『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第九回)
ここをクリックしてください エデンの南 清水正の林芙美子『浮雲』論連載 清水正研究室
清水正の著作 D文学研究会発行本
森林管理署の貯木土場を後に、車は安房の吊り橋を渡って屋久島山荘の駐車場へと着く。林芙美子は屋久島に着くと、この旅館(安房館)に滞在して、『浮雲』のための取材を精力的にこなしている。立て直され、近代的な建物になったホテルの前には、大きな看板が立てられ、「ホテル屋久島山荘」と林芙美子の関係が書かれている。
「浮雲」の宿
「浮雲」は、小説家林芙美子の
文学を語るためには欠く事の出来
ない作品である。彼女は、此の作
品を三年間と言う歳月と精魂を傾
けて執筆したのである。「浮雲」
の主人公は、最後に此の屋久島の
地を訪れ、暮らすことになる。
作者は、その執筆活動を安房観
光ホテル(旧安房旅館)に滞在し
て行った。当ホテルでは今も尚、
その由来から「浮雲の宿」として
呼ばれ訪れる人をして素晴らしい
景観と共に、お楽しみ頂いており
ます。
ホテル屋久島山荘
(旧安房旅館)
浮雲の宿 ホテル屋久島山荘(旧安房 館)
「浮雲」林芙美子原作の抜粋
○明るい紺碧の海上に、密林の島が浮いて
いるというだけでも、自然の不思議さで
ある。
○背の高い小さい島が見えた。ゆき子は目
を瞠り、暫くその島をじっと眺めていた
。無人島のようだ。
○堤を登り、長い吊橋を渡り、見晴亭と看
板の出た、安房旅館というのに案内され
た。旅館は一寸した丘の上にあり、狭い
コンクリートの坂道に、吊橋の太いロー
プが幾重にも鉄筋の支柱で支えられてい
る。米の配給と運送を兼ねている旅館で
ある・・・・・
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ーー作者紹介ーー
明治三十六年十二月二十一日、山口県
下関市生まれ。昭和期の小説家。
本名はフミコ。
九州から山陽地方を転々とし、尾道高
女卒。大正十一年上京、各種の職につ
き、アナーキスト詩人や作家と親しく
なる。上京後の苦しい生活を日記に綴
った「放浪記」を「女人芸術」に連載
出版後ベストセラー となる。以後「
風琴と魚の町」「牡蠣」など次々に小
説を発表。戦後の代表作に「晩菊」、
長編「浮雲」がある。
この案内板の『浮雲』からの抜粋は、二番目の文章が三カ所、三番目の文章が四カ所ほど原作と異っているので新潮社文庫から引いておく。
背の高い小さい島が見えた。ゆき子は目を瞠り、暫く、その島をじいっと眺めていた。無人の島のようだ。
堤へ登り、長い吊橋を渡り、見晴亭と、看板の出た、安房旅館というのに案内された。旅館は一寸した丘の上にあり、狭いコンクリートの坂道に、吊橋の太いロープが幾条も鉄筋の支柱で支えられている。
米の配給と運送を兼ねている旅館は、旅館らしくないかまえで、陰気な店である。
単純なミスと思われる箇所と、最後の抜粋文のようにホテルの印象を悪くする箇所を削除して、原文にない文章に変えているものとがある。『浮雲』は文学作品であるから、引用・抜粋するにあたっては原文を尊重しなければならないであろう。
作者紹介で林芙美子の誕生日を二十一日と記してあるが、これは三十一日の間違い。芙美子の誕生日には諸説あるが、戸籍には 三十一日とある。
玄関を入ると、当館を訪れた著名人の名前を列挙した看板「著名人来館者御案内」が掲げられていた。その中に林芙美子の名前が書かれているが、来館年が昭和24年となっている。これは明らかに昭和25年の間違いである。問題は、林芙美子の来館年の間違いばかりではなく、来館した月日が記されていないことである。林芙美子の左隣に記された常陸宮御夫妻は昭和45年六月一日とある。なぜ林芙美子の場合は、来館年が間違いの上に、月日が記されていないのか。
林芙美子が安房館に着いた年月日が明確に記されていないということは、安房館側にきちんとした記録が残っていない証拠ともなっている。わたしが入手した「屋久島文学散歩」(NPO法人かごしま文化研究所 2009年2月16日改訂版第1刷発行)には、先にも引用した通り「当時経営者だった女性の話として、芙美子は十日ほど滞在し、晴れた日は外出し雨の日は執筆にいそしみ、毎朝卵の白身で顔を洗う日々だった」と書かれている。この本文二十三頁のパンフには、奥付に編集、協力、イラストを担当した人の名前は列挙されているが、記事を担当した人の名前は明記されていない。「林芙美子」の頁を担当執筆した人が誰なのか分からないし、〈当時経営者だった女性〉が誰なのか、どこで誰がどのような取材をしたのかも分からない。
今まで見てきたように、看板に書かれた『浮雲』からの抜粋も忠実にテキストを写していないし、林芙美子の来館年は間違い、来館の月日や滞在日数などが明記されていない。このように実にあいまいなままに、「NPO法人かごしま文化研究所」が刊行しているパンフに、〈当時経営者だった女性〉の話が引用されていると、屋久島山荘を訪問した登山者・観光客、パンフを購入して読んだ者は、林芙美子は昭和二十四年に安房館(屋久島山荘)に十日ばかり宿泊し、この宿で長編『浮雲』を執筆した、と思うことになる。一般の客や購読者ばかりでなく、林芙美子研究者ですらそう思いこんでしまう危険性がある。
はたして真実はどうなのか。この点に関しては後に徹底的に検証するつもりでいる。
ホテルの客は出払っており、屋久島山荘には従業員が数人いるだけで、森閑としていた。窓から安房川に掛かっている吊り橋を眺めながら、六十年前、林芙美子が見た安房の光景に思いを馳せた。食堂の壁には、作り直される前の吊り橋の写真が掲げられていた。