『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第七回)

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本
平成22年9月10日(金曜)

屋久島環境文化村センターから田代別館へ

屋久島ショップ 屋久島特産品協会」ではパンフ「屋久島文学散歩〜椋鳩十からもののけ姫まで〜」を購入した。15〜16頁に林芙美子屋久島に関する簡潔な説明を載せている。記事によれば、当時の安房館は「風呂もトイレもついていない部屋だけの、今でいう民宿」とあり、また「芙美子は十日ほど滞在し、晴れた日は外出し雨の日は執筆にいそしみ、毎朝卵の白身で顔を洗う日々だった」という、当時経営者だった女性の話を紹介している。このパンフには「当時かかっていた吊橋」や「芙美子が引き返したトロッコの太忠岳事業所(大14)」「芙美子が訪れた下屋久営林署(昭27)の写真も載せてある。この三枚の写真を見るだけでも、芙美子が訪ねた昭和25年当時の安房の面影が伝わってくる。


 屋久島環境文化村センターを後にしたのが二時五十分、バスは岡元さんの名ガイドで、霧島屋久国立公園・モッチョム岳登山口へと向かった。着いたのが三時半過ぎ、一行は歩いて千尋滝へ。花崗岩の巨大な一枚岩と滝のコラボは圧巻、まさに見る眼差しが大空を飛翔する鳥のそれになったかのようであった。真っ青な空に浮かぶ白雲、果てしなく幾重にも続く山岳、巨大な岩・・・。もし、台風の最中に千尋の滝を眺めることができたら、想像を絶する迫力で自然の驚異を体感できるに違いない。
 滝を後にして少し歩くと展望台がある。そこから眺める屋久島の海は恐ろしいほどに青く静かであった。『浮雲』論を執筆しているせいでもないだろうが、近頃、風景を眺めるときに、必ず、雲が主役になっている。わたしは雲を眺めていると、連想が働きすぎて怖くなることがある。はてしない大空のキャンバスに雲が様々な形に変容し、巨大な動物、怪物、妖怪となって動き始める。へたな映画を観るより、雲が織りなすドラマはダイナミックで想像力を異様に刺激してやまない。
 バスは四時過ぎ、モッチョム岳を左手に、一路、田代別館へと向かった。旅館へ着いたのが五時十五分。夕食は六時半。この日は食後、263号室で房枝女将に先代女将ハヨさんについて取材することになった。ハヨさんは房枝さんに林芙美子が宿泊したことに関して、直接話を聞いたことはないということであった。芙美子は「屋久島紀行」で「無口でおとなしい女主人」と書いているが、房枝さんの話をうかがっていても、ハヨさんの優しい人柄が伝わってくる。役場に勤める夫・郷吉さんと気むずかしく厳格な姑に仕えたハヨさんは、屋久島に一人いるかいないかの美しい人で、ひとの悪口や無駄口はたたかなかったそうである。房枝さんは笑いながら「わたしはハヨさんがひとのいい姑でたすかった」と話すが、三代目の女将として今でも元気に現役として働いている房枝さんにも、口に出して言えない苦労や悲しみがなかったはずはなく、わたしは優しい笑顔に刻まれた人生の深みに密かに感動していた。屋久島の連なる山岳も深く密やかだが、房枝女将の優しい、心配りにみちた笑顔にもそれを感じた。