『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第七回)

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平成22年9月10日(金曜)

屋久島環境文化村センターから田代別館へ

屋久島ショップ 屋久島特産品協会」ではパンフ「屋久島文学散歩〜椋鳩十からもののけ姫まで〜」を購入した。15〜16頁に林芙美子屋久島に関する簡潔な説明を載せている。記事によれば、当時の安房館は「風呂もトイレもついていない部屋だけの、今でいう民宿」とあり、また「芙美子は十日ほど滞在し、晴れた日は外出し雨の日は執筆にいそしみ、毎朝卵の白身で顔を洗う日々だった」という、当時経営者だった女性の話を紹介している。このパンフには「当時かかっていた吊橋」や「芙美子が引き返したトロッコの太忠岳事業所(大14)」「芙美子が訪れた下屋久営林署(昭27)の写真も載せてある。この三枚の写真を見るだけでも、芙美子が訪ねた昭和25年当時の安房の面影が伝わってくる。


 屋久島環境文化村センターを後にしたのが二時五十分、バスは岡元さんの名ガイドで、霧島屋久国立公園・モッチョム岳登山口へと向かった。着いたのが三時半過ぎ、一行は歩いて千尋滝へ。花崗岩の巨大な一枚岩と滝のコラボは圧巻、まさに見る眼差しが大空を飛翔する鳥のそれになったかのようであった。真っ青な空に浮かぶ白雲、果てしなく幾重にも続く山岳、巨大な岩・・・。もし、台風の最中に千尋の滝を眺めることができたら、想像を絶する迫力で自然の驚異を体感できるに違いない。
 滝を後にして少し歩くと展望台がある。そこから眺める屋久島の海は恐ろしいほどに青く静かであった。『浮雲』論を執筆しているせいでもないだろうが、近頃、風景を眺めるときに、必ず、雲が主役になっている。わたしは雲を眺めていると、連想が働きすぎて怖くなることがある。はてしない大空のキャンバスに雲が様々な形に変容し、巨大な動物、怪物、妖怪となって動き始める。へたな映画を観るより、雲が織りなすドラマはダイナミックで想像力を異様に刺激してやまない。
 バスは四時過ぎ、モッチョム岳を左手に、一路、田代別館へと向かった。旅館へ着いたのが五時十五分。夕食は六時半。この日は食後、263号室で房枝女将に先代女将ハヨさんについて取材することになった。ハヨさんは房枝さんに林芙美子が宿泊したことに関して、直接話を聞いたことはないということであった。芙美子は「屋久島紀行」で「無口でおとなしい女主人」と書いているが、房枝さんの話をうかがっていても、ハヨさんの優しい人柄が伝わってくる。役場に勤める夫・郷吉さんと気むずかしく厳格な姑に仕えたハヨさんは、屋久島に一人いるかいないかの美しい人で、ひとの悪口や無駄口はたたかなかったそうである。房枝さんは笑いながら「わたしはハヨさんがひとのいい姑でたすかった」と話すが、三代目の女将として今でも元気に現役として働いている房枝さんにも、口に出して言えない苦労や悲しみがなかったはずはなく、わたしは優しい笑顔に刻まれた人生の深みに密かに感動していた。屋久島の連なる山岳も深く密やかだが、房枝女将の優しい、心配りにみちた笑顔にもそれを感じた。


















『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第六回)

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平成22年9月9日(木曜)

白谷雲水峡から屋久島環境文化村センターへ

 今回の屋久島行きの第一の目的は林芙美子が『浮雲』執筆のために取材した安房近辺の屋久島を探訪することにあったので、今や屋久島を象徴する縄文杉まで登山する予定は立てなかった。白谷雲水峡の散策も最も初心者向けのコースを選んだ。雲水峡の入口から「憩いの大岩」を昇り、二大杉を見て、さつき吊橋から「飛流おとし」を眺め、弥生杉に到るコースで、ゆっくり歩いても一時間もかからなかった。しかし、初めて屋久島の森の中に一歩を踏み込んだ時に覚える感覚は新鮮であった。人の手によって歩道は危険のないように石が敷き詰められ、吊り橋も頑丈に造られている。人工的な道から一歩を踏み外せば、森は危険な怪しい原始的な力で迫ってくるに違いない。安全な道を歩いていてさえ、森の妖しい深さを感じて、ぞくぞくした。
 弥生杉に着いたのが十二時、雲水峡の入口に戻って来たのは十二時半であった。一時十分に、観光バスは屋久島観光センターに着いた。建物の二階にある「レストラン屋久島」で海鮮フライ定食とビールで昼食をすました後、観光センター前の道路を横断して「なごりの松原」のベンチに仰向けに寝て青空を見上げる。ここには椋鳩十文学碑が建てられていた。碑には「道は雑草の中にあり」と刻まれている。宮之浦の海風を全身に感じながらつかの間の休息を存分に味わった。この松原から見る宮之浦漁港の風景もすばらしかった。


























 二時にバスは観光センターから鹿児島県屋久島環境文化村センターへと向かい、五分後には到着した。ここで屋久島の地理、歴史、経済、文化についての解説を受けた。センターには縄文杉の巨大な写真や、シダ類の写真、土埋木、白骨樹、伐採に使用した斧などが展示されていた。
二階の一室には林芙美子が机に向かって原稿を書いている絵が展示されていた。パネルには「『月に35日雨が降る』〜小説『浮雲』」の見出しで「小説家・林芙美子は、長編小説『浮雲』を安房の宿で執筆し、雨の多い屋久島の自然を細かく描写しています。/有名な「月に35日雨が降るは、島に着いた主人公を出迎える営林署員の言葉に出てきます。「はァ1ケ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、35日は雨というくらいでございますからな・・・」。」と書かれている。
 この解説文だけを読むと、あたかも『浮雲』全編が安房館で執筆されたようにも受け取れるが、もちろんそんなことはない。富岡兼吾が屋久島の営林署に仕事が決まり、ゆき子と一緒に鹿児島から屋久島へと向かうのは〈五十七〉章からである。『浮雲』は全67章から構成されている。つまり林芙美子の鹿児島、種子島屋久島の旅の成果が小説に反映されるのは『浮雲』の後半部である。
 当時「主婦之友」の記者であった編集記者・中山淳太郎は「林芙美子さんとの旅」(「小説新調」第49巻第4号 平成7年4月1日)で次のように書いている。
 
  一カ月にわたる長い旅行の間、林さんが、見聞したことをその場でメモしているのを見たことは一度もない。それなのに林さんの書かれたのを見ると、たとえば「浮雲」のなかの屋久島の描写にしても、わたしたちが体験したものがそのまま生き生きと生かされているのだ。
  もちろん関係資料もあってのことだろうが、資料だけではとてもああはいかないだろう。あるいは夜自分一人の部屋でひそかにメモをとっておられたのか。いずれにせよ、林さんの物を見る目の確かさ、卓抜な記憶力、それらはわたしなどには不思議でもあり、ただ驚くよりほかはない。

 林芙美子一行は安房館にいつからいつまで宿泊し、いつどこからどの船で帰ったのか。記者として同行した中山淳太郎の回想記にもそのことは記されていない(この点については、後で改めて検証したいと思っている)。林芙美子安房館で取材のメモや資料の整理ぐらいはしただろうが、屋久島で取材したことをその日のうちに旅館で『浮雲』に生かしたと考えるのは無理がある。取材旅行から帰ってから、屋久島での富岡兼吾とゆき子の場面は書かれたのだと考えるのが順当だが、林芙美子のように膨大な量の小説やエッセイを執筆し続けた作家に常識的な考えは通用しないかもしれない。こういった点に関しては引き続き実証的な検証を怠るわけにはいかないだろう。









『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第五回)

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平成22年9月7日(火曜)
益救神社から白谷雲水峡へ
9月2日は八時に起き、朝食の後、八時半鹿児島交通バスで宮之浦埠頭へ。ガイドは屋久島出身の岡元八千重さん。トッピーからの客を乗車させて、十時過ぎ益救神社への参拝。「町指定文化財 益救神社仁王」の石像ニ体、その背後には巨大なガジマルが根を綱のように地に下ろしている。十時五十分、バスは益救神社を後に白谷雲水峡へと向かう。
山々に囲まれた道路を快調に走って着いたのは十一時過ぎ。谷を流れる清澄な水、谷を慎重にわたる鹿、心をなごます木々の緑、バスを降りると自然に深呼吸したくなる。雲水峡入口を入ってすぐに、環境省林野庁が立てた「ここから国立公園です 美しい自然を永く子孫に伝えるため一人一人が大切にしましょう」と書いた看板がシダの間から顔を覗かせている。お堅い役所の看板も苔化粧を施されて、屋久島の自然に溶け込んでいる。いつの間にかガイドの岡元さんは黒いヒールを白い運動靴に履き代えて、みじんの疲れも見せず、はきはきとした美声でガイドを務めている。木で組まれた細い歩道を一歩一歩登り、小さな橋を渡ると、すぐ目の前に巨大な岩が幾重にも重なりあった場所に出る。一歩踏み外せば大けがをするような岩場だが、この日はサングラスをかけていても眼が痛くなるような快晴日で、一行は元気よく、子供心に戻って上りきった。
 再び樹間を歩いていると土埋木(どまいぼく)を説明する白い看板が立っていた。そこには「江戸時代に伐採された屋久杉の用途は、主に平木(屋根の材料)用であったため、割れ易い木を選んで加工し易い部分のみを利用しました。利用されなかった枝条や幹、根株は林内に放置されました。屋久杉は樹脂を非常に多く含んでいるため、200〜300年たった現在でも腐ることなく残っています。それらの残材を「土埋木」と称して林内から搬出し、貴重な屋久杉工芸品として利用しています。」(林野庁 屋久島森林管理署)と書かれていた。
 谷川の水は観光客の存在などにはまるで無関心のように自ずからなる道を、苔むした岩肌をなめるように流れていく。岩と樹と苔と水、そして吹き流れるさわやかな風と樹間からひっそりと顔をだす光の融合した世界に、しばし時を忘れる。ここに流れる時は、都会に流れる文明の時とは異質の時、ゆったりとした時である。時間に追われるように生きている者にとっては、ここ屋久島の白谷雲水峡に流れる時は、あたかも停止しているかのようにさえ感じる。
 切られても、倒されても、打ち捨てられても、腐らずに何百年の時を自らのからだに刻んだ土埋木に、わたしは深く想うところがあった。存在の時空を占めるのは決して生きてあるものだけではないのだ。清流の音に耳をすませば、森の精霊たちのつぶやきが聞こえてきそうだ。先日、検診日に近代先端機器で聴覚検査を受けたことをふと思い出した。どんなに文明が進み、医療が発達しても、森の精霊のつぶやきを聞き分ける聴覚を獲得することはできないだろう。
 十一時半、「二大杉」(切株更新)に到着。林野庁の看板には「この杉は切株の上に種子が落下して発芽生育した二大杉です。このようにして世代交替が行われることを切株交替といいます。屋久島の山ではこのような杉がいたるところで見られます。まさに屋久島ならではの人と自然との営みが組み合わされた光景と言えましょう」とある。
 研究教育の現場に生きる者にとって土埋木と切株更新の杉には深く心を動かされた。死んでも死なない土埋木と、自らのからだを種床として後進を育てる二大杉、わたしは水分をたっぷりと含んだ樹木と土と、そして木漏れ日の光を全感覚で受けとめながら、ゆっくりと歩をすすめた。























『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第四回)

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平成22年9月6日(月曜)
田代旅館三代目女将・田代房江さんにインタビュー 

2010年9月2日 田代別館263号室にて
林芙美子の「屋久島紀行」に出てくる田代館の〈無口なおとなしい女主人〉の名前は田代ハヨさん(旧姓は中間でチュウマンと呼ぶそうである)で、田代郷吉さんに嫁いだ。ハヨさんは名古屋にいたこともあったそうだが、結婚後は役場に勤める郷吉さんと姑のハツさんによく仕えながら旅館業を一人で仕切っていたらしい。二十三歳で七つ歳上の田代幹郎(みきお)さんと結婚した房枝さんにもたいへんよくしてくれた姑だったそうである。ハヨさんは昭和五十年八月に七十歳で亡くなっている。ハヨさんはひとの悪口などいっさい言わない、ひとのいい、静かでやさしいひとだった。林芙美子が「屋久島紀行」で田代旅館の女主人、すなわちハヨさんのことが書かれていることに関してもいっさい自分から話すことはなかった。房枝女将は田代家に嫁ぐ前に、林芙美子の本を読んでいて知っていたということであった。
 田代房枝女将は旧姓中島(なかしま)で、六人兄弟姉妹の二番目(長女)として、昭和七年四月五日に屋久島に生まれた。父親は戦時中は海軍に属し、戦後は屋久島・鹿児島間の運搬船で働いていた。房枝さんは屋久島高校を卒業(第一期生)して、しばらく祖父母の面倒を看た後、十八、九歳頃に東京に出て府中に住み、調布にあった洋裁学校に四年半ほど通ったが、結婚のために二十三歳の時に屋久島に戻った。
夫幹郎さんとの間に三人の子供(幹治・勝範・貴久)を授かった。夫の幹郎さん(大正十四年二月十四日生)は上屋久町の役場に勤めていたが、平成八年五月に七十一歳で亡くなった。もしお元気であれば、母のハヨさんに関して詳しい話も聞けたのにと残念な思いであった。現在は、長男の幹治さんが四代目として三男の貴久さんとともに田代別館の経営に当たっている。


房江女将さんには二時間にもわたって貴重なお話を聞かせていただいたばかりではなく、未公開の写真を提供していただきました。林芙美子が「屋久島紀行」で書いていた田代館の女主人の名前を知れたこと、肖像写真を直に見られたことは感激でした。改めてお礼申し上げます。

『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第三回)

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林芙美子屋久島で最後に泊った田代館を訪ねる
平成22年9月5日(日曜)
 九月一日、バスで鹿児島本港南埠頭に到着したのが十一時半過ぎ。待合室からは桜島が見える。平和食堂「我流風」で定番らーめん大盛りを食べてまずは腹ごしらえ。十二時半、とつぜん大雨が降るがすぐに止む。待合室のみやげ売り場で今日入荷したばかりというみかん顔のストラップを購入。一時にトッピー3に乗船。ターミナルを後に屋久島へと向かう。



午後三時、宮之浦港に着く。迎えに来た田代別館の田代貴久さんの運転で旅館についたのが午後三時半。ひとまず部屋でゆっくりして、散歩に出る。田代別館前の「とうせんきょうばし」(唐船峡橋)を渡って宮之浦港方面へと足を運ぶ。途中、小雨が断続的に降る。木陰で話をしていた二人のお嬢さんのうちの一人が田代別館の子供ということで、これも縁ということで記念撮影。










川に降りてボートを撮影しようとして軽いねんざ。川沿いの道を宮之浦大橋の方へ歩く。信号を渡って薬局に入り、エアーサロンパスを購入。軽いねんざには効果があったのか自然に痛みがとれた。大橋を右に見て、左方面を歩いていくと「屋久島特産品協会」がある。パートで交代で勤務しているという寺田さんに田代館の所在を訪ねると親切に教えてくれた。






「益救神社通り(救いの宮)」の標識のある通りを入ってまっすぐ歩いていくと右手に空き地があった。通りがかりの地元のご婦人に尋ねると、ここに田代館があったが、一昨年取り壊されたということであった。来た道を戻り本通りに出て、「山口ストアー」のご主人に田代館のことを訪ねると、確かに一昨年まで田代館があったという証言が得られた。目的を達したので田代別館に戻ることにした。




帰りは宮之浦大橋の近くにある昭和五年に作られたという風情のある橋を渡った。釣りをしている老人がいたので、なにが釣れるのかと聞くと、コアジがとれるということであった。たしかに小さな魚が釣り上げられていて、無造作に橋の上に投げ出されていた。肉眼で見る限り、川の水は澄んでおり、ただ一匹の魚影もない。小雨降る中、美しい自然の光景に見とれながら歩いていると、途中で崖の草むらに赤いカニが何匹もいることを発見した。近づくと石垣の隙間に身を潜め、じっとこちらの様子を伺っている。この命がけで、必死に生きている姿に感動し、しばし見とれてしまった。


午後六時半、旅館に到着。七時から夕食。この場に女将が挨拶にこられ、田代館の先代女将について話を聞くことができた。食後、ゆっくりインタビューする予定であったが、女将は家に来客があったとかで、取材は明日に持ち越すことになった。ロビーの壁に女将を取材した新聞記事が張られてあったので、それを読む。

「田代房枝さん(75)屋久島町宮之浦 創業105年の旅館女将 日本舞踊でもてなす」と大きな見出しで、女将の写真も大きく載せられている。「ここに生きる」というシリーズの「72」(「みなみネット」2008年3月19日水曜日・屋久島支局・長井三郎氏執筆)の記事である。

 朝は五時半に起床。客の見送りは欠かしたことがない。夜は仕事が終わって午後十一時過ぎに風呂。ここでも翌日客が使うときに不都合はないかチェックの目が働く。就寝するのは午前零時半ー。女将になって五十余年、刻み続けてきた日課だ。
 田代別館の前身である田代旅館の創業は、一九0四(明治三十七)年。今年で百五年目。「屋久島で一番長く続いている旅館」とし自負する、その最初の建物は宮之浦川左岸の街中にあった。木造平屋建てで、部屋数はわずか三部屋。
 二十三歳で結婚、三代目の若女将となった。「当時のお客さんは、仕事関係の人ばかり。観光で訪れるお客さんなんて、いなかった」と振り返る。

 今回の研究旅行は屋久島における林芙美子を検証することが第一の目的であった。林芙美子屋久島と言うと、すぐに安房の旅館(当時は「安房旅館」、今は浮雲の宿「ホテル屋久島山荘」の看板がかかっているが、正式名称は「屋久島ロイヤルホテル」)が取材の対象として思い浮かぶ。林芙美子はこの安房旅館を処点にして屋久島の取材活動を展開したが、「屋久島紀行」を読めば明らかなように、屋久島で最後に泊まったのは田代別館の前身「田代館」である。田代別館のどこにも、林芙美子と「田代館」のつながりを伝えるものはなかった。広告合戦激しいホテル・旅館業界にあってはきわめてめずらしいことである。私は田代房枝女将にお会いして、その謙虚な、優しい心配りに感動したので、林芙美子と田代館のつながりを大いに宣伝し、林芙美子文学のファンが一人でも多く田代別館を訪れてもらいたい気持ちに駆られた。

 林芙美子は「屋久島紀行」で次のように書いている。

  十一時頃、バスは宮の浦の部落へ着いた。村の入口で、若い巡査が珍しそうにバスのヘッドライトに照らされて立った。巡査に田代館という古い宿屋を聞いて、私達はバスを降りた。宮の浦の部落はみんなランプであった。磯の匂いがした。宿屋は案外がっちりした大きい旅館であった。女中がいないのも気に入った。無口なおとなしい女主人が、ランプをさげて、二階の広い部屋へ案内してくれた。橘丸ははいる様子でしょうかと聞くと、多分大丈夫でしょうという返事だった。バスの運転手は、この旅地で、最も私達に親切を示してくれた。明日七時には安房へ発って帰るつもりだと言っていた。

 ここに登場する〈無口なおとなしい女主人〉が房枝女将が二十三歳で田代家に嫁いで行った時の、義理の母にあたる先代の女将(二代目)である。
 九月二日は、早めに夕食を終え、部屋で房枝女将にインタビューすることになった。今まで林芙美子研究においてあまり知られていなかった田代館と林芙美子の関係についてどこまで肉薄できるか、和やかな雰囲気のなか話ははずみ、房枝女将から貴重な証言を得ることができた。

『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第二回)

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清水正の著作   D文学研究会発行本


九月一日午後三時、屋久島の宮之浦港に着く。

平成22年9月4日(土曜)
林芙美子の「屋久島紀行」を読む

 林芙美子は『浮雲』の終わり近く屋久島での富岡兼吾とゆき子を描いているが、この傑作のほかにも「屋久島紀行」(「主婦之友」昭和二十五年七月号に掲載)で屋久島について描いている。この紀行文もすばらしい文章で、島の様子もさることながら、島に生きる自転車も自動車も知らない人たちや、バスの後ろをどこまでも裸足で追ってくる子供たちを活写している。
安房から宮の浦まで、悪路をバスで行くことにした林芙美子は、バスの乗り場で「麦生から安房までの二里あまりの道を裸足で味噌を買いに来たおばあさん」と逢う。このおばあさんは安房の荒物屋に味噌を買うために二里の道を裸足で歩いて来て、再び夕暮れの道を麦生まで歩いて帰るのである。林芙美子は抑えた筆致で「二里の山坂は、このおばあさんにとっては少しも淋しい道ではないのだろう」と書いているが、このおばあさんの姿は行商で芙美子を育て上げた母親きくの姿とも重なっていたことだろう。
六時頃バスは安房を出発、七時に日はとっぷり暮れ、ときどき通りすぎる部落の子供たちはバスを見ると叫びながら夜の道を追ってくる。その場面の描写が読むものの心を熱くさせる。

 バスのヘッドライトに照される子供達は、輝くような眼をして、バスのぐるりに寄って来た。子供達は喚声を挙げた。みなバスのヘッドライトを浴びて、銅色の顔をしていた。バスは道いっぱいすれすれに、部落の軒を掠め、がじまるの下枝をこすって遅い歩みで走った。私はしっかり窓ぶちに手をかけて、暗い道に手を振っている子供達を見ていた。かあっと心が焼けつくような気がした。家々に帰り、子供達は、二つの眼玉を光らせたバスのヘッドライトを夢に見ることだろう。私は時々窓からのぞいて、暗い道へ手を振った。

 わたしはこういう文章をじっくり読む。『浮雲』もそうだが、林芙美子の文章はゆっくり一字一字読んで味わうに値する。わたしが太字にした文章に心響かない読者は、もう文学とは無縁なひとというほかはない。わたしはこの場面を読んで、七十四年の生涯を閉じた寡黙な父親のことばを思い出した。大正四年生まれの父親が子供の頃であるから、八、九十年以上も前の話である。初めて我孫子の鉄道を機関車が走る姿を一目見ようと近隣から多くの人間が集まって驚きの声をあげたということであった。巨大な鉄の塊が激しく蒸気を吹き出し、轟音を響かせて動き出した時の驚愕はどんなものであったろうか。今、現代人はこういった素朴な、からだ全体で感じる驚きを失っている。
林芙美子は島の子供達の純朴な驚きに深く共感している。林芙美子は闇の中で眼を輝かせている島の子供達だけに手を振っているのではない。両親とともに、重い荷を背負って行商に歩いた少女時代の自分の姿にも手を振っている。林芙美子がバスの中から手を振ったその〈暗い道〉がどれだけ深く暗かったことか。

  夜道は長くつゞいたが、雨は降らなかった。沁々と静かな夜である。バスが停るたび、地虫が鳴きたてていた。むれたような、亜熱帯の草いきれがした。月が淡く樹間に透けて見えた。どうすればいゝのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む。もう、二度と来る土地ではないだけに、この夜は馬鹿に印象強く私の心に残った。

 林芙美子が『浮雲』の取材を兼ねて屋久島の旅に出発したのは昭和二十五年四月十三日の夜であった。急行の二等車で九州に着くのに一昼夜かかっている。門司で一泊、翌十四日に汽車で長崎へ向かい、一週間ほど滞在する。その間、天草にも二泊している。その後、船で熊本に渡り、三日ほど滞在、鹿児島に着いたのは四月の末になっていた。鹿児島では、昭和天皇もお泊まりになったという格式のある旅館に宿泊、林芙美子の部屋からは、母きくの生まれ故郷桜島が一望できた。林芙美子はこの部屋が気にいっていたが、旅館側の都合で部屋替えの要請があり、怒った芙美子は天文館近くの繁華街の小さな宿屋に移る。林芙美子桜島には寄らず、四日目の朝九時に照国丸に乗船、午後二時頃種子島西之表港へ着く。午後九時に出港、屋久島へと向かう。照国丸は翌朝六時頃、宮之浦の沖合で客や荷物をおろした後、午前九時頃、安房の沖に錨を下ろす。本船からハシケに乗り移り、安房川河口の船着き場に着く。林芙美子は近くの「安房館」という木造二階屋の旅館に泊まり、この旅館を処点に精力的な取材活動を展開する。

 わたしが先に引用したのは、林芙美子が『浮雲』の終幕部を執筆するための取材を終えて、安房から宮之浦に向かう途中の場面である。この日、海はかなり荒れて、このしけでは明日、三百五十トンの橘丸が安房の沖に来そうにはないが、宮之浦の沖には来るかもしれないということで、思い切ってバスの運転手に頼んで、夜、宮之浦に向かったのである。

 『浮雲』は雑誌「風雪」の昭和二十四年十一月号に連載第一回目が掲載された。「風雪」は昭和二十五年の八月号で休刊、『浮雲』は発表舞台を「文学界」に移し、昭和二十六年の四月号で完結した。二ヶ月後の二十九日、林芙美子は心臓麻痺で絶命した。取材で屋久島を訪問してから、わずか一年あまりの死であった。もう一度引こう「どうすればいゝのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む」。この〈荒漠とした思い〉が胸に痛い。「もう、二度と来る土地ではないだけに、この夜は馬鹿に印象強く私の心に残った」一年後の自らの死を予感したようなことばが重く響いてくる。
 
 子供は絵になる生々した顔をしていた。娘は裸足でよく勤労に耐えている。私は素直に感動して、この娘達の裸足の姿を見送っていた。桜島で幼時を送った私も、石ころ道を裸足でそだったのだ。

 素直に感動する心を失えばもはや人間とはいえない。批評は作品に素直に感動するところから出発し、そこに至る経過報告である。わたしは今、林芙美子の『浮雲』論を執筆していて、文学の力をつくづく感じている。「石ころ道を裸足でそだった」林芙美子のまなざしは優しく深い。こういうまなざしは嘘を一瞬で見破る。嘘つきで卑劣漢の富岡兼吾を命がけで追いかけ続けたゆき子もまた「石ころ道を裸足で」駆け抜けて行った。噴火する島、桜島で生まれ育った母を持つ林芙美子は「屋久島は山と娘をかかえて重たい島」と詩った。

『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第一回)

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屋久島は仏印のダラット、伊香保と並ぶ重要な舞台
九月一日から三日まで鹿児島の屋久島へと研究旅行へ行く。現在、林芙美子の『浮雲』論を執筆し続けているが、屋久島は仏印のダラット、伊香保と並ぶ重要な舞台である。敗戦後、農林省を辞めて材木商に転身した富岡は事業に失敗、家を売り払い、両親と妻を叔母の家に預け、金策に走り回るが思うように事は運ばず、ゆき子と心中するつもりで昭和二十一年の暮れに伊香保の金太夫旅館につく。が、富岡は死ぬこともできず、時計を一万円で買ってくれたバー「ボルネオ」の向井清吉の若妻おせいと関係を結んでしまう。おせいは富岡を追って東京に出てくるが、復縁を迫る向井に殺害されてしまう。ゆき子は妊娠するが、迷った末に堕胎し、伊庭の妾となる。富岡は、妻の邦子が病死してもその棺桶を買う金もなく、ゆき子を訪ねて金を借りる。成瀬巳喜男監督の映画ではきれいごとの次元で処理されているが、原作ではこの時、富岡とゆき子は性的関係を結んでいる。伊庭は大日向教というインチキ宗教で大金持ちになっているが、ゆき子は六十万の金を盗みだして、屋久島の営林署に就職の決まった富岡を追って行く。鹿児島で病気になったゆき子は、無理を押して富岡と一緒に屋久島へとつくが、富岡が営林署へ出かけた後、病状が悪化し、誰にも看取られることなく息を引き取る。一人残された富岡は今後どのように生きていくのか。敗戦後六十五年たっても、富岡の〈その後の運命〉は現代の大いなる課題としてわたし達の眼前に突きつけられている。わたしは「『浮雲』と『罪と罰』」論で、林芙美子の『浮雲』がいかに重要な問題を孕んでいる小説であるかを検証したが、ゆき子亡き後の富岡の運命を考えることは、現代日本人すべての今後の運命を考えることでもあると思っている。
これから、屋久島旅行の研究成果を写真を交えながら紹介していくことにしたい。今回は羽田を出発して屋久島に着くまでを紹介。


飛行機から見る富士山

機内にて林芙美子屋久島関係の文献を読む

鹿児島空港にて

鹿児島本港南埠頭に向かうバスから桜島を眺める

鹿児島本港南埠頭の案内電光板。十三時十分発に乗船。

鹿児島本港南埠頭から見る光景

鹿児島本港南埠頭の乗り場の待合室

鹿児島本港南埠頭の乗り場から見る高速船トッピー
鹿児島本港南埠頭から見る桜島

鹿児島本港南埠頭から見る海の光景