小林秀雄の「白痴」論の生原稿を自分の着物の生地を使って特別に装丁していた宇野千代といい、林芙美子小林秀雄の存在をかなり意識していたように思える。
 林芙美子は〈大忠岳〉から狭いトロッコに乗って四人で降りてくるが、この時、一緒に降りてきた人たちとは、まずはトロッコの運転をした山の若い男、それに取材旅行に同行した「主婦之友」の編集記者中山淳太朗とカメラマンの河内滋である。中山の回想記「林芙美子さんとの旅」には、河内滋が撮影した写真が載せてある。この写真には中央に林芙美子、左に山の男、右に中山が写っている。トロッコの前方に大きな手提げ鞄が置いてある。これはカメラマン河内のものだったのだろうか。中山は大きなたたんだ番傘を両手で抱え、芙美子は背後から中山の背に手を添えている。確かにトロッコは畳一畳分もないほどの狭さで、ここに大人四人が乗って断崖絶壁の軌道を降りてくることはさぞかしスリリングであったことだろう。

中山淳太朗(右)・林芙美子(中央)・山で働く若者(左) 撮影は河内滋
資料
機関車とトロッコが展示されている場所に立てられた看板には「屋久杉搬出の花形」と題して次のような解説が記されている。「屋久島の森林軌道は、栗生・永田・宮之浦・安房の4箇所に敷設されましたが、現存するのは安房を起点とする小杉谷線のみです。/小杉谷の森林軌道は、国有林経営の前線基地あった小杉谷・石塚と安房をつなぐ唯一の交通機関でした。/大正11年から建設に着手、翌年には安房〜小杉谷間の16kmが完成、その後年々延長され、総延長は26kmにも及びました。/屋久杉を満載したトロッコは、カーブの多い急勾配をブレーキの操作だけで、いっきに貯木場のある安房まで下りてきました。材が降ろされ空になったトロッコは、当初馬や牛などの畜力を利用して引き上げていましたが、その後炭車やガソリン機関車、そしてここに展示されているディーゼル機関車へと移り変わりました。/伐り出された屋久杉はもちろん、生活物資の運搬や学童トロッコなど住民の足としても利用されました。/しかし、九州では最後まで残っていた森林軌道も小杉谷事務所の閉鎖、安房からの車道の開発により、昭和44年半世紀にわたる本来の役割にピリオドを打ちました。/現在、軌道の一部は土埋木の搬出などに利用されています。」 

 ところで、林芙美子の「屋久島紀行」(昭和25年発表)と、芙美子に同行した「主婦之友」の記者であった中山淳太朗の「林芙美子さんとの旅」(平成7年発表)では、微妙に異なる場面が二カ所ほどある。今回はそのひとつに照明を当ててみたい。

 中山淳太朗は次のように書いている。

  トロッコは途中、標高一五00メートルほどの太忠岳を越え、終点の小杉谷に着いた。
  小説「浮雲」では主人公の富岡がそこで泊まるのだが、わたしたちはそのまま帰りのトロッコ安房へ引き返した。林さんは雨に濡れたせいか、少し寒気がすると言った。

 この文章を読むと、林芙美子一行は終点の小杉谷まで行き、そこから安房へと戻って来たように思える。林芙美子の文章では、一行は小杉谷まで行っていない。この日、林芙美子は「雨にあたったせいか、腕がちぎれるように痛い。額に手をふれると、かあっと熱い」ほどの体調で、トロッコに乗る前に、宿でノーシンを二服飲んでいる。小杉谷まで二時間かかるというのであるから、やはり林芙美子が書いているように、途中の〈大忠岳〉から引き返したというのが本当のことであろう。林芙美子屋久島から帰ってすぐに「屋久島紀行」を書いて発表しているが、中山淳太朗の回想はなんと四十五年の時を隔てて書かれている。信憑性は林芙美子の方にある。もし、林芙美子の紀行文に間違いがあるなら、当時担当記者であった中山が、雑誌に発表する前に、それを正さなければならなかったはずである。
 また「標高一五00メートルほどの太忠岳を越え」という文章は大きな誤解を招きかねない。これではまるで、トロッコ軌道が太忠岳の頂上にまで敷設されていたかのように思えてしまう。林芙美子も「屋久島紀行」で「途中の大忠岳まで行くことにした」と書いており、屋久島の地理に疎い読者を迷わせかねない。林芙美子の書いた〈大忠岳〉(どういうわけか芙美子は太忠岳を大忠岳と表記している)は、「屋久島文学散歩〜椋鳩十からもののけ姫まで〜」のパンフの執筆者が記しているように〈大忠岳の山小屋〉(トロッコの太忠岳事業所)を意味していよう。